Baltik Wars バルト海遠征記

東孝

今回は二人の選手と平塚和彦評議委員長の計五人。ヨーロッパとスカンジナビア半島(フィンランド、ノールウェイ、スェーデン)に挟まれたバルト三国の一つ、ラトビア共和国でのバルト三国、及びモスクワ支部(あの、フィリポフも参加!)などが参加しての大道塾、空道を主としキックやフルコン空手も参加するワンマッチ交流戦。名付けて“Baltik Wars”。
くしくも大道塾は9月2日付を持って“NPO法人”として「空道連盟」が(格闘空手のような任意団体ではなく)、法人として認可され、これまで以上に社会体育団体として社会に認知された事になった。この善き時期に、幸先よい遠征としたいものだ。

“バルチック”はバルト海(諸国、語派)のという意味。「バルト海」といえば!明治維新(1867年)を経て成立した新生日本の命運を賭けて戦われた、「帝政ロシアの主力艦隊、バルチック艦隊(ラトビアのリエパーヤ港が艦隊基地だった)」との正に、国の命運を賭けた乾坤一擲の戦い、世界史的にも名高い「日本海海戦(1905年5月)」!と来ても、20歳前後の塾生の大方にとっては、「はあ?」という感じのかなり古い話だろうが、“知(稚、遅、痴、馳)性”と“教養”、“恐拗”、“強要”、“今日(狂)酔”の大道塾生としては、これからの事くらいは覚えておいて欲しい所。 
それまで日本は、古くは663年、唐と新羅の連合軍との「白村(すき)の江の戦い(はくそんこうの戦い)」や、二度に亘るいわゆる「“元”寇」(1274年の文永の役、1281年の弘安の役。“神風” のお蔭もあって、何とか撃退するも、その出費で鎌倉幕府衰退の原因ともなった)など、朝鮮半島を伝わっての中国の侵攻に対し、辛うじて独立を守りぬいていた。これは“日本海”という天然の防護帯があったからだが、殆どの国がいずれかの“時代に”、もしくは“時代から”中国の支配下にあったアジア史の中でも特筆すべき、又、いくら感謝しても感謝しきれない天の采配とでも言うべき僥倖である。

時は下って1890年代。(今から僅か約110年ほど前の話だ)。第15代将軍、徳川慶喜は坂本竜馬らが等が奔走した公武合体論(幕府と天皇を一体化するとの論)に応じ、“恭順(うやうやしく、つつしんで従う)”の意志を示し、政権を朝廷に返還するため徳川300年の歴史を擲(なげう)ち“大政奉還(1867年11月9日)”をした。にも関わらず、西郷隆盛や、大久保利通らの官軍は、徹底した革命をする為にそれを無視して強引に鳥羽伏見の戦い起し、一連の“戊辰戦争”に打勝ち、遂に新政府を樹立した。

その維新の三傑の一人とも言われた西郷隆盛の西南戦争(1877年)を最後にした国内戦(?)。その後の形を変えた反政府運動、等々の自由民権運動(福島事件‐1882年、加波山事件、秩父事件‐共に1884年、等など)により帝国議会開設(1890年)を経て、ようやく国内の体制も固まり、国力を明治新政府の元に集結出来るようになった新生日本。

ウンチク1:維新の三傑とは?
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允=桂小五郎 

ウンチク2:戊辰戦争とは?
官軍が各地で幕府軍を蹴散らした歴戦。「鳥羽伏見の戦い(1868年1月3日)」、彰義隊が壊滅した「上野戦争(同5月)」、会津の白虎隊で有名な「会津戦争」や長岡の河井継之助等が奮戦するも敗退する「奥羽羽越列藩同盟との戦い」、榎本武陽(たけあき)、土方歳三らが五稜郭に立て篭もり独立政権を期すが敗れる「箱館戦争」等を、1868年の干支(えと)が戊辰だった所からまとめて言う。

しかし新政権を樹立したのは良いが、その前には、多くの欧米列強がアジアを、中国を好き放題に蚕食していた“植民地戦争、帝国主義時代”が展開していた。そして、1894年、それまでの朝鮮半島を伝わっての侵攻という歴史的恐怖からも、防衛上、朝鮮(半島)を中国の属国的地位ではなく“独立国(少なくとも、属国ではないという意味で)”として存在させたい日本は、そうはさせたくない、眠れる獅子と言われた大国“清国”と「甲午農民戦争(東学党の乱)」を期に朝鮮半島へ戦う事となった。

ウンチク3:「甲午(こうご)農民戦争(別名:東学党の乱)」とは?
1894年(明治27年)朝鮮南部に東学党信徒の、列強への反侵略、李朝(当時の朝鮮の朝廷)への反封建の「甲午農民戦争(東学党の乱)」が起こった。鎮圧しようとした朝鮮政府軍は度々破れ、朝鮮政府は宗主国・清国に内乱鎮圧のための出兵を要請した。日本は、もしこれを許せば、清国に先手を打たれ、朝鮮における日本の発言権は永久に消え去るであろうと出兵した。
その根拠となったのが1882年(明治15年)、壬午軍乱(朝鮮民衆、軍人らの反日感情による、日本公使館焼き討ち事件)により、李王朝との間に「日本公使館警備のため兵員若干をおき、これを護衛する」と結ばれた「済物浦条約」であった。

資金があり軍備も数段優れていたが、大国ゆえに国の改革が遅れ、支配者層の笛吹けど踊らずの清国に対し、上記のように態勢の整っていた新生日本はその上「この戦争に負ければ国が滅びる」とまでの危機感を持って国民一丸となって戦った。結果、世界の殆どの国の「日本が負ける」という予想を裏切って、1895年、何とか日清戦争に勝ち、中国を朝鮮半島から追い払い、結果として、日本も列強の仲間入りを果たした。その後日本も“弱肉強食”、“優勝劣敗”の当時としては当然の「帝国主義的行動」を取り始めた。(この事が次の「日露戦争」に繋がる)

案の定、その10年後の1994年、今度は、不凍港を求めて歴史的に南下(膨張)政策を取るロシア帝国との、同じく朝鮮半島を賭けての、これ又、国難を賭けた日露戦争が始まった。日本は日清戦争直後から、日本の拡張を面白く思わない、ロシア、フランス、ドイツなどからあからさまに“三国干渉”を受け日清戦争の戦果である遼東半島などを放棄させられていた。“臥薪嘗胆”等のスローガンなどを掲げ、次はロシアとの戦いだと、同じく海洋国だった英国と1902年「日英同盟」を成立させたりして、それに備えていたから、遂に1904年国交断絶。その後、旅順攻略、奉天大会戦等で国力を挙げて戦う事となる。その勝敗の大きな分かれ目となったのが、1905年(明治38年)5月の日本海海戦である。

ウンチク4:奉天とは?
先日、北朝鮮からの亡命者を中国側警備隊が日本大使館の敷地内から強引に連れ出した“審陽事件”で話題となった都市の旧名。

1905年(明治38年)5月27日、日本海対馬沖(現長崎県)で、ロシアで最も古い歴史を持つバルチック艦隊と、司令長官、東郷 平八郎元帥率いる、日本帝国連合艦隊とが激突、「天気晴朗なれど波高し」や「舷舷相磨す(船の船端と舳端が擦り合う程に接近して激しく戦う)」(作戦参謀、秋山正之中将)といった有名な言葉を生んだ日本海海戦で、“T字ターン” といった意表を突く大胆な捨て身の戦法を取るなどしてよくこれを破り、日本を勝利に導いた。そのバルチック艦隊の故郷バルト海である。

ウンチク5:T字ターンとは?
T字型戦法とも言われ、敵に接近して急にターンし、敵に船複を見せつつも砲門を一斉に使う為、危険性は高いが、自己の攻撃力を最大限、効率的に生かせる。

9月11日(水)出発日
話が冒頭から例によってイキナリ横道にそれたが、9月11日(水) 9:00 リムジンバスの出発地、サンシャインホテル前集合。今回同行のうちの1人は今年2002年の「北斗旗全日本空道選手権大会」で重量級優勝、最優秀勝利者賞、の二冠を制した清水 和磨 選手。もう1人は昨年の世界大会予選出場以来、急激に頭角を現し、世界大会の選手には選ばれなかったが、今年の体力別の超(重量)級では四位まで入賞し力をつけてきた、沖縄、那覇支部の平塚 洋二郎の二人。

前回のフランス、イタリア遠征の時の藤松のようなパスポート忘れ事件もなく今回は順調と思ったが、案の定、昨日道場でどっちかが、パスポートを紛失したと大騒ぎだったらしい。9:30成田着。高橋英明師範以下数名の新宿支部生が、スペインに転勤している塾生を尋ねての旅行とミニセミナ−をするため前日に出発していたのだが、一日遅れでそれに合流する、かの有名な“格闘OL”と一緒になり、時間潰しにキッチャ店で四方山話。それにしても今時の若い男に、一人で海外に行って来いと言って二つ返事で行動出来る人間が何人いるかと思うと、女一人でスペインまでとは感心するしかない。

全くの私見、偏見と思われるのを覚悟して書けば、これは現代社会では体力や、果敢な、冒険的な行動力などを要求されることが少なくなり、闘いも含めて肉体的活動(労働)の地位が低下し、逆に机上の(頭脳)労働やOA機器での仕事の割合が増していることにも関係しているのだろう。そうなると、緻密なというか細かな事に強い人間や女性の出番が増える。大胆な考えや行動力という男を男たらしめていた原始的な“力”を要求される事は少なくなり、従って男が物事の矢面に立つ事柄も確実に減少している。その結果として男にかつての“自信”と“逞しさ”、「男である自分がやらなければ」と言うような“自負心”や“責任感”が失われて来ている。

しかし男が弱くなったからと一方的に言われるのも可哀想な面もある。男女平等とは言いながら、現実的には、まだまだ男には「男だろう」という世間の目が、柵(しがらみ)が重く圧し掛かって、「男なら責任を取れ」だの「全体の事を考えろ」だのという声があり、何をするにもつい保守的、慎重になってしまうという事も多々ある。女性は女性で、今までの男社会の名残で差別されている面があるのは確かにしろ、逆にそれ故に「女性だから」とある程度気楽で自由な生き方が許されているという事実もあるはずだ。

現実に、女性は「差別されている!」と声高に言えるが、男がそんな事を言ったなら「男のくせに,泣き事を言うな」と言われるのがオチだ。これからは女性の時代と言われているし、上記の社会状況からもそういう面は確実にあるのだろうが、特に大雑杷なワタクシメのような人間にとっては益々生き難くい時代が来るのだろうなー)

11:00通関で12:00出発の予定が乗客の一人がチェックインしたのに、まだ搭乗していないという事で30分遅れて離陸。11時間のフライトのあと17:00(時差6時間)にモスクワ空港着。ロシアのガイドブックの中のラトビアは1ページしかないので一通りの情報しかなかったが、“平塚洋二郎”(以下平塚評議委員長との混同を避ける為、ヨージローと呼ぶ)が「バルト三国」という詳しいガイドブックを持っていた。それを読んでいた委員長が「ラトビアに行くには、一旦モスクワで国際線のセレメチボ2空港から国内線、近国線のセレメチボ1空港に乗り換える必要がある、と書いてある」と始まった!

「エエー!旅行代理店の人からは、そんな事は聞いていないけどなー」と思いながらも、ガイドブックに書いてあるのだから、と心積りして一旦EXIT(出口)の方に向かったが、念の為にと(空港職員が美人だったせいじゃーない!)聞いたところ、このままTRANSIT(乗り継ぎ)で良いとの事!ガイドブックにはこう書いてあると言っても「その必要はない、TRANSITしてゲート9に行け」と“ぶっきらぼう”に指差す。「もっと丁寧に言えよ、このヤロー(じゃーないか)!男だったら承知しないところだぞー」(っと、いう風に女性は知らず知らずに得をしてるんですよ)

出て指示された方向に行って見ると、そこはいつもモスクワ帰りにフライトを待つ待合室だった。前にも書いてると思うが、かつてこの前には“富士”と言う日本レストランがあり、モスクワだけでなく、サンクト、タタルスタン等でのセミナーや試合を無事終え、ここまで来ると、不味くて高いけど日本の味がするインスタントラーメンを食べれた。そんな訳で「あー、ここからが日本だ」とホッと一息付いたものだったが、今は“インドレストラン”になってしまってその楽しみもなくなった。仕方ないので軽くコーヒーショップでビールとハム、パンなどを少し腹に入れて、待つ事5時間、 やっと22:00にラトビア行きに乗った。

約一時間後の22:00(時差一時間)ラトビアの首都のリガ空港で迎えのオスカル・プリクリス支部長の迎えを受けて、高級海水浴場・保養場のあるJURUMAL(ユールマール)のホテルへ。23:00ホテル着、簡単に明日以降の打ち合わせをして24:00各自部屋へ。早速、ロシアのホテルに着いてからの恒例になっているバスルームを見てガックリ。あまりバスタブに浸かるという習慣がない事もあり、旧ソ連圏の国では余程の高級なホテルでもそうだが、それでなくとも海水浴場だから当然と言えば当然なのだが、ただのシャワーだった。練習後のケアが心配だなー。おまけにパソコン通信どころか,電話もないときてる。先が思いやられるが、ベットは比較的固いので床には寝ないで済みそうだ。1:00就寝。

9月12日(木)2日目
8:00起床。例によって5:00に一旦起きたのだが,部屋の電気が暗い上に、空気の乾燥がひどくて日誌を打っているうちに目が痛くなってきたので、1時間ほどでもう一度布団に入ったら珍しくグッスリ寝れた。9:00朝食。10:00オスカルと通訳のジュリアと言う20歳の通訳の女の子が来た。女の子と言ったが、日本での20歳は成人、とは名ばかりで、実際はまだ“女の子”という感じだが、この通訳はもう立派な女性だ。聞けば18歳から1年数ヶ月、アメリカのカルフォルニアの大学に留学していたそうだ、とても20歳とは思えない大人びた感じだ。「かわいい子には旅をさせよ」か。

11:00。それから歩いて数分の大きな亀の置物が置いてあるユールマールの海水浴場へ。この海水浴場は砂の極めが粉のようにきめこまかくて,しかも遠浅で波が穏やかだ。海水浴場としては最高級の海岸が30数キロ続いているそうで、周辺には金持ちの別荘が多いとか。「百万本のバラ」は日本では加藤登紀子の持ち歌だが、その作曲家の別荘がこれですと自慢げに超豪華な別荘を教えられた。その後、車が進入できない従ってノンビリと歩ける中心街を散歩。

途中この国の特産品だという琥珀(こはく)の装飾品屋があって、店に入ったなら琥珀を盆栽風にした置物があって、評議委員長と「買う、買わない」と迷ったが「これからも時間はあるだろうから、荷物にもなるから焦って“安物買いの銭失い”にならないように」と思い止まった。(所がその後は全く買い物に行く時間もなく後で「あの時買って置けば良かったなー」となったのだが・・・。)途中軽く一杯やりながらの昼飯も摂り、3時間ほど掛けて一通り見て一旦宿舎へ。中々イイねー。こんなノンビリした時間は日本にいては中々持てないもんなー。

15:00ホテル発で、リガ市庁舎へ。16:00、スポーツ担当局長と「空道」の普及についての協力要請を兼ねて30分ほど懇談。その後、市のガイドを付けてもらって、世界遺産でもある12世紀からの姿のままで保存されている、リガの旧市内を観光。有名な聖ペテロ寺院、スウェーデン門、三兄弟、等。

ウンチク6:ラトビアの歴史
1207年のドイツの十字軍である“帯剣騎士団”による占領から始まった。首都リガはロシアとヨーロッパの交易を結ぶ所に位置していた為、ハンザ同盟の主要港として繁栄したが逆にそれ故に1991年の独立まで、様々な国の領土となった。
(13世紀初めよりドイツ騎士団が進出し、領有。14世紀リトアニア・ポーランド領。1629年スウェーデン領。1721年北方戦争の結果一部ロシア領、残りはポーランド領。1795年第3次ポーランド分割により全部ロシア領。1917年独立を宣言。1920年ソ連より独立。1940年ソ連に併合。1990年3月共和国最高会議選挙。5月独立回復宣言。1991年8月共和国の地位に関する基本法採択。9月6日ソ連国家評議会バルト三共和国の国家独立に関する決定を採択。)

ウンチク7:ハンザ同盟とは?
「ハンザ(Hanse,Hansa)」は本来「団体」の意味で、「旅商人の仲間(組合)」を指したが、のちには中世北欧商業圏を支配した北ドイツの「ドイツ・ハンザ」を指すようになった。政治権力が分裂し、中央権力から何の保護も受けられない諸都市が自衛手段である強力な軍事力を持って、交易圏の拡大と商業活動の独占をも目指していた。15〜16世紀のヨーロッパ諸国はドイツ・ハンザを「国家」と見なし、代表使節を招き、同盟を結び、交戦した。その多くは、台頭する領邦国家に屈して消えていったが、スイス誓約同盟(→スイス連邦共和国)やフランドル〜ネーデルラント都市連合(→ベルギー、オランダ)のように、近代国家へ成長していった都市同盟もあった。)

18:00、リガ市一番のホテル“Rolands Riga”でテレビ・ラジオ・新聞・雑誌等など十数社の参加による、市の体育局長同席のPRESS CONFERRENCE(共同記者会見)。所が人口250万人のラトビア全体で日本人は5人しかいないということだから日本語の通訳がいない。ギョ!と思ったがここまで来ては引き下がれない。得意の“心臓英語”で「勝負したる!」しかない。始めに今回の仕掛人であるWASSILLI(ワシリー) が大道塾やラトビアでの活動、今回のワンマッチ戦である「KINGS of the RING」の説明などをした。

それで止めにすりゃ良いものを続いて、私にお鉢を回した。こうなったなら「売られた喧嘩は買う」性質(たち)だから上等じゃないかと、腹を括って立ち上がり自己紹介から始まって「第一回空道世界選手権大会」に至るまでの経緯や今回の遠征の目的など、偉そうにひとくさり。そうしたなら少しはヘラヘラする奴だと思われたものか,次々と質問コーナーとなった。「氷割のコツ」や「ジャッキーチェンやジョンクロード・バンダムは本物か」までは良かったが、「武道と武士道の違い」だの「空道の“空”とはなにか」とか「空道の目的は」となると「ああ-こんなことならもっと真面目に単語を仕入れておけば良かったなー」と思いながらも、そこはそれなりに少しは修羅場だけはくぐっている心臓でなんとか誤魔化した。

その後、各局個別のインタビューがあり20:00より軽く立食パーティー。そこでも質問攻め。「ゆっくり食わしてよー」とばかりに話し掛けられないよう相手の顔を見ないで下を見てひたすら食糧をつつく。(外国語をマスターするには日本語を話せない環境に身を置いた方が良いとは言われるが、確かに夢の中ででも英会話してしまい、この年になっての“知恵熱”が出そうだった!)

その後、又旧市街に戻り、ドウガァヴァ川沿いに歩いたが、緯度が20度くらい違うし川辺りに高い建物がなく灯りも乏しいからだろう、月が異常に大きく、手を伸ばせば触れれるほどに低かった。怖いくらいに迫力があり何度振りかえって見ても飽きなかった。イイナー!この寂莫たる風景。時化(しけ)で荒れる日暮れ時の種子島の海岸線。上から落ちてくる高波の中を車で夢中で走った時もそうだった。あの荒涼さがなんとも言えず心を騒がせた。平和な人生のありがたさ大切さは頭では充分解ってはいる。しかし、“雑な男”には、何かが物足りないのかナー。困ったものだ。23:00宿舎着。1:00就寝。

9月13日(金)3日目
6:00起床。部屋の端にあった電気スタンドを移動して7:30まで“パチャパチャ”。やっと薄明るくなって来たので海岸に出てランニング。この所ランニングはしないで自転車を4〜50分踏んでるのでスタミナは心配ないが、膝が怖いので右手に2,000歩ほど(2〜2・5キロ)走って折返し、拳立て、腹筋と70分ほどの練習。9:00前の夜に頼んでおいたサウナに入ろうと思ったが、 みんなが起きてきたので朝食。10:00サウナ。11:30、明日の「KINGS of RING」の試合があるラトビア第2の都市で、リガから400キロ離れた、隣国リトアニアとの国境いの街“DAUGVPILS(ダウガフピルス) ”へ車で向かう。ここは旧ソ連時代のオリンピックスポーツ選手の強化トレーニングをした街で,今でもスポーツが盛んで環境も良いとの事。15:30、街に着いたなら、「KINGS of the RING」の大会名と“KUDO”の名前が大きく入った横断幕が、駅前にでかでかと、はためいていた。

そのまま、この国の国民的スポーツ、アイスホッケーの会場に直行。試合場を下見と思って一階に足を踏み入れた所たちまち息が白くなる。「こんな寒いところでやるのか?!」と聞いたところ「明日までにしっかり養生して会場内は25度くらいにはなります」との返事。「今、12度のこの会場が?」と半信半疑で控え室へ移動。2年前くらいに建てたばかりの立派な会場なのでどこも綺麗なのだが、控え室の壁には早くも落書きがしてあった。聞くとラトビアのアイスホッケーの国民的英雄、何とかと言う選手のだそうだ。「へー、 凄いネー」と感心していると 「先生達もどうぞ。」とオスカルがマジックを持ってきた。「そりゃーまずいだろう、そんな偉い選手の隣じゃー。」と言ったなら「いや、空道の方が国には大事なんだから。その上に大きく書いてください。」と迫る。そこまで言われれば、当然、自信の“ブランド”でもあるしと、一番高い位置に“空道”と入れてその下にサインをした。しかし後で文句を言われても、オラ知らねーゾ!

その内、モスクワから支部長のゾーリンと選手のフィリポフも到着した。「先生が“モスクワ国際大会(旧ソ連圏の国々)”から帰った四月以来、モスクワは全く雨が降らなくて、市内ではみな特殊なマスクをしています。異常に乾燥してるので、今日はモスクワ市内で大きな火事がありました」。「へー大変だなー。だから汗っかきな俺が40分ランニングをしても大して汗も掻かなかったし、なんか目が乾燥してる気がするんだなー、いよいよ地球もお終いだなー」などバカ話をした後で、ルールの打ち合わせが始まった。所がここで、昨夜通訳のJulia(ジュリア、もしくは、こっちではJをYと同じに発音するから、愛称で“ユーラ”)との通訳で重大な誤解があったことが解った。

Juliaは昨晩「明日の試合は、大道塾にとって大きなDemonstration(デモンストレーション)になるでしょう」と言うから「エッ!デモンストレーションなのか?」と聞いたところ、Juliaは武道の世界でのデモンストレーションという言葉が “演武”という意味で使われるのを知らない為に「そうだ」と言ったらしい。こっちも試合の積もりで連れて行ってるから、おかしいなと思って再度尋ねたのだが、その時オスカルも、通訳を通してだが「試合はビデオなどで見ているから実際の試合を「Exhibition(エキジビション)」して頂けば」と答えたので、今度は間違いはないだろうと思っていたのだが、Juliaはどちらも、この試合は(大道塾の普及にとって、大きな)“示威活動、宣伝”になる、という積もりで言ってたらしい。

慌ててガチンコだと再認識したから良かったが、試合当日になって急にガチンコだとなっては、今の、一週間も前から試合前のコンデション調整です、などと言っている選手にとっては驚天動地の出来事で、心臓英語で危なく心臓が止まるところだった。ま、それでも「サプリメントってなんですか?」と聞くオオモノ、“ヨージロー”や、「自分はいつでもイイす」と“武道家している”清水の二人だから、まだそれほど騒ぎではなかったが・・・。

また、同じイベントで試合をする他団体の幹部の人たちとも四方山話をしていたら、中に銀行のセキュリティをしているというキックの指導者が「セキュリティに参考になるので大道塾のビデオを研究しました」と言っていた。何気なく聞いていたが、後でビデオショップに立ち寄った時には、ウチでは出してるはずのない“ロシア版”「第一回世界空道選手権大会」のビデオ(当然、海賊版!)がありビックリする事になった。そう言えば数年前にチリに行った時も「北斗旗全日本選手権」の海賊版ビデオを数本見つけた覚えもある。全く著作権等という発想は “センシンコク”だけだ。(序でに言うと「発展途上国」と言うのなら、“センシンコク”より「発展終了国」と言った方が“対(つい)”になってるし、より実感が出るんじゃないかと思うんだが・・・、あまり嬉しくないか?)

19:00よりテレビのインタビューを受けて、20:00より市内を小一時間ほど散策。途中、ビアホールで明日の成功を祈念して軽く一杯。ヨージローの対フィリポフ戦から来るストレスが移ったのか、なんか腹具合がよくない。こんな時にウラジオのアソーキン等という“ウワバミ”がいないのはせめてもの“天祐神助(天の助け)”という所か? しかし、23:00にホテルに戻り「さあ、寝よう」としたなら案の定、ゾーリンとオスカルが「先生これから下のホールで大事な“プログラム”が始まります」というので、夕方見逃したテレビニュースでも見せてくれるのかと降りて行くと、妖しげなムードのナイトクラブ。エー!と言いながらも、眠い目を擦りながら0:30まで付き合って、1:00就寝。

9月14日(土)4日目
昨夜眠い目を擦りながら中途半端な“SHOW”を見せられたもんだから、6:00に起床してパチャパチャやってるうちに(部屋も相変わらず暗い!)また、目が充血して来た。それでなくとも昨日の話のように空気が凄く乾燥してるから、チョットした刺激で目がヒリヒリする。8:00から朝食で09:00に出発、9:30会場着。10:00、ダウガフピルズの市長共々、ここでも合同記者会見。クリントンに似た、如才なさそうな市長が「この3ヶ月雨が全く降らなかったのに、武道の先生達が雨も運んでくれたから、今日は素晴らしい大会になるでしょう」と政治家らしいスピーチをしてくれた。

ところがこの市長、それでは質問をどうぞと言ったなら、それでなくとも東洋の神秘、“日本武道” は珍しいのだから、どうしてもコッチに質問が来る。そうしたなら、2、3質問が出た所で「それでは時間ですので」とサッサと、店じまいを始めてしまった!時間もあったのだろうが、「それはないだろう!市長さん」と一寸ムカッと来たが、今夜も来てくれると聞いていたので、ここは穏便に、穏便に。

その後、ラジオ局での30分の生番組への出演。それが終わったと思ったなら、同じ建物の中に別な局もあってここでも20分ほど。毎回同じ事を聞かれるので大分慣れて来たが、殆どの人間が馴染みのない遠い極東の国“日本”の事を聞くのだから、中には突拍子もない事も聞かれる事もある。Juliaの英語に付いていくのだけでも一苦労なのに、質問の意図が解らなくて立ち往生する事も何度かあった。

そしたら今度は、毎朝ラジオでオープニングの時に流すから、ロシア語と日本語で「オハヨウございます」と言ってくれとの事。上等だとばかりに、「ドウブラエ・ウートラ、おはようございます!」とやった。 もし、このサイトを覗いていて、しかもラトビアのダウガピルズでラジオを聞いている日本人の人がいたなら、是非、“ハスキーで重厚な”この声が実際に流れているかどうかを、お知らせください。(5人しかいないんじゃ無理か)それにしても、ストレスだ!目は真っ赤になるし、腹は余計ゴロゴロ唸っている。

14:00に一旦、ホテルへ帰って15:00に、「脂っこいのは飽きたから」と、特注のスパゲティとスープを作ってもらい、16:30又も試合会場へ戻る。17:00に着いたなら雨が本格的に降っているにも関わらず長蛇の列だ! ヨーシと清水、平塚も気合が入る。18:00セレモニー開始。市長の後に「ドゥーブラエ、ビィーチェル、ドウガピルズ(今晩は、ドウガピルズの皆さん)」とやって、「空道は武道母国、日本で生まれた新しい総合武道で、実戦性と、安全性、大衆性の3本の要素と、社会体育という理念で成立しています。どうかご支援下さい、スパシーバ、バリショヤ(大変ありがとう御座いました)」と締めくくったなら、会場は割れんばかりの歓声。気持ちイイネー。

やっぱり政治家にでもなるか!っとこれは悪い冗談だが・・・。(ウチの人間は“ジュクチョー”を始めとして、みんな真面目だから直ぐに本気にするからなー、うっかりジョークも言えないよー)兎に角、立ち見の客も入れて2,000人ほどの観客がやんやの喝采で沸いてくれた。試合は全部で11試合でボクシング、キック(共にその女子も)フルコンありと、盛り沢山で最後の「空道」の試合の頃は最高潮。

しかも「日本vs旧ソ連圏」の第一試合は、「モスクワ国際大会」で3回優勝、「世界大会」では準優勝した稲垣 拓一選手と2回戦で壮絶なドツキアイをしている、旧ソ連圏の英雄。映画にも出ていて、その端正だが凄みのある顔(ドルフ・ラングレンに似ている)と相俟(ま)っての超有名選手、今絶好調の25歳、アナトリー・フィリポフ(コイツなんかはあと三回は「世界大会」に出るんだろうなー、フーッ!)昨日初めて会った時「お前はもうチャンピオンなんだから、相手には優しくしなければ駄目だゾ」と笑いながら言った所「いやまだ私はロシアだけのですから」と笑いながらも“決意”を見せていた。イヤだイヤだ。

これに挑むは日本の新鋭、平塚洋二郎。まだ若干20歳とは言え、いまどき珍しいほどの強さへの真っ直ぐな夢「世界大会で優勝したいっス!」を持っている男だ、(おっちょこちょいで、暇があれば寝てばかりいるが) さあー、試合開始だ!同じ苗字の平塚評議委員長に紐を結んでもらいながらも、同じく眼光鋭くフィリポフを睨みつけている。その意気や良し!「打ち合いは避けて“HIT&AWAY”で行け」といったのだが、先ずは先制の右下段でぶつかる。しかし、18歳から北斗旗に出ている歴戦の強者フィリポフ、これをがっちり受けて平塚がバックステップする所を素早く追い掛けると、平塚バランスを崩し後方に転倒した。直ちに覆い被さりグランドの展開になるが、互いに寝技は得意ではないから、なんとか“往(い)なして”、再び立ち技。

その内、互いに二、三度打ち合ったが平塚、押された時、何を思ったか引き込みのようにして崩れた。後で聞いたなら“巴投げ”を狙ったそうだが、無理な態勢だったので、又、上になられた。それほど上手くはないと言っても、あの太い腕でギロチンのように押し付けられては(引き手が低かったので、右手で相手の左肘を押し上げて、体を左に回転すれば良かったのだが)万事休す、“腕十字締め”を極められてしまった。

もう少し試合をして“経験”をしたかったのだが、ま、今回は戦績から行っても“勉強”という要素が強かったからこんなもんか。が、本人も言うように「世界大会までは、もっともっと力を付けて、再挑戦しなければ!」だ。しかし、あのフィリポフに臆さないで向かって行った所や、Juliaに「そんな事ではフィリポフには勝てないよ」と言われて以来、“フィリポフ”という言葉が出る度に、冗談半分だが、猛然と食い始める所などは大いに買える。その気持ちがあるうちは、まだまだ伸びる素材だ。

それにしても会場の観衆は、とにかく“本家”日本(と思われているのだよ、諸君!)の選手に勝ったというので悲鳴に近い歓声で大盛り上がりだ。サー、その中を、あたりを睥睨(へいげい)するように、いかにも憎々しげに威風堂々、肩を揺すらせて清水が出てくる(本人は別に、そういう気は全くなく武道的に振舞っている積もりだけなのだろうが・・・)プロレスならヒールとして百点満点の登場だ!相手は “ESTONIA KUDO CUP”(「エストニア空道カップ」―既に二回行われており、バルト三国にまたがるオープントーナメントの“総合大会”として有名)で優勝をしている、ラトビアのUzvarejas(発音は聞いたが忘れたが、ウズヴェァリヤスか?)というレスリングと空手、キックのミックスした総合格闘技団体所属のMaris Corjanis選手。体も清水より一回り大きく、こっちも自信ありげだ。

清水、始めは左ジャブに右ローを的確に合わせたり、右ストレートには得意の左のフックを合わせて何度か相手の頭を振ったが、調子にのって同じカウンターをすると、打たれ強い彼らだから、左フックを当てられながらも直ぐに強烈な右のフックを振ってきて逆に頭を振られる。そこで暫く打ち合いをした所で寝技に誘うと、レスリングをしていると言う割には、意外に簡単にマウントを摂らせてくれ、先ず「効果」。ついで“(腕拉ぎ)腕十字(固め)”に行ったが、小指の方に引いてしまって逃げられてしまった。次のグランドではガードポジションでの下からの相手のパンチが結構効いたように見え、立ち上がってから少し動きが悪くなった。このままではヤバイな、と思ってるうちに、今度はスタンドから意表を突いて前転気味の膝十字に行ったところ上手く決まった!と思ったが、三回目のグランドという事で「待て!」が掛かる。残念!

さあー、地元の応援は嫌が上にも盛り上がる。延長戦、始めは下段の応酬だ。相手も結構重い下段を持ってるが、最後は効いたようで、接近して組合いで誤魔化そうする。そこを、今度は膝と頭突きで突き放し、最後は左大外で倒してまたもマウント。今度はしっかりと落ち着いて腕拉ぎ十字固めで一本!(所が、肝心なこのシーンはコントのシナリオでも描いたようなズッコケ“テープ切れ”!スンマセンが後日送ってくるテレビ放送のビデオをUPしますのでお待ちを)

それにしても、それまでの試合は当然ボクシングはパンチだけ、キックはそれに蹴り。そして直前のフルコンの試合は、重い蹴りや突きが体に入ってドスドスという重い音がして、素人があんな事をされたのなら肋骨骨折か、内臓破裂くらいのダメージなんだが、互いに鍛えているからだが中々倒れない。見る方はそこまでは分らないので「なんか決まらないナー」と言う試合だったから、余計にこの試合の、パンチの応酬あり、掴んでの打撃あり、蹴り合いあり、頭突きあり、投げあり、寝技ありと技のオンパレードみたいな試合は、素人でも分りやすい。それまでの隔靴掻痒のストレスを吹き飛ばすような絶叫に近い歓声で場内は狂喜乱舞といった風だった。この試合はバルト三国とロシアで放映されるとの事で、正に「空道」にとっては最高の“Demonstration”になった!

試合後の打ち上げパーティーでは早速「ぜひウチでも大会を」との申し込みが各国からあったが、中でも既にラトビアの指導で試験的に始まってる、隣国リトアニアからは一層強く求められた。大道塾の方針としては現地に行って責任者の人格や応援してくれる周りの空気も見ない事には、認可できないので来年の約束をしようとした所、エストニアの支部長も割り込んで「来年こそは“ESTONIA KUDO CUP”(エストニア空道カップ、既述)”に!」と“ガナ”る。「スカンジナビア半島のFinland(フィンランド)やNorway(ノールウェイ)、Sweeden(スエーデン)では、既に同じような総合が流行っていて大道塾とコンタクトしたがってるから、是非!こっちに」と。

後日、調整をするからといって取り成したが、兎に角、予算的には無理を押して決行し、予想通り見事に荷物を背負い込んだ昨年の「第一回世界空道選手権大会」だったが、「空道」はその何倍もの“費用対効果”を発揮しながら、我々が想像する以上の、凄い勢いで世界に大道塾をアピールしながら伝播しつつある(しかも、海賊版ビデオでだ!クソー!)

この事は大抵は予算不足で私を含めた二人分しか負担できない多くのホスト国の為に、毎回一人分の選手の費用を負担して頂きながらも、「大道塾の発展を見るのが楽しみだ」と度々同行頂いている評議委員長始め、選手達も肌で感じた“事実”だと思う。どうか全国の塾生の皆さんは、この「既に事実としてある『空道の世界的展開』」に、意識的にも、体制的にも、本家である日本が追い越されないよう、日夜の研鑚、修行に励んで頂きたいと切に思う。

話しの腰が折れた感じだが、打ち上げ後は「イチ、二ッ、クードー、イチ、二ッ、ダイドー」と掛け声をかけながら大通りをカラオケハウスまで“深夜ランニング(既に00:00を回っていた)”。ところがこれはオスカルの作戦勝ちか、念願のカラオケハウスは既に閉まっていた!「クソー、このまま敵の作戦に嵌められては“ヤマトダマシイ”を舐められる」とばかりに、「よし!これからホテルまで走るぞ、明日の朝には着くだろう」と言ったが、さすがのホテルまでは20キロほどあり誰も返事をしなかった。本音は昨日のランニングの為に膝の中が少し痛む“負傷兵”のワタクシメも少し腰が引けていたのだが、恩着せがましく「じゃーしょうがない、車で行こう」と言ったら皆ホッとした表情をしていた。

ホテルに着いてナイトクラブにドヤドヤと20人位で入って行ったら、今はラトビアの国政選挙だそうで昨日もそうだったが、キャラバン隊がかなりいた。片や“野人集団?”と片や選挙に絡むくらいの人達だから一見、“それなりの紳士淑女風の集団?”。アチャー、どうなるのかなーと思ったが、そこは “格闘技とは違う武道”に一目も二目も置く海外、ウチの連中もTPOは弁えているから、それなりに周りに気を遣いながら飲んでいた。その内ダンスタイムが始まった。(勿論ステージでも妖しく!) さー、そうなるとこういう事をする人間は本能的に体を動かしたくてしょうがないのだから、直ぐに二、三組が飛び出て行って、向こうの団体のご婦人方にも声を掛けて踊り出す。あーあ!ぶん殴られなきゃいいが・・・。

前回の「モスクワ笑伝」でも触れたと思うが、連中が踊り出すとカッコよすぎてコッチは黙って見ているしかない。「センセイ!ジュクチョー!」と義理でも声を掛けられるから、根がお祭り好きなワタクシメとしては「でもなー」と思いながらも二、三回に一回位は酔いに任せてホールに出るが、どう考えてもサマにならない。悔しい!これは「ダンスなんて軟派ッポイ」とか“スタイルがどうのこうの”と言う問題ではない!“大和オノコ”として、ダンスだろうがなんだろうが、“敵”の出来る事を一応でも出来ないのは純粋に悔しいのだ!と帰国するたびに最高師範に「ジルバくらい覚えるか?」と相談すると「何をバカな事を言ってるんですか」とニベもなく却下されるのだが…。面白くないからワタクシメは2:00頃には引き上げたが、9:00の朝食事にフィリポフ達は「朝の5:00までやりました」と笑いながら又も、ビールを飲んでいた。こいつ等は!!!

9月15日(日曜日)5日目
06:00起床。暗い部屋でパチャパチャやってるせいで目がちっとも治らないので、散歩に出た。このホテルは森の中にあり、部屋にいると全く音がしないが外に出ても同じだった。生まれ育った気仙沼も鹿折(ししおり)という山あいの扇状地上に広がった、ワタクシメが小学校の頃までは「シーン」という音がハッキリと聞こえた位に静かな村で育ったので、お祭り騒ぎも好きだが(これは親父の影響だろう)静けさも同じくらいに好きだ。そういう所ならゴロ寝して雲を見ているだけで一日中いても飽きない。高校の頃は学校をサボってよく“山学校”(近所の小高い山に登ってあれこれ想い巡らす事)をしたもんだ。どんどん森の中に入って行くと、それでも30分位したなら、別な町に出た。なんという町か知れないが、地図も持ってないから分らない。いつもは直ぐに野次馬根性で聞くのだが、日曜という事もあるんだろうが、まだ人の通りは少ないから聞くのも面倒だ。

いやそれだけじゃない、いつも何か大きな行事をした後は虚脱感と言うか、物寂しさと言うか、多くの人が集まって熱く物事を計画し、多くの時間を掛けて準備して、夢中になって動いて終わった時というものは、たとえ成功したとしても――勿論、成功した時というのは大きな喜びなのだが、逆にそれだけに―それが終わって皆がそれぞれの場所に帰ってしまった後の、“だーれもいなくなった感じ”というものが余計寂しさを募らせるものだ。

しかしながらそれでいて、誰にも会いたくないような・・・。俺は根本的には孤独癖なのかなー。「知らーない、まああちぃを、歩いて見たぁぁーい どぉこかぁとぉぉくへ いぃきぃぃたぁぁい」という「遠くへ行きたい」(作詞、永六輔。作曲、中村八大)という名曲があるが、その時は正にその心境だったので、ただ歩いた。イイナー、本当になんか心が開放されるような気がする。(詩人だねー)

8:30ホテルに帰り、昨夜の日誌の通りに9:00朝食。朝からこいつ等は元気だネーと思ったら何の事はない、これからリガに戻ってセミナーがある我々と違って、連中はこのまま汽車で10時間揺られてモスクワに帰るのだ。それじゃーフィリポフが飲みたくなるのも分る。試合という事で何日は気を張って過ごし、これからは電車に揺られて帰るだけで、しかもその結果も良かったとなれば、誰でも飲みたくなる。「ダスビダーニャー(さようなら)」と軽やかな声を掛けて(若い子に、あッ、それ誰かの彼女じゃないのか!このヤロー油断も隙もあったもんじゃない!奥さんに言いつけてやるゾ)車で去って行く。

10:00出発の予定が11:00になっても迎えに来ないから下に行ったなら、オスカルがまだカウンターでビールを飲んでいる!「このヤロー何をしてやがるんだー」と声を荒げてたなら「オス!センセイ、まだ朝食が出来ないんです」と来た。「なんで昨日のうちに頼んで置かないんだよ、俺達はそんな事だろうと思って、昨日のうちに注文しておいたから、もうとっくに食ったぞ」といって急がせたが、本当に連中は何をするにも“ダンドリ”が悪い。これまでも何度も無駄な時間を掛けて“テレコテレコ”と、物事を運ぶから時間を食ってしょうがない。日本人が几帳面過ぎるのか連中がズボラ過ぎるのか「コッチの連中を見てると人生の生き方を考えさせられるねー」等と感慨深く言っていた、本業は建築士である評議委員長なども、とうとう胃の具合が悪くなって「体調が悪いよー」と嘆いている。

急がせて12:30出発。途中、昼食もしなければならないから17:00からのセミナーに間に合うはずがないのだが、そこは神風ドライバーぞろいの大道塾、なんと往きは4時間半掛かった道を、帰りは3時間半で戻った!それなら折角時間に間に合うように戻ったのだから、そのままリガ市内に入り、昼飯を食ってセミナー会場に直接行けば良いのに、ホテルに直行してチェックイン!と来た。 「今日は5日間も開いていないインターネットにはメールが溜まってるはずだから、繋がる別なホテルに泊まりたい」と言って替えさせたのだが、電話で済んでるんだからセミナーが終わってからでも良いだろうに・・・。

ま、今度は結構良いホテルで、アスレチックもあるしプール、サウナもある。(但し、部屋からインターネットは出来なくて地下のインターネットルームまで行くようだそうで、結局は帰るまで開けなかったのだが) やっと、16:30におもむろにリガ市内へ戻り17:00日本食レストラン“相撲”に入った。入ったは良いが30分しか時間がないので、(これもまた出るのが遅い!)そそくさとテンプラうどんを食って、17:30セミナー会場へ。尤も、どこの国に行っても日本食は高いので、こんな所で時間があるといくら金が掛かるか分らないので、連中はホッとしたろうが・・・。

17:45よりセミナー。ところが参加者はフルコン(3つの流派)や柔道、柔術、合気道と言った他流派の師範クラスばかりの20数名。「どうして大道塾生は参加しないん?」だと詳しく話を聞くと、どうもリガ市内には個人で使える道場が少なく、この合気道の道場も、月給が月$200位の所で一時間1人、$15ドル掛かるそうで、セミナー料が結構高くなるそうだ。どうりで参加者はみなそれなりの師範や指導者風だったわけだ。ま、それならと気を取り成して、柔道やキック、柔術、合気道のそれぞれの技を応用しつつ二時間みっちり20:00までやった。次の日は少し痛かったが、右足を軸にしての回し蹴りが“7ヵ月振り!”で出来たのは収穫だった。やっぱ俺にはこの世界しかないなー!

その後は遅くなったのでホテルの最上階で23:00からディナー。腹の調子が悪いこともあり、日本人なら十分に2人分はあるステーキと、アイスクリームを食べて、さすがに24:00に中途退座。連中はエストニア支部長を駅まで送った運転手を待って、それから小一時間いたそうだが。消灯1:00。

9月17日(火曜日)7日目
寝てしまうと起きられないという事で、清水とヨージローは起きていたそうだ。3:30に起こしに来てくれたが、眠りの一山は90分という事だけではなく、“寄る年波”には勝てなくて眠りが浅い為、3:00には起きていた。4:00に下に行ったなら、まだ、JuliaもWassilieもOscarも来てない。又か!と一瞬いやな予感がしたが15分過ぎにやっと来た。同じく車の中で起きていたが、ついウトウトしたそうだ。眠そうな顔をしながら空港まで送ってくれたので早めにチェックインして返した。若いJuliaと清水、ヨージローなどは名残惜しそうに最後の記念写真を撮っていた。

経費と労力の節減と言う事で、一つの国でこんなに長くいた事はここ暫くなかったのだが、正味6日間を2日づつ移動して歩いたからそれほど長くも感じなかった。が、年々忙しくなっているこの頃、「又、この国に来る日はあるのだろうか」等と思いながら飛行機に乗り込んだ。一時間半程の8:25(時差一時間)モスクワ空港着。さー!これからが11時間の待ち時間だ!どうする?!ったってどうしようもない。という訳で観念してモスクワ空港で11時間!別に繋ぎの良い便もあるのだが、一日遅れとなるので、そろそろ日本での仕事を思い出すとそうもいかない。しかし、この国のペースに免疫(諦観?)が出来たのか、あまり長居をうるさく言わない、雀が餌を欲しがってチュンチュンと近くまで寄ってくるような、いかにもモスクワ空港らしいレストランで、試合のビデオを再生しながら適当に食べ物を摂っていたなら、結構早く時間は過ぎた。19:00の予定が全体の遅れで20:00チェックイン、21:00出発。

9月18日(火曜日)帰国日
予定より一時間遅れで9:50成田着。ここで評議委員長と別れを告げてリムジンへ。今回も全員、無事で良い成果を上げて帰る事が出来た。次ぎはどこの国になるか分らないが、兎に角、海外では既に「第二回世界空道選手権大会」への助走が始まりつつある事を実感させられた、ラトビア遠征、名付けて“Baltik Wars”だった!!

(皆さま、“Baltik Wars”の顛末、拙いご案内ではありましたが、お楽しみ頂けだでしょうか?それでは、次回のどこぞの遠征記でまた、お会い致しましょう。お粗末さまでした。)

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