スペイン・バルセロナ、マドリッドそして、初のドイツ!ニュールンベルグでのセミナー

東孝

平成15年2月23日-3月4日≪改訂版「早くUPしろ!」との"Silent Majority(声なき多数―いるはずの"拙文の隠れたFan(?)"に急かされているような気がして(自意識過剰&無邪気過剰)書き殴ったので推敲していませんでした。読み返すと、かなり粗が見えきて"エッセイ!ストッ"としては「"Pride"が(を?)許さない」ので手を入れました。

説明が"シツコイ"とか"物知りぶって"と思う人もいるでしょうが、(実はそうなんですよ、笑) 「社会体育」を標榜する大道塾の、充分に足りている方は別として、練習に時間を取られて中々言葉を仕入れていない選手の為(実戦では言葉も大きな戦力だから)と、私の脳味噌の活性化(ボケ防止)の為です。暇な人は我慢して読んで見てください。≫

平成15年2月21日(金曜日)1日目 
今回の助さん・格さんは、初の海外遠征がまだ誰もセミナーをした事のない、ドイツのニュールンベルグと、スペインのバルセロナ(注1参照)という"大金星"を射止めた、03年軽重量級優勝、無差別第4位の寺本正之・関西本部師範代と、おなじく03年超重量級と無差別級を制した藤松泰通・総本部指導員、の予定だった。ところが、その藤松が急遽インフルエンザで行けなくなった。

出発当日は、21日の朝4時半に起床。近隣の海外支部からデモ試合で寺本の相手をする選手を(文章の順を入れ替え)呼べないかと、昨夜2時過ぎまで泥縄式で打ったメールのチェックをするが全然返事なし。更にもう数件メールを打つが時間切れ、後は返事が来た場合の事を事務局長と打ち合わせて急いで出た。サンシャイン・プリンスホテル前から6時46分に出る成田行きのリムジンバスに乗るのに6時30分に本部を出るとは!以前総本部のあった練馬からでは、こんな事は絶対に不可能だった。本当にいろんな面で動き易くなった!総本部移転にご協力頂いた方々に改めて感謝!

注1:バルセロナは2000年に、平塚和彦評議委員長、飯村健一、アレクセイ・コノネンコの両師範代とでポルトガルとフランスでのセミナ−の時に"下調べ"としては行っているがセミナーはなかった。

サンシャインホテルから約1時間半、8時15分過ぎに成田着。8時40分無事チェックインのあと、キャンセルした分の払い戻しなどの手続きや、この所の「支部長審査」や「大道塾全国運営会議」、翌日の「2003北斗旗、第一回少年少女選手権大会」の為に、ろくな準備もしていなかったので、ドイツやスペインの情報を仕入れるガイドブックを購入したり、手土産を漁ったりと、慌しく時間を過ごす。10:40発のドイツ、ルフトハンザ航空のLH711に搭乗。朝早かった為と、膝への負担をなるべく軽減する為にしている、減量の為に朝から殆どなにも食べないでいたから、昼食のサービスが始まるまでの二時間ほどが本当に長かった。

寺本もなにも食べていないそうで、「先生まだ食事にはならないのでしょうか?」と辛そうだ。そこで、飛行機に乗りこむ時には"ツマミ"の不足分を補おうといつも買いこむ(語順入れ替え)"つまみ"小腹を埋める為にと二人でボリボリしている内にやっと、機内サービスが始まった。「先生いくら食べても良いんですよね」と寺本は気合が入ってる。しかしこの所の世界的な不景気の所為だと思うが、昔ほど機内食も豪華(?)ではないし、余ってもまさか、再度温め直して使うわけには行かない(だと思うが?)と、もう一人分を頼んでも以前のように笑顔で気前良くはしてくれない。

尤もこの日本人の"スッチー"は我々だけにではなく、誰にも甚だ愛想が宜しくない。周りにいた、余り飛行機には慣れていなそうな団体旅行のお年寄り達への話し方も、無愛想そのもの。「お客さま(とは言うが)、電話機の電源はすぐに切ってください!」「まだリクライニングは倒さないで下さい!」とか、一度配った食事や飲み物の回収は一度しただけで、あとは差し出せば一応受け取るが、わざとらしく(スッチー達の控えている場所はなんというのだろうか、そこへ)「ゴミはあそこにで自分で片付けられますから!」といった調子で、なんか刺々しい。

この所、実力をつけてきたと同時に心に余裕が生まれた為だろう、かなり"温厚"になってきた寺本だが、これには我慢できなかったらしかった。飛行機旅で最も楽しみな、"ビールを飲みながらの雑誌読み"の心地良さにウトウトして私は気が付かなかったのだが、次のサービスの時に別の"スチュワーデスさん(気分が良いと、このようにしっかり呼びたくなるが、今は正式にはCabin Attendant キャビン・アテンダント 客室乗務員と呼ぶのだそうだ)"が極めて愛想良くサーブするので、なにげなく「あの愛想の悪い"スッチー"はどうしたんかな?」と言った所、「チョットあんまりなんでさっきトイレに行った時『仕事なんだからもう少ししっかりやってよ』と言ってきました。そうしたなら、目を白黒させていました」とのこと。(勿論、これは私の表現で、こういう"言い方"をしたかどうかは、定かではないが(笑)。

確かに、外国人相手の時は流暢な外国語でニコニコと、馬鹿丁寧な位に愛想良く話すくせに、日本人の客に対しては何か勘違いして「私は違うのよ」と言った態度をありありと見せるスッチーも往々にしている。そういうのには、こういう"ワイルドな客"もたまには"良いクスリ"になるに違いない。先日、何の行事もない日曜日には見られる"Good Luck"を途中から見た時は、有名人には、という設定でこれに近いようなエピソードが展開されていたと思うが・・・。

このスッチーに限らないが、この所、あらゆる分野で「自分がこれで世に立っているんだ」という"誇り"や"プロとしての自覚"のないところから生まれる、世の中を舐めた、というか世の中の怖さを知らないというべきかの"いい加減な言葉や行動"が当たり前に蔓延している。民間、官界を問わずに日本社会のあらゆる分野で、小は人間関係の"もつれ"から、大は会社、団体、国民を巻き込んでの"不祥事"まで、これでもかこれでもかと連日マスコミを賑わわせている。数え上げ、まともに考えたなら、誠実に地道に生きている人間が馬鹿を見るような事ばかりだ。

暴力団と組んで覚醒剤を子供達に販売していた"岡っ引き"のような警察(!)がいるかと思えば、盗難車を海外のマフィアに輸出して何億という金を得ていた"悪代官"そのものの幹部(!!)。高額でさえあれば、かつて検事として追い詰めた犯罪者の弁護士にまでなる "ヤメ検"弁護士(たしかに建前上は法の元の平等という良い方で矛盾はないのだろうが,"後ろめたい"というのが常識的感覚ではないのか)や、依頼者の法的無知に付け込んでお年寄りから金を騙し取る"三百代言"そのものといった弁護士。下ネタ事件や三角関係の縺れで世間を賑わす(?)"失楽園"の"裁判官"。国の公費や機密費を自分の遊興・蓄財に平気で流用し、追及されると恥じも外聞もなく嘘八百を並べて言い訳をし、何とか生き延びようとする"親方日の丸"の国家公務員。"地上の天国"と喧伝して、北朝鮮への在日の人達の帰国事業に旗を振り、何万人の人間の人生を狂わしても、謝るどころか開き直って「私も騙された」等と自己弁護で保身に汲々とする、厚顔無恥な "庶民の味方"なはずの政治家。相変わらず優しい柔和な表情でテレビニュースを読んでる"ツラション"キャスター。一人天下が出来る著作で「情報が少なかった」だのと"強弁"する、嘗てのヒーローで"何でも見てきた"はずの評論家。「青少年教育」として多大な影響を与える分野で活動していながら、裏の顔を持つ"ブドー"や"カクトーギ"の関係者。それを知りつつ一緒になって煽ったくせに其の事が表立ってからも、平気で多言を弄し存続を図っている"御都合主義"のマスコミと"銀バエ"の取り巻き。中小企業が永年の努力で営々と蓄積して来た"ノウハウ"を、儲かれば良いとばかりに、恥も外聞もなく規模に任せて横取りしを倒産させたり、逆に、儲からないとなるとアメリカ式にドライに従業員を路頭に迷わす「お主も悪よの―」の"越後屋的"伝統ある大企業。危ない相手(?)と分っていながら、我が身可愛さと実績作りに、暴力団関係に散々野放図な貸し付けをして結局不良債権化し、回収不能になったからといって"信用不安(銀行が破綻したなら社会的混乱を招く)"を盾に、国の金(国民の税金や貯蓄だ!)で補填してもらっていながら、その挙句に「"Nobless Oblige(高い身分に伴う道徳的義務)"どこ吹く風で責任も取らず"何億!"という退職金をもらっても恬(てん)として恥じない、絹は着ていても「ヴェニスの商人」のシャイロックのような"金貸し根性"」しかない銀行幹部。

まさに官も民も上から下まで「何でもあり!」だ。テレビドラマではないが、「必殺仕置き人」なり、「必殺仕掛け人」でもいて、「あの『(TVcmじゃないが)悪い越後屋(民間)』や『悪代官(官僚)』どもを抹殺でもしてくれないかなー、」とすら思ってしまうこのごろだ。嘘か真か、今流行のインターネット上(だけか?)では、この"商売"は既にある!というのも、この国が根っこから病んでいるということの恐ろしい証明ではある。

例によっての悪い癖で話を大きくすると、これらは全て、明治維新で国を開いて以来、欧米列強からの侵略の恐怖に怯え、先進国に負けまい、追いつき追い越そうと、"個人"を後回しにして、"公(おおやけ―公共、共同体、地域、国)"のために遮二無二に進んで来た日本人が、開国以来初の敗戦を喫したあの太平洋戦争のショックで、個人と公(おおやけ)に対しての"自信と、互いへの信頼感から生まれる、誇りと責任感"を全くなくしてしまった事と大いに関係があると思う。

国と国の境を接して、それこそ今日はこっち、明日はあっちと組む"合従連衡(がっしょうれんこう)"、遠くと交わり近くを攻める"遠交近攻(えんこうきんこう)"、"信頼関係"だけの一本調子ではなく、時に阿諛追従(あゆついしょう-おもねりへつらう-おべっか)し、相手を欺いていて平然と離反する"面従腹背"、などなど自国の利益を第一とし、あらゆるの限りの"権謀術数"をつくして国を存続させて来た大陸の国々。

一方、徳川家康の天下統一(1604)後の元和偃武(げんな・えんぶー注2参照)、1635年の"鎖国"などという、島国だからこそできたのだろう、奇跡的な平和政策(?)や外界との遮断により、三百年の間(!)儒教を国教として"性善説"で国を運営し、民衆を純粋培養して来た我が日本。しかも、その平穏な三百年が日本の歴史学を内省、成熟させたことで、それに続く明治、昭和という世界史的な動乱の時代にも、「"日本"を守らなければ」という強烈な"国家意識"を国民に持たせる事ができ、東洋で唯一、西洋列強の植民地支配を退けることができた日本。

注2:"大阪夏の陣(1615年)"以後、武器を伏(偃)せ戦乱に終止符を打ったこと。

しかし歴史の皮肉というものなのか、逆にその、世界的史的な国際政治(駆け引き)を経験していない、正に"オボコ…世間知らず"の日本人であったが故に、(指導者層が一斉に追放されたという事もあったのだが)たった一度の敗戦のショックにより「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く(注3参照)」とばかりに、極端な臆病と自信喪失の状態に陥った。当然、どこの国の歴史にもあるはずの、良い事も悪い事も含めた"自国の歴史"の"殆ど全て"を否定し、「まったくの"芯"のない状態」で、おりからの"共産主義(注4参照)"と、もう一方の"自由主義・民主主義(注5参照)"との戦いに巻き込まれ、国際政治の波に翻弄され蹂躙され、己を見失い、遂にはあれほど強固だった"日本"としての"国家意識"すらもなくしてしまった。

注3:熱いものを無造作に食べて火傷した者が、怖くなってしまって、冷たいものまで吹かない食べれなくなった事を馬鹿にする成句。

注4:"自由・平等"という言葉は自由主義、共産主義の両陣営が使うが、 "共産主義"とは「"自由な生産"により必然的に起きる需要と供給のアンバランスから生じる"不景気"や無計画な生産が貧富の差を作るから、全ての人間が国家が大局的に計画した経済活動に従事することで、これらを克服し"結果の平等"を実現する。その時初めて、人間は全ての束縛から"自由"になる。」という考え方。 理想論ではあるが、"個性"を持つ人間を一律に管理するために、勢い上意下達で自由のない社会を生み、産業はノルマ第一となり"自己愛・利己心"に基づく創意工夫が生まれず、経済的発展がなく失敗した。(かつてのソ連、中国など)

注5:"自由・民主主義"とは「個々人に自己愛・利己心がある、様々な人間の集合体である"国家"では、"自由な行動"を重んじ、チャンスは"平等"に与えられるが("機会の平等")各人の創意工夫や努力、責任感、能力でその結果、貧富の差が生じてもしかたがない」という考え方。(アメリカ、イギリスを初めとする欧米)これは経済的には成功したが、案の定、国民の10%が全国民の70%の富を寡占すると言う、アメリカをは初めとするして経済的な不平等社会を現出させた。

それによって生まれた社会的混乱を、その後の約60年、今日にまで到るまで引きずり"国家意識のない国家(集団?)"として、国際政治の中で常に、右顧左眄(うこさべん-注6参照)を繰り返し、日本躍進の原動力となった"国家意識"どころか、個人としての自信や誇り、互いの信頼感や、公共への責任感などから生まれる"共同体意識"といったものまでも失った。その挙句の果てが,、個人的レベルの社会規範や道徳心、公共性は忘れ去られ、「法に触れなければ、直接、他人に迷惑をかけさえしなければ、何をして良い」といった風潮を蔓延させた。

注6:右を振り向き、左に流し目をして、周囲の様子ばかりを窺い決断しない事。

"恥の文化"と言われ、自己責任を自覚しつつも、他人の評価をも斟酌しつつ、物事を協調的に進めていた"運命共同体"的な行動原理を捨て,「他人の目は気にしなくて良い,手段は問わない、勝てば良い、儲かれば良い」という多民族、多宗教のモザイク国家ゆえに不可避的に許された"数字至上主義"、"結果万能主義"、"弱肉強食主義"とでもいうべき欧米思想が、この日本でも大手を振ってまかり通る世の中になってしまった。

「もう人に何を言われても気にすることはない。どんな手段でも良い、結果が良ければ良い。何とか人を出し抜いて金を儲け、なるべく人に気を遣わないで気楽な生活をする方法はないか?」と多くの人が,目はギラギラ、ガツガツ、しかし、いつか自分も置いてゆかれるのでは、という不安からのビクビク、オドオドした毎日を送っている。

一層悪い事に、嘗て確実にあった民族の習性(強かった"共同体意識"の残滓)というものは、そう簡単に全部が変わるものではないから、西洋的な、"神の審判"は畏れるが、他人の目は気にしないでどこまでも自己を主張するのと引き換えに、他人には一切頼らないという"自己責任"、"自主独立"という"気概も自覚"もないから、世の中には"恐いものなし"で好き勝手するくせに、結果が上手く行かないと、結局は人に頼る、責任を他人に転嫁するといった都合の良い部分だけをツマミ食いする、最もふざけた生き方が当たり前になってしまった。ここまで来てしまった世の中の風潮を立て直すのは本当に難しいと思う。

年の為、愚痴が多くなってきたのか?閑話休題(無駄話をやめ)し、話を戻す。

日本を立って、11時間半の飛行のあと(だから22時なはずが8時間の時差のため、)21日の14時にドイツのフランクフルト着。それから3時間の待ち時間。17:15に出発し2時間飛んで19:15にスペインの"プラット"国際空港に着いた。ドイツビールの旨さにボーっとして心地良くなり、荷物を取るBaggage Claimの場所が左右に分かれていたのに気付かず、間違った出口から一旦外に出てしまって、一騒ぎ。なんとか説明してもう一度中に入って荷物を取って外に出たのが、20時頃。迎えに来ていた新宿支部の横井、五十嵐の両君はどうかしたかと気を揉んだようだ。市内のホテルまで車で約40分で、20:40、やっとホテルBell Airに到着(成田発10:40でホテル20:40+8時間だから合計、約18時間の旅!フー疲れる…。)

ホテルは"リーズナブル"(安くてまあまあ、とは言いたくない場合には都合の良い言い回しだ!)なのをと頼んでいた。その為か、ガイドブックにも載ってなかったので不安だったが、すぐ近くにガウディの、と言うか最近の日本では"違いの分る"シリーズ(?)で日本人建築家、横尾悦郎氏を起用した、あのネッスル・コーヒーの宣伝で更に有名になった"サグラダ・ファミリア"(スペイン語で"聖家族"の意味)が路地の先にライトアップされていて、なにか幻想的な雰囲気を醸し出していた。

その周りを囲む尖塔は、今18本中の12本目が建築中で、完成するまであと100年!以上掛るという、せっかちな日本人には到底考えられない悠長な話だ。なんせアスタ・マニャーナ(「また、明日」というより、私には「明日で間に合うじゃねーか、ま、焦らないで、ノンビリ行こうよ」に聞こえる)の国だからこの先、何度もこの言葉を噛み締めることになった。

それから、4人で軽く夕飯(日本は朝の5時頃だから朝食か?)を摂りながら現地の武道界の状況や明日のセミナ―の段取りをした。今回のスペイン訪問の目的は三つあって、初めの一つが、格闘技的には発展途上国でも言うべきスペインでは「大道塾」も「空道」もまだ余り知られてはいないので、地元の格闘技イベントでの模範試合を披露して「空道」の知名度を上げ、次回の世界大会への窓口を広げる事。二つ目が、しかしその事だけの為に行くんじゃ勿体ないから、そのついでにセミナーをして正式に大道塾を立ち上げる。三つ目が、首都マドリッドでの展開に繋がるコネクション作りだった。小1時間ほどの打ち合わせの後、ホテルに戻って寝たのが、午前1:00。

平成15年2月22日(土曜日) 2日目
5:00起床。メールをチェックする為にパソコンを繋ごうとするが、海外ではどこでも現地のプロバイダーを自動的に探してくれる"GRIC"というソフトをいれていたから大丈夫だと思ったのだが、それがウンともスンとも反応しない。前回のイタリアの時もそれで苦労して出来ず、仕方ないから日誌付けをしたから、帰ったならパソに詳しい塾生に見てもらっておけば良いものを、日本に帰れば帰ったで目の前の仕事に追われ「喉元過ぎれば〜」をしていた。8:00まで悪戦苦闘するもどうにもならず結局、諦めた。

スペインにて

8時からの朝食のあと、9:00に電車でセミナ―会場へ移動。10:30より14:30まで途中10分ほどの休憩を入れただけで、4時間のセミナー。さて、今回、正式に認可された"バルセロナ同好会(海外認可番号第33号)"。セミナーは前述したようなデモ試合に関連して急遽企画されたもので、果たしてどれだけ集まるかというものだったが、キックの選手やフルコンの黒帯など中々のレベルの参加者があった。しかも、現在数人のメンバーだが、今まで決まった場所がなくジプシー的練習をしていたのが「これからも、交流稽古をしたい」と自前の練習場所を持っている参加者から申し入れがあったそうで、思わぬ成果があったようだ。

15:30より近くのチャイニーズ・レストラン(中華料理屋)へ場所を移して遅めの昼食。「参加者が少なくて申し訳ありません」と恐縮する両君。昨年、高橋英明師範を始めとする新宿支部有志が"種蒔き"をしてくれていたので実現した今回の遠征。当然"物見遊山"に来ているわけではなく、支部と本部でプールしている「大道塾運営費」、いわば"公費"で出張している以上、常に費用対効果(?)は意識しているので私も心残りだったが、「ま、今回はその事だけが目的ではないからそう気にするな"アスタ・マニャーナ!"だ」と、汗を流した後の鉄則に従い(この日は中国料理の定番、青島・チンタオ)ビールで乾杯!

そのうち「良い汗を流して、冷たーい(これは大事だ!)ビールを飲めば料理も美味いし、人生も何とかなる!という私の"人生哲学(!)"が甦り、"心の健康"のほうも回復して来たので、夜のデモ試合の打ち合わせ。寺本師範代の相手に、今日参加していたキックの選手も良いなと思ったのだが、試合の進行を頼まれていたみたいで、横井君がする事になった。やはり異境の地で大道塾を立ち上げようとする位だから、自らチャンピオンの相手をしようというほどの、自覚と責任感と、そして、そんなに"武張って"見える人間ではないのだが"度胸"も十分に持っている男だ。やはり"艱難(かんなん)汝(なんじ)を珠にする(苦労が人間を向上させる)"は蓋し名言だ。

17:00会場入り。鳴り物入りで行われた前回のラトビア遠征(2002 Baltik Wars参照)とは逆で、ウチの「空道」はまだ知られていないということだろう、一番最初にと言う事だ。一寸"ムッ"と来たが「空道」を見せさえすれば必ず強烈な印象を与えられる、との自信があるので、(観衆さえいるなら、どこでやろうとも)"没関心(メイ・グァンシン)構わない"だ。その観客の入りは、「土・日は仕事をしてはいけない」という法律がある"スペインの土曜日"!しかも「いまいち格闘技に熱が・・・」というバルセロナで、その上に今回はなんかの祭りがあったにも関わらず中々の盛況で、1,000人強の観衆が集まった。

はじめに選手紹介と、ルール説明をして試合開始!見慣れない異様な面をつけた、着物(キモノ)姿(道着は英語圏では"ギ"、それ以外では"キモノ"が普通)の選手が登壇すると、始めは戸惑っていたような観客だったが、突き、蹴りは勿論、頭突き、肘打ちの打撃技で、スーパーセーフを叩くたびに、バシ!ガツ!と激しく音が出る。その上、寺本得意の豪快な腰投げや足払いで大きく空中へ舞わし、畳に叩き付ける!更に、投げては速攻の締め、関節とあらゆる技を使っての攻防に、観客は直ぐに身を乗り出す。横井も負けじと果敢に前に出て打ち合う。とはいっても現チャンピオン。いつまでもフルでやらせて怪我をさせるわけには行かないから、後半で投げからの決め、関節が決まった所で「一本!」を宣すると、観客は大喝采。案の定、大きなアピールになった。その後は、次回のWARSの折にでも使える選手がいるならと思って10数試合見たが、これといったものもないので19:30に熱い視線を背中に感じながら会場を後にした。

その後は"アントニ・ガウディ"始め多くの建築家が、その才能を誇示した建物の多い"グラシア通り"と市の中心部、"カタルーニャ広場"の交差点近くでタクシーを降り、私の卒論(一応、英語学部、エヘン!)である、「Of Human Bondage(人間の絆)」の作者、サマセット・モームが「世界で最も美しい通り」言ったといわれる、プラタナスの並木道、"ランブラス通り"へ。地元の散歩をする人や、これで売り出そうというのか、パントマイムのパフォーマンスをする大道芸人達で大賑わいだ。中央分離帯だけではなくその両側にも、多くの土産物屋が建ち並ぶそこはまた、今ではスリやカッパライで有名な道でもある(人の良い、別名、"警戒心の少ない"日本人が狙われやすいそうだ)。

前回、この通りでは良く売っている"馬に乗った騎士像"を値切りに値切って元値の1/3で買い、意気揚揚と"勝利宣言"をし、その余韻を再度味あおうと、少し先の店に入ったところ、同じ物が(とは、思いたくないが)、なんと、始から元値の1/2(!)で売られていたのを発見し、一気に嫌な気分になった思い出があるから、何も買う気がしなかった。隣の通りのエル・コルテ・イングレスという大きなデパートの地下に入り、土産漁り。スペインと言えば、生ハムというのが定番だが、現地で食べるならそうだが、土産物としては持出しが難しいとの事で、是が最近では人気ですとのサラミ・ソーセージを買った。

21:00、アフリカからの移民が多い何とかという路地に入った。日本の観光客などは怖くて入れない、などという話しを聞いたものだから余計にあたりを睨み付けながら"道の真中"を大きい顔をして歩き、とある汚い、しかし"通"には有名な店に入った。名物の鳥の丸焼きを食べたが、是がまた評判通り美味い!「やっぱり地元の人間と歩かないとこういう店は見付けられないなー」と感激しながら食べた。しかしこの鳥、美味しいとはいっても、昼にタップリ食べたからもあるのだが演武をした寺本にさえ、大き過ぎて半分しか食えなかった!その他に2,3品別な料理を取って、4人でたらふく食べて、ビールをがぶ飲みして、なんと、75ユーロ。掛ける130円として、日本円で計9,750円。まんぞく、まんぞく、で、ついでに"まんぷくー"。

23:00、ホテルへ戻り、横井君にパソを繋いでもらったので、やっとメールが読めた。1日大体100通前後は来るから、チョット溜めると大変な事になる。"美人"秘書が欲しいなー(駄目だろうなー、やっぱり)。中に、東北本部の佐藤剛師範代から先日の「全国運営会議の議事録」がきていたので、少し読みやすく縮小して2:30就寝。

(これで日誌は、まだ2日分か、フー!読むほうも疲れるだろうが、書く方も疲れる。でも"下手の横好き"で、トロトロとパソコンを叩いて文章を練るというのは指の運動にもなり、最近怪しくなってきている記憶力の維持(?誰だ、「そうだ、そうだ」とは?)即ち"ボケ"の予防に良いし、中途半端に知ってる事を整理したり、再確認せざるを得ないので結構楽しくて時間潰しに良い。その上、体の疲れには、逆に神経を刺激した方が回復が良いので"一石三鳥"だ。ま、暇な人は付き合ってください。)

平成15年2月23日(日曜日)3日目
5:30起床。今日は"スペインの日曜日"という事で8:00までメールのチェックと返事。食事後は、両君の案内で寺本は市内観光。私は以前に一度見てるので続きの仕事。14:00に、バルセロナの内湾、ポルト・ベイのコロンブス像の前で落ち合い、昼飯と決めていたので、13:00にホテルを出て、サンジョアン通りから、ディアゴナル通りに入り、中世の城のような"ラスブンシャス集合住宅"を右に見ながら、グラシア通りに到り、約一時間掛けてトコトコト下り、カタルーニャ広場・ランブラス通りに着いた。

注:19世紀から20世紀初頭のバルセロナは、貿易で栄えたスポンサーからの依頼でモデル・ニスモという、(私見だが)人間の体・骨組みを感じさせるような曲線や構造で、官能的・蠢惑(こわく)的に迫り、ドキッとさせるような不気味で不思議な感覚を呼び起こす建築・芸術様式を代表する建物が多く作られた。"ガウディ"の代表作とも言える、カサ(家)・ミラや、カサ・バトリョ。ガウディに続く、ドメネクのカサ・リェオ・モレラ。第三のジャゼップ・ブッチのカサ・アマトリュー等などが有名。

通りでは例によって、様々なパフォーマンスが行われていたが、中でもパントマイムの定番とも言える、チャップリンのもあったので暫らく足を止めデジカメの動画で撮った。あまり上手くはなかったが。通りをもっと下ると"カードめくりのいかさま博打"が行われていた。当然、仲間の"サクラ"を相手にしてると思うので、誰も引っ掛からないだろうと見てたが、始めは勝たせてくれるので、そこでやめれば良いやと思いながらも、もう少し、もう少しと言う欲が出て最後は引っ掛かる。他人事だからだが、これが人間臭くて面白い。

そこを過ぎ"海のランブラス"と言われる、開門ならぬ回転桟橋を渡って、マレアグナムというショッピングセンターの上のレストランで、14:30位から昼食。イカ墨のパエリア(混ぜご飯)、ムール貝(カラス貝)のブイヤベース(魚介類にサフランやニンニクなどで味付けしたスープ)、サーモンのカルパッチョ(酢とオリーブオイルなどを和えたもの、フランス料理のマリネ)等など、の新鮮な海の幸を食材にした料理を食べながらのビールが美味い!ここまで歩いたのは、正解だった!

グエル公園

16:00、その後は、市内を見下ろす山の方にガウディが手掛けた庭園住宅地の跡であり、スポンサーの名前をつけた"グエル公園"へ。近くの駅から山の上までは急勾配の道が続き結構良い運動になる。この公園は足の便が悪く、二戸しか売れなくて結局、市に寄贈されたそうだが、この中にある広場の入り口や、それに続く柱廊やベンチ、広場を支える柱の間のコラージュには、幻想的な造型と色彩が調和していて、まるでおとぎの国を思わせるような雰囲気を醸し出している。

しかし、俗物の私らしく、この公園の頂上にある小高い丘から市内を見下ろして思ったのだが、ガウディに多くの建築物を依頼したグエルという人の一族は今どうしてるのだろうか?今も裕福なのだろうか?良く、有名になった芸術家や政治家には必ずと言って良いほど、その当時の富俗なスポンサーが付くものだが、自分の発見した人材を世に送り出す為に、湯水のごとく金を使い最後は、大概没落している。隣の横井君にそんな事を言った所、「ま、短い人の一生で、なんにせよ名を遺す事が出きれば、それはそれで良い一生だといえるのではないでしょうか」という返事だった。

  私は若い時に経済的理由で悔しい思いをした事が、一再ならずあるので余計こんな下世話な話を思い付くのだろうが、「本人はそれで満足だとしても、『グエルお祖父さんが、ガウディなんかに入れ込まなければ、私達がこんなに苦労することはなかったのにねー』と言っている子孫もいるんじゃねーか」と寺本に振ったなら「先生はそんな事まで考えてるんですかー」と笑っていた。俺って、やっぱり芸術には「縁なき衆生」だな―。それでも公園の出口で画学生風の若いのが絵を売ってたので、俗っぽいことを考えた罪滅ぼしに10枚ほど買った。但し、値切って(笑) この日は昼に食べた海鮮料理で腹一杯だったので、夕食は要らないとなったので、23:00に消灯。

平成15年2月24日(月曜日)4日目
3:30起床。昨日見て歩いた事物はその場、その場で説明してもらっても、どうしてもキョロキョロしながら聞くだけだから、その"いわれ"やバックグランドが、イマイチ鮮明にイメージできない。なんか消化し切れていない物が残っている胃袋みたいに気持ち悪い。それに、明日、訪れるマドリッドでは日本人の知り合いはいないのだから、予備知識を仕入れておく必要もあるので、ガイドブックの研究。

6:30、寺本を起して近所の"Dir(ジル)"と言うジムへ(ややこしい)。バルセロナでは一番大きいらしく、広々としたフロア―には数十台のマシーンがおいてあって文句なし。7:15、いつものように自転車からだが、ウッカリして読み物を持ってこなかったので40分が長いこと長いこと!それでもなんとか頑張って、次のベンチプレスへと進み、その他も種々こなして、9:30まで2時間強。

シャワーを浴びての帰り、折角だからと少し回り道して、銀行家のパウ・ジルの遺産で、第三の男(?)ドメネクの手によって立てられた世界遺産にもなっている"サンパウ病院"へ回り写真。丁度、その病院への道の反対方向には"サグラダ・ファミリア"が朝日に映えてその全容を見せている。絵になるね―。10:00、ホテルに帰還。部屋に荷物を置いて、すぐにそのまま朝食。

11:00から14:00までパソ。その後、まだ見ていない旧市内に行った。先ずは、最近バルセロナでも流行って来たという、日本の回転寿司とは反対に客本人が歩きまわって、小さなパンの上に、カニ、エビ、生ハム、野菜、チーズ、卵などが乗った仏語で"カナッペ"(食パンやクラッカーに乗せる前菜)、スペイン語では"ピンチョ"を食べるというスペイン北部バスク地方の"立ち食いバー"は、先駆けてる気がするからなおさら美味い。当然ビールも美味い。

腹ごしらえができた後は、1493年、アメリカを発見したコロンブスが、イザベル女王に謁見した"王の広場"や、地中海貿易が盛んだった頃、海の男達の拠所だった"サンタ・マリア・デル・マル(海の聖母・マリア)" や"カテドラル(大聖堂)"を見た。(全体的にヨーロッパでは "○○大聖堂"という言い方はせず、ただ"カテドラル(大聖堂)"なので、それを固有名詞だと思っていると、他所でも同じ"カテドラル(大聖堂)"に出くわし当惑することがある。事実この後のトレド訪問でも"カテドラル"があった。)

カテドラルの裏手では、なんと、プロのオペラ歌手、Pilar Rodriguez(ピラー・ロドリゲス、とよむのか?)が、綺麗な声で"アベ・マリア(マリアに幸いあれ)"を歌っていた!失礼かとも思ったが、夢中でデジカメをこれも動画で回した。今、教会へのチャリティーを兼ねた3月17日のリサイタルの練習をしているとのことなので、心ばかりの協力をさせてもらったところ、逆に喜んで一緒に写真に入ってくれた。市歴史博物館の前ではクラシック・ギターがタレルガの"アルハンブラの思い出"を奏でているし、今日は昨日と違いなんか、芸術づいてしまい気分は、超・ハイソだ。!

「アルハンブラの思い出」:1896年、名ギター奏者として知られたタレガの作曲。ギター曲で、13から14世紀に建立された、イベリア半島グラナダにある、最後のイスラム王朝ナスル朝のアルハンブラ宮殿の印象を優雅に描いたもの。

しかしその後は、すぐ又、現実に戻って、"値切りの魔王"に変身し、土産物買い。私が海外に出るのを億劫がらないのも、すぐ上の兄貴が若い頃、今は三井船舶となった大阪商船に乗っていて、海外を回り世界のいろんな所の風景を、当時は珍しかったスライドにして皆に見せたから、余計海外が身近だったのだろう。普段は大阪に住んでいたこの兄貴が、たまに帰ってきて、当時私が狂っていた野球のグローブやバットなんかを良く買ってもらったものだが、気仙沼だというのに、絶対に値切って買う。当時"も"、私は純真な田舎の中学生だったから、恥ずかしくて、やめろよ!と言ったものだが、大阪に住んでいて、しかも、世界を歩いていた兄貴には、値切るのは当然と言う感覚だったのだろう。「馬鹿!これはゲームで、ダメモトなんだ。ましてや海外では、売る方は日本人には何倍もの値段を吹っ掛けているんだぞ」と良く言っていた。

19:00頃、夕方になったので、一旦ホテルへ戻ってレストランが開くまで部屋でパソ。連れて行く若い連中は、珍しい事もあるのだろうが通常地元の、という事は、主に脂っこい洋食を食べたがるものだが、寺本は以外と早く「日本食が食べたいですねー」と言い出したので、20:00近くの「千羽鶴」という日本料理屋へ。が、ここは中国人が経営しているらしく、中居さんは長襦袢みたいなのを着て歩き回るし、掛けてある絵もなんか微妙に"違う"ので、なんか落ち着かない。結局、日本料理は割高なので日本人でなくても経営する妙味があるということや、しかし、海外まで行って冒険しながら日本レストランで働こうなどと言う日本人はいなくなり、日本人は"食う方"に回る人が多くなってきているという事か。それにしても4日ぶりの刺身や、揚げ物、カツ丼、うどん、おしんこ、と飢えたように日本を掻き込む。日本食はどこでも一、二番に高いので、そうそう行けないのだが、明日はマドリッドへ移動するので、地元でいろいろ気を遣ってくれた横井、五十嵐の両君へのお礼も兼ねてガッチリ食った。

0:30にホテルに戻り、それから3:00まで掛って荷物作り。明日は10:40の便だから焦る事はないのだが、簡単に見えても当日になると以外と気が急いて、忘れ物などをしてしまうものだから、前日に必ず殆ど準備をしておくのは、私の"世界戦略"だ。

平成15年2月25日(火曜日)5日目
5:30起床。8:00までパソ。8:45まで朝食。9:30横井君が迎えに来て、空港へ向かうが、あいにくの雨で、市内は東京に勝るとも劣らない大渋滞。環状線に乗ったが、同じ。空港まで一時間も掛って10:30到着。発券所で10:40に間に合うか?と聞いたなら「国内線だから、ギリギリセーフだ」との事。急いでチェックインカウンタ―に移り荷物を預ける。手荷物検査所に急ぎ、代わりに持っていた寺本の肩掛けバッグをX線に通した所、即、「チョットこっちに来て下さい。武器を持ってますね?」と来た。「冗談言うな!」と思って見ると「これは何ですか」と、明かにナイフの影!エーと寺本に質したところ「こっちで貰った物です。まずかったのでしょうか?」と!いや、そりゃまずいでしょうよ!「それにしても、チョット忘れてたんだから、要らないから捨てくれ」と言っても「いや、事務所まで来て下さい」と譲らない。「時間がないんだ」と言っても駄目。そこで横井君に何か言ってくれと振り向いた所、「友人がいるのなら彼にやれば良い」との事。最初からそう言えよ!とばかりに、そそくさと渡して、搭乗口の列に並ぶ。フー、やっとこれで乗れるか、と持ったのもつかの間、チケットを渡したなら、これでは乗れませんと来た!エーッ、またかよ!今度は何だと思ったなら、チケットの時間が11:40となっている。発券手続きの人間が「間に合う」と言ったのは11:40の事か!アホくさー。

一時間遅れの上に、飛行機自体も30分も遅れたので、12:20にやっと離陸し、マドリッド"バラハス"国際空港に着いたのは13:45。出迎えてくれたのは、以前からメールをくれていたSebastian(セバスチャン)という22歳のフランス人。こっちにはビジネススクールでコンピューター関係の勉強をしに来ているとの事。早速タクシーでホテルへ。ここでは近くにジムのあるホテルと言うのは見つからなかったので、ホテル内にジムがある所という条件で探したなら、グランドプラザ・マドリッドという、スペイン広場前の高級ホテルを紹介された。勿体ないがしょうがない。トレーニングは休めない。14:15に着いて、早速14:30からそのジムに行って見たが、昨日のと比べると、ジムとは名ばかりのものだった。

それでも自転車で足を固めてから、コンビネーション・マシンで上体を一通りやった。その後、「ランバーなんとか」という、イスラエル軍の"最強"護身術をやっているが、今回、是非大道塾を体験し(納得したなら?)マドリッドに広めたいといっていた、Sebastianの動きをチョット見てから、寺本と軽くマススパーをさせた。「私は顔面はまだやった事がないので、フルコンルールでやりたい」というので、寺本にそう指示したが却ってヤブヘビだったみたいだ。後でしきりに足を引き摺っていた。16:00までやってサウナに入った。運動あとだから余計に良い汗だ。

17:00より、1808年にスペインに進出していたナポレオン軍に市民が立ち上がったが、一日で鎮圧され翌、5月3日、同所で処刑された(ゴアの絵でも有名)という、マドリッドの中心地、"プエルタ・デル・ソル(太陽の門)"。そこから歩いて、かつては祭りや、闘牛、異端尋問、絞首刑、国王の宣誓式、結婚式、などあらゆる「見世物」が行われたと言う"マヨール広場"を見て、地下鉄に乗り、パリのルーブル美術館、ロンドンのナショナル・ギャラリーと並ぶ"プラド美術館"へ。

ここにはエル・グレコ(「胸に手を置く騎士」)、ラファエロ(「子羊の聖家族」、ルーベンス(「三美神」)、ベラスケス(「ラス・メニ―ナス(女官たち)」、ゴヤ(「裸のマハ」、「着衣のマハ」、「1808年5月3日」と言った超有名だが、中学の美術の時間には退屈でどうしようもなかった絵画が、8,000点も所狭しと並んでいる。相変わらず、美術的にはどうかは分らないが、しかし、年の功で様々な観点が出来たからだろうか、全然、飽きもせずに見ていられた。時間があれば、もっともっと見ていたかったが19:00が閉館というので心残りだったが出ざるをえなかった。

ずっと案内役を買ってくれたSebastianへのお礼という意味で、ここでもまた、日本食レストラン"どん底"へ行った。日本食は始めてだという事だが、箸の使い方を覚えたりして興味深々の様子。「『武道』とは何ですか?『格闘技』とはどう違うんですか?」と矢継ぎ早に質問してくるので、「武道」は一生を通じて自分の拠所となるものを磨き続けていくもので、ただ、強いだけでは若い時が華の"スポーツ"でしかない。年を取っても人間的に向上しようという気持ちがなければ虚しくなるし、"頑なさ"だけを引き摺る事になり、逆に社会の大きな迷惑になるんだから、そこを忘れてはだめだ」と言った所、「その考えは私の考えと全く一致してます。いつか絶対に日本に行って大道塾を学ぶ」と目を輝かせていた。

隣のテーブルでは日本人らしい若者が一人で、チラチラとこちらを気にしながら、黙々と箸を動かしているので「こっちに来て一緒に話しながら飲まないか」と誘ったなら、「良いんですか」と遠慮しながら移って来た。学生の卒業旅行で、これからアフリカのモロッコへ行く予定だが、日本食が食べたくなったのでが、なるべくお金を使わないようにと思って、定食だけを食べに来たとの事。「ほんじゃ、ま、一杯やれよ」と焼酎を勧めたなら、実に美味そうに飲むので、飲ませ甲斐がある。

案の定、この年代は洋の東西を問わず、大抵、格闘技や武道の話は好きで、いろいろ質問してくるので、最近の話題を教えたなら、エーっ!という顔をして驚いていた。格闘技や武道は日本社会ではそれほど重宝されてはいないが、こんな風に、格闘技や武道の青少年に与える影響というものは本当に大きい。自戒すべき事である。結局24:00過ぎまで歓談してホテルに戻ってメールのチェックと返信で2:00に就寝。

平成15年2月26日(水曜日)6日目
今日はこれといって予定はないのでオプショナルツアーを申し込んで史跡巡りとした。大抵、海外セミナ―の場合は、旅費の倹約と時間の節約の為にも一回の訪問で土日を利用して、2ヶ国回るのが普通なので、アジアは別にして、ヨーロッパの場合は大概2週間の滞在になる。しかし、かといって、ヨーロッパの国々では日本みたいに、「休日だから何かをしよう」などという考えは基本的になくて、休日は文字通り"休む日"である。それでもいろんな流派団体を経験、比較できる"セミナー"なので渋々出てくるといったところだ。ところが、今回はどこもかしこもが、カーニバル前後の浮かれ気分で、とても日曜日はやる気にならないというので、土曜だけしかセミナ―はない。たった二回のセミナーの為に2週間も、とは思うが、往復で3日ずつ掛るから計5,6日は空の上だ。現地に着いてからも、旅装を解いたり、その逆に出発の準備をしたりの煩わしさや、時差も関係するので結構な体力的消耗がある。更に、その度毎に、同じ位の旅費が掛ると思うと、ここは現地での時間を有効に使うしか手はない。

だからパソは必需品だ。インターネットなどという恐ろしいほどに便利なものが出て来たから、どこにいても情報は手に入るので、それなりに仕事は出来る。だからこれが繋がらない時は最悪だ。しかし一方、逆にこれが便利過ぎて、本を読まなくなり、仕入れた知識、情報を自分なりに吟味する習慣が無くなる危険性があると言うのも確かなので、その時はその時でこれ幸いと普段出来ない本読みをする。

すると、いかに最近まとまった本を読んでいないかに否応なく気付かされ、愕然とする。人の知らない情報、知識を手に入れるということは、こういう「何事も時間との勝負」といった時代には重宝なものだが、逆に文字を追って行く時には可能な、ページを行きつ戻りつして思考を巡らせたり、自分の考えを掘り下げ、判断力を磨いたり、自分なりの信念を形成するという事が疎かになる。その結果、薄っぺらな情報は沢山持っているが、事の是非を判断する力がないから、次々と入る大量の情報洪水に流され右往左往するだけの人間になってしまう。ファッションに限らず、最近の全ての流行が目まぐるしく変わる現象を見ていると、正にその意を強くする。

手前味噌になるのだが、そのためにも文章を作る、練るという"手作業"が大きな意味を持つ。情報を伝えるだけでは単なる情報の伝達文や、紹介文に過ぎないし、中々、行を埋める事は出来ない(笑)。その上、言うと同時に雲散霧消する言葉と違って、文章で情報を伝達しようと思えば、"見栄"から言っても、後々まで残る言葉や情報に誤りがないかの"選別、吟味"が必要になり、否が応でも自分なりの判断力や基準が要求される。そんな事をしている内に、いろんな情報が混在しハッキリしていなかった自分なりの考えが、徐々に自ずから整理でき、明確になるので、単なる情報には振り回されなくなる。

それともう一つの時間の潰し方は、折角いろんなところが見れるのだから、その地での史跡巡りをすることだ。ガイドブックの手引きとは言え、過去の人間の営みを、改めて振り返り、現代にも繋がる何かを得て、更に興味を引く事があれば、より積極的な"それなりの本"への意欲が沸いてくる。もっと単純には、昔の英雄豪傑に思いを巡らせ「今、俺は同じ場所に立っているんだ」と歴史のロマンを肌で感じ、ともすれば日常に埋もれて失いそうになる、勇心や雄心をもらうのは、この上ない贅沢な喜びだ。

そんな事で何の予定もない今日は、始めての地という事も有り、寺本も一緒だったので、午前中はマドリッドの北方、海抜1,000mの高地にあり、15世紀にスペインの前身、カスティーリャ王国の中心地だった、セゴビアに行った。セバスチャンの勉強を邪魔するのもなんだから、2人でツアーを申し込んだ所、なんと大型バスに乗ったのは、我々の他には卒業旅行できていた女子大生2人だけだった。(寺本、大喜び!) お蔭様で、ガイド暦20年のT・Mさんは、こちらで囲碁の先生をしているという事もあって、外国人に教える楽しさや難しさなど、共通した話題をきっかけに打ち解けてもらい、様々な質問が出来たが、嫌な顔もせず丁寧に答えて頂いた。セゴビアではパックス・ロマーナの遺産、ローマ水道橋や、ディズニー映画[白雪姫]の城のモデルとなった"アル・カサール"(カテドラルと同じで、スペイン語でただの「城」)等を見た。午後は逆に南方のトレドで、中世そのままの町並みに入りタイムスリップしたような気分になった。

今こそ首都はマドリッドだが、ヨーロッパとアフリカ、地中海と大西洋を結ぶ、ここイベリア半島は過去何度も多くの民族が侵入して来た。(これは半島国家の宿命みたいなものだろう)紀元前264年から紀元前146年にわたるローマ共和国とカルタゴ共和国(現在のチュニジア)との3度に及ぶ、"ポエニ戦争"の第二次戦争(前218−前241)で、カルタゴの名将スキピオが同じく名将ハンニバルを前201年に倒して、ローマが勝った時は、いわゆるパックス・ロマーナ(汎ローマ主義)の中にあり、セゴビアには今でももっとも綺麗な形のローマ水道が原形に近い姿で残っている。その後、衰退したローマに変わり、ゲルマン民族の大移動で、原産地はスウェーデン南部で、2世紀頃に南下した西ゴート族が、4世紀末にトレドに首都を置きキリスト教を国教として統治したが、711年には今度は北アフリカから、イスラム教徒が攻め寄せ、756年にコルドバに首都を置いた。

イスラム教徒はキリスト教徒を寛大に扱ったが、アラゴン王国のフェルナンド皇太子と、カスティーリャ王国のイザベル女王の結婚を機に、1492年イスラム最後の砦グラナダのアルハンブラ宮殿を陥落させ"レコンキスタ(キリスト教徒による、国土回復運動)"を達成した。スペインはその孫の1516年に即位した、カルロス1世(神聖ローマ帝国カール5世)の時代に黄金期を迎える。1519、コルテス、メキシコ征服。マゼラン、マゼラン海峡発見、1532、ピサロ、インカ帝国征服。1571、レパントの海戦でオスマン・トルコを破る、等などである。

しかし、「太陽の沈む事なき帝国」といわた、スペインも、オランダ独立戦争の時、1588年のアルマダ海戦で無敵艦隊がイギリスに負けたのを機に勢いを失い、その後イギリス、フランス、オランダなどの干渉を受け、1701年のスペイン継承戦争で更に衰退し遂に、1898年、アメリカとの米西戦争で全ての植民地を失った。しかし、この時期は祖国再生運動が活発化し、前述した、カタルニャー地方のモデルニスモのガウディやピカソなどを輩出し、様々な芸術が開花した時期でもあった。1914の第1次世界大戦には不介入したが、国内はアナーキスと、社会主義運動者の対立した。その後、第二次世界大戦の前哨線とも言われたスペイン内戦が起こる。1936年、フランコ将軍がモロッコ軍を率いて人民戦線(共和国)政府に反乱を起し、ドイツ、イタリアの援助で、1939年、独裁政治を確立した。

この内戦では100万人の死者が出たといわれたが、多くの作家や文化人を始めとする、"国際義勇兵"が政府(共和国)側に参加した。報道写真家として"ロバート・キャパ"が反乱当初の市街戦から,空襲される都市,国際義勇兵の奮戦模様と多くの犠牲者の悲惨さ,最終局面での敗残兵,難民の脱出までを、単なる記録として以上に、果てしない破壊と悲惨、そして、そこに苦悩する民衆や兵士一人一人を個性ある人間として描きとり、新たな報道写真の世界を開いた。また、この戦争に自ら参加したアーネストヘミングウェイの小説「誰(た)が為に鐘は鳴る」は映画にもなり、戦争と人間の問題を考えさせた。最近では、少年の目で内戦の悲惨さを訴えた映画「蝶の舌」がある。

平成15年2月27日(木曜日)7日目
4:00起床。昨日は早く寝たので、朝早くから腹が減って、とても朝食まで待てないので、持参したカップヌードルや味噌汁にお湯を入れて腹を塞いだ。やっぱり我々の年代では肉中心の食事は3日くらいまでは良いが、それを過ぎると日本食が恋しくなる。7:00までパソ。7:00より9:00までトレーニング。10:00まで朝食を摂って、目の前のスペイン広場の「ドン・キホーテ」(セルバンテス作)像前で写真。「同じように俺は見えない敵をめがけて、風車に突っ込んでいるのかな」と思うような時もあるからではないが、舞台となったラ・マンチャ地方も尋ねてみたかったのだが、時間がないので今回は見送り。11:00空港へ。今度はチケットも日本で手配していたものだし、寺本も刃物類は持っていないようなので(笑)チェックイン(搭乗手続き)、パスポート・コントロール(出国審査)と全て問題なく、順調に12:40マドリッドを後にした。

今回のマドリッド訪問の成果は、別に、歴史の勉強をしただけではなく(笑)、ここに拠点が出来る事で、以前は申し込みがあったが、南部過ぎるということで足を踏み出せなかった、セビリアやグラナダへも繋がるし、大道塾にとっての未踏の地、アフリカへの足掛かりが出来た事だ。上記の「誰が為に鐘は鳴る」のヒロイン、世紀の美女、イングリッド・バーグマンのもう一つの傑作「カサブランカ」の地、モロッコや、ピラミッド、エリザベス・テーラー、ソフィア・ローレンのクレオパトラのエジプトは目の前だ(笑)。

約2時間のフライトの後、14:25ドイツ、フランクフルト空港着。タクシーを掴まえて、今日のホテルへ向かった。15:00チョット前に到着して荷物を開いてすぐパソを繋いでみたが、繋がらない!何度もフロントと掛け合っても埒があかない。ここには渡辺正明・大阪北同好会、責任者・師範代の友人で大道塾でも稽古していた増岡君がいるが、仕事が多忙だということなので、無理をしないで良いと言っていたので、15:40、二人で町へ繰り出してみようとなった。彼はそのすぐ後に来て後を追い街中を探したらしいが、糸の切れた凧みたいなものだから、あっちに行ったりこっちに来りの我々は、掴まらなかったようだ。お蔭でと言うのも変だが、二人で生のフランクフルトを十二分に味わう事が出来た(後述)。

フランクフルトは、ドイツの商業、金融の中心地で、この街を拠点にして、かの有名な"ロスチャイルド家"はヨーロッパからアメリカまでの一大ネットワークを張り巡らしたのだ。又、「若きウェルテルの悩み」(注)や「ファウスト」(注)などで知られる文豪ゲーテ(1749-1832)の生まれた街で、欧州中央銀行の向かいの公園にはその銅像もあった。その活動が常に同時期のゲーテと比較された、年末の風物詩、ヴェートーベンの第9交響曲「歓喜によす」の詩や、戯曲「ウィリヘルム・テル」などで知られる、詩人・劇作家・歴史家のシラーの銅像が、州立中央銀行の前にあったのはなぜか、面白かった。

注「若きウェルテルの悩み」:友人で今は人妻となっているシャルロッテへの恋情を抑えきれずに自殺を選ぶウェルテルの心情を文学にした。文学史的には、人間の精神世界を描き文学の新境地を開いたといわれる。

注「ファウスト」:老哲学者ファウストが学問に明け暮れた人生に疑問を感じ、若さと快楽を得るためにあの世で悪魔に仕えると約束し、人生のあらゆる快楽を得るが、結局、良心の呵責にあい、最後は地獄に落ちる。

注「ウィリアムテル」:オーストリアの圧制に苦しむスイス国民と、独立を目指して立ち上がったウィリアムテル率いる義勇軍の活躍を描いたものです。悪代官につかまるが、愛児の頭の上の林檎を射抜き、後には代官を射殺する。

金融も文学もあまり我々には関係ないが、ニュールンベルグでのセミナーも土曜日一日だけなので、残り4日も手持ち無沙汰をしてもしょうがないし、普段は単なる通過地点である、フランクフルトも「犬も歩けば棒に当たる」で何かの足しになるかもしれないので、散策してみようという下心もあった訳だが、(チョット後で、正にそうなったのだが!)それにしても寺本と二人で「今回の遠征は良く芸術づいてるなー」と笑った。

一応のチェックポイント、パリのオペラハウスをモデルにした、アルテ・オペラや、3連の切り妻屋根が美しい旧市庁舎のある、レーマー広場に行き、例によっての"滞在証拠写真"を撮る。ユダヤ人街記念館にも行ったが、時間に間に合わなくて入れなかった。18:00、計画通りに喉が乾いて来たので、ガイドブックには載っていない飲み屋に入ろうと、レーマー広場に来るまでの通り道にあった何とかというイギリスでいうパブ風の居酒屋に入った。折角だから本場のと思って、フランクフルトソーセージを注文しても通じない、悪戦苦闘してそれらしい料理を頼んだ。しかし、ビールだけは狙い澄ました、これぞドイツと言う"ヴァイツェンビール"を頼んで一機にグイーと!ウメー!「やっぱりビールはドイツの"ヴァイツェン"だ」などと、肴の影響もあるのだろうが、日本で飲むそれのしつこさに辟易していたくせに、日頃の"モルツ党"を早くも解散しかねない勢いた。

広場

良い心持ちになったところで、「ドイツにも日本の誇り高き文化である、"カラオケ"はあるはずだ」と、店員に聞いた所、中国人向けと、イギリス人向けのだけで、日本人向きのはないとの事。ドイツで「大利根無情」や「一本刀の土俵入り」も良いが(最近、滝田支部長にオハコの「俵星玄蕃」を盗られたので、こっちを持ち歌にしようかと思っている)なければしょうがない。この際(どの際だ?)なんでも良い。なにー、イギリス人向けだー?上等じゃないかー、やってやろうじゃないか、カラオケに国境はない!第一、この"国際人"(酷差違人―酷く違ってる人、か)?に向かって、その言い方はなんだ。"大和魂"を見せてやるとばかりに、タクシーを呼んでもらって、いざ鎌倉!(完全に"違っている"か?)  乗り込んで見れば、20:00にならないと開かないと言うので、肩透かしを食ったような感じだったが、暫しカウンターで一杯。この敵状視察が良かった。みればイギリス人だけあって、みんなタッパがありカッコ良いが、根性はなさそうだ、と勝手に決めつけて(笑)、いざ出陣、じゃない出演、でもないか"出炎"だ。はじめは5,6曲黙って聞いていたが、あまり盛り上っていないので、早速、カラオケの国の達人の芸を見せてやろうと、小生の定番、My way と 寺本のなんと!Hey Jude!を歌った。

これが大いに受けて、(発音や、言葉の明瞭さの為でしょう!当然)で全員の注目を集めた。司会者は、我々を煽てればどこまで乗るかも知らないで、「始めての日本からの素晴らしいゲストです!」てな事を言っていた。今日、始めてという事かこれまでで、と言うことまでは聞き取れなかったが、この一言で「完全に会場を制圧し」マイクを独占、それから二人で10曲前後は歌って、"大和魂"をアピールして来た。会場はヤンヤの喝采!(だと思う、少なくとも私の英語力では「ヤメロー!」には聞こえなかったから)

席に帰ると「いつ来たの、何をしてるの」と聞かれるので、かつて日本にあった柔ら(やわら)という、空手と柔道と合気道のルーツのようなものを、現代風に再生させた「空道」という、"総合武道"を教えていて、これからニュールンベルグでセミナ―だと言った所、たちまち目を輝かせて、「ここでもしないのですか」と来た。要望があればするぞ、と答えたところ、是非、名刺が欲しいというので渡した。ま、これ又ダメモト「人生万事塞翁が馬」、「下手な鉄砲も、数撃ちぁ当たる」である。どこで人の繋がりが生まれるか分らないので、楽しみに行ったのに、チョットした端緒でもつかめた事は、充分に"費用対効果"を期待出来るのではと自分を納得させた。歩いて帰る途中にチャイニーズがあったので例のチンタオ・ビールと餃子、ラーメンと、大道塾式飲み会の最終コーナーと同じセレモニー(?)。ホテルに戻ったのは2:00。

平成15年2月28日(金曜日)8日目
5:00に起きたが、パソが繋がらないので、これまでの行動を確認しながら手帳を付けたが、本当に良く忘れている。「あれを見た後は何があったっけ?あの時、街の時計は確か何時を指していたから、その前のあの時は何時だよな?」てな具合に連想ゲームをしなければならない。寺本がいれば聞けるのだがまさかこんな時間には起きてないので後で確認するしかない。10:00に迎えが来た。聞けばカーニバルの影響で車が全然動かないというので、タクシーに乗り、フランクフルト駅へ。駅でチョット時間があったのでまずは再会を祝してドイツ式にヴァイツェンで"プロスト!"今日はセミナーはないし、この1週間、稽古がない日でも4,5時間は歩いている。明日の為に膝を休ませる必要もあるので、休養日という事で、朝からだが、一杯やっても良いだろう。ウー、それにしても、朝からのビールは五臓六腑に沁み込み、幸せな気分にさせてくれる。

12:30、今回のドイツで初の「大道塾」、「空道」セミナ―が開かれるニュールンベルグは、ワーグナーの歌劇「ニュールンベルグのマイスター(名)ジンガー(歌手)」("マジンガー"ではないではない!)や、第二次対戦でのナチ戦犯に対する「ニュールンベルグ裁判」が開かれた街として有名だ。旧市街は5kmに亘って、完全な城壁で囲まれており、駅を出るとすぐ目の前に丸い大きな"ケーニヒ門"があるので、中世で生き延びる事の厳しさが直に感じられる。大きなバンに荷物を積みこみ、市内を巡りながらホテル着13:00。なんと!700年前から営業しているというホテルは、正に中世の"旅篭"。設備はチャンとしているが、ここでも又、パソが繋がらない。頭に来て兎に角チョット外に出てくるからその間に、インターネットの担当者でも、会社でもなんでも良いから呼んで見ておいてくれ!と行って市内見学に行った。寺本は「もう観光は良いですねー」と今回の"観光ずくめ"に飽きて来た風。

ビールと鯉

市内をぶらぶらと歩き、一軒のレストランに入る。このレストランでは"鯉"の揚げ物を御馳走になった。鯉というのは日本では、骨が多くて、チョット泥臭い気がして、それでなくても一人暮しの炊事面倒が習い性になって、港町・気仙沼出身のくせに魚を進んで食う方ではない私などは、チョット引けたが、食べてみるとこれが美味い。「鯉は日本では高いというのですが本当ですか?」と聞かれたので「昔、田中角栄という首相の池の煌(きら)びやかな色彩の鯉は、一匹、何百万円もしたそうだ」と答えたなら「信じられない、ここでは鯉は5,6ユーロなのに」と呆れていた。

30年前、大学に通う道の途中に、"今太閤"といわれたその人の屋敷があり、折しもロッキード事件の為に毎日、多くのワイドショー関係者やジャーナリストが集まっており、それだけではなく、警察の警備も厳しく、何度か尋問されたものだった。極貧の中で身を削るような苦労と忍耐の日々を重ね、遂には"今太閤"と呼ばれるまでに名を挙げ、身を立てたにも関わらず、学歴もなく閨閥もない出自から現ナマ攻勢でしか上がるしかなかったその点を、正に"学歴社会の勝者"である東大卒の若手ジャーナリストから突かれ足元を救われた。

一転、昨日までは賞賛の嵐だったマスコミや国民からさえも、矢を持て石を投げつけられんばかりに、追われ獄に下った、その人は何を思ってその鯉に餌をやっていたのだろうか?栄枯盛衰は世の習いとは言え、人知を超えたところで、予め決められていたかのような、どうしようもない、人の世の役回り(これを人は"宿命"と呼ぶのだろう)というものを感じる。彼も好き好んでそんな危ない橋を渡った訳ではないだろうに。

その後、その城壁の際(きわ)の、今まではオランダでしか見た事がなかった、例の"怪しい所"を通りすがりに見学(正真正銘、天地神明に誓って!外からです)させられた。寺本は、驚きながらも「なんか元気なさそうで、可哀相ですね」と言っていたが、そりゃそうだ、大抵は甘言に乗せられてどっかから連れられて来た人達だ、元気な訳がない。日本で"開業資金"や"留学"の為に進んで従事している人達とは違う。(!そんな金で何を学んで来て、人様に何を教えるんだ?おい!金には印が付いていないからという事なんだろうが…。

今の連中にとって、人生をどう使おうとその人間の勝手なのかも知れないし、(育ててもらった親の気持ちは「関係ない!」ってか?)、「あの飾り窓の人たちの事を思えば、それでも幸せ」という言い方も用意されている。更に、突っ放した"大人の見方"をすれば、「人類の歴史が始まって以来、絶えることなく続いて来た"最古の職業"」という現実もある。実際、「『売春防止法』が1956年(昭和31年)5月に公布され、58年(昭和33年)4月に全面施行されて以来、プロとアマの区別が無くなり、"良家の子女"というものがいなくなった」という言い方もされる昨今である。「禁酒法」でマフィアが伸張した事を"他山の石"とすれば、確かに年齢、職業,貴賎(ふるい表現か?社会的立場)を問わない性犯罪の増加振りや"エイズ"の蔓延を考えると、却って公認にした方が危なくないような気もする。

こういう数字もある。日本で売春防止法が施行されて以来,、売春に関係ある人身売買は激減し、警察庁の統計によれば、1955年には1万4,000人弱だったのが、63年には4,500人と3分の1に激減していた。が、世界に目を向けてみれば、国連児童基金(ユニセフ)は、「世界では"毎年"、女性や児童"数百万人(!)"が『性的奴隷』として売春や人身売買など商業目的の性的搾取に遭っている」との恐ろしい報告書を公表(【ニューヨーク20??年12月11日共同】)した。

先日の3月19日付けの「読売新聞」では(正確な年度は忘れたが)最近の3年間で3,000万人、年に1,000万人、月に約80万人以上の人身売買が行われており,これは奴隷制があった過去の3世紀(注)の3,200万人(300年でだから、年約10万人強、月9千人弱)と比べても恐ろしいほどの数字だ、と述べている。奴隷制や人身売買がほぼ野放図だった過去3世紀より、世界的に一応は(あくまで現実は"一応")存在してない事になっている、現代の人身売買の方が約100倍と遥かに大きいのだ。あなたはこの数字を信じられるだろうか?人が皆自分の事しか考えないようになって、マフィアの跳梁跋扈を許している内に、世界は恐ろしい事になっている!

注:イギリスでの奴隷制度の廃止は1830年代、アメリカ合衆国では1863年、ブラジルでは1888年、国連による「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」(1949年)

重い気持ちで市の中央広場まで歩いていったなら、ここでは、今しも世界を騒がせている、ブッシュの対イラク戦争反対!のデモが行われていた。日本もかつての湾岸戦争のようにボーとはしてはいられない。確かに、マスコミの言うように、今回も前回も大いに世界各国の石油利権が絡んだり,超大国アメリカの不景気脱出の手段という意味もあるのだろう。が、それだけではなく、アルカイーダに代表される、一部のイスラム教条主義者が、現実に、02年9月11日、ニューヨークのツィンタワーを旅客機で撃破するなどという驚天動地のテロリズムを行い、それを支援をしている疑いの強いフセイン大統領が、前回の大量破壊兵器や核・生物・化学兵器廃棄の取り決めを守らずにいることへの制裁という側面もあるのは確実なのだ。さー、その時日本はどうするのか?が、この所のワイドショーの、連日の話題だ。

18:00より氏が道場を開いている、アスレチックジムに行って、サウナで20分を二回して汗をたっぷり流す。サウナの表面からの汗と、体を動かした時の、筋肉内部からの汗は全く違うのだが、明日の事を考え我慢する。20:00、夕食。飛行機のような味気ない料理と違って、各地の肉、魚、鳥、豚、馬、羊、チーズ、ハムといった、本当に美味い料理を、次から次と食べさせられるから腹は"クチ(満腹)"くてしょうがないのに、歓迎の積もりでどうぞと出されると、食べないわけには行かない。今日はドイツ独特の豚の皮とその皮下脂肪までも食べるという、これがまた、全然脂身を感じさせない美味しい料理だった。ま、ビールが美味いから不思議とこれが消化出来るので、明日一杯汗を流すから良いやとばかりに全部食べようと思ったが、さすがにとても腹に入り切らない。ウー、これも修行か!とは言っても、「腹も身の内である」、1/4ほど残してしまった。23:00ホテルに戻る。食い疲れでバタン・キュー。

乾杯!

平成15年3月1日(土曜日)10日目
3:00起床。パソは見に来たらしいが、やっぱり駄目だったようで、「これ以上いじるとシステムを壊してしまうの出来ない」と書置きしてあったので、雑誌読み。この所多くの雑誌は、昨日少し述べた"対イラク戦争"についてか論じられている。しかし、日本としてはその前に、それ以上の問題もある。食糧不足、燃料不足でどうしようもなくなっている、恐い隣人が"瀬戸際外交"で、アメリカに対して、支援しなければ(核爆弾を搭載している?)ミサイルをぶっ放すぞと喚(わめ)いている。実はアメリカよりも、もっと恨みを買ってる日本こそが「お家の大事」なはずなのだ。

しかし「日本は、どう対処するのか?」となっても約60年もの間"戦後"を引き摺り、"平和憲法"を後生大事に守ってきて、「"当たり前の国家"として議論の余地もない程に当然な"国防"」という事を、日本の弱体化を旨としたアメリカ(当時のマッカーサー占領軍)と「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持しようと決意し」と、高らかに謳った"平和憲法"とに頼って来たツケが今、遂に回って来た。笑い話、ではない!カッコ内の文言は、一寸ニュアンスは違うかもしれないが、"宋襄の仁(注)"に似て、日本がどうにかなった時には、"日本"という名前と一緒に確実に歴史に残る"高尚な(?)"日本国憲法前文の一部である。

注 :宋の襄公が楚軍と戦った時「君子たる者、人の困難につけこんだりはしない。川を渡った楚軍が陣形を整えるまで待とう、と好機に攻撃せずその後、陣容の整った大軍、楚に破れた」という"アホな国"の寓話(ぐうわ-教訓、風刺を含んだたとえ話)。

「戦争は勝つことが全てであり、"仁"などをいう為には、それなりの力の裏付けがなければならない」との教訓である。現代では国民主権であるから、いわば国民が政治を動かす。その時に"弱肉強食"の国際政治の世界で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」軍備を放棄するという選択は、正にこの寓話に重なるのではないか?

それに加えて、共産主義ソビエトにコントロールされていた左翼勢力、なかんずく、日教組(日本教職員組合)の「平和、平和と唱えていれば平和が実現する」という洗脳教育の完全なる成果が現れて、前回、テホドンが日本を飛び越えて、太平洋に落ちた時もそうだったが、(私も含めて)日本国民はこれほどの国の危機なのに、「明日は何を食べようか、明後日の日曜日はどこに行こうか?なーに、今までと同じように、なんとなくどうにかなるさ」などという"極楽トンボ"になってしまっている。

こんな事を言うと、すぐに"右翼"だ!などと言われ、下手な反論でもしたなら、情報や言葉を一杯持っている人達に、即、二倍、三倍にして返され、更にムキになって相手にしてると、肝心の"本業"が出来なくなるので、なるべく触れないで今日まで来た。が、それこそ"今、そこにある危機"になにもしないで"蒸発"したんでは、前回も書いたように、充分に喜怒哀楽の人生を味わった俺は良いが、残った者に、「あの人達が国に対してなにもしなかったから、こんなになったのだ」と言われるだろう。そう言われないためにも"アリバイ"くらいは作っておかなければ。

そんな訳だから、アメリカの支援、どころか、本腰を入れて守ってもらうしかない我が日本は、アメリカの機嫌を損ねるわけには"絶対に"行かない。ところが、一層ふざけた話しだが、「日本の国防」などという言葉を使ったなら、目を剥いて噛み付いて来た人達が、今度も、「日本はアメリカの犬になるのか?日本に主体性はないのか?日本は独自の対応をするべきだ」などと、自分が日本の舵取りをする段になったなら絶対に言えない、大衆に媚びた後先も考えない元気な発言をしている。

もしそんな事をして、イラク問題が片付いてアメリカが、「さて次は、もう一つのアジアの"ならず者国家"だ」となり、当然アメリカには勝ち目のない隣人が、自暴自棄になって日本にミサイルを向けた時はどうするのか?「そんな事は非人道的だ、許さない!」などといつものように両拳を挙げて「ハンターイ!」と叫んだところで、そんな事を聞かないから"ならず者"なんで、聞くはずがない。後はどうする?

それまで「虎の威を借る狐」で、切った張ったの商売の世界で働く時も,体力,気力は必要なのに、虎さんが後ろに立って睨みを利かし守ってくれたから、自分は体を鍛える必要がなく、その時間と費用を商売に傾ける事が出来た。そのお蔭で商売繁盛で良い暮らしをしてきた日本が,身の程も弁えないで、親分が喧嘩するというのに「俺はあいつとも良い関係を保ちたい」等と勝手な事を言ったなら、今度も親分が助けるという保証がどこにあるのか?

悔しいが、桃太郎さんのおとぎばなしのように、雉(きじ)でも犬でも、猿でもの役を務めざるを得ないではないのか?(どうせ日本人は陰で"イエローモンキー(黄色い猿)"などと言われているのだから、それも適役か?)しかし、その惨めさ悔しさを誤魔化す意味でも「そうせざるを得ないような、情けない国にしたのは誰なんだ?」とは聞きたいものだ。

8:00に迎えが来たのでバンに乗り込んで、一時間ほど掛けて、セミナー会場へ。前にも書いたが、土日は基本的に休みである上に、この時期はカーニバルの影響で仕事をする市の職員がいないそうだ。従って、貸してくれるホールがないので、"弟子"である隣街の市長に、「日本から偉い先生が来て、「空道」という新し武道を披露してくれる。これは立派な文化交流となり、新聞やTVも来るから、と言って無理やり開けてもらったそうだ。それでは参加者の方はどうなんだと、心配したのだが、5ケ国、6団体から、約60人ほど集まり、しかも半数以上が黒帯というレベルの高いセミナーとなった。10:30から12:00までは基本と、移動を説明しながら、反復練習。12:00から昼休みをとって、13:00から15:00までは対人技の紹介と解説、反復練習。バルセロナ以上に、フルコンや、キック、柔術、寸止め、中には忍術などというのもいて、バラエティに富んでいた。

中にはチョット突っ張ってるのもいて、その攻撃には自分はこうするとか、教わった技ではほら掛らないよ、などというのもいたが、その都度ほんじゃこれでも受けれるか?とか、それはお前のここが悪いんだよと、論理的に説明すると、日本人のように、面子で反抗的になるものは少ないから楽だ。但し、自分が能力不足で出来ないのに、納得しないで聞いてくる場合は、その人間を相手に直接"体験"してもらう。そうすれば突き・蹴りに投げや、関節が入ると、自分が今まで習って来た体系とは大きく違うという事を身をもって理解するから、素直に従うようになる。最後に仕上げという意味で十数人の黒帯やキックなど帯システムのない連中で、それなりのレベルのものを選んで、軽くマススパーをしてお終い。始める前とは目の輝きが違ってる参加者を見ると「よーし、やったな」と、こっちもホッとする。必ずこの中から他の国も含めて希望者が生まれるものと確信した。

セミナー

セミナー

ところがこっちがこんな良い気分でいるのに、あろう事か、練習中に更衣室においておいたレンタル国際携帯電話が無くなっていた。その日は中々、日本と連絡が取れなくて、余り使っていなかったのだが、偶々練習が始まる直前に掛ってきて、アタフタと話しをしてそこに置きっぱなしにした自分が悪いんだろうが…。なるべく受講生を悪くは思いたくないので、散々探したが見つからないので諦めた。それでも毎回の事だが、高いなーと思いながらも成田で飛行機事故から病気、盗難、破損までカバー出来る保険に入って行ったから、後で保証されたので助かったが、散々丁寧に教えてもらった先生の電話を盗むとはふざけた野郎だ!(もっとも盗難程度で済む"保証"で良かった、という考えもあるが)

17:00に近くの幹部受講者の家に遊びに行き、早速、ヴァイツェンで"プロ―スト"! 2,3杯飲んだ所で日本ならツマミなり料理が出る所だが、これ又、海外に行くと少し茶目っ気のある奴なら、必ずしたがる「俺の胃と肝臓とあんたのはどっちが強いか?コーナ―」が始まる。威張って、ウォッカより強いと65度とかいう"パリンカ"を持ってきて、高さ10センチくらいのお猪口のような、"プロ―スト"グラスに注ぎ始まる。こうなったなら、上等じゃないか!である。ワインボトルくらいのを二本、四人でおおよそ十杯くらいづつを30分くらいで飲んだ。その頃にやっと料理が出て来たのでガツガツ食った。その内、「先生、英語を覚えないと駄目ですね―」などと、授業では寝てばかりいた反省を、遅まきながらしていた寺本が、腹一杯になったものだから、ウツラウツラしながら英語を話し出した!凄い進歩だ!

酒に関しては嫌な思い出があるのは皆さんも知っての通りで、あんな事があったのに、まだこんな事をと思う人がいるかもしれない。しかし、私は誰になんといわれても、あいつが飲めなかった分も含めて、絶対に酒を飲み続ける。実際、まともにあんなことを思い出したなら、気がおかしくなってしまう。せめて酒でも飲んで少しは明るくならなければ、残りの人生は暗く重くしか生きれない。それでは端(はた)迷惑だし、あいつも俺を待ってトレーニングしてるのに約束を破る事になる。それがこの、生き方を変える事の出来ない、馬鹿な親父の出来る、酒への復讐だと思っている。酒なんぞに俺の人生を左右されて堪るか!勿論、原則は、しっかり食べながら、置き去りにはしないような仲間と飲む。「おもしろきこともなきよをおもしろく」と詠った高杉晋作を気取るわけではないが、楽しい、人との交流の為の酒だ。美空ひばりの唄「悲しい酒」は好きだが、実際は御免蒙る。

平成15年3月2日(日曜日) 11日目
5:30起床。やはり昨日の稽古(と"プロ―スト")のお蔭で今日は良く寝た。本当は今日帰っても良かったのだが、はじめの計画では「セミナ―は2日間お願いします」という事だったので、月曜日の飛行機を手配してしまっていた。セミナ―も上手く終ったし、ビールも飲むだけ飲んだし、料理も堪能したとなると、急に望郷の念が沸いてきて、日本に電話でも掛けたくなったが、昨日余計な事をした為か、電話も繋がらない。しょうがないので、取り敢えず明日の為の荷造りをし始める。

10:30、迎えのバンが来て先ず、昨日の家に寄って昨日の成果を誇りながら、運転手は酒気を抜くためにジュースしか飲まないが、秘蔵の何とかという"ヴァイツェン"を飲まされ早くも良い気分。一体にドイツには全国統一ビールといったものはなく国内に1,000軒以上のビール工場があり、それぞれの地区ごとに俺のところのが一番だと胸を張っている。「ビールは工場の煙突の煙が落ちる範囲内で飲むものだ」というビール好きなドイツ人堅気の、鮮度を気にした言葉もあるという。

昼過ぎまで馬鹿話をして、車を替えて出発したのが、昼過ぎか。今日は中世の宝珠といわれロマンチック街道のハイライトとしてドイツ観光の「目玉商品」となっているローデンボルグと言う街ヘ行くという。14:00頃についた頃はあいにくの雨。それからトイレを借りたくて、例の居酒屋に入ったなら、学生風の集団がガイドブックそのままに、ビールジョッキを揚げて、陽気に騒いでいた。ただで借りるのも悪いので一杯やって、近くのレストランに入り直し、遅い昼食。

もう寺本ではないが、観光疲れで一々書く気にもならないので、簡単に。目玉の一つ、中世犯罪博物館、ガイドブックには16:00までと書いてあったのに、ビショビショになりながらも行ったら、なんと15:00までとの事で見れなかったのは残念だった。その後土産物屋へ行って、この地方でしか生産されていない、日本で買えばこの2,3倍はしますよという、アドバイスで数本買った。当然バックはあるにしろ本当に美味いんでしょうね、ガイドさん?まだ着かないが早く落ちついて飲みたいものだ。帰る前に、城壁に上って銃眼から外を覗き少しは中世を体感する。

観光

17:00に出たのだが、案内する方も疲れたと見え、30分くらい走ってから反対方向に走ってるのに気付きUターン。結局2時間半も掛って、19:30に彼の家に着く。丁度テレビではビン・ラーディンが掴まったというような事をやっていたが、あわや、イラク戦争勃発という時期に、あまりにもタイミングが良いのでなんか変な感じだったが、後でそれは違うという事が分った。

最後の晩なので(とか何とか、良く理由が見つかるものだと、我ながら感心するが)これまで何くれなくお世話になった、奥さんにもお礼をと招待してチャイニーズに行った。ところがバルセロナでもそうだったが、ヨーロッパに住んでいる中国人で中国語が分らない人は一杯いて、チンジャオロースー(牛肉とピーマンの細切り炒めピーマン)どころかマーボードーフ(麻婆豆腐)も知らない。せめて写真のメニューでもあれば分るのだが、それもない。兎に角適当に頼んだなら沢山来る事、来る事。とても食べ切れないほどだったが、寺本もこれでやっと日本に帰れるというので、安心したか何とかこなした。

食事中、奥さんのほうから「今度、日本の大学に行き、武道をならいたいという知合いがいるので、大道塾を紹介しても良いです」かと聞いてきた。勿論で、彼が入門したなら最初のドイツ人だよ、といったなら、心配そうだったので、うちには英語圏の外国人も沢山いるし、片言でも話す塾生も含めたなら英語を話す人は一杯いるから全然心配ないよ、と言ったならホッとした顔をした。面白い事に、どこでもこういう武道をする人間の"奥方"というのは強そうで、彼もしきりと気を遣っている。

22:00にホテルへ戻り最後の片付け。いつもそうだが来る時の土産やインスタントラーメン類が減るのだからバッグは軽くなってもよさそうだが、逆に新しい土産物を貰ったり買ったりするから、必ず悪戦苦闘する。2時間ほど掛ってやっと積めこんで、いざシャワーと思ったなら、いつまでたってもお湯が出ない。アッ今日は日曜日だった。アブないアブない、危うく水を被るところだった。しょうがない明日出る前に入ろうと我慢して寝た。こんな時は湿度の高い日本に住んでいるからだろう、我々日本人は、本当に風呂好きだなと改めて思う。実際,向こうの連中は余り、お湯には入りたがらない。シャワーがあれば満足で、上がってから香水を、シュッと一吹きすればそれで満足だ。温泉などは珍しいからはしゃぐが、日本人ほどに毎日風呂に入りたがる民族も珍しいかもしれない。だから"リーズナブルな"ホテルなどを予約する時は必ず「バス付きの部屋を」と言わないと往々にして、シャワーだけの部屋になる。

平成15年3月3日(月曜日)12日目
3:30起床。最後にこの遠征の場所場所での時間をしっかり思い出しながら、手帳に記入して迎えを待つ。5:00から一時間くらい出しっぱなしにしたが、やっぱり水しか出ないので諦めて、例の拳立てを始める。暖まった(?)所で、エイ、ヤッとばかりに背中から水を被って、ソソクサと乾いたタオルで拭いた。6:45に見送りが来たので駅まで送ってもらって、7:30の電車でフランクフルト空港まで。

以前はこんな駅はなかったはずで、空港から駅までは地下鉄で繋がっていたはずだった。ターミナル(終着駅)が空港だろうと思って安心して、ウトウトしていた所、到着予定時間の10分程前に、件(くだん)の増岡君(渡辺大阪北支部長の友人で元塾生)が車両に乗って来た。乗客の誰も動く気配がないから、まだだろう、それに最終駅だろうから、他の客に着いて行けば良いやと思っていたので、危うく乗り過ごすところを救わた。増岡君も稽古をやりたいようだが、相手がいないので、今は偶々飲んでる席で知合った地元の人からラグビーに誘われて、そっちで汗をかいているとのこと。何にせよ国際金融の最前線で働く訳だから、神経が疲れることが多いだろうから、常に体を動かしバランスを保たないとな、と言って空港で別れた。

「さぁー、やっと帰れるぞー」と寺本もかなり元気になる。しかし、まだ10:00だ、13:40の便に乗る人は11:00からでないと待合室には入れないという事で、免税店で、"山の神"への"供物"を買って、"仕事"の一切を終えた。あとは飛行機に乗って、出てくるはずの日本蕎麦でも喰いながらビールを飲み、映画を見て日本の夢でも見ていれば良い。そこでやっと開放された気分になり、スナックでソーセージを肴に最後の"ヴァイツェン"で"プロ―スト!をする余裕も出てきた。

海外旅行というのはツァーなどで誰かが先頭になってくれるのなら、半分任せ切りにするからそれほどでもないが、自分等での手作りとなると、どんなに楽しい時間を過ごしていても、「ここは日本じゃない。俺が住むべき、こいつ等を連れて帰るべき、心から安心できる"日本"はここじゃない」という警戒心が心の底のどっかにあるため、真からリラックスは出来にくいものだ。

"酷差違人"などとふざけてはいても所詮、島国根性が抜けないからなのだが、いつも空港で全ての手続きを終え搭乗を待つだけの時と、実際に飛行機に乗り組んで席に着いた時、次いで成田に着陸した時の喜びは、その順にあとになるほど大きくなる。「寺本、一人で俺の相手をするのも大変だったろうがご苦労さんだった。充分な成果があったぞ、乾杯だ!グビー、ウメ―!」、「オース!ありがとうございました。グビー、美味しいッス!」

やっと、"長かった遠征も終りに近づいて来た。チョット早くて尻切れトンボみたいだが、好い加減、指も疲れてきたし頭もボーとしてきたので、この辺で、スペイン風に、Adios, hasta luego !(アディオス、アスタ・ルエゴー さよならまた会いましょう!) ドイツ風にはAuf Wiedersehen!(アウフビーダーゼンー さようなら)にさせてもらいます。Osu !

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