エストニア遠征記

エストニア遠征記 | 遠征画像

東孝

11月13日(木)
8:00サンシャイン前集合、8:20出発。今回の同行者は、一人は体力別中量級優勝者の中川博之弐段―宮城県木町支部所属で、もう一人は合宿参加等の条件で軽量級優勝の高橋腕(かいな)初段―新潟県新潟支部だったが、専門学校の関係で行けなくなり、同じく重量級優勝の志田淳2級―東京、吉祥寺支部所属が来年の合宿参加を条件に急遽決定。

尤も、今年の各地区の合宿で、「全国合宿は今の3年に1回ではなく、4年に1回、世界大会の前年にする」と決定したので、来年(と選ばれたものは次の年も)の全国合宿は必ず出ないと初めから選考の対象にならないのだが・・・・。

12:45成田出発。10時間30分の空の旅で、日本との時差−7時間のデンマーク・コペンハーゲン空港に(12:45+10:30=23:15それから-7:00で)16:15着。20:00のエストニアの首都、タリンへ向けての出発まで3時間45分もある。折角の時間、待合室だけでは勿体ないので、市内までは30分位だというから電車で出て、人魚の像の前で写真でもとなったのだが、空港で女の係員に聞いたところ、「ビザがないとは入れない」とのこと。エーッ!自由主義圏でそんなことがと、再度聞いたが、ガイドブックを持ってなかったこともあり、今度は、「この待合室でお待ち下さい」と念を押されたものだから、「へーッ、そうなんだー、意外だねー」と納得してしまった。尤も、人魚にそれほど焦がれている訳でもなし、喉も渇いてデンマークの珍しいビールが横目に入ったこともあり、得意の「ま、良いっか!」ともなったのだが。

20:00出発。1時間30分の飛行。コペンハーゲンとは時差、+1時間のエストニアだから、20:00+1:30=21:30、それに+1:00で22:30、首都タリン空港着。スポンサーで副支部長のGENNADY DEMAHIN(ゲナージー・デマヒン)と現場責任者で副支部長のIGOR GOLUBEV(イーゴリー・ゴルベフ、セクレタリーで準指導員のSERGEY PUZIN(セルゲイ・プジン)を始めTV局や新聞社が待っていた。30分ほどで宿舎のOlevi Residenceに到着。早速、Dinnerとなる。

"現場"という表現もおかしいか、建築業じゃないのだから?いーや、全然おかしくない。体を使う仕事は現場と、机に分けるのは当然だし、「この言葉に"誇り"を持たなくなったところに、日本の衰退が始まったんだ!」 (ついでに、『"誇り"だかんな、PRIDEなんつー言葉を使うなよ!』っと、これは"千昌男 調の意味"でだからね、変に勘ぐらないでください。)

なんて、何でこんなところでいきり立ってるんだ、俺は?! (笑) つーのは、大概は締まった体をしている海外の支部長連中と比べると、最近の"日の本の国"の武道関係者の、腹の出具合いが気になってしょうがないからだ。これは団体を問わずだが・・・。

待ち構えていたように(というか事実、待ち構えていたのだが)世界大会後の支部長クラス審査も受け、弐段になって去年のラトビア大会の時には「来年はウチでするので、必ず塾長は来て下さい!」と怒鳴りまくっていた、一番の顔馴染みのゴルベフが、食事をするのも待ち遠しげに、あれやこれやの話題や問題を話し出す。「まー、先ずビールを飲ませてくれよー」と、乾杯して色んな話を聞く。忽ち、時計は1:30を過ぎて選手は眠そうだ。全部で10ヵ国程から選手が来ていて、選手達は一緒の宿舎に泊まるらしいので先に返して、やっと部屋に帰り、PCの設定や、机、道着類の整理をしてシャワーをし、日本に全員無事到着の電話をしてベットに入ったのが、4:00。

11月14日(金)
嘗ては滅多に時差なんて感じなかったのに、少しは成長して大人になった証か(?)6:30に、一旦起床。小腹が空いてるのに気付いたので、持ってきたインスタントラーメンにお湯を注ぐ。やっぱ、飲んだ後はラーメンを食わないと寝れない体質になってしまったのかな。終にラーメンマンに進化したか、俺も(笑)。雑誌を読みながら食べていたから、腹が"くちく"(いっぱいーー九州弁か?)なった所で、7:30、再びベットへ。9:00、再起床。その後、地下の食堂に降りて10:00までユックリ朝食。最近は膝への負担を軽減するために、朝は食べないでかなり減量してるが"ひもじさ"は感じない。が、海外や旅に出るとつい開放感で、忘れていた朝の食欲も呼び覚ましてしまう。又、日本に帰ったならノルマを上げないと駄目だろうなー。

11:00‐13:00市内観光。タリンは1991年の旧ソビエト連邦共和国の崩壊に繋がった、ロシア連邦から最初に独立したバルト3国の一つで、一番高緯度に位置し、向かいのフィンランドの首都ヘルシンキとは、高速フェリーで1時間半しか掛からない(丁度、新潟と佐渡の関係みたいだ。行きたいなー)。おもな見所は旧市街の中にあり、ヨーロッパ特有の、石畳と城壁に囲まれている。

そこに着くまでの"何とか"という通りを歩いている時、ユーモアが好きなゴルベフが、「塾長この両側のビルの秘話を教えましょう」と近寄ってくる。なんでも旦那がいない時を見つけては浮気していた妻と隣家の愛人は、いつもは通りを挟んだ窓から連絡しあって逢瀬を楽しんでいたそうだ。ある時いつものように旦那がいないのでこれ幸いと連絡しようとしたが中々顔を出さない。心配しながらもその妻は何日か待っていたなら、ある日なんと、その愛人の上半身"だけ"が(首だけだったかな?)が、隣のビルの窓に置かれていたのだそうだ。さすが肉食民族のユーモアは凄みがある。

何気なく振っておいてのエピソードにしては、きつかったかも知れない、失礼しました。旧市街の中心はラエコヤ広場。さて、ここでも(兎に角この手の話が多いのは、雑な性格に合わせている積りなのか?)旧市庁舎の壁には、罪人をつないで処刑したという鎖がそのまま残っていてこう使うんですと解説をする。志田がオドケテ真似をしたなら通行人が面白がっていた。

(ここからは心配御無用)この広場の上の方に行くと、国会議事堂になっている、トーンベア城はなんと、鮮やかなピンク色だ!また、1998年にサンクトペテルブルグでセミナーに行った時、記念品(!)に軍の将校用の帽子とコートを貰って、意気揚々と車から身を乗り出して"行進"した、ネフスキー大通り、と同じ名前の"ネフスキー(※)"の名を冠した教会なども綺麗だ。

※有名なネフスキー将軍に因んだ教会。1240年にネバ河畔でスウェーデン軍を撃退したノブゴロド公、アレクサンドルはこの勝利によって、アレクサンドル・ネフスキーと呼ばれるようになった。

戻って、14:00まで部屋でパソや日本へ電話。15:00頃から16:30まで近くのCHENESE RESTAURANTE(チャイニーズレストラン。気取るつもりはないが、海外では"中華料理店"という雰囲気ではない)で昼食を兼ね、昨日の続き、エストニアでのユーロッパ大会などの構想や、2月に呼ばれている極寒のイルクーツク(※)での大会の件等々。

※イルクーツクといえば、中学の時、「最低気温、世界記録、マイナス約60度、世界で最も寒い場所!」と習った覚えがあるが、又、歴史的にはその寒さゆえに流刑の地として使われていた。有名な話では、"(※)デカブリストの乱"に参加した3000人の兵士のうち、579人が処罰されたが、その内の、青年将校たち5人が絞首刑、約120人強がシベリアの地に徒刑ないし流刑された。30年後に恩赦で生きこの地から出たもの56人!死亡67人!というイワク付きの地だ。また、トルストイが恩赦でロシアに戻ったヴォルコンスキー夫妻の書いた「覚え書き」を元に「戦争と平和」を執筆したのは有名な話だ。

(余談の余談)ロシア語で12月はデカーブリだからその時に蜂起した者をデカブリスト(※)というのだそうだが、その、12月14日は、赤穂浪士の討ち入りの日と同じだ!(但し、1702年)

"※デカブリストの乱"1825年12月14日、ナポレオン戦争(1812年)でナポレオン軍をパリまで追走した将校たちが、逆にフランスの自由さに衝撃を受け、ロシアの専制政治と農奴制を打倒するために皇帝アレクサンドルが急死した時に起こした反乱。計画性がなかった為、直ぐに鎮圧された。ロシアでトルストイやドストエフスキーより有名なプーシキンは彼等に共感していた。
(又、余談。私は1988年にサンクトに行った時、このプーシキンが決闘で死ぬ前に立ち寄ったというカフェに行った事がある。「だから?」、「いや、別に・・・。」)

(閑話休題)

歴史好きの私としては、これだけで心はイルクーツクに飛ぶが、しかし、行かない。というのは寒いだけの理由ではない。なんと、「"イルクーツク連盟"が市当局の応援を得て開催しますので是非塾長には来て下さい」と言うから"てっきり"モスクワ本部と連絡を取り合っているものだと思ったなら、モスクワはモスクワで「塾長が承認したと思っていた」との事!恐いなー、総本部どころかモスクワでさえも、全然知らないところで「"大道塾"が市当局に応援を受けて活動している」、というのだから!どっかに別な"東孝"もいるんじゃないか?(このあと北京で行われた中国散打戦での呼び名、"トウコウ"だったりして!笑い話でない。)このことは「空道」の広がりのスピードに一民間団体の行動力、機動力が限界に近づいている、ということの証左でもあるのだ。何とかしなければ!とはいつも思うのだが・・・。

さらに、一方、何度も懇願されて来ていたが見送られていたサンクト支部の再認可の件。17:00‐17:45、その責任者と2人で話す。大道塾設立当初は大概のことは、常識を基にした人間同士の信頼感="阿吽の呼吸"で良かったが、(特に海外では)年々広がって来ると、様々な思惑から人の離合集散があるから、運営は慎重にならざるを得ない。ここもその悪しき例だ。

尤も、最近では日本国内でも同じようになっているのは、充分勉強をして来ている積もりだが、人との信頼関係が根底に求められる"武道"の性格上、何度そうされても自分のほうから目を窄(すぼ)めたり、眇(すが)めたりして人を見ることはしたくない。結果、後で「成る程ねー!そうだったんだー、やるねー」と感心(?)するのだが(笑)。ま、「○すより○されるほうが良い」という言葉もあるからな。

しかしここの話はいつも二転三転するから、少し突き放すようだったが、「後で互いの誤解を避けるためにも録音するから」とテレコを回す。余り好い気はしないが、しょうがない。これだって、何度も呼び出したのに応じず、今回、正式なロシア連盟が発足するというので、さすがに慌てたというところだろう。18:00からは再認可の条件などを、ロシア連盟のアナスキン代表とゾーリンを加えて3人で、18:30まで協議。来年4月に改めてサンクトに行き、実態を視察して再承認の可否を審議すると結論。

20:00、部屋で自主錬(基本技をいつもの倍、ダブル、コンビ、シャドウ、体力。) 21:30‐22:30近くのビアホールでエストニアのビール"SAKU"(ソックと発音)で乾杯。23:00、例によってバスタブがないが温水は出るのでシャワーをして23:30、就寝。16日にはホテル内にあるサウナ(これが暖まるまでに2から3時間掛かる、本格的な?もの)を使ってからマッサージを受ける為にも、明日下調べしておこう。

11月15日(土)
3:00起床。グッスリ良く寝た。3:30より昨日の備忘録と作文の続き。途中、何度か11月30日の「北斗旗無差別大会」や、来週の「散打博撃との北京遠征試合」、来年の全国運営会議(通称支部長会議)、少年部全国大会の件等々で、日本より電話が入る。手帳を見ながらあれこれ考える。もう来年は始まってるんだな。

この時初めて、三年間、碌に予定や結果を書きもせず、惰性で持っているだけだった、その"能率手帳"を見ながら、来年の事を考えるようになった自分に気付いた。30代になって机の仕事が多くなってから3年前までは、"能率手帳"の2時間毎の縦線に、更に 30分単位で線を引き、時間を無駄にしないようにと気を付けていた。年末に、最も不得意な、この"単調な仕事"をさせられた内弟子は多かったろう。

例え倹(つま)しいものでも、公(おおやけ)の媒体という、本来なら全く縁がなかったはずのものに、ホンの一瞬だが映して貰ったお蔭(?)で、確かに、東正哲(まさあき)という人間がこの地上にいたんだという証拠が、具体的な形として永遠に残ったことで、やっと諦めが付いたような気がする。先の予定を考えられるようになったのだから・・・・。考え込むとどうしようもなく寂しいが、どう考えてもしょうがない、死んだ者は帰らない。アイツがコッチに来る事は絶対にないのだから、俺があっちに行って会えるまでは、それを楽しみに歩いてゆくしかない。

4:30突然停電。日本でなら大騒ぎだろうが、周りに何の反応も無し。久し振りで蝋燭を探し「"蛍雪の功"という言葉もあったな」と思いながら、本を手にして見るが、それでなくても最近"コマイ"字が読み難くなってる上に、煌々たる明るさになれている現代人(一応、俺も)の目では無理だと、サッサと諦め再びベッドへ。6:00、再点灯で気が付き再起床(?)、作文再開。9:00‐9:40朝食。10:00、予約通りサウナに行くが、まだ暖まっていない。戻って10:15から1時間、また作文。11:15から12:10まで、60度(!)というサウナに約1時間やっと入った。13:10、迎えの車で会場へ。

13:30より試合。五階級で約40人と、こじんまりとした大会だが、230以下では、ロシアのシニューチン・D。今年のモスクワ大会の250以下で、世界チャンピオンのダシャエフ・Bに負けたが、準優勝した"モデル"としても人気のあるイケメンファイター、スチコフ・M。志田の出る260以下には、2002春のモスクワ大会優勝者、ゴルバチュク・Tや今年の優勝者、フィルサーノフ。そして260以上ではアンドレア・ストッパ。

全体的に日本選手対外国選手の場合、試合の展開としては基本的に、日本人の攻撃を彼等は、右構え、左構え自在のスタンス、軽快なステップや、変化自在な上体の動きでカワしながら、筋力的に可能な、反動や予備動作なしの、思いもよらないタイミングでの、素早く強烈な突き、蹴りの反撃というパターンだ。

中川は第一試合はエストニアのテコンドーチャンピオン。テコンドーというがそれほど後ろ回し蹴り(バックスピン・キック)は使わない、どちらかというとアメリカンキックボクシング的な、早いが軽いという蹴りだ。試合早々、右ローから右首投げに来る所を、中川そのまま左足を掛けて倒した。このままマウントを取って「効果」かなと思ったが、例によって力が強く、中々マウントになれない。やっと右手で右脚を制してマウントになると、お誂え気味に腕を伸ばして突っ張る。ここですばやく腕十字に移行するが、なんと腕を極められたまま、両足を上体のほうに捲き、後ろからの首三角のようにして肩と首に捲きつけて逃げ切った!

相手の大きなワンツーのあとの前蹴りに中川の回し蹴りが交錯。続いて、中川右ローを出すが相手の動きが早く空を切る。相手の左フックをスウェーして左フックを返すとすぐに又、相手は今度は左に組んできて、同体で倒れる。が、この左腕は強く中川マウントになれない。時間30秒経過。

再び立って、相手がようやく後ろ回し蹴りを出したところに、上手く中に入り、抱えて大きく投げる!「効果」か?と主審のベゼルチャコフが副審に促すが誰も取らない。これは明らかなミスジャッジだ。(私の中では「効果」1)、判定は中川2、相手1、引き分け主審と副主審で2、結局引き分け。

こんな感じで、延長も中川が追い相手は時おり奇襲的に反撃するという展開だが、軽いとは言っても一発のラッキーパンチで引っ繰り返すだけの重さは持ってるから、気は抜けない。後半右ローで入るところに左アッパーを合わされてヒヤリとしたが、攻勢点で判定勝ち。

次の志田。いきなり相手が組んできたが、堪えながら同体で倒れる。ここからは同じで首のロックが解けない。立って、打ち合い左ストッピングで止めようとするが、馬力に任せて構わず突っ込んでくる。左ストに相手は右フックを合わせ、接近し志田の左体側に付く。志田膝蹴りの好機だが、相手の制止力が強く、逆に早い膝蹴りを4,5発貰う。印象が悪い。場外、中央へ!

ここで志田サウスポーに代えて相手の突進に左膝カウンターをようやく合わせる。一瞬動きが止まった!ここでもう一発と、調子に乗って出たところに、相手の左ストが軽く入り、腰高なので後ろに一回転!危うく「効果」を取られるところだった。その後も、何度か投げられ危うくのバックマウントも場外で救われたりしたが、最後、又も出鼻に綺麗なカウンターの膝が入り相手はくの字になる。

所が審判が誰もこれを取らない!本部席のアナスキンとゾーリンに促しても「金的では?」等と言っている。最後は「相手に聞いてみろ!」と大声を出したなら、相手が認めたから良いようなものだが、今度は見方も、事情を知らない観客が大ブーイングだ。やっと解説させて収まったが、観客への解説もそうだが、根本的には審判の養成が急務だ。

同じ大道塾とは言っても、Might is Right(勝って何ぼ)のポリシーを持っている連中は、日本や、外部の選手には、初めから優勝候補をぶつけて来るし、判定で甘くするということもない。そういう意味でも、このように明らかな過ちの場合はその都度、指摘して行かないと後世に大変な禍根を残してしまうので、敢えて試合の流れを止めても言うが、それ程でもない場合は"本家意識"もあり"塾長"という立場もあるから、みっともなくて中々抗議し難い。

中川の第2試合。相手のアハメドフを形容すれば、まさにマジックボールのような"弾む"感じだ。中川の左回しを素早く左へステップしてかわす。左フックは軽快にステップバック。右ローで入ると大概来る、反撃の左をすばやくダックしてかわし、逆にタックルしてくる。自在に左右のスタンスに変わり、どちらからでも攻撃を出してくるし、逆に相手には攻撃目標を与えない。中盤、左上段回しを素早く引いて、畳をバネにして左の前蹴りを貰う、効かない。右ローをキャッチされ転倒したがダメージはない、しかし印象点は大きい。判定は3-0で向こうだったが、中川も前には出ていたので、主審、副主審の3ポイントで引き分け。
延長も同じような展開で結局、判定負け。中川も単純な力負けというのではない。筋肉の成分そのもののから来る、それ以上に嫌になる、体のバネの違い、のような気がする。

志田の第2試合。このフィルサノフ選手も前の中川戦のようなタイプだ。兎に角捕まらない。前に出ればステップで距離をとる。回りながらステップし時折、右ローを出す。中盤、やっとフックの打ち合いになったが、直ぐに左に組んで素早く後ろに回られる。志田、左足を前に出して腰投げを試みるが、逆に右腕を捲かれ同体で倒れ、裸締めを貰いそうになる。かろうじてきると今度はバックマウント、辛うじて場外。

右ロー反撃のフックを潜り、タックルしつつ直ぐ後ろに回る。志田、左腰投げを狙うが投げれないので、接近からの右のパンチ、肘の連打と反撃。中央へ。同じパターンで右ローから低く入り、今度は左、右とフックの連打。志田それに右スト、左フック、右ストと出すが、全てウィービィングで空を切る。

同じようなパターンの四度目で、遂に投げからのバックマウントで「効果」を奪われた。志田、猛然と左フックで前に出るがそれに左下段を合わせてから、上体をダックして入り、右、左のフック連打、次は左フックからの右アッパーと貰う。主審副審とも取らない。救われた。再度中央に戻ったところに意表を突いた右バックハンドを貰う。それではと膝狙いで前に出ると今度は左ストを合わされ2度目の「効果」万事休す!

最後の試合となった中川の相手は大道塾緑帯で、某フルコン経験14年という、格も違うし動きも読みやすい選手だったので、一方的に前に出る中川。パンチの打ち合いから捕まえて無造作に右の膝蹴りに行った所、見事に右足払いで転倒された!極めがなかったから良いが、危うく「効果」を取られるところだった。

立ち上がって試合続行。今度は、相手のワンツーに得意の左のフックを合わせ、余裕で前に出るが突然、思いもよらない後ろ回し蹴りを軽くもらい、副審の旗が1本揚がった。どんな相手でも舐めては駄目だ。ましてやまだ顔面パンチは荒削りとはいえ、一発を持っている海外の選手である。

最後は組んで来たところを腰投げ、と思ったがしかし、相手の腰が重くて決まらない。そのままバックマウントで「効果」から「裸締め」で「一本」!第2位が確定した。

18:00終了。19:00宿着、20:00まで仮眠。20:30、打ち上げ会場であるディスコへ。ここでの主役は"陽気なイタリアーノ"、アンドレア・ストッパの独壇場。260+級で、今年のモスクワ大会、260+で準優勝のロシアのムヒタリアンを破り見事優勝したし絶好チョーだった。前回イタリアに行った時は、年上で柔道のイタリアチャンピオンにゾッコンだったのが、今度はかなり若い彼女を連れて来て、これまたベタベタ"しゃーぁがる!"。大して顔も良くないのに何で?とは思っても、実際に"サマ"になるから文句の付けようがない。勝手にしろっ!と言う所だ。それでも止しゃー良いのに、「日本男児の粋(いき)を見せん!」等と、"林立する"男女に混じって奮戦するがアホ臭くなって、一応の義理を果たし、「今日は呑むなよ」といったにも関わらず、かなり"回っている"中川と、志田を連れて23:00には上がった。24:00就寝。

11月16日(日)
4:00起床、身の回りの整理、日本への電話、背中がこっているので、四玉球(指圧の器具)に背中を乗せる。良い気持ちだー。6:00-7:00作文。四玉球の為か心地良く眠くなったので、横になる。9:00起床、9:40まで朝食。12:00まで作文。又13:20まで仮眠。今回は本当に眠くなるなー。14:20までアスレちっくクラブへ行きガッチリ汗を流す。16:30-17:00、リトアニアの正式な支部手続き。これでバルト3国全部に支部が出来たことになる。17:00、サウナ。18:30、例の"中華料理店"で今大会の反省会と、エストニア支部の今後の展開についての質疑応答を兼ねて、打ち上げ。20:10、ホテルへ。20:30今日は昨夜のウォッカの乾杯、乾杯に加えて、時差ぼけが強く出て、眠くてしょうがなかった。

今日、本当は向かいの(!)フィンランド、ヘルシンキでのセミナーを予定していたのだが、今はすでに寒いし(タリンでも既に連日零度前後だった!)準備が整わないので、来年春のサンクト往きの際にしようとなった。昨日の試合で選手もみんな疲れたり、故障したりというので、無理にしなくてもいいだろうと、夕方は、近くのアスレチックに自主練に行った。一時間の自転車(1131kcal消費!)と、プロレス式腕立て、50×3セット、腹筋500、背筋100と、一応出来た。途中ストッパが「塾チョー、セミナーはないのですか?」と来たが、コッチは今日が絶好チョーだったので、「自分の練習だ!」と言ったなら、その内にいなくなった。あとで「ホテルにウェアーを取りに行ったならタクシーが捕まらず、戻れませんでした。来年早々(1月中旬)のギリシャでのセミナーには必ず参加します」と、メールがあった。

その後のサウナも、昨日の60度と違い今日は100度だったが、30分間入れたので、体は汗も切れてスッキリ。ビールの為の準備も充分出来た。それでも結構体にはキツかったようで、昨日までのプロの"カメラウーマン"、が取ってくれた300枚ほど(!)の写真を選びながら、上記の中華料理店で昼食と夕食とを2時間ほど掛けて摂り、食べ、ホテルに戻って、日誌を打ち込む前に少しベットで横になろう、と思ったらそのまま寝てしまった。

11月17日(月)
3:30起床、前から読みたいと思って積読(つんどく)していた「日本に文武両道なし」(マーティー・キナート 早川書房)という、愛国心をもろに突付かれるようなタイトルの本を読む。文武両道は日本の専売特許じゃねーか、冗談言うなよ、このヤロー(済みません品が悪くて)、大道塾内だけでも、武道と仕事や、学業を両立させている人間は何人もいるぞ。もっと直截に"文"を学問や、頭脳労働と狭義に解釈しても、医者や弁護士、会計士、銀行員、シンクタンクの社員や幹部、更には大学教授だって何人かいる等など、数え上げたら切りがないくらいだぞ、「舐めんな、このヤロー(同上)」と鼻息荒く開いて読み始めた。

所が読み進むに連れ、徐々にその"意気がり"は失せ行き、3分の2程読み終えた頃には「確かにコリャ凄げぇーなー、なんでこんな事が出来るんだ!?」という嘆息に変わってしまった。

詳しく書いてる間もないから端折ると、なんせ大リーグやMBA、オリンピック記録といった、それこそ超一流のアスリートとしての記録を持った選手達が、現役を終えると、もしくは現役中から、上記のような狭い意味での"文"の仕事に転向、もしくは同時に従事しているのだ!確かにこんな事は日本ではありえない。片方で"一端(いっぱし)"になるのでさえ大変なのに、両方もだと!「天はニ物を与えず」、等と己の首から上の機能のワルさを、"宿命だ!"と諦めている俺など、思わず読みながら「殺してやる!」と叫んだほどである!それも一人二人ではない、スーパーマン"達"だらけである。

なんでこんな"憎たらしい奴ら"が西洋には続出するのだろう。筆者は「人の能力は無限であり、望んだ事はかなえられる」という信念や、「両方を目指そうという文化がないからだ」というが、先程言ったように、「文武両道」という言葉は、昔から日本にはあった。しかし、この本の例ほどの"両立"は悔しいが確かに日本にはなかったのかもしれない。勿論、この本のような"典型的なインテリ"としての"肩書き"に拘るのもおかしい、そう言う連中が必ずしも社会に対して有為な人間かどうかは分らないではないか、という言い方もある。 

それもそういう人間に対しては全くその通りだ。折角の才能を、社会の事などは豪も考えず、己が利益の為にのみ使ってる、才人はいくらでもいるしかし、この本で紹介されているのはそれと全く反対に、その文武両道、一般的には図抜けたその能力を社会の為に惜しげもなく遣っている人間達なのだ。正に、心(他を益する奉仕の心を生む豊かな心情)、技(頭脳を使って得た専門技術、知識)、体(超一流の体力を生かした行動力)といった三点を備えた超人的な人間達なのだ。

再び何故?だ。私はこの差の大きな原因の一つは、逆説を面白がる訳ではないが、単純に"脳力差"ではなく、正しく"体力差"だと思う。例えば、運動の世界で世界の一流に入ろうとしたならば、連日、"最低"5,6時間の練習が必要である。これを遂行できるだけでも日本人にとっては大変な体力だ。それでも、ま、これをなんとか出来たとし、それから更に5,6時間の勉強を連日する"体力"が日本人にあるかといわれれば、甚だ心許ないのではなかろうか。確かに運動も優れ勉強も出来るという大学受験生 (生?)などは良く聞くが、それも世界的な運動の記録には程遠いし、受験期間の2,3年位は何とか頑張ってやり遂げていわゆる"一流大学"に入ったとしても、入学後もそういう努力を維持し、学問と運動の両方で一流の成績を残すなどという芸当が、草の実(米、小麦等の穀物類--炭水化物が主たる成分)を主食とす日本人に出来るのだろうか。アジアのほかの国ではどうなっているのだろうか?

自分の事を出すなどは全くお門違いなのは分っているが、少なくとも私は運動能力ではかなりなレベルを持っていたと思う。高校時代、私ははそれこそ"夢の中"で生きていたようなものだから、小説の中の人物になりきって、俺も世界の超一流の男になり、歴史上の人物になるのだ!等と自惚れていた。ナポレオンが一日4時間しか寝ないで事を成したのなら俺だって、等と完全に狂っていた程だ。高校時代激しい柔道部の練習で"シゴかれて"(それでもたかだか4時間位のものだ)その後4時間ほど仮眠して夜中の2時頃に起きて朝まで5,6時間の勉強した。

柔道部では一年の後半からレギュラーに選ばれてシゴカレ、夜は碌に寝もしないでと、結構キツかったが、ま、字を追うのは嫌いじゃないから、勉強が始まれば面白くて眠い目を擦りながら、朝まで頑張った。大抵のことは人より時間を掛ければレベルアップするのは当然で、そんな風だから成績も上がった。尤も、夜中に起きて、当時発売されたばかりのインスタントラーメン、日清のチキンラーメン、を食うのも田舎の高校生には大きな楽しみだったのだが(笑)

そんな生活をそれでも2,3ヶ月はしたろうか、ある時、勉強に疲れて息抜きに外で新鮮な空気でも吸おうと思って立ち上がった時、急に目の前が真っ白になり、体中から力が抜けて、後は遠くでドーン!という音が聞こえたような気がした。貧血で倒れたのだった。それまで碌でもなかったガキが突然立派な人になったのだから嬉しくはあったろうが、高校を卒業して早く月給取りになってもらいたかった親父としては、勉強するのは良いが体を壊しては元も子もないと思っていたので、いつも「早く寝ろよ!」が口癖なっていた。大きな物音にビックリし飛び起きて来た親父にこっぴどく怒られた。

それでも夢に狂っていたから暫らくは、日課を少しゆるめにしながらも、それらしい事を続けていた。その内、睡眠不足も原因なのだろうが、始めての、今に繋がる"ぎっくり腰"をしてしまい、柔道で腰を酷使した上に、机に長く座わるのでは無理が過ぎるし、先ず英雄は強くなければと、優先順位では上位の柔道を先行させた(この選択が人生の間違いのもとかなー)ので勉強時間は激減した。

「お前を大学に入れる金はない」と親父には言われていたが、「一生懸命勉強していれば何とかしてくれるだろう」と思って頑張っていたのだが、その内、ない袖は振れない、いよいよ、大学進学は諦める様だなと観念したので"全く"勉強もしなくなった。遂には卒業の時に担任からは「お前も一年の頃は凄かったのになー」等言われる有様だった。ここで私の"超一流入り奮戦記"は終ったのだが、恐らくあのまま続けていてもどっかで体を壊したのではないかと、敗北主義ではないがそう思う。私は中途半端な根性しかないから、「ま、この辺で良いっか」と妥協してしまうが、こんな日本人もいる。

先日、新聞の蓋棺録(棺桶の蓋の記録、即ち死亡記事)のコーナーを読んでいたなら、やたらと若死にしている人が多かったので気になって読んでみたなら、みな驚くような人生を生きている!ある医者などは37歳だ。読むとその生き様の凄まじさが分かる。アメリカに留学に行って、向こうの人間で優れているのが14時間の勉強をしているのを見たなら、それでは俺は3時間だけ寝て17時間!勉強をする、と正に刻苦勉励したそうだ。その結果、確かにすばらしい研究はしたが、37歳で人生を終えている。確かに、人生は何も長ければ良いというものではないが、最善を尽くしたとはいえ、日本人の限界を超える努力をした事で、37歳で自分の生涯を使い切ってしまったのではないのか?と思ってしまった。

それでは「日本人は連中にはどうしても勝てないのか」、と悲観的になりそうだが、現実に日本は学問や、経済でも、治安(大きくは平和)という点でも、こんな小さな国にしては分不相応とでも言うほどに(ま、「上を見たならキリがない、下を向いてもキリがない」ということを想えば)世界でもトップクラスの国を作っている。なぜ、欧米のような圧倒的な英雄、超人がいないのに、こんな事が可能なのか?心技体の揃った超人のような人物が多い彼の国に対し、どっちかしか出来ない日本人がなぜ?

理由は色々考えれると思うが、一つは日本を語る場合の枕詞「和を待って尊しとなす"共同体意識"」の故だとも思うが、それだけではないだろう。こうは考えられないだろうか?即ち、"一人超人的"な両方完全に出来る英雄は余りいない。だから"武(現代的に言えば、運動)"か学問でのどちらかでの超一流も、自分が超一流にはなれない分野の超一流に一目置くしかない。出来たら少しでも近づこうとする。しかし体力的に、肉食民族的な程度には両立出来ない。だから、互いに自分は持てなかった超一流を尊敬したり、ないぶんを補うように協力する。そのことが、どのレベルでも程度の差こそあれ、互いに自分にないものを持っている人物を尊ぶ風潮を生む。

西洋の歴史は力で覇を唱えた者がそのまま貴族や、政治的権力者として君臨できる。また、誰もそれに少なくとも表面切っては異議を唱えない。一方、日本の歴史を見ると"(武)力"で相手を圧倒した武士でさえ、有職故実(※)や、歌舞音曲(※)の世界に没頭し、力などとは全く縁のない一薙(な)ぎすれば倒れてしまうような"文"の庇護者でしかない貴族(天皇家)の支持なしには、天下に覇を唱える事ができなかった。これは両方で"絶対"を達成できないから採らざるを得ない、苦渋、苦肉の方法だったので、これが世界の歴史にも余り例のない、政治的な"Balance Of Power" としてよく働いたのではなかろうか。

※有職故実(ゆうそくこじつ):朝廷や、武家の礼式・典故・官職・法令などに関する古来の決まり。
※歌舞音曲(かぶおんぎょく):歌と舞い。

日本には外国のような、古くはシーザー、チンギスハーン、アレキサンダー大王、ナポレオン、ヒットラー、レーニン、スターリン、といった圧倒的な独裁者という人間はいない。敢えて言うのなら信長くらいだろうか。確かに、明治維新の頃は字義通り「西洋に"かぶれて"」祭祀者(※)であった天皇家と政治権力を直結させるという勘違いをしたまま、世界に飛び出してしまった。その慣れないことをしたことで負った痛手から今に至るまで立ち直れず、世界はその"疾風怒濤の20世紀"から50年も経って、全く別な課題に向かっている、もしくは、走ってさえいるのに、未だに胸を張って立てないでさえいる。

※祭祀者(さいししゃ)神や、祖先を祀(まつ)る人。

この雑文はそのことに触れることを目的にしているものではないから、これ以上は述べないが、これも"困ったもの"だ。それこそ草食民族の優し過ぎるが故のトラウマで、そんなことを言ったのなら、アングロサクソンや、中華帝国の、他民族殺戮、絶滅の歴史はどうなるのだ?(あっ、これはチョット知った振りをしたい武辺の独り言ですから、絡まないでください、笑い)、などなど考えながら読んでいたなら、7:00、フロントも起きたようなので、サウナを頼みに行ってきた。戻って、また少しPCに向っていたなら、前日も使ってるからだろう意外と早く90分位で、サウナが暖かくなったと連絡があったので、また、今日も30分ほど入った。

その後、朝食を摂り荷物の整理。10:00頃ゴルベフが来て買い物に行きましょうと、市内を回ったが、買い物で楽しみな、丁々発止の"Discount"をさせてくれる店はなく、ただ、ぶっきら棒に頭を振るだけで余り面白くもないので、早々に切り上げた。滞在中は鱈腹、飲ませ食わせして貰うので、いつも最後にはお礼の食事として、逆に奢る事にしているので、鮨バーに行った。やはり海に近いというので、魚は抜群に新鮮だが、シャリは硬くて強飯(コワメシ)にネタを乗せて食べているようだ。

タリン出発が13:30なので11:30には空港に行かないと言ったが、30分前に空港に着けば良いとのこと!「そんな無茶な!少なくとも90分前にはチェックイン・カウンターにいないと駄目だ」と言っても動ずる気配がない。空港に着いたのが本当に30分前!他の空港では絶対に搭乗は出来ないはずだが、何の事はない、係員も当たり前のように手続きして簡単に通関出来た。聞けば、今、エストニアはヨーロッパの玄関口としての地の利を生かして、経済を活発にする事に重点を置いているらしい。日本から行くのにもビザが要らなかったのは、日本との経済交流は盛んなようだから、その為かと思っていたが、それだけではなく、もっと大きな思惑があったのかと納得した。

予定通り出発し、コペンには14:15着。ここで又、面白いことがあった。同行の2人が向こう(デンマーク)側の、Duty Free Shopで買い物がしたいなどと言い出した。「バーカ、きた時も駄目だったろう」と言ったが、物は試しにと「向こうで買い物できないかなー」などと半分冗談で税関に言った所、「1人100$ずつ出すなら良いよ」と来た。どこでもこんなのはあるから別に驚かないが、「吹っかけ過ぎだ!」と、顔を見直したなら、笑っている。なんと、ビザなしで入れる!!!とこの時、気が付いた!

それじゃー、入国した時のあの女の係員の返事はなんだったんだ!?ガイドブックを持って行かなかった俺たちを見て、いい加減な返事で騙したのか?何の為に?中には言葉の通じない東洋人だと思うとこんな舐めた事をする奴がいるのは知ってるが・・・、日本にいては感じる事は殆どないだろうが、悪い意味で世界は広い、病、硬膏に入るというが、差別意識というものは理屈でどうにかできる人間と、生理的にどうしようもない人間がいるのだろう。だからといって、ここまで狭くなった世界で、自分たちだけの社会を作るということも出来ないだろうから、連中にとっても大変なのかね、と逆に同情(するのも変だが)しながら15:45、コペンハーゲンを後にした。人魚との逢瀬(笑)は、この次の楽しみに取っておこう。

11月18日(火)
10:35、成田着。サンシャイン行きのバスまで1時間もあるから、久しぶりでスカイライナーで、帰国祝いのセレモニー、ビールで乾杯をした。先ず私にとっては「考えて行った幾つかの"仕事"を成就したな」という手応えと、無事二人を連れて帰れたというホッとした気持ち。また、二人とも今回の遠征で、耳では聞いても実感として分からなかった"世界のレベル"を肌で感じたろうし、それでも一応は、全敗という訳ではなかったので、2年後の世界大会で勝つためには何が不足で、何を伸ばせば良いのか、それぞれの課題が分かったろう、と思う。

と思って連中の作文を読んだなら、かなり自身ありげな事を書いている(笑)。ま、一般的に引け目を感じる外国人選手に対し、自信を持つことは良い事だが、試合のビデオを見てその自身を万全のものにしてもらいたい。ウチは何度もいうが、一日を練習に費やせるプロの団体でも、資金が潤沢にあって選手に一流のコーチをつけたり、度々海外遠征をさせて強化させたりできる団体ではない。そういう意味では今回のような機会はまさに貴重な経験だ。そこで自分の課題を見つけるにしろ、自信を持つにしろ、要は、4年に1回の"大道塾魂"をさえ見せてくれるのなら、途中にどんな"屈辱"や"勉強"があっても良いと思う。

平成15年11月27日 「03北斗旗全日本空道無差別選手権大会」を3日後に控えた、総本部にて。

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