平成13年11月24日
国際格闘空手道連盟
国際空道連盟 総本部 大道塾
代表師範・塾長 東孝
13日(1日目)
第一陣が着いたのが13日(モスクワ組、イタリア組、フランス組、計21人!)「塾長にご挨拶方々新総本部も見学したい」と、仕掛けられても顔だけ見て「オッ暫く」で済むわけはない。一人一人とハグし(かーッ!インターナショナルだねー)多少の言葉を交わすだけで1時間はすぐに掛る。それでなくとも話し好きな海外勢である、好んで時間潰しに行くようなもんだ。棄権。
この3ヶ月、朝の4、5時から夜の10時過ぎまで机の前で、海外とのメール、ファックス、電話のやり取り。その度に選手のデータの不足を催促したり、確認したり、書き換えたり、ビザの取得が難しい国の大使館、領事館への平身低頭のお願いの電話、や申請書の提出、書き換え等など。慣れないパソコンに向かっている日々の連続だから確実に視力は落ちるし、腰のギックリ腰は一触即発の状態、しかし日々の健康(健啖?)と、大会当日の回転レシーブ(?) の為に週3回とは言え細々と練習は続けなくちゃならないし、といった久しぶりの「1分1秒を切り刻んで過ごした」選手時代に戻ったような、立派な、充実した(?)月日を重ねてきたのに、まだ今更のように海外からは、我が侭な(この世界特有の現象は世界共通だ!)メールがひっきりなしに入る!この海外選手との交信には一人平均3日は掛ってる!合計で3日×外国選手60人=180日(=予選後、6ヶ月)で、計算は合ってる! しかし実際は、これにビザの件で危ない国のリザーバーとやらも含めるともっと掛っているはずだ。
この為、実際の大会の準備はプログラムの制作以外は出来なかった。しかしこれも、なんせ「世界大会」だから日本語と英語という両方で作らないといけない。一応英文科 (オホン!)に籍をおいてはいたのだが、専攻は土方と空手と酒という毎日だった苦学生時代、英語は、たまに土方の先輩に連れられていったフィリピンバーぐらいでしか使ったことがなかったので高校の辞書を引っ張り出しながらの強引な“奔(叛?)訳”を、卒論で忙しい東大(! “あずまだい”ではない)の院生でありNativeであるFighterS松に送り2、3日して正しい英文に直してもらい、それを又ニュアンスの違いなどでイチャモンを付けて一応自分も関与したかのような自己満足を少しは味わいながら完成させるのだから普通の2、3倍は時間がかかった。
14日(2日目)
そんなこんなで大会そのものの準備は殆ど出来てなかったから机の上には、仕事が山のようにある。とても“ハグ”してる所の話ではない。特にロシア組は会えば「スポンサーを連れて来てるので夜は時間空いていますか」と来るのは目に見えている。それでなくとも戦力的(体力的)、戦略的(作戦的)にも2日間は、まだ相手の誘いには乗らないように、それよりも俺だって演武するんだから練習、練習。「知らぬ顔の半兵衛」をきめ込んでいた。
15日(3日目)
しかし、次第に「塾長に会えると思ってせっかく人より早く日本に来たのに、どうして塾長は会ってくれないのか?」という電話が入ってくる。「るせーこっちはそれ所じゃねー」と言いたいが、それも連中の立場にすればその通りだろうと15日からは「我、戦闘状態に突入セリ」になった、いや、なってしまった。一行がドヤドヤと道場に着いて再会を喜ぶ(この気持ちに嘘はないが、しかし今は1分1秒が惜しいのよ)苦肉の策で、15時に海外勢が出揃うので、滞在中のオリエンテーリングをしてそれからはシャワーや夕食を摂って今日はそのまま、と思っていたのだが、確かに、何時も弟子を連れて海外に行くと最初の日から“ありがたい”歓迎をしてもらってるのに、逆にはるばる憧れの日本に来たのにそれじゃ“ツレナイ”かなどと、気を回して「軽くやるか?」となってしまった。
そうなるとモスクワ組だけ、とはいかないのは当然。20時より選手村の近くの居酒屋で先ず第一ラウンドのゴングが高々と鳴り響く。“自己紹介コーナー”から始まって、皆が今回の「空道選手権」に賭ける意気込みを披瀝する。周りの“一般の人達”は様々な、しかし一様に“オッカナイ”顔をした男達が50人も集まって訳の解らない言葉が行き交ってしまいには「クードー、クードー(食うドー、食うドー、か?)」等と気勢を挙げるもんだから、ますます何事が起きたんだとばかりに振り返る。11時門限なので15分前に切り上げて宿舎に帰ってこれで帰れるぞ、と思ったなら案の定、ウラジオの“うわばみ”オソーキン支部長が食堂でウォッカを出して始まった。そうなると敵に背を向ける訳に行かないから私も座らざるを得ない。そのうち台湾の“酒仙”チョウオンコウ監督(散打の創始者)が50何度という老酒(らおちゅう)を持ってきてグイッと粋がって見せる。ますます帰れない、結局その日は最高師範には渋い顔をされたが試合“ゾッコー”で2時就寝。
16日(4日目)
6時起床、となりのベットでは東京散手(散打)クラブのK本センセイが腹を出して寝てる。結構冷え込んでるのに体力あるなーと感心。一旦家へ帰ってアリバイ証明(?)方々、雑司が谷墓地を走って、又宿舎へ戻って9時からルールミーティング。海外勢がこんなのに五月蝿い(うるさい、ごめん!)のは承知なのでレフリー認定委員会の副委員長で大道塾の知性をM原東大教授と共に代表するとでも言うべき“M◆(ヒシ、別な◆と間違わない事)ソー研”のT橋師範に任せて、昨年の無差別か今年春の世界大会予選以来の再開となる国内支部長と、ルールの確認や、それまでの世界大会の準備の経緯、状況の説明。その後会場である第二体育館に行って大道塾随一の“現場監督”T松、指揮する所の会場設営の“チェック”(!)のつもりが今年は、学生が少ない上に、本部の塾生は相変わらずの“料理されたものを食う人”が多いため人手が足りず急遽、“親方”に変身。(こりゃ何とかしないとなー、しかし忙しくて自分の稽古時間を作るのが精一杯で現場にあまり出れない俺が大声を出すと立場上、“命令的”になって味気ないしなー、ま、今回の、世界大会を卒業試験にして、これからは指導に回ってくれるのが何人かいるだろうから、その辺は何とかなるだろうが・・・・)
何とか9時位には終えて、「サー今日こそ明日の為に早く寝よー」と思ったが振りかえれば最後まで居残って、(途中から来たり、一旦抜けて戻ったのもいたが)手伝ってくれた久しぶりの古株連中の顔。明日からは試合にしろ、打ち上げにしろ来客の応接でとても親身な会話など出来ない。「ほんじゃチョット軽く行くか」となった。車で行ってるので池袋で「よーいドン」としたがなんせ“花金”どこも一杯で席がない。無理やり本部ビジネスマンのK宇田さんの関係のパセラで始まったのがほぼ11時。それでも少しは次の日の事を気にしたか1時には店仕舞いして、かえって風呂に入って就寝3時。
17日(5日目)
朝6時まで寝てしまって起こされ、大急ぎで身支度し7時に家を出発、運転しながらオニギリを食い7時40分会場着。いつもは9時近くでないと開けてくれないのが8時には開けてもらったので、予定通り9時開場、10時、開会式と順調。鳩山邦夫会長、来賓のロシア沿海州知事の祝辞と続いたが翻訳しながだから10時50分まで掛かり試合開始は30分遅れの11時。試合の模様は総本部や東北本部、浦和支部のHPや格闘技雑誌に譲るが緒戦から、レベルの高い激戦が続きものすごい盛り上がりだ。結果5階級中3階級で優勝、1階級で準優勝、と選手は頑張ってくれた。
国や企業が武道の青少年教育としての価値を認め大きく支援しているロシア。異文化ゆえに職業として成り立つ欧米や南米の、いい意味でのプロ意識をもった選手たち。いつでも試合の時だけ、“武道母国日本”などと言う美辞麗句で結果を要求されるが、しかし公的な、又、民間からの支援も少ない日本武道の実態。練習環境でも体力でもハンディを背負いながら、武道の価値を守ろうと選手たちは練習中心の生活を重ね必死に頑張ってくれた。いくら口の悪い俺でも、生活の保証もしないのに、これ以上は要求できない。いろんな場で発言のチャンスを与えられれる度に言うのだが、「教育の崩壊、教育の再生などと言いながら、なぜ政治は自分たち日本がもっている、そして逆に海外がその価値を認めている、足元の宝、“武道”に気付かないのか?確かに“あやしいブドー団体”も多いのは確かだが、その辺は日に晒されれば自ずと淘汰されて行くもんだ。武道をもっと教育に採用すれば学校崩壊など3年もあれば解決するのに」と歯痒い限りである。万が一これを政治家の先生が読んで頂ているのなら (いないだろうなー)ぜひ考えて頂きたい。
大会そのものは、久しぶりの氷割り演武に時間が掛かり、予定より1時間遅れの6時40分閉会宣言。7時半まで記者会見を済ませ、選手をタクシーに押し込んで8時少し前に池袋サンシャインへ向かう。すごい渋滞で8時40分着。300人ほどの人達が今日の大会の興奮を肴に喧喧囂囂、侃侃諤諤の大騒ぎだ。皆、この20年大道塾の事をあるときは心配し、ある時は叱咤激励してくれた人達だ。「本当に有難うございました。自画自賛と取られても良いですが、自分は人為的な、ではなく試合そのものの素晴らしさで盛り上がる今日のような大会がしたかったのです。以前から言っていたように、今日の大会は、武道の歴史の中で伝説として後世に語り継がれるものとなるのでしょうが、しかし、又一方、更に大きな、高いレベルでの戦いが今日始まったのだと言う自覚も持っております。今後ともよろしくご指導、ご鞭撻のほどをお願いいたします」と挨拶し10時過ぎまで会場周り。11時過ぎからは2次会3次会4次会と重ね家に着いたのが朝の5時。
18日(6日目)
今日は「もう一つの世界大会」の本番とでも言うべき温泉旅行の為 9時まで飯田橋の宿舎へ。9時半出発の予定がロシアのスポンサーが朝寝坊したのだかなんだか、サンシャインプリンスホテルに置いてきぼりにされたと怒鳴りまくってると言うので、神田からの予定を変更し東池袋まで戻り首都高速に乗る。外環道⇒東北道⇒日光街道⇒今市街道を経て13時半、海外勢憧れの「日光江戸村」着。早速今夜のウォームアップのつもりで泡でノドを湿らせながらの昼食。ここからは自由行動でめいめいが気に入った小屋や店を覗いてワイワイガヤガヤ。そのうち海外勢の好きな忍者屋敷に皆集まりその数100人ほど。忍者のほうも、この異様な集団の氏素性を聞いたものだから「やりにくいなー」と緊張しまくりで口上も乱れがち、逆に見てる側なの「上手くいってくれよ、日本人として恥ずかしくないような忍者を演じてくれ」と、こっちのほうまで変に緊張してしまった。(スタッフには塾生もいるらしい)
17時出発で30分ほどで今夜の“大会会場”である鬼怒川グリーンプラザホテルへ着いた。それからは、これまた連中の憧れの“露天風呂”に1時間以上入り、みんなタコ坊主。すぐに酔いが回る条件が出来上がったところで、19時。いよいよ決戦の秋(とき)来る!「ここは最高師範の知人のO林(全然匿名になってない!)の紹介のホテルで、飲み放題、食い放題なのでここのホテルのアルコールを全部飲み尽くすつもりで、又食える人はテーブルまで食って良いから、今日までの“鍛練”の成果を十分に発揮し、悔いの残らないような戦いをしてください!」との開会宣言で「第?回 世界飲み・食う道(クードー)選手権大会」の幕が切って落とされた!まーそれからは、世界各国の腕自慢、歌自慢、芸自慢(ゲイではない!念のため)酒自慢、ダンス自慢が我こそはとばかりに舞台を占領、舞台だけでない互いの陣地(テーブル)まで攻め込み、そっちこっちで戦闘、激闘、乱戦、混戦の数々。この模様は近々ビデオ発売される予定なので(USO放送)お楽しみに。(これまた東北本部のホームページに詳しい)
自分はというと某評議委員長の謀略により、マイクによる交戦中の腕立て100回×2回+スクワット(?)が効いて、12時過ぎだったらしいセムとの「一杯のかけそば」ならぬ「一杯の掛けラーメン」オソーキンとの衝立上(一体どうやったんだ?)のチャンバラの事も覚えていない。そのため、シャッターチャンスを待ち構えていた格通は夜間ランニングがなくてがっかりしたらしいが、それ以外の大勢の人間は大喜びだったとか。当然その時は覚えて冷静(?))に対応してるのだが、あとでそれをきれいさっぱり忘れてしまうんだなー、特に自分に都合の悪い事は、か? みんながチャンと部屋まで運んだらしいが、4時頃に目が覚めてトイレに行ったのだが、部屋に帰ろうと思ったら部屋がない!3階と4階、果ては別館まで探し歩いたのだがない!ない!(あとでよくよく考えたなら廊下の反対を探していた様だ、全くドジな話である)その内面倒くさくなって空いてる部屋に入ってまた寝てしまった。気が付いたときは6時頃だろうか南米組の部屋で目が覚めた。隣で寝たいたコロンビアのカイセドとチリのマルチネスがガバッと起きてオッス!と挨拶する。慌てて(何で慌てる必要があるんだ?)みんなを起こして回り露天風呂での「第?次世界選手権」。これについては軍の機密情報に属する事なのでこれ以上は公表できない。ただ日本勢ではSだけが立派な試合態度(?)で威風堂々、辺りを払っていた事だけは記しておこう。
19日(7日目)
10時の出発で13時30分総本部着。それから海外勢の「センセイ、チョットイイデスカ?」の質問タイムが15時まで。それから海外支部長・幹部の審査。その後18時から「第?次世界大会」の予定だったが、ここで日本勢のエースO田、Y田が、なんかんのと理由をつけて戦線離脱、敵前逃亡・・・・師匠を敵前に残して去る、君達(!)たちの気持ちはよーく分ったよ!それにしても連中のタフさにはいまさらながら感心する。まさか試合をした人間が受検するとは思ってなかったが、試合をした2日後だと言うのに約2時間半の、大分楽にしたとは言うものの、俺のシツコイ基本から移動に最後までしっかりと付いてくる!もっとも彼らにはせっかく苦労して日本にまで来たんだから何かを得て帰りたいという強い意志があるのだろうが・・・・。精神力ももはや日本の専売特許ではなくなってるんだなーと改めて思い知らされる。
という訳で(どういう訳だ?)18時よりの「第?次世界大会」に突入したのだが、さすがに連中も連戦に次ぐ連戦に疲労の色は隠せない。2時間ほどでよし!この辺で良いだろうと、満足しつつ休戦協定のつもりでおとなしく質問コナーに移った。所がこれが薮蛇というか、いきなりウラジオのオソーキン支部長が「センセイ次の世界大会はいつですか?ときた!」「ナニーッ!やっとこの何年かかけて苦労の果てにやっと第一回を終えたばかりで、少しばかりホッとしてる俺に向かって、それはあまりに酷な話だろうコノー、今は世界の世の字も考えたくないよ」と冗談半分本気半分で言った。しかし連中にしてみても「カラテ」としては「寸止め」にも「フルコン」にも出遅れている、しかし大好きな「大道塾」の今回の「世界 空道選手権大会」の大成功を自分の目で見て、「空道」の先行きに、確かな手ごたえを感じたものだから、「早く世界に訴えるべきだ」という気持ちなのだろう。この前からチリのマルチネス支部長、を始めとする南米勢、ポルトガルのソーサ支部長、イタリア、オランダのヨーロッパ勢も、機会を捉えて隙があれば、「日本で難しいのなら、自分たちにさせてください」とその話をもち出そうとする。あまり本気にならないうちにと早々に切り上げたが、イヤー参った。助けてくれーだ!
8時頃に終わって部屋に戻った所までオソーキン(襲う菌か?このー)が追いかけて来て「来年の5月にウラジオで国際大会をしたいのですが」と膝詰談判。連中の今の行政との関係があれば世界各地からも選手を招聘出きるのだろうが、やっと世界大会を終えたばかりでこっちの陣容の立て直しもこれからだというのに、そんなに安請け合いはしたくない。言を左右にしていたら「それではアジア大会のようなのはどうですか?」と来た。なんでも駄目だ出は連中のやる気を削いでしまうのでとうとう、頭のなかでは日本抜きでな、と思いながら「ま、それなら良いんじゃないか」と言ってしまったが、わしゃ知らん! (業務連絡:5月4日なので我こそはという塾生があれば、今のうちから申し出てもらいたい。)
やっと帰ったのが9時過ぎ。さ、帰ろうとなって会議室のカギを掛けに行ったなら、大道塾のHPを管理していて、今大会でも選手の道着やゼッケン、プラズマビジョンのソフトの制作、音響と八面六臂の働きをしてくれた、M野がやはりHPに早くUPする為とビデオ編集をしている。暫く一緒に決勝戦以降を見て「良い試合だったなー」「センセイやりましたねー」と互いに満足、満足。10時半になったので「飯でも食いに行くか?(誰がこんな時間に飯を食いにいくんだ)?」となって近くの焼き鳥やで始まったのが、11時頃.なんだかんだと1時頃までやって、帰って風呂に入って寝たのが3時。ゴロン、ガー。
20日(8日目)
今日大半の海外勢が帰るので、飯田橋の宿舎のチェックアウトに間に合う様に、9時に家を出る。何人かの残留組(孤児ではない!)を電車に押し込んで道場へ。11時半からウクライナとラトビアが「来年は国で『空道選手権』をするので(連中の道着やジャージはもう空道連盟である)センセイ来て下さい。ついては審判証がないと国から資金を引っ張れないので発行して下さい」との事。ま、支部長だから国レベル(RankA)でも良いかと思ったがまだ連中の審判は実際に見てないので国レベルだがRankBという仮資格にしておいて、来年実際に審判の技量を見て正式なものにしようとした。それにしてもそっちこっちで次々と大会があるので、同じ地域では連続してやってもらわないと、髪の毛の先までウォッカになってしまう。2時の昼飯といういつものパターン。やっと日常業務に戻った。夕方の稽古はビジネスマンの元気印、N田二段が連中をガンガンしごいてるのを、モニターで見ながら気になる欠点を注意しつつ残務整理.。すると、まだいたのかと言う一団が突然現れ「センセイ、チョットイイデスカ?」 これが終わった頃に、チリのマルチネスが「明日帰ります」というので9時半頃から6、7人で送別会。N田君の電車がなくなるので、店仕舞い11時半。2時半就寝.。
21日(9日目)
今日帰るラトビアとウクライナの審判証を作る為に7時に道場へ行きパソに向かう。9時出発を見送る.。9時半、この所忙しくてぜんぜん構ってなかった正哲の墓に線香を上げに。それにしても、墓なんてないのが一番良いのは勿論だが、今更そんな事を行っても始まらない、道場と墓が近くて良かった。正哲、やったぞ。去年、お前を送るときにお父さんは言ったよな、「正哲が『お父さん凄いね』といってくれる様な世界大会をするから」と。見てたか?凄かったろう?おまえもよろこんでくれるよな?
氷柱割りの時「まさぁーき、やるぞー、見てろー」と言いたかったが後半は言えなかった。「あの世と言うものがあれば、又そっちでお前に会えるから、いまだに信じられないこんな後半生もどんなにか、力付けられるのになー」などと思い、信じたいがしかし、信じられない俺だが、あの氷割りの時、忙しさに感(かま)けて前回より一段高いのを忘れ、いつも通りの枚数のパネルしか用意しなかったから、助走距離が取れなくて手刀の威力がなかった。いつもなら叩いた瞬間に下まで入る亀裂が落下しながら見るとまだ5、6段ぐらいしか入っていず、その為、割れて落ちた氷の固まりのなかに突っ込む事になった。「これは頭を切るなー、割れてもこれじゃカッコ悪いな」と思ってゴンと頭が氷の角に当たったのもはっきり分ったのに、立ちあがってもみんながそういう顔をしてなかったので「あれっ切れてないのか」とホッとしたが、あれはお前が守ってくれたのかなー。世界から集まって来たみんなが「センセイ素晴らしい『クードー』を創ってくれてありがとう」と口々に言ってくれるのを聞くと、まだ俺はこっちで頑張らなくてはならないようだから、もう暫く見守っていてくれな。早くお前とまたスパーリングがしたいけどな、どうだ少しは前より強くなってるか?
通常通りの業務を夕方7時まで行い家に来客があったので一旦帰ったのだが、明日はフランスの土田とセリが道場を出てセリはそのまま帰国すると言うのでまた道場へ。しかし、夜(夜中?)の11時から始まる送別会ってありか?ヤクザじゃないがぜったいに堅気の生活じゃないね、しかし20年越しの仕事を成し遂げるのに協力してくれたいわば“同志”だ。これも“しゃーあんめい”「カーチャンごめん!しかし分ってね、感謝してるよ」だ。就寝3時。
22日(10日目)
フライトの関係で一日延びて、今日出発のマルチネスは10時だというので、いつも通り9時半に家を出て、雑司が谷墓地を正哲経由で一回りして道場に10時着。朝礼後車で池袋まで行くマルチネスをみんなで送る。マルチネスも「今、休眠状態の、しかし、南米では最も武道、格闘技の盛んなブラジルで、大道塾に強い興味と良い道場を持っている人がいるから、その人に今回の選手権の素晴らしさを伝えて、来年は南米選手権をしますので、センセイ来て下さい」と言い残してバイバイ。
これで残るは、あと2週間ほど残って技を覚えて行って、アルゼンチンとボリビア、ウルグアイ、パラグアイで大道塾を立ち上げると言っているアルゼンチンのオスカルとボリビアのモイセスの南米2人と、モスクワの南東2000キロのワロージャ市の支部長プロミスロフスキー以下3人。この男は32歳で、今年の春のモスクワ大会での拳の怪我で試合には出られなかったが、ひ弱そうな外見とは違って、審査には「経験で」と参加し出場選手を含めた6人と戦い抜いたなかなかの実力者だ。19日から日に2回づつ稽古に参加して、しかも交通費を浮かすために飯田橋から毎回一時間ずつ歩いて通ってくる!こんなハングリー精神と体力を持って、しかし大会には出てない選手がロシア、いや世界にはわんさかといるんだから怖い。
通常通り10時近くまで机の仕事。パソに向かってこの文章を打ったのだが、終いに上書きをしようとしたら「フロッピーのメモリー不足」と言うのでマイドキュメントの残そうとしたら、今度は「何とか権のエラー」とか出て「なんかと入れ替えますか」と来たのでOKをクリックしたなら、なんと一瞬でみんな消えてしまった!エーッ!何でだよ??それからマイドキュメントに残っているんじゃないか、あっちはどうだ、と30分ほどやったがどうしようもない。とうとう諦めた。この脱力感!今日一日の俺の労力は何だったんだ!?酒を飲む元気もなくなってしまった!(肝臓よ今日は休んで良いぞ!今日までよく闘ってくれたなーご苦労さんだった、でもチョットだけ晩酌ぐらいは付き合えな)
23日(11日目)
昨日消した文章を復旧させようといろいろしたがInVain(無駄に終わった)なので改めてかろうじて残ってた2ページ目からパチャパチャ始める。こっちは休日だから仕事がはかどると思ってるが、休日だから暇があるというのが世間の常識と言うものなのだろう。なんだかんだと電話が入ったり人が来りする。17日の「打上げ決戦」でロシアのヒィリポフと差しで再々々々延長の末見事に(!)轟沈させられたN山が罰(?)として背中にリュックを背負い子供を抱いて来た。この子供はまだ9ヶ月なのに1年半ぐらいの体格だそうで顔つきも父親譲りの目の据わった戦闘者向きの顔をしている。私に抱かれても泣かない数少ない根性の座った子供だ。「センセー、自分もこんな格好をして池袋を歩くなんて、考えても見なかったですよー。みんなに会わなきゃ良いなーと冷や汗ものですよ。自分の空手はどこに行ったんでしょうかー」と言いながら嬉しそうに帰っていった。そしてすぐにもう一人。
やっと再開して3時間ほど打った所で久し振りの“カーちゃん休め日宣言”で近くで食事。今日は招興酒が旨い。さて帰るかとなったが(まただ!)明日はプロミスロフスキーとその友人2人が帰る日だ。道場へ行って「チョット一杯やってくっか」と言うと嬉しそうにダーダーダー(Yes,Yes,Yes)となって11時半まで。これで残すは明日の慰労会兼残念会兼祝勝会のみだ。ゴールは近い、頑張るぞー!
24日(12日目!)
普通通りの通勤と業務。いつも土曜日はパートで働いてもらってるT橋さんやS野さんも、Nおちゃんも来ないので、最高師範と二人で会議室で、正哲に話し掛けながら静かな昼飯を摂る。ここは周りを高いビルに囲まれているけど前が墓地なので池袋の西武が、遠くに見える見晴らしの良い部屋だ。(こっちを塾長室にした方が良かったなーと思うが、今更また模様替えをする元気もないので当分はこのままだ。)いつも仕事が終わる9時〜10時過ぎにこの部屋で、そっちの方向を眺めながら正哲と二人で一杯やって帰る部屋でもある。
が今日はそんなしんみりもしていられない。なんせ今日は4時半から運営に携わったビジネスマンと一緒に久し振りで稽古をしてから、7時から正真正銘の世界大会関連の最終戦争だ! ビジネスマンの練習は基本の後は、5級以下と4級以上の二組で交代交代でのスパーリング中心。そしたらM山指導員がセンセイとスパーリングは10年ぶりです、と。エーそうかー? もうすこし出ないとなーと思いながらも、通常の土日は地方周りが多いので中々無理だしなー。時折スパーリングのポイントを指摘しながらの内容で一時間ほどして良い汗をかいて、6時10分頃少し早いが後があるのでお終い。
7時に運営に携わったビジネスマンを主体とした塾生や大会を終えて、本当にホッとした戦士たち(みな良い顔をしている)合計60人ほどが集まっての慰労会だ。ワイワイがやがや、とやる間をぬって手伝ってくれたみんなの所に出張して大会を肴に乾杯、乾杯。私は宴会と言うのは道場でやるのが好きだ。今は良くイベント風にしたがるが、普段中々落ち着いて話ができない塾生とも、こうやって身近に話が出来るから、やはり畳の上でじっくり腰を落として話すのが良い。回ってるうちにM野が気を利かして先日の試合のビデオを流し始めたら、みんな見たいものだからそっちの方に夢中になり始めた。それはそれで良いのだろうが、それはあとでもTVで見れるんだから「コラ-ッ!せっかくこうやって集まってるのに何をやってるか!今は歌なり芸を披露する時だろうがー!みんなもう少し固まれー」と言ったが、最近はみなカラオケに毒されて歌詞を暗記してないから、アカペラではさっぱり出来ない。「よーし俺が手本を見せてやる」と始まったのは良いが、十八番(おはこ)の「一本刀土俵入り」を途中で支(つか)えてしまった!何たる不覚!全盛期はこれから始まって「戦友」を始めとする軍歌約20曲、「人生劇場」「安宅の松風」「名月赤城山」「俵星現場」「瞼の母」等など台詞振り付け入りで数々の名曲を、所狭しと歌い踊り宴会の華(?)と言われた俺が!!!。失意の内に最高師範の鶴の一声で「ハイ!二次会ですよ」となってパセラへ。それからは完全に切れたE口やT松現場監督共々大変だった。連れて行ったアルゼンチンのオスカル(国では非常に有名な先生である)とこれから1年間内弟子を務め国に帰って大道塾を立ち上げたいと言うダウの二人も連れて行ったのだが、練習は厳しいいが大道塾のこういう所が好きとかなんとか言って一緒になって楽しそうだ。途中ラーメンを食って家に着いたのが4時半、ふろに入って就寝5時半。これで全日程の終了!万歳!
と、まー“シップードトー”の12日間の「もう一つの世界大会」を実況中継しましたが、人の事を「飲んだくれ空手」などと貶める(?)某SRSなどと言う雑誌と違って、いかに私が緊迫の毎日を送ってこの「北斗旗 空道世界選手権」の実現のために、生きているかが分ってもらえたでしょうか?
冗談は別にして、浅学非才の身を顧みず、真の意味で社会に認められる「『社会体育』としての(今回「空道」という名称で結実した)武道」の確立を目指したが為に、みなさんに付き合わせてしまった、この山あり谷ありの20年。やっと自分で想い描いた大会が出来たと思います。この世に生を享けて五十二年。昨年の出来事が、この東 孝の、絶対に消える事のない、生涯最悪の出来事だったとしたなら、不遜な気持ちではありませんが、今回の「空道世界選手権」の実現は、生涯での最良の出来事と言って良いでしよう。正に人世の“妙”を感じさせられたこの2年でしたが、私、東 孝という人間はこの「空道」に巡り会う為に、様々な出来事の連続だった50有余年を生きてきたのだと思います。今は今日までに私を支えて頂いた皆さん、又、付いて来てくれた弟子はもとより、この世の役回りで、逆な立場に回った何人かの人達にも、私を奮起させてくれたという意味で心から御礼を申し上げたいと思います。 本当にありがとうございました。
合掌、そして押忍!
注)感情の赴くまま、私だったり、小生、自分、俺だったりしております。読み辛い所も多々あると思われますが、御寛恕の程をお願い申し上げます。
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