土田真也(フランス支部)
モロッコ遠征の話を戴いたのは3月後半の珍しくかなり早い段階だった。しかしその後の主催者ブライム (Brahim Lamrabti)との交信の中で、自分はこの遠征が実現する可能性はほぼ無いだろうと思い始めていた。というか自分だったらこんな相手とはとっくに交渉を断っていた。当初塾長とブライムの仲介役をしていたのはポルトガルのSOUSAだったが、いつの間にか自分がその役を受け持つことになり、少しずつこの人間が見えてきたからだ。しかし塾長の世界大会を成功させようと言う執念と我が身を顧みない行動力、そして懐の深さがこの遠征を実現させた。とりあえずアフリカ展開の先鞭が打たれたことには心底“BRAVO”だ。しかし諸手を挙げてと言うわけにはいかない。種は撒かれたものの根を張る土壌が日本のそれとはあまりに違う。本当の意味での普及、発展にはクリアすべきハードルが多い。何事もそうかもしれないが、新しく何か未知の事に手を出す場合ある種の賭けに出なければならない。さもなくば成功どころか、実現さえ間々ならずいつまでも今まで通り、自分の手の届く範囲で安易な世界に留まるしかなくなる。これだけのエネルギーと資金をつぎ込んでの見返りがこれだけだったというのは少々寂しいが、日本から10000km離れ、生きてきた背景の全く異なるアフリカはそれほど甘くは無いということか。この遠征の成否に答えを出すには今の段階では早すぎる。これは今後、空道のアフリカ普及へのほんの取っ掛かりにしか過ぎない。5年、10年後に「この無謀とも言える遠征が無ければ、今このアフリカにおける空道の発展は無かった」といえる時が来ることを信じる。交渉の中ではモロッコに加えてエジプトも訪問しセミナーするとの話も出ていた。半信半疑ながら一時はこのセミナーの壮大さにワクワクさせられた。だがそのエジプトがなくなり、その変わりに次は急遽ドイツに声をかけたり、やっぱりパリセミナーを準備する話になったりで、準備手配を始めた翌日には中止、変更の連絡をするような有様だった。確かに具体的に進めるには余りにも時間が足らず、案の定と言うべきか実現されなかった。あれだけ早くから準備していたモロッコセミナーでさえ、出発まで残り1週間をきってもBrahimから明確な返信が無くこっちも動きが取れない状態だった。最後は電話で強引に確認し、半ば押しかけるような形で出発した。この辺の駆け引きと言うか決断は非常に難しかったはずだ。
自分がパリOrly(オルリー)を発ったのは6月2日21:05。約3時間のフライトで時差2時間マイナス、現地時間で22:00の到着だった。カサブランカ空港の到着ロビーに出て塾長一行とはすぐに合流できた。しかしそれからある程度の予測はしていたものの、待てど暮らせど肝心の今回の主催者、ブライムの姿が見えない。最初に電話が繋がった時には「もう空港内なのですぐに着く」と答え、次の電話では「カサブランカ市内だから30分後には着く」と言い、最後には「先にカサブランカ市内のホテルに行ってくれ」ときた。この間1時間以上は無意味に待っていた。まさかこんなすぐにばれる子供だましの嘘を、まだ会ってもいない相手が、しかも塾長に対してつくとは思いもしないので、こっちも素直に言われるまま待っていたが、結局 Tanger(タンジェ)出身のこの男の子供騙しがこの遠征の最後まで続くことになろうとは、この時点では予想だにできなかった。この国に私が始めて足を踏み入れたのも7年前の丁度この時期で、しかもその街も、旅行者にとってもっとも悪名高い街、その名も、Tanger(タンジェ)!!だった。今回でモロッコは3回目になり、フランスでもマグレバン(北アフリカ出身者)は非常に多く、今でこそ大体の性質を掴んではいるが、当時は独り右も左も分からない状態で、とにかく騙されないように気を張っていた記憶がある。それ以後モロッコの各都市を回りいろいろ学び、思い出深い体験もあり、この国の印象も好転しつつあった。しかしそれでもTangerという街には始めてのアフリカと言うカルチャーショックも手伝ってか、交渉に疲れあまりいい印象は残っていなかった。正直で素直で親切な人間も多くいるのは確かだ。しかし一部のペテン師まがいの人間のお陰で、始めてこの街を訪れマグレバンを見分ける術を持たない旅行者は、ここに住む全ての人間に対し警戒心を抱き、接する必要がある。 何はともあれついに空道大道塾がアフリカ大陸に進出することになった。7年前の一人旅でもある時ふと、道着をまとい稽古している姿を漠然と想像したことがあった。今それが現実となり、当時の経験がここでこうして役に立とうとしている。とても感慨深く、何だか不思議な繋がりを思わずにはいられない。しかも今回は立場も全く異なり、なんと一応招待される身分である。2時間近く待った挙げ句、我々のみ特急タクシーで30分、カサ市内に向かい指定されたホテル「GALIA」にチェックインした。時計の針は24時を回っていた。ブライムは3時頃着くとホテルに連絡を入れていたらしいので、翌朝8時にロビーに来るようにメッセージを残し休むことにした。
翌朝ロビーに降り尋ねたところ、ブライムは3時頃本当に(??!!)チェックインし、今部屋で眠っていると答えたので驚き半分安心した。早速彼らを呼んでもらい食堂で軽く食事しつつミーティングした。この場にはブライムと彼の生徒Samir(サミー)が居た。いろいろ通訳しつつ感じたのは、ブライムがあまりフランス語を解ってないのか、それとも敢えて的外れな答えを返すのか、喋っている量に比べてこっちが求め、得られる情報があまりに少ないということだった。明日からのセミナーの予定に関してさえ何一つ具体的な答えが無かった。一方始めは彼の先生を立ててか、隣でおとなしく聞いていたSamirの方が断然コミュニケーションがスムーズだった。この日、6月3日は移動日。この後彼らが用意した2台の車で今いるカサブランカ市内から、日本大使館のあるにRabatに向かい表敬訪問。そしてさらにTangerまで走った。2台の車に分乗し、自分は藤松君、Samirと一緒にブライムの運転する車に乗せられた。Casablanca、Rabat間は高速道路があり、いいペースで走っていたが一度スピード違反で停められ、罰金を払わされていた。昨晩は3回も罰金を払ったと言うのだから本当かどうか知らないが、呆れてしまう。途中反対車線に大型バスの焼け残りが見えた。どうやらあの事故のせいで大渋滞に捕まり、空港への出迎えに間に合わなかったとのことらしい。ペテン師のレッテルが貼られた今となってはこの話も怪しいものだが・・・。
日本大使館に辿り着くのも一苦労だった。この訪問のことはブライム達には予め話してあったはずだが、下調べがない為何度も人に道を尋ね、同じところをぐるぐる回った。我々が日の丸に気付いたから良かったものの、でなければ後何周していたか知れない。表敬訪問などあまり気乗りのするものではなかったが、大使と面会する機会など人生でそうそうあるものではない。また誰とでも会ってくれるわけでもない。当然これまで考えてもいなかったが、非常に名誉なことだ。あらためて塾長の影響力、大道塾の威光に脱帽だ。大使館を出て日本食に舌鼓を打ち、再び数時間の移動となった。長閑な景色とは対照的なアグッレシブドライブで、どうやらTangerに入ったのは判った。しかしそれから誰かに電話したり、人に会ったり、ドアミラーが通行人にぶつかったり・・・、ホテルも目の前のところまで来てどういうわけか明日のセミナー会場となる彼の道場兼スポーツジムに案内させられた。ホテルまで歩いて5分もしない所なので先にチェックインしても良さそうなものだが・・・。以前地下駐車場だったが、これから改装して一月後には立派な道場となるというスペースをゆったりと連れまわされた。やっとホテルに連れて行かれたのは、2時間近くも先に着き我々の到着を心配して待っていた塾長がしびれを切らし、警察に捜索願を出そうとした丁度その矢先だった。
とにかく部屋に入り、荷物を解いて一休みして食事に出ることになった。ホテルの部屋からの眺めは目の前にビーチが広がり、その先に大西洋が続きうっすらとヨーロッパ大陸が見えた。我等が世界チャンピオンも部屋に入るなり窓に直行し、この光景に感嘆していた。今回の遠征中、気持ちを和ませマイナス要素を打ち消すのに、この眺めは少なからず役立ったはずだ。
連れて行かれたレストランは地元の定食屋という風情の店で、端から覚悟はしていたが乾杯も出来ない所だった。「モロッコの歩き方」に出ているツーリスト向けレストラン「バレンシア」がいいのではと、ホテルを出る際に話したが、そんな店は知らないし、もう別に予約してあるとのことだったので彼らの案内に任せた。イスラム国家なので普通の店ではアルコール飲み物はもちろん扱っていない。だからと言って全く手に入らないと言うわけでもないので、自分とサミーで歩いて5分程の、闇ではないがツーリスト向けの食料品店まで乾杯用飲料を買いだしに行きレストランに持込した。しかし案の定というべきか、さて乾杯という段になって、他の客の目もあり店員から体よく追い出された。
それじゃあということで、やっぱり「バレンシア」を探そうと言うことになった。彼らも本当にこの店のことを知らなかったのかもしれないが、まさか日本から来た我々が彼らよりも詳しいとは思いもしなかったのだろう。先の店で「バレンシア」の場所を尋ね歩くこと15分、何とか目当てのレストランに着いた。笑えるのはこの店から我々の泊まっているホテルまで目と鼻の先の距離で、帰りは5分も掛からなかったことだ。この店のことを知らないと言った手前、彼らがわざと遠回りしたのではないかと勘繰りたくなってしまった。
持ち込みビールも全て空け、注文した物もスペイン料理に近い日本で言うところの「洋食」で、大方想像した物が出てきたので皆(日本組は)満足だった。ただモロッコ組は、勧めても何も手に着けず、ブライムなど何をやっているのか、出たり入ったりかくれんぼでもしている様で、落ち着きが無かった。それでも明日朝10時にミーティングをしたいと今朝のカサブランカのホテルでの話し合いでは口にしていなかったことを言い出し、セミナーは14時からと確認した。ミーティングは予定外だったがもちろん異論はないし、丁度いい機会なのでプロモーションビデオやルール説明DVDを見せる為にデッキを手配するように伝えておいた。料理に全く手をつけない彼らを尻目に遠征1日目の無事を祝うのも気まずく、彼らも気まずそうだったので、塾長の「帰ってよい」との言葉を伝えたところたちどころに居なくなった。
この晩2、3人始めて顔を出し挨拶した者がいたが、Brahimの手際の悪さに我々の気分が冴えないのを感知したのか、皆何だか異常に畏まっていた記憶がある。一応彼らの名誉の為にSamirから聞いた一言付け加えておくと、イスラム教徒はアルコール飲料の容器に触れることも出来ないし、それがあるところに案内することも禁じられているらしい、もちろんそんな席に同席することは言語道断と言うことだ。あれでも彼らは彼らなりに努力してくれたのかもしれない。
とはいえ他国のイスラム教徒塾生とはこんな問題も無いと塾長は話されていた。実際フランスの塾生にもイスラム教徒は少なくないが、この手の問題が持ち上がったことは無い、彼らが単に目をつぶっているだけなのだろうか・・・。Tangerのホテル「Shehrazade」に戻り、翌朝10時のミーティングに備え、9:45ロビーに下りることを確認し部屋に戻った。シャワーを浴び、窓からの夜景に気持ちを静め、横になり眠りに着いた。
翌朝は部屋の窓から眺め、気になっていた目の前のビーチを小1時間ほど走った。走ってみると大した距離も無く30分で一往復できるほどだった。土曜の朝だからか、7時前から地元のMAROCAINSがあちこちでビーチサッカーを楽しんでいた。ホテルに戻りシャワーを浴び、藤松君と食堂に下りた。海面に反射した朝陽が、レースのカーテン越しに暖かい室内テラスに陣取り、ゆったりと朝食を摂った。朝食はフランスと同じでパンとオレンジジュースとコーヒーぐらいの非常にシンプルな、というか日本人には少々寂しい内容だった。
約束時間前にロビーに下り、集まり次第道場に向かった。5分も掛からず着いたのは約束の10時より少し前だった。危惧していた通り、それから何の連絡もなく軽く30分待った。暫らくして昨日初めて会い、秘書だと紹介を受けた学生の生徒が一人現れた。それからボチボチ生徒達が現れ始めたが、肝心のブライムが来たのは11時近かった。もうこの頃には彼の遅れを問いただす気持ちなどとうに失くしていた。というかもともと1時間ぐらいの遅れは覚悟していた。しかし我々の覚悟がまだまだ甘かったと気付いたのはそれからだった。
一応皆揃ったものの、ブライム以外どういう段取りになっているのか誰も把握していない。常に5,6人がその辺をたむろしているが、各自好きなことをして組織として全く機能していない。まずDVDデッキの準備のことは誰も聞いておらず、朝ブライムが来てから道場のどこかから探しだす始末。またカセットデッキはブライムがもう一度家に取りに帰り、やっと持ってきて設置できたと思いきやシステムが違うとか、リモコンが無いとかでまともに映らず、再度ブライムがリモコンを取りに戻ったりして、ミーティングで話し合うどころか、プロモーション映像を皆が揃ってまともに観ることすら出来なかった。そして時刻は優に昼を回っていた。この国では一事が万事こんな展開なのか、あんな状況になっても誰も臆するところが無い。
・・・いつまでもあっちのペースに付き合ってもいられないのでさっさと食事に出ることにした「中華レストランはないので、隣のレストランへどうぞ」という彼らの言葉には耳を貸さず、町の中心に向け歩きだした。街角で暇そうにしているMAROCAIN(モロッコ人−編集部注)を捕まえ、中華レストランを聞く。その度に違う道順を教えられ困惑しつつも、歩くこと30分。「LE PAGODE」という店に辿り着いた。
中華料理はこの国では珍しく一般人には入りにくそうな、やや高級な店構えだった。この日は日差しも厳しく、坂道を登ってきた事もあり食べなれた料理に喜びを覚え堪能した。ゆったり食事し、消化を促しつつ少し慌てて道場に戻ったのは14時を回った頃だった。我々も郷に入らば郷に従えと腹を括ってきたようだ。
正直ここまでの彼らの(というかブライム個人の)対応、扱いに少なからず業を煮やしていた我々は、「ビデオだけ観せてお仕舞い」という気持ちになりかけていたが、この日を期待し集まってきた彼らの生徒達(といってもほんの数人に過ぎなかったが・・・)に罪は無いのと、こういう負の気持ちを払拭して与えられた仕事をしっかりこなすのも、この日自分に課せられた空道の試練・修行と考え直し、道着に着替え、気持ちと帯を引き締めて1時間強の指導に当たった。しかしこんな我々の好意的な思考などどこ吹く風。ここでもまたこのハッタリ男ブライムがやってくれた。
はじめ彼は病気だか疲れていたからか、セミナーが開始されても、着替えもせず10人近くいた他の見学者と共に横のベンチに座っていた。まず自分と藤松君で空道独自の技の紹介をし、そしてそのために必要とされる基本技の指導を塾長が簡略に指導した。皆が良い感じで汗をかき、集中してきた丁度その時、Samirがいきなり訳の分からぬ大声で号令を掛け、それに呼応して他の生徒が気合を返した。何事が起こったかとあっけにとられる我々をよそに、いつの間にか道着に着替え一番堂々と、そして偉そうに現れたのがあの男だった。
ついさっきまでネズミ男宜しく、情緒不安定な顔でこそこそ出たり入ったりしていた男が「BUDOKAIDOO」の黒いベルトを巻いて、見事に変身して現れた。その後も彼の勢いは留まる所を知らなかった。他の生徒達と共に真摯に学ぼうなどという意識は端から無い。塾長の日本語での指導を、続けて自分がフランス語に通訳し始めるや否や、彼がそれを遮り、いかにも彼自身が教えているかの如く大仰に振る舞う。
こんな光景を見せられ、怒りを通り越し、力が抜ける様に悲しくなった。この国ではこんな男がまだ指導者としてまかり通っているのだろう。これでは武道の社会的地位が疑問視されるのもしょうがないといわざるを得ない。不思議なのはこんな指導者にも素直に従う生徒がいることだ。しかし考えてみれば彼らは皆二十歳そこそこだったし、「これが武道だ」と旨く言い包められてきたとすれば十分考えられる。
この1時間はいろいろ考えさせられる精神的に疲れるセミナーだったが、これは藤松君もそうだったようで、かなり参っていた。セミナーの最後、皆で恒例の写真撮影をしたが、さすがの塾長も彼とのツーショットだけは避けられていた。そしてこんなことなら明日のフェズセミナーは中止にしてさっさと引き上げましょうという意見が各人の中で強くなりつつあった。
セミナーを4時に切り上げ、この後予定では5時にはフェズに向け出発することになっていた。TangerからFesまで5時間は掛かる。少なくとも今日中にはチェックインしたかったし、これまでのいい加減なプログラム進行を目の当たりにしていたので、予めこれだけは口を酸っぱく確認してあった。・・・しかし案の定と言うべきか、またしてもブライムの不手際、むしろお粗末さ、もしかしたら計画的犯行にしてやられた。結論から言うと、この晩Fesに向け17時にホテルを発つどころか、もう一晩このホテルに足止めを食らうことになってしまった。
ブライムが当てにしていたのは、昨日カサブランカからタンジェまで塾長と奥さんを送った彼の友人Ahmadeの車だった。相変わらず時間になってもブライムの姿が見えない。塾長が先を読みAhmadeに電話してみると、「今日Fesに行くと言う約束はしていない、Tangerから車で数時間離れたところにいる」との返事だった。当ての外れたブライムがホテルに来た時には、車の手配が出来ていないことを既に我々に見抜かれていた。
再びホテルを離れ、暫く知恵を絞って彼が次に思いついた案は、「23時に夜行列車がある」だったが、これは塾長により即却下。続いて「タクシーでもレンタカーでも探して来い」とのお言葉に、ここぞとばかりそそくさと出て行った。そしてこれが、何ともあっけなかったが、彼の姿を見た最後の瞬間となった。「車を探す」と言い出て行ったものの、具体的な解決案は彼の頭の中には恐らく何も無かったのだろう。遠出の準備をさせて連れてきた生徒が2人いたので、そのひとりを人質に預かっておけば良かったと、自分と藤松君が慌てて外に出たが、時既に遅し。彼らの姿は見えなかった。
それでもまだ律儀にブライムを待つこと1時間程。何度目かの電話で彼と繋がり、「今車を修理しているので30分でホテルに着く」から始まり、彼お得意の子供だましが繰り返された。さすがに我々の堪忍袋の緒も切れた。「こっちはこっちでFesに向かうからTanger組は各々Fesに来ること」と伝え、ホテルのフロントにFesまでのタクシーを手配させた。この時点で時刻は20時前だったか、既にFesへの到着が夜中になることは分かっていた。しかし明日のセミナーは午前10時から予定されていた為、何としても今晩のうちに現地に着いておきたかったのだ。
さてタクシーもやってきて、荷物も4人分何とか積み終え、いざホテルを出ようと言う段になって、フロントに呼び止められた。「宿泊料金が未済の為、このままホテルから出すわけにはいかない」・・・。予想だにしてなかったカウンターパンチ。これには腰が砕けた。もしかしたらこれがブライムの狙いだったのか。ここで料金を肩代わりすることは出来なくは無い。しかしそれをしてしまっては奴の思う壺。とにかくブライムが居ないことには話にならないので即彼に電話し、早急にホテルに来るように言った。
するとこの時ばかりは今までの彼からは想像も出来ない、何と素早い行動だろう。「既にFesに向かってレンタカーを走らせていてホテルには戻れない」と、これまたしてやったりの頭突きに膝を着いた。とんでもない男だ。この返事が予め計算されていたものだとすると、いくら待っても彼がこのホテルに戻ってくる可能性は限りなくゼロに近い。
・・・こうして我々が途方に暮れ、如何したものか思案していると、先程ブライムと一緒に出て行った生徒から連絡を受けたのだろう、我々の状況を知ったSamirがホテルに駆けつけてくれた。実はSamirは明日試験がありFesセミナーには参加できないので17時のFesへの出発時間に最後の挨拶に現れ、先程別れたばかりだった。渡りに船とはこのことで、再度彼にホテルのフロントに掛け合ってもらった。しかしさすがにホテル側もブライムのような人間は端から信用できないの一点張りで相手にされなかった。それではと次に思いついた案は、先程のブライムの道場を共同経営しているというテコンドーの先生に事情を話し交渉してもらった。しかし彼もブライムとそこまでの深い関係ではないらしく、他人事と言った感じで相手にされなかった。何とか知恵を絞り、解決案を詮索したがもうお手上げだった。
いよいよ時間も遅く暗くなり、主催者がトンズラした今となっては、Fesに居ると言う会計係から渡されるはずのセミナー料も当てには出来ない。第一Fesセミナーの開催自体かなり怪しくなってきた。ほとんど「このままカサブランカからパリへ」と皆の思いが傾きかけていたが、Samirの「Fesの人間は信用できる」という言葉と、「このまま手ぶらで帰ることは出来ない」との塾長の信念が、何とか明日への希望へと思いを繋いだ。
そこで一応Fesに電話し、直前で悪いがセミナーを午後にずらしてもらえるなら、今晩はTangerにもう一泊し明朝タクシーでFesに向かおうと話し合った。そして何度かSamirにFesの責任者Mehdiと交渉してもらい、セミナー時刻の変更を確認した。
「まったくブライムのせいでとんだ迷惑、面倒な役回りを押し付けてしまい申し訳ない、来てくれて助かった」とSamirに伝えたところ「とんでもない、こっちこそ我々の先生が詐欺紛いの行いをし、申し訳なく思う。特にこのまま悪い印象を抱いてモロッコから帰ってもらいたくない。できるだけ良い思い出とともに帰国して欲しい」との返事が返ってきた。この言葉にはググッと来るものがあった。そして実際彼のこの行為が無ければモロッコの印象はブライムのそれと同じものになっていただろうし、あのままFesに向かわずモロッコから撤退していたら、今後のモロッコと大道塾の繋がりが断絶することになっていたかもしれない。
急場を凌ぐ思考をあれこれ巡らせ、グッタリした我々は、この後再び昼のチャイニーズ「LE PAGODE」に向かった。そこで気力を取り戻し、ブライムの秘書から何とかホテルの宿泊費を徴収するようSamirに伝え、明朝8時にホテルのロビーでと約束し、別れた。
翌朝Samirは約束の時間にロビーに現れた。しかしどうも顔色が優れない。もちろんここ連日の疲れもあるのだろう。だが、どうやら肝心のホテル代を半額分しか用意できなかったことを気にしているらしかった。それを見た塾長は「用意したその半額分でさえ、果たしてブライムの秘書から本当に貰ってきたものかどうか怪しい。もしかしたらSamir自身、自腹で都合つけてきたのかも」と心配し、塾長が全額を払った。そしてSamirに言った。「ブライムには全額お前が(Samir)が支払ったことにして、必ず返金してもらい、その金で世界大会に参加するように」・・・この時、Samirの目に光るものを見たのは自分だけだったようだ。
Fesの道場を探し当てた頃には既に13時を回っていた。Tangerから内陸に5時間、乾燥した砂漠をひたすら走った。途中バックギアがおかしくなり、手押しでバックさせたりもしたが、大人5人と4人分の荷物を載せたベージュのメルセデス「Grand TAXI」は無事我々を目的地まで運び届けた。道場は住宅地の一角に、それが道場と言われなければ全く分らないぐらいひっそりとしていた。2時から始まるセミナーに参加するはずの生徒の姿は一人として見えない。いやな予感がした。ともかく建物の入り口をくぐり、出てきた生徒の少し困惑した表情を見ていやな予感が確信に変わった。
彼が責任者を呼びに行く間しばらく待ち、現れたのが細身で穏やかな笑みを湛えたMehdi氏だった。壁中に賞状や認可証などが掲げられた彼の小さな事務所に通され、フランス語の若干解る彼の生徒と自分が間に入り、塾長とMehdiの話し合いが始まった。彼は常に笑顔を絶やさず、まず準備してあった銀皿を手土産に人数分渡してくれた。
それから昨晩セミナーの時間が午後に変更になる連絡を受けたこと。その後中止の連絡を受けたこと。朝集まっていた3、40人がそれを聞いて皆帰ってしまったこと。昨晩はホテルも予約し、歓迎パーティーを準備し待っていたことなどを、穏やかではあるが強い意志を持って話した。昨晩の変更の連絡は覚えているが、中止の連絡はしていない。自分とSamir、SamirとMehdiの間のどこかで食い違いがあったのだろうか。今さらその責任追及をしてもしょうがないし、ブライムが中止連絡をよこした可能性もある。
何と言っても一番の元凶はブラヒムというペテン師なのだ。第一、昨日のうちにレンタカーでTangerを発ってFesのこの道場に着いているはずの当人の姿がここにない事が全てを物語っている。当然Mehdiは何度もブライムに電話したが一度たりとも繋がらなかったと言う話だった。
続いて今度は、我々がここにいたるまでの事の次第を説明した。この話に彼らもどうやら納得してくれたようで、少なからず我々へ向けられた嫌疑は晴らされた。第一本当に後ろめたいことをしていたなら、こんな所までノコノコ顔を出すはずも無い。しかしよくよく考えてみると、こうやってFesの責任者と直接話し、誤解を解くことが出来なければ、あの男のことである、我々の帰国後に全ての原因を我々に転嫁していたであろうことは容易に想像できる。そうなるとまたしても奴の思う壺だ。そして大道塾の信用はこの国では一気に失墜していたことであろう。
話を進めるうち同じ犠牲者同士という同情がもたらすのか、少しずつFes組とも打ち解けてきた。そしてここからすかさず、塾長のリクルーティングが始まった。これにはMehdiも好反応で、世界大会参加、支部加盟など今後は直接連絡を取り合い、早急にもう一度セミナーを開催することに合意した。そしてプロモーションビデオと書類を渡し、記念写真を撮り、先ほど着いたばかりではあったが、早々にお暇することにした。というのも明日はパリに戻らねばならず、しかも自分だけは早朝のフライトだった為、今日中にカサブランカに戻る必要があったのだ。FesからCasaまで電車でもタクシーでも5時間の距離がある。
ところがそうこうしている間にフランス語、英語、スペイン語を何とか操り、唾を飛ばして良く喋る秘書、Azizという男が現れた。そしてこのAzizが塾長にくっついてどうしても離れなかった。カサブランカ行きの電車の発車時刻を調べたいと言う我々を尻目に、Fesに一泊していかないかと譲らない。それが叶わないとなると、歓迎パーティーなども予約してあったそのホテルまで有無を言わせず連行し、子供達がはしゃいでいるプール脇のバーで乾杯した。そして最後はケバブ屋で食事をした。
そうこうしてやっと、長距離バス・タクシーターミナルまで送ってもらった。ここは世界一複雑なメディナ(都市名、迷路の様に入り組んだ構造の街−編集部注)のすぐ脇にあった。彼らと対面し、ここで別れるまでの時間は、ほんの3時間にも満たない。しかしブライムとは丸きり正反対の対応で、信用できそうな人間であることは誰の目にも明らかだった。最後ターミナルで、Mehdi氏は外国人である我々のためにタクシー代を親身に交渉してくれ、貧しそうな子供の物売りから携帯ティッシュまで買って渡してくれる気の使いようだった。
こうして4泊5日のモロッコ遠征の主な予定は片付いたことになる。虚脱感と達成感とが入り混じった複雑な感覚、最後に何とか次に繋ぐ可能性を残せたことが、ひと仕事したなという充実感をもたらしてくれる。もし途中で投げ出していたらきっとこの感覚は味わえなかったであろう。「騙された、運が無かった」と自分を慰めるのみ、何の成果も無く終わっていただろう。
ここから5時間、このタクシーが無事カサブランカまで連れて行ってくれることを祈り、安堵のひと時となった。Mehdi氏が「この方達は大切な人達だからくれぐれも気をつけて」と運転手に散々念を押していた為だろうか、必要以上に安全運転だった。そのせいもあってかカサブランカのホテルに着いたのは23時になろうという頃だった。フロントにまだ営業している日本食レストランを尋ね、シェラトンホテル内の「さくら」に行った。
シェフは日本人という話だが、ウェイトレスは浴衣を纏ったMAROCAINE達だった。心身ともに磨り減って、こうして一息つきたい瞬間には日本食に限る。しかしどうもMAROCAINEの舌に合わせてか変にアレンジしてあり、日本人の口にはフランスに多くある「なんちゃって日本食」と呼ばれるものに近かった。最後にサイコロ大に切られた様々なフルーツが目の前の鉄板で炒められ、シロップとバニラアイスで和えられたデザートが出てきた。この斬新な、寧ろ強引ともいえるアイデアには我々も眼を白黒させられた。だが生憎この味覚を堪能できるだけの最先端の舌は自分には備わってなかった。
翌朝は8:05のフライトでパリ着は13:00。ほぼ予定どおり離陸し、着陸した。カサブランカのホテル「IDOU ANFA」を出る前、塾長と奥さんに挨拶し、自分だけ一足先にパリに戻ることになっていた。Orly空港の出口にはジャメルが迎えに来てくれ自宅まで送ってもらった。この日は丁度オルリー空港出口でちょっとしたデモがあり通路が遮られていた為、雨の中車まで遠回りさせられた。自宅に戻りチョッと一息と行きたいとこだが、今度は自分が塾長一行を迎える準備をせねばならない。直前のモロッコ遠征で振り回されたのでパリでは下手は出来ないとの思いもあった。
車の中でジャメルと簡単な打ち合わせをし、帰宅後早速荷物を解き、塾長インタビューのアポなどを確認した。空港にはジャメルに迎えに行ってもらうことにして、今晩の稽古指導に出た。この日の稽古はパリから北郊外の、98年フランスワールドカップサッカーのメイン競技場にもなったSt-Denisの「フランス競技場」に併設された道場だった。ここは空港からパリへ向かう途中に位置し、稽古の最中塾長一行に覗いていってもらった。
この日の稽古は自分が来ないので自主トレだと思ったのか、参加者は少なかった。塾長と奥さんはジャメルの車で先にホテルに向かわれたが、見学の為藤松君だけは道場に残った。そして折角なので生徒達に秘密のチャンピオンテクニックを伝授してもらい、真面目に出席すると“おいしい”ことがあることを知ってもらった。稽古の後藤松君と一緒にホテル横のケバブ屋で食事して、翌日の「Fight Sport」とのインタビューの時間を確認して別れた。
翌日6月7日の予定は、11:00に「Fight Sport」の編集部があるパリ南郊外のIvry sur Seineでのインタビューだった。これはフランスで一番古い生徒Seryが仲介し実現した。この雑誌は本来フリーファイトを主に対象としているが、折角の機会だからということで話をしたのだ。そして想像した以上に話が弾み、締め切り直前と言う編集長M.Amousseの貴重な時間を予定以上に拘束してしまった。しかし彼も塾長に会えた時間は貴重だったようで、かなり満足していた。最後は編集室並びの、ブラジリアントップチームのフランス支部道場で道着に着替え撮影した。
この後はパリ市内に戻りうどんが評判の「国虎屋」で昼食。続いてパリの名所を車でグルッと周った。一休みした後20:00、Champs Elysees通りからAlma Marceauに抜ける、ブランドショップが多いことで
有名なMontaigne通りを歩き、その中ほどから少し入ったタイレストラン「SIAMIN」にフランスの幹部連中(というにはまだ心許ないが・・・)9名が合流した。このうち自分を除き5名が既に渡日し本部にお世話になっている。我々のみの空間が用意され、料理も上品で誰もが満足した3時間のソワレはアッという間に良い思い出として過ぎた。
こうして塾長と直接顔を会わせ抱負を述べる事は彼らに良い刺激となり、やる気を喚起させる。また自分にとっても、背伸びして見栄を張るつもりは無いが、少しずつでも成長していくフランスの支部を感じてもらえることは光栄で、励みになる。
次の日はヨーロッパの武道、格闘技界に最も影響力のある「Karate Bushido」のインタビューだった。これは「Karate Bushido」と既にコネクションのある格闘技ビデオ、DVDで有名な「QUEST」の木暮優治代表取締役に取り次いでもらった。世界大会の案内を雑誌に掲載してもらったりし、今後とも可能な限り協力してもらうことをお願いした。
以上、何とかこの遠征の全スケジュールを消化した。果たして自分は期待されただけの仕事をこなしただろうか。それも気になるところだが、それ以上にこの僅か7日、諸々が凝縮された非常に濃密な体験が得られた事が嬉しい。視界の隅で捕らえ、言葉には表せない、数え切れない細々した事象に多くのことを学んだ。そしてまた少し人間として成長できたのではないかと思う。
生活の安定化と比例して腰が重くなるのを感じる。一回の遠征でこれだけ神経を磨り減らすのに、こんな遠征を毎週のように繰り返す塾長のエネルギーはどこから来るのだろう。今回のモロッコ遠征は塾長の数あるセミナー遠征の中でもワーストワンとの話だったのでこれを基準に考えることは出来ないが、それでも常識の通じない海外の荒くれ、捻くれ者を相手に、遠く日本を離れ奮闘・交渉するのはかなり骨の折れる仕事だ。確かに海外出張といえば聞こえは良いが、仕事で行くのと観光で行くのとでは背負うものが全く異なる。この点は今後ヨーロッパにおける空道の普及に伴い、移動する機会が増えるであろう自分の未来を見据え、肝に命じ覚悟を決める必要がある。
今回一通りの報告で手早く片付けようと書き始めた。しかしどうしてもあの男の行いに黙っていられなかった。そして日本では分かりにくい塾長のご苦労を知ってもらいたい思いもあった。結果としてここまで長々と書き綴ることになってしまった。不慣れで稚拙な文章に不快な思いをされた方もあったかもしれないが、ここまで目を通して戴けた事を感謝します。
そして最後になりましたが、このような刺激的な経験を提供して頂いた東塾長、奥様、そして大道塾を支える全ての方に感謝し、結びにしたいと思います。
押忍
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