アレクセイ・コノネンコ(東北本部)
2005年7月7日-8月24日
ザ・グレートジャーニー・ジャパン、北ルートの旅は今回の遠征で終わりに近づいてきました。今年の冬、関野吉晴氏と私はマミヤ海峡の氷の上を歩いて、大陸からサハリン島まで渡ってきました。今回は7月から9月にかけて冬で終わった地点から自転車、歩き、カヤックを使いサハリンを縦断し、曽谷海峡を渡り日本までたどり着いて北ルートを無事に成功させることができました。
グレートジャーニー・ジャパンという企画は初めての日本人のルーツを追及している企画です。日本列島居住についてさまざまな仮説がありますが北ルートはその内の一つです。この説によって石器時代の人は移動している大型動物を追いかけ、気候に適応しながら西から東や北東に移動して、その人達の一部はサハリン島を通って日本に進入し、一部はもっと北に進んでベレンギヤ陸橋を渡ってアメリカ大陸にやってきました。この移動ルートについて、特にその年代に関して研究者の意見は一致していませんが、グレートジャーニーのスタッフは細石刃文化という概念を企画の拠点にしました。細石刃文化というのは独特の石器製作技法で広い帯でモンゴルから北東アジア、極東地域、アラスカまで広がっています。この技法は大体20000年前から10000年前まで存在していました。この技法はモバイル生活に非常に適しマンモス、バイソン、トナカイといった動物を追いかける移動生活を続けていたハンターたちのものと見られます。このハンターたちはモンゴルから北東に進み、北から日本列島に入り込んで縄文人の祖先になったのではないかと考えられます。
私たちはこのルートを昨年の夏から続けていて、やっとサハリン島まで着きました。サハリン島は現在日本にもっとも近い外国の土地で昔日本の居住歴史の中で大きな役割を果たした島です。
サハリン島の最古人類についてユジノサハリンスク国立大学の考古学博物館の館長ワシレーフスキー先生にお話を聞きに行きました。ワシレーフスキー先生が紹介してくれたモデルによると昔の人は中国の北部からより強い者に押されて北東に進み、アムール川にぶつかって河口に下がりましたが、厳しい気候や以前にここに住み着いた部族からの争いに耐えられなく、陸の続きであったサハリン島に渡り南下して北海道へ渡っていました。このプロセスは石器時代から中世時代まで何度も繰り返されました。従って、北海道に入っていた人たちは北東アジアの民族競争から逃れた人です。こういった意味でトランジージョン通路になったサハリン島の遺跡はさまざまな文化の入れ替わりが見られるので非常に面白い地域です。現在サハリンで発見された一番古い人類の跡は20万年と15万年前の間と確認されています。そうするとこの地域で始めての人が現れたのは縄文時代よりはるかに早く、中期か前期旧石器時代と考えられます。今日本の旧石器時代の研究は混乱していますが、サハリンで発見されている資料は今後の日本人の起源の研究でとても役に立つでしょう。
19世紀の初めまでサハリン島には先住民しかいませんでした。日本とロシアの商人はこの地域を訪れて貿易を行いましたが、1855年までロシアと日本は共同でこの土地を利用していました。1855年の条約でサハリン島はロシアの土地として両国で認められました。しかし、1905年に日露戦争のロシア敗退の後サハリンの南部、北緯50度まで日本の領土になりました。その時代は40年間続き1945年第二次世界大戦が終戦後にサハリン全体は再びロシア(当時ソ連)の領土に戻りました。
現在サハリン島で先住民と共にロシア人と朝鮮人を初めとして多くの民族が暮らしています。今回私たちはサハリンに着いてから先ず、ニブヒ族という先住民の取材のために一番北のオハ地区、ネクラソフカ村を訪ねました。ニブヒ族はアムール川河口とサハリンの北部に住んでいます。この民族は元々狩猟民で、主に上流に登るサケマス類を獲っています。極東地域ではサケマス類は6月から9月末まで川に上ります。その間に食用に魚を獲って、それから冬に食料と犬の餌として使うために魚を太陽の光で乾燥させる保存方法を適用して保存食にします。この乾燥魚はユーコラといいます。
私たちは今のニブヒの生活を体験するためにニブヒの村に行きましたが、残念ながら現在の先住民の伝統的な生活を観察できる地域はほとんど残っていませんでした。このネクラソフカ村もロシアの他の地域の村とほとんど変わらない様子で、ニブヒの人口の割合が多いということ以外は他の住民と生活はまったく変わりません。昔と変わらないのは、村の役場や生活管理関係の仕事(水道、暖房、電気、建物管理)に関わる住民以外の人はサケマス漁に頼って生活しているというところです。
もちろん、これは昔から生活風習でもありますが、現在は漁を続けるもう一つの理由があります。今、村では他の職業がほとんどなく、魚を自分たちの食料や現金収入のために獲っています。食料のために漁を行うことは問題になりませんが、現金収入になると魚をより多く獲るために人は組合に集まって近代 的な機械を使って(エンジン付きのボート、四輪駆動大型トラック、業務用の網など)魚を多量に獲っています。この行動によって生態のバランスが崩れ、魚は年々少なくなるため政府によって漁の規制が設けられました。現在の規制は、決められた漁の期間内に、先住民一人当たり年間で魚を100キロまで獲ってもいいということになっています。しかし、収入のために漁をやっている人たちにはこの規制に従うと利益にならないため密漁も含めてさまざまな逃げ道を利用してサケマスを多量に獲り続けています。そして、先住民だけでなくこの地域にかかわりのない会社までがここに入り込んで漁を行っています。
この状態は魚に頼っている先住民の生活をさらに破壊してしまいます。私たちは取材のためにこの村のお年寄りを訪ねて昔と今の生活について聞きました。ニブヒは昔から必要な分だけを獲って生活をしていました。そのために毎日魚を3-4匹獲れば十分で、秋だけは冬に向けて秋鮭を多くとって保存食にしていました。今の政府の漁の規制は密漁を止めることと生態を守ることを目的にしていますが、たとえば、自分の食用に鮭を獲る先住民のお年寄りには、決められた期間で一度に魚100キロも必要ありませんが、毎日2-3匹の新鮮なものを獲りたいと話しています。漁の期間内に獲るのは許されますが、期間が終わると密漁者と見られて、捕まったら罰金が科せられることになります。魚を獲ることをやめるしかありませんが、そうすると食べるものはなくなります。こういった状況で密漁をやり続けるしかないというのが現状です。
私は前回の報告書にも書きましたが、現在のロシアの先住民の生活はとても苦しいものです。ソ連政権はまわりの自然に頼る彼らの伝統的な生活を一度壊してしまいましたが、先住民の生活保証の責任をとっていました。ソ連が潰れロシア連邦になってさまざまな社会問題が表れて先住民の権利と生活をサポートできる対策はなく、経済は民営化されて先住民への支援がなくなりました。今でも先住民の人権と生活風習、文化を保護すると同時に自然破壊問題に強く関心を持ち自然保護を行う対策ができていません。
現在サハリン島という地名は世界中に知られています。その理由は石油開発です。石油はサハリン島で19世紀末に発見されました。最初はサハリンの北部で発見されましたが、当時のロシアには開発力があまりなかったため日本を始め外国から専門技師や石油会社を招いて共同で石油の採掘を行っていました。私たちはこの地域を訪ねましたが、ここの石油は一世紀以上採油し続けているため残り少なくなり、残りの石油を取るために包含層に圧力を起こし石油を上がらせますが、その分石油のコストが上がります。現在サハリンの海岸で大きな油田と自然ガスが発見され、その開発にロシア、アメリカ、イギリス、日本の大手企業が参加しています。サハリン島の東海岸と唯一北から南に走る国道付近は大きな工事現場に似ています。数箇所で石油工場、パイプライン、関連施設が建てられています。これだけの多くの海外企業が投資を続け開発を進めているなら、地域起こし(新しい職業、インフラの発達、町起し、人口増加、さまざまの企業やサービス業の加速化など)に役立っているのではないかと普通に考えられますが、実際の状況は異なります。
外国の企業は建設を進めていますがその建設はほとんど油田開発と関連施設に限られています。地方はこの開発からは何も得られないのが現状で、立派で近代的な外国企業の建物とそれに隣接するボロボロのロシアの田舎町の様子が対照的です。インフラもとても悪く、道路状況も最悪で舗装道路は首都都市ユジノサハリンスクから約100キロ半径しかありません。職場増加の期待も外れました。外国の企業はほとんどの専門職の人を外国からあるいは中央ロシアから連れてきます。現地の住民の採用率は低く、特に先住民の採用はほとんどありません。企業は、現地には専門知識を有する人がいないと言い訳を言っていますがその割には人材の育成にほとんど力を入れていません。
企業の従業員が増えると住民の移動と増加が起きますので住宅建設、発展が進むはずですが実際は外国の企業は従業員に限って高級住宅地建設、既にある高級マンションの購入を行っていますがサハリンの一般住民向けの住宅建設ほとんど進めていません。そのためにユジノサハリンスクの不動産や家賃の価格は信じられないほど高くなり、平均的にロシア国内で比べると首都のモスクワと相当します。
もうひとつの問題は自然環境の破壊問題です。石油開発を行っている企業には、自然へのダメージを防ぐためにロシア国によってさまざまな環境制御が設定されてありますが回復できない資源をとるという時点でも既に自然にダメージが与えられています。私たちは今回の旅でいくつかの環境問題を目撃しました。採掘作業は海で行われているため施設を設置するには海底の整理作業が必要です。そのためにサハリン島東海岸の北部でしか生息していないグレーイヴェールという種類の鯨がほとんど絶滅しました。それからいかに対策をとってもたまに石油漏れが起きますので、海の生き物が大きなダメージを受けます。先住民の話から油田開発に伴う海汚染によるサケマスの量が少なくなったと聞きました。採った石油を配送するために同時に二つのパイプラインが建てられています。建設関係者はこのパイプラインが自然に最低限のダメージをしか与えてないと主張していますがパイプラインが通る土地に住んでいる先住民の話から聞くとこのパイプラインのために動物の自然の移動ルートが変化しました。特に、トナカイのルートですがトナカイはパイプを超えないので移動地域が減少してトナカイの数も減りました。
石油開発に関わるこういった問題は解決の見込みが立っていません。この地域を旅した者としての私の印象は、大手企業や政府関係者が儲けのためにサハリン島の資源を利用しているばかりで、ここの住民に何も補償もせず、石油がなくなったらこの場からそのまま消えるのではないかという印象を受けました。
今回の関野氏と私の自転車の旅は昨年の12月に終わったところから始まりました。ここの地名はヴィアフト村です。ここは主にニブヒとエベンキが暮らしています。ここから出るにはひとつの道しかなく、それは悪路です。冬はここに雪が降り、水が凍って比較的平らな道ができますが、夏は湿地を通るので少しでも雨が降ればまったく通れない泥沼に変わります。出発したら自転車で普通に走れる道まで丸三日間かかり、その間に雨が降ったら最悪の状態になります。私たちは運が良く、今年のサハリン島の天気はとても暑くて乾いていました。今回の旅では雨を恐れていましたが、かえって気温は30℃近くなり晴れ続きで、そして山の多い悪路です。普段自転車を久しぶりに漕ぐと初日に足が攣りますが高気温、太陽光と悪路の組み合わせで二日目にはものすごい足の筋肉痛に襲われました。少し状況を甘く見たため、その時に水と食料をあまり持ち合わせておらず、その日の朝はあまり食べませんでした。その日にキャンプを予定していたところまでは、まだまだでしたので旅を続けるしかありませんでした。その時に初めてひどい脱水症状をおこしました。体は震えて目がよく見えなくなり幻覚を見始めました。その時に近くの川で止まり水をがぶがぶ飲んで、持っていたお菓子を全部食べました。そのおかげで誰にも何も言わないで旅を中断しないで進み続けることができました。サハリン島の真ん中で北から南へ走る国道があり、出発の三日後にその国道に着きました。この三日間は今回の旅で一番大変でした。
国道に出ると一日100キロのペースでスムーズに南に進みました。スムーズといってもけして楽な道ではありませんでした。サハリンの国道は舗装されてないので、晴れている時でも50m先は何も見えないほど濃いほこりがずっと浮いています。そのほこりの中を猛スピードで大型トラックが走っているのでとても怖かったです。この時にほこりを消す雨が降ればいいなと思いましたが、実際に雨が降ると道路の表面は泥に変わり、自転車で走るというよりは泳ぐという表現がぴったりでした。悪路と泥のため壊れてしまった私の自転車をだましだましでなんとか進み、最後までたどり着けたのを不思議に思っています。
途中でこの記念像に出会いました。ここは北緯50度の線、昔の日本とソ連の間の国境です。1905年に日露戦争でロシアが敗北した後、ポルトスムート平和条約によって北緯50度からサハリンの南部は日本国の領域に入りました。そして、40年後に第二次世界大戦の時に1945年8月17日にソ連軍はこの線から突入して南サハリンを攻めました。実は日本は8月15日に終戦宣言しましたが二日後に両国の勘違いでソ連軍は攻撃を始め、その時日本軍は抵抗するしかありませんでした。激戦でソ連軍の兵士約2000人と日本の兵士約700人が終戦後に無残にも命を落としました。
この線から南へ進むとあらゆる所で日本人の40年間の生活跡を見ることができます。全ての地名は旧日本名を持ち、所々で日本人が建てた鉄道、建物、工場、港、橋など、日本人の墓地、お寺の跡などが見られます。たとえば、この橋は日本人が建てたもので今でも使われています。建設した当時は交通量も現在より少なかったためこの橋は一車線しかありませんが、ここを通る国道は二車線ですので、この橋を通る時だけは対向車が交代で走っています。
左の写真はユジノサハリンスク(旧名豊原)の郷土博物館の建物で昔役場の建物でした。その他に町の中でいくつかの日本の建物が残っています。
途中で通った町でアジア系のお年寄りに流暢な日本語で話しかけられました。実は戦争が終わってからそれぞれの理由で日本に帰らずサハリンに残った日本人と朝鮮人は少なくありませんでした。こういった人たちは大体小学校まで日本の教育を受け、ソ連になってからはもちろんロシア語を覚えてロシア語で会話をしていますが日本語も忘れていません。
グレートジャーニーのサハリン遠征のひとつの目的は残留日本人と朝鮮人の取材でした。いくつかの家族を訪ねてインタビューをしました。様々な運命に出会いました。戦後に帰ることができなかった人はその後、アイロンカーテンが下り、つい最近までソ連から出ることが許されませんでした。最近は両国の中が良くなり帰国は日本政府に支援されていますが、多くの残留日本人は、人生をサハリンで過ごして家族を持ち生活しているためサハリンに住み続けています。日本には一時帰国という形で何度も行き、親戚、昔の友人、学校の同級生と再会して交流を続けています。
私にとって一番印象が残ったのは朝鮮人の取材です。この写真に写っているのは朝鮮人のおじいさんです。通った町で日本時代の神社の跡があると聞いてこの人に案内してもらいました。ここは昔、神社があった場所ですが、現在はこの鳥居しか残っていません。このおじいさんは町で民宿をもって小学校の同級生を何回も同窓会に呼んで日本との交流を続けています。それからサハリンを訪ねる日本人の旅人を泊めさしたりもします。私たちもお世話になりました。おじいさんの家族はとても親切でたくさん御馳走になりました。おじいさんも奥さんも日本語ができます。日本人が好きで昔の日本時代をとても懐かしがっていました。このような人はサハリンには少なくありません。
現在で北朝鮮、韓国で反日運動は大きな話題となっています。何十年たっても戦争の時の日本が残した傷を憎んでいる人が多くいます。サハリン島にいる朝鮮人は戦争の前に仕事の募集で基本的に強制的に朝鮮と日本から送られました。サハリンで一番辛い鉱山、製糸工場などの肉体労働をさせられました。そして日本人からは差別や虐待があったと思えるのですが話を聞くとそういうことはまったくなかったようです。在サハリン朝鮮人は日本人をまったく憎んでいなく、かえって日本時代のほうがよかったと話しています。日本人も朝鮮人も同じ生活を送っていましたし、戦後残った人はお互いに助け合いながら一つのコミューニティーとして暮らしていました。この話を聞いた時に私は一番感動しました。
今回の旅で一つの大きなテーマとして取り上げられたのはサハリン島の偉大な自然でした。この大自然を体験するために私たちはサハリンの東海岸に立地しているボストーチヌイー自然保護地とチュレーニー島に行きました。
サハリンの東海岸には道路がないため船で海から、或いはヘリコプターでしか行くことができません。そのために人は簡単に入れないので自然がそのままの形で残っています。しかし、オホーツク海へ流れる川を上る鮭を狙う水産会社がほとんどの川の河口で漁を行っています。この活動は水産管理局の管理官により厳しく制御されていますが見えないところで水産会社の活動は自然に大きな影響を与えています。その中でベンゲリ川付近の土地は自然保護地として宣言され、唯一の立ち入りが禁じられている地域になりました。自然保護団体はこの状況をずっと維持しています。そのためにこの自然保護地は動物の楽園になりました。特にサハリンのヒグマの多い地域として知られています。
私たちは、5日間ヒグマの鮭漁を撮影するためにベンゲリ川の河口にある小屋に住み込んで動物の観察をしました。ヒグマはほんとに多くいました。毎日、朝と夜二つか三つの家族が河口に鮭を捕まえにきていました。河口で沢山の魚が集まり後ろから波に押されているため捕まえやすいのです。そのために母親ヒグマは今年生まれた子供をここに連れて鮭の捕まえ方を教えていました。川の河口は小屋からすぐ近く窓から観察できました。一番近い時には50メートルぐらいまで近づいていました。小熊は魚と水遊びに夢中になり何も気づかない様子でしたが、母熊は周りを警戒していました。ヒグマは目があまりよくないため、視界を広げるためにヒグマは後ろ足で立ちます。私たちが近寄りますと母熊は後ろ足で立ち私たちの動きをずっと気にしていました。私たちは毎日テレビドラマのように熊の生活の出来事を楽しんでいました。しかし、最後の日に思わぬ事件に巻き込まれました。
その日は朝から天気が良く森の中を管理官に案内してもらって行こうと思いましたが、突然来るはずのないヘリコプターの音が聞こえたかと思うと、そのヘリコプターが小屋の近くに下りてその中から武装した男が5人降りて、走って小屋まで近づいてきました。はじめは国境警備隊だと思いましたが制服も持っている武器も違うものでした。私たちは銃口を向けられて、一つの部屋に集められ、ここは私有地で一時間以内に来たヘリコプターで出て行けと告げられて、そして行き先は私たちが帰ろうとしていたところから180キロも離れていました。もし私たちがカメラで撮影をしたり、衛星電話で連絡を取ろうとしたら全ての機材を押収すると警告され、男たちのテンションは限界まで上がってきました。武装兵士を少し落ち着かせて責任者とやっと話をすることができ、この状況が明らかになりました。
ボストーチヌイー自然保護地の土地はソ連が崩壊した時期に、ある水産会社が自分の産業活動地域として手に入れました。しかし、ロシア政府が変わった後にこの土地は自然保護地として宣言されて産業活動は中止させられました。水産会社は国の一方的な判断に関して裁判を起こし今年は水産会社有利の判決が出ました。ただし、会社的には自分の利益しか考えてないのでここのユニークな自然には全く関心がありませんでした。それを分かっている自然保護団体は一所懸命にこの保護地を守ろうとしており、力づくでも闘いますと発表しました。抵抗を恐れている水産会社は武装警備を雇って自然保護地の土地に踏み切りました。そして、私たちは自然保護団体の抵抗軍団と最初に勘違いされたようです。その状況を理解した上で、私たちはこの自然に関心を持っていたので直ぐに水産管理局の本部に連絡して管理官にヘリコプターできてもらいました。法律的にこの会社の活動を止める要因はなかったが管理官はできるだけ責任者に説得させようとしていましたがだめでした。その間に作業員を乗せたもう一台のヘリコプターがきて産業活動が始まり昨日まで動物と鳥の鳴き声しか聞こえない美しい自然の中でエンジンの音、ガソリンの匂い、産業ゴミ、工事作業など広がってきました。管理官は隣にタバコに火をつけてため息をこぼしながら「この川もだめか」と残念そうに言いました。
この状況下では私たちはここから出るしかありませんでした。後で水産管理局にボストーチヌイー自然保護地の運命を尋ねましたが州政府は裁判判決に関わらずに活動中止を求めたと聞きました。しかし、少しの間にでも自然に残された傷はいつ消えるのだろうか、ヒグマの楽園は戻るのだろうかと思いました。
今回の旅で、たまたまにこういった争いに巻き込まれましたが、自然はどれだけ美しくて脆いと実感しました。現在世界中で自然破壊問題は注目を浴びていますが、多くはプロセスのスケールが大きすぎて一般の人は把握が難しく、実感ができません。私たちがここで目撃したドラマは一日で展開し人間は利益を求めて楽園を壊し、それは自分の欲望を満たすための資源としてしか扱わないと目撃しました。
サハリン島の大自然を伝えるために私たちはもう一つのところに向かいました。これはチュレーニー島でした。ロシア語でチュレーニーという言葉はアザラシという意味です。ですから、この島はアザラシの島というところです。実は全長600メートルしかないこの島で8万頭のオットセイとトドや、60万羽のオロロン鳥が生息しています。このようなところは世界で3ヶ所しかないようです。
当然このすばらしい環境を守るために島の立ち入りは厳しく制限されています。この島に行くにはポロナイスクという町から船で8時間かかります。そして島には港がないので沖で止まっている船からボートで上陸しなければなりません。波の高い時にはこの上陸方法は非常に危険です。島には水が全くないので行くときに食料と水をすべて運ばなければなりません。帰りでもし嵐で島から船までいけない場合は、何日も続くことのある嵐が収まるまで待たなければならないで、その時に備えて充分な水がないと非常に危険です。島では客が泊まれる施設があってそしてオットセイとオロロン鳥の生活を妨害しないために人間が活動できるスペースと動物のスペースが柵で区切られています。何箇所かで観察塔があり島で起きている動物の生活を見られるようになっています。この島の小さいスペースの中に溢れんばかりの動物がいて圧倒されます。そしてそれだけの数のある鳥のフンの匂い、ずっと鳴き続けているオットセイとトドの鳴き声は言葉で伝えられないぐらいすごいものです。この島に研究者、動物写真家がよく来ます。我慢強い者は一ヶ月以上ここで滞在して観察を行っています。島の周りの沖20マイルのゾーンは船立ち入り禁止海域で動物たちはほんとうにのんびりできるところです。私たちはこの島で三日過ごしました。案内してくれた人の話を聞くと今年生まれたオットセイの子供は特に多くて2万頭ぐらいいました。今年生まれた子供は色が違うのですぐに分かります。子供はまだうまく泳げないので岸の近くの海で遊んだり、ビーチでくつろいだりします。私たちのいた時期はちょうどオロロン鳥の巣立ちに当たりました。親は鳴いて子供を少しずつ海のほうへ連れて行きます。子供はまだ飛べませんが海に近づいて急に飛び込みすぐに泳げるようになります。チュレーニー島で過ごした時間はとても貴重な経験になりました。
関野氏と私の自転車の旅は順調に南に進んでいました。予定ではサハリンの最南端クリリオン岬に着いてそこからカヤックで曽谷海峡を渡るという予定でしたがユジノサハリンスクを過ぎたところでクリリオン岬まで自転車で通れる道がないと分かりました。70キロ手前から岬まで何もないという情報が入りました。自転車で行けるところまで行き残りの距離を歩こうと決めました。道路はサハリン島の西海岸を通るため途中で山を越えなければなりませんでした。登り20キロ、下り20キロという今回が一番きつい山道でした。そしてクリリオン岬まであと70キロぐらいのところで道がなくなりここから歩くということになりました。昔日本時代のときにはここに車が通れる道があり、今は日本人が作った道路が部分的に残っていますが多数の川を渡る橋は壊れていて通ることができません。漁師さんと国境警備隊は大型前輪駆動のトラックで海沿いの浜をクリリオン岬まで走れるので私たちは同じ道を歩くことにしました。関野氏と二人で20キロぐらいの荷物を背負い砂浜を歩き始めました。カヤックで海峡横断の日程は決まっていたので70キロの距離を二日で歩かなければならなく、一日30キロというのは準備期間があればだれでも一日歩けば歩けるぐらいの距離ですが、私たちはいきなり歩き始めて、下は不安定な砂で、上は暑い太陽の光で結構大変な散歩になりました。初日は水ぶくれが足裏にできて二日目はそれを踏まないようにしたため、変な歩き方になり最後に膝関節が痛みました。夜は浜にテントで泊まりました。明日のために水を冷やそうと思い近くの川にペットボトルを沈めましたが朝になってみると潮で海に流されてしったので、次の日は飲まず食わずで出発しました。
キャンプしたところから朝、北海道の山が見えました。ここで日本の近さを感じました。南に進めば進むほど回りの風景は日本の北海道の風景に似てきました。ここまではなかった植物のササが見えてきて日本の山道を歩くような感じでした。
クリリオン岬に着いた瞬間はものすごく濃い霧に包まれました。周りの風景まったく見えなく、次の日には晴れましたが現地の人に聞くとこの最近の4ヶ月の間に晴れる日は二日だけということでした。実はクリリオン岬はオホーツク海と日本海が出会っているので水温、塩分が違うために岬はいつもに霧に包まれています。
このクリリオン岬で私と関野氏の旅が終わりました。最初は一緒に北海道までいく予定でしたがカヤックで曽谷海峡横断の旅の様々な困難があったため私は伴走船で撮影スタッフと一緒に通訳として同行することになりました。関野氏は昔から付き合っている友人、有名なカヤック冒険家の谷川純一郎さんと二人乗りのカヤックで曽谷海峡を始めてカヤックで渡ろうとしていました。許可関係でクリリオン岬から出発は許されなかったためクリリオン岬から沖に出てそこでGPSで座標を図りました。それから港町コルサコフに戻り出国手続きを受けてカヤックを乗せたヨットでそのポイントまで来てそこでカヤックを下ろして北海道、曽谷岬へ向かうという段取りとなりました。国境を越える許可を取得するには時間もかかりとても面倒なことなので海峡横断は一本勝負で、出発の前に皆が「うまく行くのかな」と緊張しました。
曽谷海峡は一番狭いところで42キロしかありません。カヤックの時速は大体8キロで順調に行けば5時間半で渡れるはずですが実際はとても難しいチャレンジです。オホーツク海の冷たい水と日本海の暖かい水がぶつかってとても強い複雑な海流が生じます。その海流は強いときに時速8キロもあるため間違ってそこに入ると思い切り漕いでもまったく進まない、あるいは逆に沖に流される可能性があります。海峡の真ん中で多くの海水動いているため強い風が吹き、そしてその風の影響によって穏やかな天気でも波が高く、その他に海水の水温差のために真ん中でよく濃い霧に負われます。方向を失って迷ったらどこにも着かない危険性があります。とても恐ろしいところです。そして日本はロシアと同じく曽谷岬で入国手続きできないので上陸せずにそのまま稚内まで行かなければなりませんでした。これは曽谷海峡の42キロにプラス20キロという意味でした。
ヨットのクルーは以前に海峡横断を試みた冒険家に伴走していたが「本当にずっとカヤックで漕ぐのか、着かないのではないか」と疑っていました。しかし、関野氏たちは出発して北海道に向かいました。海流に流されないため2時間毎でカヤックに乗ったままで5分の休憩というペースで前に進みました。最初は天気も波も穏やかでしたが海峡の真ん中に近づくと恐れていた通り向かい風が吹き始めて波は一気に上がってきました。波と風と戦いながら前に進んで海峡の真ん中で日本領域に入ったところで、ヨットには日本国旗が上げられ曽谷岬が薄く見え始めました。曽谷岬に近づくととても強い海流に巻き込まれて2時間漕いでもほとんど前に進んでないようでした。後で話しを聞くとそこで諦めそうになっていたそうです。そして、海流を避けるために岸に近づいて岸沿いに稚内を目指しました。岸の近くは浅いためカヤックに同行していたヨットは座礁寸前の危機にあいました。そこで一回離れて先回りし、稚内港の入り口でカヤックを待つことにしました。間もなくカヤックが見えてきて一緒に港へ入りました。港では稚内の住民の方がとても暖かい歓迎をしてくれました。
最終的には、この海峡横断は13時間続き、実際に漕いだ距離は約80キロになりました。関野氏と谷川氏は13時間ずっとカヤックの中で過ごして海を渡って日本に戻ることができました。カヤックで曽谷海峡横断が成功したのは史上初めてでした。
ここでザ・グレートジャーニー・ジャパン、北ルートの旅は終了しました。昨年の夏にシベリアから出発して約3500キロの旅を経てやっと日本列島にたどり着くことができました。私はこの旅でたくさんの人に出合い、様々な景色を見て、色んな生活を体験したことで、私の人生の大事な勉強になりました。途中で色々なことがありましたが無事にゴールを達成したことはこの旅の試練に成功したのだと思います。私は現代人であって、いくら古代人の研究、勉強をしても古代人の目でこの世を見ることはできませんが、旅をして本、情報、メディアからではなく自分の体の感覚から地球の広さと同時に狭さ、美しさと同時に醜さ、巨大さと同時に脆さを感じることができました。おそらく昔の人でも感じたであろうこの感覚を歴史の中で消えた先祖と共有することで、私はこの地球で住んでいる一人の人間だ、ここは私の家だというふうに感じました。私たちは自然と比べると弱い生き物で、砂の粒子に過ぎないのですが、私たちがもっている力、それは知恵です。この力は私たちのツールでどんな難しい環境のなかでも人は発展し、前に進みます。しかし、この知恵の力を把握できない私たちは、私たちの家である地球を変えています。その結果はどういう未来になるだろうかと私は考えています。
私の旅は今回で終わりましたが、企画自体はまだ続いています。関野氏は早速10月にネパールに行く予定です。続けて初めての日本人のルーツを探ります。北ルートの旅で集めた資料は一つの番組になります。放送予定は来年です。ぜひ番組ができたらご覧になってください。
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