「武道掲示板について」 東 孝 |
それでも、その書き込みにもいくらかは建設的なものがあるなら、まあ良い。その実際の内容たるや、「○○○の歯軋り」や、「下○の勘繰り」、「○鹿の晒し合い」が多く、というか殆んどで"誠実な提案や素直な評価"などは殆どない。覗く度に、男の悲しくなるほどに嫌らしい性(さが)―「難癖をつけ評価を下げるにしろ、嘘八百を並べ相手を陥れるにしろ、手段はどうあれ兎に角、勝ちたい!」という所か?―を突き付けられる気がして、「こんな凄まじい世界に俺は生きているんだなー!"武道精神"や"スポーツマンシップ"は建前でしかないのか?」と暫く胃が重くなるが・・・。
ところが、実際に一生懸命汗を流している者は、こんなことに時間を費やすのなら練習したほうがいいと考えるのが普通だから、ちょっとした興味で覗いたり、一、二度書き込んでみても下卑た内容や、"湿った粘着質"でないと追いきれない応酬に呆れて直ぐにやめるだろう。書き込み続けるのは「武道や格闘技を"見る"のは好きだが、自分からは"する気はない"」所謂、"見るファン"か("オタク"も含む)か、"憧れながらモノにならなくて、燻(くすぶ)った恨み辛(つら)みを持っている者逹が主だろう。(一部、今は現役を退いて選手的感覚からは少し距離を置いて、冷静に武道や格闘技を見ての建設的な意見,逆に自分の現役時代を離れての理想論などもある事はあるが本当に稀だ)。 「素顔がバレなければ(匿名)何を書いても良い」とばかりに"恥を知らない人間"のあらゆる卑猥さや下卑た欲望。人の順境を許せない"落伍者"の妬(ねた)み、嫉(そね)み。自分で汗を流すような苦しいことはしたくないくせに、人が前向きに生きていることが許せないヒネクレ者の"皮肉"や"嫌味"。一様に、人前に顔を出しては言えないくせに、パソコンの前に立つと急に躁状態になるのだろう"陰気な匿名のヒーロー達"の高飛車な物言い。バーチャルな世界に生きる"達人たち"の超人技や秘伝。"脳内強者"のご高説、空論(?)等など、"顔のない陰気なヒーロー(?)達"の、あらゆる下劣と虚無、あらゆる冷笑と嘲笑、あらゆる狂信や妄想。あらゆる高邁(?)や高踏(?)が晒されている。 「この連中は実技者以上に熱くなる、いわば、妄執者(物事の道理に暗く、実体のないものを真実と思い込む人間)が多いんだろうが、知識だけはかなり武道に詳しい者もいるから、実際に武道をしている、もしくは、していた人間もいるんだろうなー。しかし、"匿名"というだけで、武道をしている人間もここまで、下衆になったり、捻(ひね)くれたり、偉そうになれるのか!」と、「武道の教育力」を信じている私の信念を根底から揺さぶる、一種の感動(笑!)と絶望に襲われる。(ま、どこにでも中途半端はいるし、人格と才能は違うという言い方も一理はあるからしょうがないんだが・・・。) そんなこんなで"2チャンネラー宣言"をしたが、武道・格闘技版に関しては、根性のない私は気持ちが悪くなってきたので、早々に卒業させてもらった。しかし、ほかの"まともな掲示板"での社会勉強に移るにしても、一度"うがい"なり"手洗い"なりでもしないと"鬱"気分は晴れない。そういう意味でも延々と自分の異常性を誇示するかのように、不毛の書き込みをしている連中の精神力はたいしたものだ。あのエネルギーをマトモな方向に注いだなら、それなりのものは生まれるのだろうが・・・。
だが、このインターネット社会である。書き手の人品骨柄とは関係なく、それらしく書かれた文章は一人歩きする。どんな下卑た人間の嘘だろうが出鱈目だろうが"情報"は一瞬にして世界を駆け巡るし、一旦書かれたものはどこかに回されるから、絶対に消えることはない。その影響力はそれなりに大きい。それが当を得た建設的な指摘ならば、それはそれで社会に対して良いほうに働くのだが、その反対の場合は汚穢(おわいー糞尿のこと)や害毒を撒き散らすと同じである。傍迷惑この上ない。かといってこの"人権社会"ではそういった偏った人格の人間でも(世界を壊そうと具体的な行動でもしない限りは)その"人権"は守られるからますます増長する。実被害が出るまではどうしようもない。嫌な社会だ。
それより、こんな情報過多の中で生きていると、人間は自分にしかない情報を持ち「俺だけが知っていたんだ」と溜飲を下げることや、更には、人前ではそんな事には関係ないような"普通の人"で通し、一旦、パソコンの前に座ると悪口雑言の限りを吐き、人を無慈悲に冷淡に傷つけ、その言葉に反応する人間をみてニタっと歪んだ笑いをする、そんな"湿った感情"を持つ人間が増えて来るような気がする。私やあなたの隣にもそういう人間がいるのかもしれないと考えると、薄気味の悪い時代である。 それでも、人との社交性はあまりないが、社会正義を自覚しバランスの取れた人格を持つ人間の場合には、インターネットは確かに大きな力となる。彼らは言葉には常に警戒心を持って"建前"を信じないから、これまで"建前"で人を騙して物事を運営して来た側の本音を見抜き、それを社会に対して発信するから、どんどんその実相が暴かれてしまう。 これは地道に物事を進めている側からすると、かなり好ましいことである。世の中には綺麗な言葉や、目先の欲で人を釣ろうという人間が沢山いる。そんな時、その実相を曝してくれるのは、社会経験も少なくその真偽を判断できない若者がみすみす騙されるのを防いでくれる。そういう意味ではこんな人間がいてくれたほうが良い。
しかし、人間は、完全な利他の心や善意が要求される"絶対の公明正大"や、あらゆることを想定し失敗は許されない、完全な計画に基づく"絶対の無謬(むびゅうー理論、判断を過たない)性"の中で生きる事に、どこまで適応(耐えられる?)出来るのだろうか? そこでは行動するに当たっては"全体に対しての完全"が求められ、人間が行動するときの原動力になるはずの、不完全かもしれないが"個人的な情熱や理想"などが入り込む余地が全くなくなるのではないか? それこそ、映画「1984」、「未来世紀ブラジル」、「ブレードランナー」、また、最近の「フィフス・エレメント」のように全ての行動が完全を要求され、管理され、監督され機械の歯車のようにしか動けない近未来の人間と社会になってしまうのではないのか?これだけ人口が爆発的に増えている人類が、地球でのみ生存し続けようとするならば、それも否応なく避けられないことなのだろうが、予想するだに恐ろしいことである。少しでも人間の自由意志や、発想を猶予してくれる社会の為にも、不完全だろうが「だからこそ人間なんだ」という原点を忘れては欲しくないものだ。最もこれは「善意に基づく行動なら」という留保条件が付くわけだが・・・。 閑話休題(話し替わって)。こういった人種のその後を、過去に例を取ってみると・・・。60年、70年代には「共産主義万歳!・社会主義万歳!」を唱え、口を極めて自由主義者や、政党に"語気鋭く"、と言うか、"罵詈雑言"の数々を浴びせ掛けていた、かつての進歩派の大学教授や、学生運動家で、マスコミの寵児となっていた(もしくは今もなっている)人達がいる。だが、その「理想の国」や、「地上の天国」が破綻したり、内部の悲惨さが露呈し、崩壊の淵にある現在、それに対し、責任を取り人前から消えたかというと、「私は関係ありません」とばかりの"知らぬ顔の半兵衛"や、「情報が足りなかった」との開き直り、挙句の果てには「彼等らは真の共産主義ではない」などとの"ゴタク"を恥ずかしげもなくならべ、嵐の過ぎるのを待っている。(良く言うよ!だったならあなた方は、雑な比較かもしれないが、マルクスや、エンゲルスより頭脳明晰だったり、スターリンや、レーニンより"カリスマ性"があり、あれだけの大衆に対しての指導力がある"人物"だとでも言うのか?!) また、今日的話題では、そういう人達が属した、当時、理想社会実現の旗頭として衆望(?)を集めた"革新"政党の「政策秘書給与流用問題」や、もう一つの"革命"政党の「セクハラ議員問題」を見ても、他党の不祥事を暴く時には、"絶対正義のヒーロ−"として人情や、事情を一切省みない激烈、酷薄な断罪をしていても、いざ自分の(所の)不祥事になると、一転、及び腰どころか、逃げ腰で曖昧にしようとする。あの醜態を見ていると、人間は思想や立場が変わっても、結局は同じような過ちを犯す存在なんだと理解するのは、良い意味での"大人の感覚"と言うものだろう。(それでも、彼らは顔を出して発言しているから、"見っともなさ"を晒すだけ、まだ責任は取ったことになるのかもしれない・・・)。 私の人間性は「粗にして野だが卑ではない(城山三郎著)」つもりだが,だからと言って決して人間として上玉だとも思っていないから、この"匿名のヒーロー達"に対しての感情は、「この連中が、逆に自分を晒されたときの姿を見てみたいもんだ。」というごく素朴(?)なものである。経費を掛ければ名前を特定出来ないことはないのだろうが、私もそこまでは暇じゃないので今はする気がないが、しかし、あまりに酷ければ団体の"危機管理"としても拱手傍観している訳にはいかないだろう。 「人を見て法を説け」も私のモットーだから、取り敢えずは、相手に応じて下世話な言い方をすれば「そういうオメーはどうなんだよ!?そんなに立派な生き方をしてるんなら、こんなことで時間を潰してる暇はねーんじゃねーのかー?こんな書き込みばっかりしてるから、今の"サミシーイ"お前なんじゃねーのかー?!娑婆(人の世)に出てもう一度、歯を食いしばって頑張ってみろよ。今からでも何とかなっかも知んねーぞ。ウチに来いよ、手を貸すぞ」である。(品が悪くて済みませんー「朱に交われば赤くなる」、か?)。
その間にも一方的な悪意の書き込みは流れっ放しとなるから、それしか読まない人間はそれを信じるか、信じないにしても悪い"印象"が潜在意識として蓄積する!(それが目的なのだろうが)先日読んだ「ネット告発ー企業対応マニュアル」(毎日コミュニケーションズ刊)というインターネット告発や2チャンネル問題についての本を読んだが、その中でも「迅速な対応が肝要」という旨のことが書かれていたが、ネット被害に専従で対応するセクションを持つ大組織ならそれも可能だろうが、全体の専従者が数人の組織でそれをしていたのでは、それこそ年間30いくつもある主要行事でさえこなせなくなる。 勿論、こちら側としても組織が広がれば目の届かないところも出てくるので、こちらにも誠実に応えてくれる、正しい意見や感想、希望なら却って有難い位である。しかし、事情を何も斟酌しない一方的な書き込みにまでは対応は出来ないし、一見いかにも正確な情報でも、それによって迷惑が掛かる人間がいたりした場合はなお更、公共の場では書けない事もある。
また、若者にとって金銭が至上の価値となっている昨今、最も食いつき易い話題として、経費の多少を単純に比較するが、公共機関や、それに順ずる政治団体や、ある種の大きな団体(?)から後援されていたり、逆にそんな経費を考えないで良い、小さな団体なら別だが、全く純粋な(笑)民間団体がこの厳しい経済情勢の中、しかも東京で!それなりの組織を維持してゆく大変さを理解しているのか? 簡単な比較をすると、国公立大学や、資金が潤沢な宗教団体が運営する大学等と、私立大学の学費を比べれば分かるのではないか?特に地価や、税金、経費、維持費、対外交際費等々全てが高い東京のど真ん中にある有名私立大学では、度々の寄付で持っているようなものだろう。学費も国立との差は優に10倍はあるだろう。道場とて同じである。ましてや、他に生活の手段を持っているとか、土地や建物が学校施設だったり親譲りだったりする場合等と同じ運営方法は出来ない。第一、それらの経費に納得できないのなら、他に行けば良いではないか?誰も強制はしていないのだから・・・。 昔、北斗旗には出たいがルールが気に食わないから変えろ、と言った選手がいたが、それと同じ理屈だ。地球が自分を中心にして回っていると思っているのだろう。そんな声に迎合して、大会ルールを変えた団体があったが今はその大会はどうなったのだろう。寡聞にして聞かない。大会位ならまだ良いが、(でもないが・・)運営に関して無責任な一軒善良を装った声に迎合をして、最後に運営が行き詰まったときには誰が責任を取ってくれるのか?一言、「代表者に運営能力がなかったのだ。所属の生徒がかわいそうだなー」等と、同情とも嘲笑ともつかないような皮肉を言われて終わりである。 もっともそこまで考えて発言するような、責任感のある人間なら匿名などという方法は取らないのだが・・・・、しかし、そうは言っても、そのままにしておくと武道や格闘技に興味のある多くの一本気な子供達に誤ったイメージを植え付け失望させてしまうかもしれない。「又、下衆が下らない、アホなことを書いているなー」と鷹揚に構えていれば良いというものでもない。困ったものだ。どうか責任ある意見建設的な意見なら正式なホームページがあるのだからそちらのほうに、是非、様々な希望や、ご意見を寄せて頂きたいものだ。出来ることは誠意を持って対応して行きたい。
こんな2チャンネルなどは進んで見る必要はまったくないが、悲しいかな人間は大なり小なり人への批判や、(もっと単刀直入に言えば)悪口を面白がる部分があるのも事実だから、どうしても気になる人もいるだろう。そうだとすれば,暫らくは書きなぐられる玉石混交、ごった煮の情報の中に浸りつつも、義理も人情もない、戦国乱世を行き抜いた先人達のように、一緒になってムキになり一喜一憂したり、振り回されたり、流されたり、挙句は溺れたりしないようにしながら、「これも"無常の人の世"」とでも突き放して、その後の結果情報と比較して、信用できるものと出来ないものを分別する勘を養っていくしかないのだろう。 これこそ逆に、「人世万事を修行の糧とする"大道無門"」の精神を養うには良い時代かも、と言うしかない。(平成15年7月24日)
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