「仙台学Vol.3」のご案内


「仙台学」に東北本部アレクセイ・コノネンコ師範代が愛する街、仙台への思いをつづった文章が掲載されました。

仙台学vol.3 「仙台学」Vol.3
1,575円(本体価格1,500円+税)
2006年7月14日発行
仙台市内主要書店にて販売中
問い合わせ/別冊東北学編集室(有限会社 荒蝦夷 内)
電話・ファクス/022-298-8455

当記事は別冊東北学編集室様の了承を得て転載したものです。

異邦人たちの仙台

ここが「私の家」〜あるロシア人青年の仙台

アレクセイ・コノネンコ

仙台に暮らして一一年。仙台の女性と結婚して、間もなく子供も生まれる。そんなロシア人青年に、仙台について書いてもらった。ロシア語の原稿を日本語に翻訳したいと伝えると、彼は「自分で、それも日本語で書きたい」と応じてくれた。まずは、お読みいただきたい。異国からやって来た青年が仙台で過ごした年月が、ここに凝縮されている。


不思議の国ニッポン


 私が初めて仙台に来たのは一九九四年です。その時は、東京から車で来ましたが、未来のメガロポリスである東京に密生している建物から、森と山に変わる道路脇の景色ががっかりする気持ちをもたらしてくれました。当時、ハリウッドのSF映画で見るような未来都市を日本に期待していましたが、仙台に近づくと、ロシアで飽きるほど見た自然ばかりという初めての印象を覚えています。

 あれから一〇年以上たちました。私は今も仙台で暮らしています。仙台は私の家になって、ここで私自身と私の愛を見つけました。一九九八年の正月に私の妻と出会いました。彼女は仙台出身で、付き合ってから八年、結婚してから六年たちました。現在、私は東北福祉大学の考古学研究室の助手と、大道塾東北本部の師範代をやっていて、とても充実した生活をおくっています。一〇年間の間に仙台で色んな体験ができて、この町の見方が変わって、ここに導いてくれた運に感謝しています。

 私は一九七四年にロシアの極東で一番大きい都市であるウラジオストックで生まれました。この都市はロシアと中国、北朝鮮、韓国、日本が結びつく交差点です。ソ連時代、日本はアメリカの同盟国の資本主義国というわけで、敵国と見られて、ソ連とほとんど縁がなかった。しかし、ウラジオストックは港町で、船で働いている同級生の親は、資本主義の日本に時々入港して、スニーカー、ガム、安いデジタル腕時計、ヘアヌードの写真が載っている雑誌を持って帰ったりしました。小学生の私たちは、日本という不思議な国についてたくさんの伝説を聞いたりして、ソ連の鉄のカーテンの向こうから入ってきたものを求めて、仲間たちの色んな宝物と交換してました。その時代、日本の電気製品は世界一だ、日本には空手と柔道があるから日本人は小さいがとても強いとしか知らなかった。

 私がほんとに日本に興味を持ち始めたのは一九八五年でした。その年に私の父親はつくばの科学万博(国際科学技術博覧会)に行って日本についてたくさんの情報を持ってきました。お父さんの話を聞きながら、持って帰ってきた写真や雑誌を見て「なんか不思議なところだな」と思いました。特に印象的だったのは展示場の案内パンフレットで、写真に今まで見たことないきれいな風景が映っていました。その時に私にとって日本はとても行ってみたいファンタジー・ランドに見えました。

 高校卒業後一七歳になった私は、極東国立大学の東洋学部中国語学科に入学して、東洋古代歴史を専攻しました。中国を専攻として選んだが、日本に興味を持ち続け、日本語の独学を始めました。私は子供のころから古代歴史に興味を持っていたから、よく考古学の発掘調査に参加していました。沿海州には中世の遺跡がたくさん残っていて、主にその調査に関わっていました。一九九二年に東北福祉大学の梶原洋教授が、初めて沿海州を訪ねて、沿海州の旧石器時代の調査に興味を示して、そこから七年にわたって露日共同調査が始まりました。私はこの調査に加わって、日本列島と大陸の文化的なつながりに興味を持ち始めました。

 ほぼ同時に、私は空手を始めました。子供のころからサンボや柔道をやっていましたが、ソ連では空手は日本の軍国主義の象徴とされて禁じられていました。柔道の場合はオリンピックスポーツだったため大丈夫だったが、完全にスポーツとして教えられて、柔道の伝統や文化は全く習ってなかった。



ソ連崩壊と大道塾との出会い

 一九九一年に様々な社会的、経済的、政治的な問題を背負ったソ連は、国民の投票によってなくなり、その代わりに独立諸国連邦が宣言され、自由の空気を味わい始めた諸国は次々独立を求めて脱連していきました。全てが崩れました。その時に私は一七才でした。起きたことの重大さが分かってなかった。

 全国的に開放感の雰囲気が飛び、過剰な盛り上がりが起き、それはまた自分の大学の入学と重なり、友達とパーティばかりやっていました。ウラジオストックはモスクワからとても離れているから、社会的に中央地域ほどの反響がなかったが、やはり普段の生活も少しずつ変わり始めました。先ず、大学に入ったら多くの学科がカリキュラムから消えたり、名前が変わったりした。たとえば大学で必ず学部を問わずに習う「政治的経済学」(マルクシズムの視点から現在の社会を評価する学科)という科目でした。それから学校で神様のように扱われた社会主義のリーダたちが、テレビの番組でシャワーのように批判を浴びさせられた。そして次々変化がおき始めた。国の名前も変わる、国歌、国旗も変わる、法律も変わる、物価も給料も変わる。考えていること、話していること、やっていることも変わる。とにかくムチャクチャな世界になってきました。

 ソ連が崩壊して、できなかったことができるようになって、いろいろ試してみて、最終的に空手道大道塾にたどり着きました。大道塾は一九八一年に極真空手から離れた東孝先生によって創立された仙台で生まれた流派で、比較的に若い流派です。しかし、武道文化の伝統を守りながら様々な技を取り入れた実際的な格闘技なので、多くの人の心を引いて、世界中にあっという間に広がりました。その海外支部第一号はウラジオストック支部となりました。

 ウラジオストックで初めて大道塾を開いた人は、それまで別の格闘技をやっていて、その道場生の一人が船員だったので「日本は、せっかく近いから、空手の発祥の地だし、日本にいくときに交流できる道場を探してくれないか」と、その人に話した。道場生は船で新潟に行った時に、大道塾新潟支部を見つけて、交流が始まって、一九九三年に東先生はウラジオストックを訪ねて、ウラジオストックの道場は海外支部一号となりました。

 私も大道塾に引かれて「自分に一番合う」と感じて始めました。始めたころはただ実際的な強さを求めていましたが、やり続けるともっと深い興味を感じて、「発祥の地で修行してみたい」と思いました。

 私が初めて日本に来たのは一九九三年の一一月です。大道塾の北斗旗全日本大会の出場のために来ました。当時、海外の大道塾はロシアだけで、北斗旗はオープン・トーナメントだったため、東先生はロシア選手の出場を認めていました。

 初めての日本の印象は、なにか非現実的なおもちゃの国という感じでした。何でもコンパクトで小さくてきれいに見えました。その時、私とチームメートたちは日本について何も知らなかった。ホテルの使い方とか、地下鉄の乗り方とか、買い物の仕方とか何でも戸惑いました。お店に入ると「いっらしゃいませ」「ありがとうございました」の叫び声にびっくりしました。ロシアでは昔から店とかレストランのサービスの悪さが有名で、店員がお客さんに笑顔を見せたり、親切にしてあげたりすることがめったにないし、大体声を上げることはお客さんと口論しているときだけです。夜になると車をそのまま外に残しているのを見て、何か間違っていると思いました(ロシアでは今も鍵がかかる倉庫にいれるか、警備のある駐車場で停めるのが常識です)。粗大ゴミの中にテレビとかカセットデッキとか捨てられているのを見てショックを受けました。「何て豊かな国だ」と思いました。

 東京という大都会は圧迫感があって、自分の個性がマッシュポテトみたいにつぶされて溶かされるように感じました。巨大な蟻塚に見えて、自分はその中の一匹の蟻に過ぎないと思いました。日本にいた約一〇日間ずっとお腹がすいていました。恐らくロシアほど肉や脂が料理に入ってないからです。今は平気ですが、すしや刺身を見ると「生ものをよく食べるな」と思いました。ロシアでは生魚を食べる習慣がなかったからです。

 つまり私は初めて日本に来たときに大きなカルチャーショックを受けました。しかし、少し時間がたつと、一時間地下鉄に乗っても、地上にあがったら乗ったところと全く変わらない風景が見えるというコンクリート・ジャングルの東京に慣れて、都会の生活が気に入ってきました。この後、空手の試合で何回か東京と仙台に来て、日本にとてもあこがれるようになりました。


ウラジオストックから仙台へ

 私はこのように東京を体験してから仙台にやってきました。一九九四年に仙台を初めて訪ねたのも空手の大会出場のためでした。しかし、住む場所として、最初から仙台を選んだわけではなかった。仙台もよかったですが、日本の普段の生活リズムに触れてその文化を味わいたいと思って、どこでもよかったです。そのタイミングに、ロシアで露日共同調査を経て東北福祉大学に留学できると梶原教授から聞きました。同時にやっていた大道塾は仙台で生まれたと分かって、仙台で道場があり内弟子を募集していると知り、連絡を取って親切に受け入れてもらいました。

 最初に一年だけのつもりで、東北福祉大学の研究生兼大道塾東北本部の寮生として、一九九五年の九月に仙台に来ました。それから今年は一一年目になりますが、その間にロシアと日本で習ったことを土台にして、東北福祉大学の考古学研究室研究助手と国際空手道連盟大道塾東北本部の師範代になって、フジテレビの「ザ・グレートジャーニー」の企画で探検家の関野吉晴氏と、シベリア、モンゴル、中央アジア、中東の自力の旅に同行して現場通訳を務め、それから宮城県警の民間通訳として登録して様々な現場で日本とロシアの交流の分野で頑張ろうとしてきました。

 一九九五年の九月に仙台に来てから数日後に、仙台ストリートジャズフェスを見た。一つの演奏者から次のバンドへと町を歩いたときに味わった鮮明さ、ゆとり、雄大さの感覚をいまでも覚えています。夜になると友達が国分町につれてくれて、そこで仙台のスタイリッシュと同時に下品な禁断感のある夜の生活も体験しました。仙台に住み始めて少しずつこの町を学習しました。初めに休みのときにただ町をぶらぶら歩いて人を観察していました。人はこの町の宝物だと思います。はっきりした表現できないし、これだという例も思い浮かばないですが、自分が生まれたところと似たような親切さと心の広さを感じました。

 日本に住む前に日本に行ったことある同級生から、日本人は表情を出さない、ずるい、冷たいとよく聞きました。私は運がよかっただけかも知れないですが、仙台に住んでいて、悪者で、ずるいと言えるような人に会ってない。もちろん、私は気に入っている人とそうじゃない人がいますが、「この人からできるだけ離れたい」という者がいないです。今は東京の出張から帰ってくるときに、仙台で新幹線からホームに降りる瞬間にホットする。「家に帰った」という感じです。

 私はしばらく仙台に住んで、町の中心だけではなく、仙台の付近を旅できるようになって、仙台の生活の中で自分の趣味を見つけて、仙台を違う場面から発見できました。それは町を包んである自然です。私は昔からアウトドアスポーツが好きで仙台のまわりの環境は最高の遊び場を提供してくれます。数年前からサーフィンを始めて太平洋の海岸線沿いに無数のポイントは私を待っています。冬は少し寒いですが、ロシア出身の私にとってこの仙台で「寒い」と言うのは恥ずかしいです。寒さを少し我慢すれば、同じ日にスノーボードもサーフィンも楽しめる環境は世界中にそんなに多くないはずです。

 私が仙台に来たばかりのときに外国人はとても少なかった。町ですれ違うとお互いに挨拶するぐらいです。ほとんどの外国人はお互いに知り合っていました。ほとんどの外国人は留学生か英語の先生だった。その中でロシア人はほんとに僅かしかなかった。仙台は日本の太平洋海岸に立地しているので、残念ながらロシアとの交流は今でもあまり盛んではないです。

 今は変わっています。仙台に住んでいる外国人は増えてスーツを着ている外国人、作業服を着ている外国人、車を乗っている外国人をよく見かけるようになって、つまり、仙台はよりインタナーショナルになって、多くの人は仙台を働くところと住むところとして選ぶようになって来ました。短いあいだ来ている人もいるし、これからずっと仙台に住みたい人もいます。私も色んな国の外国人の友達ができました。それぞれを仙台に導いた道があって、それぞれの経験をして、仙台に住んでいます。ここで私の二人の友達を紹介したいと思います。 


マオリの血をひいて

 私の友達のジェーリー・パランギは三五歳です。ジェーリーはニュージーランドから来ました。初めて会ったのは六、七年前ぐらいのことですが、ほんとに友達になったのは三、四年前です。ジェーリーは仙台で七年住んでいて、英語の先生をやっています。それから、アダム・リューイス、二七歳です。アダムはオーストラリアから来ました。私が初めてアダムと会ったのは去年の夏でした。サーフィンしているときに海で会いました。仙台の海で外国人はあまり見かけないので、近づいて話してみました。その時から一緒に海に行くようになりました。

 ジェーリーはニュージーランドの北の島にあるファオロ地方、カエーという人口の二〇〇〇人ぐらいしかない小さい町で生まれました。町の人は主に漁業と農業をやっています。子供のころ東海岸にあるケリケリという町の近くのテーチーという村で過ごしました。聞きなれない地名の名前ですが、実はジェーリーはマオリ族で、この地名もマオリ語の地名です。マオリ族はニュージーランドがイギリス人によって発見される前に、そこに住んでいたポリネシアン系の民族です。ジェーリーはマオリの血が混ざっていてその文化を背負っています。

 私は初め留学生で日本に来ましたが、ジェーリーは最初から英語の先生をしに来ました。彼にどういうきっかけで日本で仕事を探し始めたかと聞くと「大学を卒業してからニュージーランドで小学校の先生をやりましたが自分を見つけられなくて何か違うものを求めて海外へ旅立つ決心しました。多くの友達はオーストラリアやイギリスに行きましたが、皆は英語でしゃべるし、環境はあまり変わらないし、ニュージーランドの人がいっぱいいるから、今までと全く違う文化、違う環境を体験してみたいと思いました。その時に日本の神戸で二年間英語の先生をやって日本人と結婚した同級生に会いました。その友人は、海外に行きたいなら日本がいいじゃないかと勧めてくれました。そこでやってみようと思って友人に勧められたJETプログラムに参加しました」と説明してくれました。

 JETプログラムというのは日本の文部科学省が実施している英語のネイティブ・スピーカーの教師招待プログラムです。大学の卒業生が日本大使館や領事館に申請して採用されれば日本の学校で英語の教師として働けます。ジェーリーはこのプログラムに参加して一九九七年に初めて仙台に来ました。その時から仙台と大和町の幼稚園から大学までの様々の教育施設で英語の先生をやっています。

 ジェーリーは「日本に行く決心したころに自分自身をマオリ族として発見し始めて、自分の文化に興味を持つ人を探したかった」と話しています。ニュージーランドでマオリ族の人種差別問題は今もあるようで、民族性だけで人を判断することが多いんだそうです。ジェーリーは大学時代に七年間、首都のオークランドで過ごして、そこで様々な文化や人に会いましたが、自分をマオリ族として表現することができなかったそうです。そこで、違う国に行ったら自分がマオリ族だと誇りをもって自分の文化を紹介できるではないかと思いついたのです。日本はマオリの人が少なく、自分の文化に興味を示してくれるのではないかと思って、自分の人生の中で何かを変えたかったという気持ちがあって、日本はその解決方法に見えました。

 この話を聞いて私は少しうらやましく思いました。なぜなら私は、自分の民族性アイデンティティの意識がないと言ってもいいほど、ロシア人としての意識が低いのです。それを言うと批判されるかもしれないですが、もちろん、私はロシア人として誇りを持っているし、自分の国の歴史的、文化的な役割を評価しているし、自分がロシア人だと隠していないですが、自分の国の文化を守らなければならないとか、広げなければならないとか、国のためにロシアの国民の一人としてがんばらなければならないとかといったようなことに関心がないです。

 実際に、時々通訳の仕事をしているとき、ロシア人に「もっとロシア人的に行動しなきゃ、先ずロシアの味方にならなきゃ。お前はもうロシア人じゃない」といわれることがあります。空手の大会のときに、自分の応援はロシア人より日本人のほうが多く、自分の弟子がロシアの選手と試合しているときに、どっちかというと日本人の弟子のほうを応援していることもあります。

「なぜ私はこんなに国民性や民族性に無関心だろう」と何回も考えたことありますが、先ず、二つの理由を思いつきました。一つ目は、私がソ連という国で生まれて児童期と青春を過ごしたが、今はその国が存在していないことです。今、私はロシア連邦という国の国民です。ソ連からロシアに変わったときにそれまでに教えられたことの全てが一八〇度変わりました。多くの国民には大きなショックとなったが、私たち若い世代は、よりスムーズにこの移行期に適応できました。しかし、なんらかの影響は受けたと思います。だから、私は自分の国にそれほど愛着心がないんじゃないかと思います。

 もう一つは、私たちが、国、民族、文化という言葉を口にするとステレオタイプが多く現われます。このステレオタイプは、歴史、文化、メディアによって形成され、「某国が寒いとか暑い」とか、「某民族がずるいとか冷たい」とか「某政権はよくない」とかと一言で多くの人とその人の生活環境にタグを付けます。私もそうだった。しかし「ザ・グレートジャーニー」の仕事で色んな国に行き、色んな人と会って、一緒に辛いこと、嬉しいことを経験して、その中で国と政権と関係なくいい人と悪い人がいました。こういう経験して、私は人をある国の国民としてではなくて一人一人その人格で判断することに決めました。私自身も同じように思われたいから、ロシア人だからといってではなくて、私の行動で判断されたいと思います。


ジェーリーの仙台

 ジェーリーが参加したJETプログラムは日本の中で三つの希望場所を指定できます。日本の地理についてなにも分からなかったため、彼は友達から九州がいいと聞いて、第一候補で九州と書きました。第二は、ちょうど長野オリンピックの直前だったから雪がいっぱいあって、スノーボードできるじゃないかと考えて、長野にしました。第三候補は、北海道が面白いと聞いてそこにしました。結果的には、なぜか仙台に決められましたが、どこでもいいから行けることだけで嬉しかったそうです。

「日本に来たのが七月だったので、初めての印象は暑くて湿度が高く、人がいっぱいで、外国人が少ないということでした。仙台については、初めて来たときに新幹線で来たので、ホームに降りたときまだ東京の続きだと思いました。東京で新幹線に乗ってビル、町、いくつかの田んぼを猛スピードで通り過ぎてまた都会でホームに降りるという感じでした」

 ジェーリーは仙台に来たときに、他の英語の先生たち、二〇人ぐらいと一緒でした。皆は世界中から集まって、全く知らない都市に来て、とにかくなんでも新鮮な感じだったそうです。これから新しいところで暮らさなければならないから、一緒に来た人たちと親しくなって、仙台というロケーションを探検すると決めました。

「仙台に関して一番強い最初の印象は最初の夜に受けました。歓迎会が開かれて皆と飲んでいましたが、今まで友達と飲んでいる時となにも変わらなかった。歓迎会に仙台で三、四年前から同じプログラムで働いている人たちがいました。一人のカナダ人が「ほんとの仙台を見せてあげるから一緒に来いよ」とジェーリーを誘いました。皆から離れて国分町の横丁に入って、細い道沿いに小さいバーがたくさん並んでいて、中に日本人しかいなかった。そこでカナダ人と飲んで、初めて自分は違う文化、違う世界に来たから、これからこの世界を探検しなければならないと思いました」

 ジェーリーは様々な文化活動、たとえば花見やどんと祭やすずめ踊りに積極的に参加していましたが、初めて仙台の雰囲気、リズムを感じたのは、来てから四年目のことでした。それまでまわりの友達はほとんど外国人か英語を話せる日本人だったので、色んな文化交流に参加しても、日本の生活に溶け込めなかったそうです。四年たってから初めて普通の日本人の友達ができて、友達と一緒に日本の生活風習を体験できるようになってきました。友達は英語できなかったため、自分が日本語を習ってコミュニケーションをとる努力をして、日本語と日本人の友達を通じてまわりの人が日常にやっていることができて、日本の文化をより深く理解するようになってきました。

 私の場合は、ジェーリーのように文化交流イベントには参加しませんでしたけれど、最初から空手の道場の内弟子という厳しい環境に思い切り飛び込んで、先輩後輩関係、上下関係、礼儀を、怒られながら自分の体で覚えました。まわりは日本語しか通じなくて、私は生き延びるために日本語を必死に練習して覚えました。道場で死ぬ気でぶつかりあい、その後に一緒に飲んでわいわいして、ほんとの友情が生まれました。最初の三年間、友達は日本人しかいなかった。これは日本語の上達の鍵となったと思います。歴史と文化について分からないところがたくさんありますが、他の外国人と比べたら日常の生活でまわりの人とより理解がある気がします。

 ジェーリーは、今、すっかり仙台人となって、仙台で祭りが一番好きです。色んな人と出合えて、友達になれるからです。彼の考えでは、仙台の印象は会った人にかかっています。人は色々ですが、いい人に出会えば仙台は最高の居場所になるに違いないそうです。ジェーリーは今まで仙台で色んな人と会って、全体的に皆は優しいという。たとえば、困ったときに通行人のだれかが、自分の用事を忘れて案内したり、手伝ったりします。その一方、逆に声をかけたら無視されたり、逃げられたりすることもあります。

 ジェーリーは、現在、仙台に住んでいて、仙台が好きと話しています。仙台はとても住みやすく、海もあって山もあって、大都会なのに田舎の雰囲気があります。気候もマイルドで、夏は暑くて、冬はあまり寒くないです。しかし彼にとって仙台に住む一番大きな理由は、仙台で自分の家族と同じように親しくなった友達と出会えて、その友達がいるから仙台での生活が楽しいんだそうです。

 今、ジェーリーは個人の英会話スクールで働いていて、仕事が多いですが、公立学校と比べたらより自由な今の職場が気に入っています「全体的に日本では英語教師の仕事が増えているから、外国人にとってチャンスが多いですが、もしマイルドな気候が好きで、スノーボードとかサーフィンなどが好きだったら仙台はとてもいい住みかになります」と彼は話しています。

「八年仙台に住んでいて、その間に多くの変化を感じました」と彼は話しています。先ず、住むところと働くところとして、仙台を選ぶ外国人が増えて、仕事の競争率が上がりました。しかし一番変化を感じたのは、仙台の安全性が変わったというところです。ジェーリーは、育った環境が様々な社会問題があって、決して安全ではなかった。仙台に来た時に、先ず安全に驚きました。日本にも犯罪が起きたりするとニュースで見ていたが、大体東京とか、大阪とか、大きなところのことで仙台は出てなかった。しかし、最近人が増えて、仙台に住む外国人も増えて、事故やトラブルが起きたり、自分が巻き込まれたりしたことから、時々危険を感じるようになりました。

 たしかに仙台で暮らす外国人が増えました。私は自分の経験から仙台の安全性を疑ったことはないですが、宮城県警で民間通訳している間に、同じ国の人が犯した犯罪や事件がある一種の犯罪から範囲が広がっていると気づきました。たしかに外国人による犯罪が増えています。それは仙台がよりインタナーショナルになった証で、仙台に来る人の中で、安全な、警戒心の弱い日本での生活を、自分の国で得られない大儲けのチャンスと見て、その手段を選ばない人もいるということではないでしょうか。

 ジェーリーは、少なくともこれから数年、仙台で暮らす予定です。現在は英語の教師をやっていますが、できればいつかマオリ族が属する南太平洋文化を普及する民芸品や伝統衣類の輸入商売を始めたいと言っています。ジェーリーは「仙台に長年住んで、仙台に感謝しているから、マイ・ビジネスも仙台で始めたい」と言っています。


ゴールドコーストから来た「外人」

 私の友達のアダムは、日本に来てから六年目です。彼はアメリカで生まれましたが、両親が離婚して、お母さんとお姉さんと一緒に一九八二年にオーストラリアに渡りました。オーストラリアで、シドニー、ゴールドコースト、ブリスベーン、ケアンズを転々としました。「自分の今までの人生の中で一箇所で一番永く住んだのは仙台かもしれない」と笑って話しています。アダムはアメリカとオーストラリアの二重国籍ですが、オーストラリアのゴールドコーストを自分のふるさとと考えています。

 アダムは一九九九年に初めて日本に来ました。それまでオーストラリアの会社で自然環境コンサルタントをやっていました。建設工事の前に、その土地で珍しい植物や動物があるかないかと調べる仕事です。その時に、まわりの環境に少し飽きてしまって、何かの刺激がほしかったそうです。アダムのお姉さんは、二年間、日本でホステスとして働いていて、アダムに日本で働いたところを教えました。彼は、働いて稼ぎながら新しい国を冒険したいという軽い気持ちで日本に行くことにしました。

 アダムは最初にお姉さんが働いた山梨の同じバーでホストとして働き始めました。バーで半年ぐらい働いて、山梨で一年間ぐらい住んで、そろそろオーストラリアに帰ろうかなというところで自分の妻になる女性と出会いました。その女性は仙台出身だったのでアダムは一回オーストラリアへ帰って、二〇〇〇年に彼女の家族と会うために仙台に来ました。そしてその時からずっと奥さんと一緒に仙台で暮らしています。

 アダムは仙台で輸出貿易会社を立ち上げて、現在、日本の中古車をニュージーランド、イギリス、アフリカへ売る仕事をやっています。外国人として日本で会社を立ち上げるのは大変なことなので、二七歳の彼はもう白髪があります。彼は東京のような大都会があまり好きではないですが、仙台を選んだ理由は奥さんの実家が仙台で、奥さんが家族の近くに住みたかったからです。仙台は最初から気に入りましたそうです。山梨より大きくて、しかし静かな町と思いました。今になって生活には一番相応しいところだと思うようになったそうです。

「町の中がゆったりした雰囲気で、人がそんなに多くないし皆は親切です。東京と比べれば東京の人はもっと忙しくてアグレッシブな感じです」

 しかし、オーストラリア人の彼にとって仙台の冬は寒く感じるので「日本だったらもっと南の方、たとえば宮崎のようなところもいいな」と話しています。

 アダムは、日本に来る前、日本はなんでも新しくて、未来系だと思ったが、実際、山梨に来たら、何でも古くてカビっていて、匂っていたという印象を受けました。「日本人とうまく行くかな」と不安だったですが、実際は人がとてもよくて、すぐに気に入りました。「基本的に日本について想像したことと実際にあったことは一八〇度違ったが想像したよりよかった」と話しています。

 アダムは今の自分の生活スタイルが好きです。仕事もあり、友達と会ったり自分の趣味を持つ時間もあります。

 アダムは仙台は暮らしやすいですが、仕事の環境として外国人にとってあまりよくないと考えています。「自分は運とタイミングがよくて、仙台で自分のビジネスを立ち上げたのですが、仙台で仕事をしたい外国人にとってそのチャンスは豊富といえないです。多くの友達は、英語の先生かバーテンダーのバイトをやっていて、それで満足していたらいいですが、それ以外に何かをやりたい人にとっては可能性が少ないです。大学の学位を持っている日本語のうまい外国人だったら、東京の大手会社で英語教師以外の仕事を見つける可能性がありますが、仙台でキャリアを積んで長期目標や夢を持って生活を立てることは難しい」というのがアダムの印象です。日本は国際社会化に向かっていますが、まだまだ閉鎖社会と言え、外国人に対して抵抗を感じて、仕事のチャンスが少ないとアダムは考えています。

 私もアダムと同感です。私の場合は、今まで頑張った分がまわりの人に評価されて、運よく仕事と生活を、大好きな仙台でできました。ほとんどの外国人は職場が、たまたま仙台になったのでここで住んでいます。しかし、たとえば、仙台が気に入って「じゃ、ここで住みたいから、ここで仕事を探そうか」とは考えられないです。ジェーリーは「ビジネス・チャンスが増えている」と、とてもオプチミスティックな見方ですが、実際に外国人にとっては、英語を教えること意外の仕事を仙台で見つけるのが現実的に非常に難しいと思います。バイトも見つけるのさえも難しくて、アパートを借りるときに外国人といったら断られるところが多いです。日本で働いている私の同級生や友達は、ほとんど東京、大阪、名古屋です。私もつい最近、大手の会社から誘われましたが、それも東京だったので「私は仙台じゃなければいやです」と断りました。そういう意味で、アダムが話している通り、外国人にとって仙台は暮らしやすいし、暮らしたいところだが仕事の可能性が少なく、難しいです。

 アダムが仙台で一番気に入っているのは仙台の人です。

「こっちの人は優しくて喜んで話してくれます。東京では人が感情を出さないようにしていますが、仙台では素顔で話しするので、少し田舎の雰囲気がします」

 アダムは仙台の町はとてもきれいでよく計画されていると話しています。仙台のロケーションがいいため、仙台でできる活動がたくさんあります。アダムに、残念なことにナイト・ライフがあまりよくないそうです。私は最近あまり遊びに行かないですが、遊びに行ける雰囲気のいいナイトクラブが少ないような気がします。アダムは、ゴールドコーストと仙台が好きで、「仙台の人をゴールドコーストに移せば、理想的なところになりそうです。暖かくて、海と浜がきれいで、人が親切です。こういうところができたらこれ以上に望むことないでしょう」と笑っています。

 アダムは、仙台に住んでいる間に外国人が増えたと感じています。

「最初に来たとき、もっと田舎の雰囲気があったが、今は仙台が都会化しているようです。自分にとってそれは別に消極的なことではないですが、田舎のゆったりした雰囲気のほうが好きです。外国人は皆それぞれの目的と期間で来ているので、一つのグループには当てはまらないのに、日本人に「外人」というタグが付けられます。自分は仙台に六年住んでいて、仙台が自分の家だと思っているのでこういうふうに「外人」と見られるのはあまり好きじゃないです」

 アダムはこのまま仙台で暮らし続けるつもりです。夢を聞くと「お金を貯めて半年ゴールドコースト、半年仙台で過ごすような生活をしたい」と答えてくれました。しかし「実現が難しい夢なので、仙台で家を立てて家族と一緒にここで暮らします」と話しています。

 ジェーリーにとってもアダムにとっても、仙台が最終港になったようですが、私も仙台が好きですが、私の人生の旅はまだ終わってないと考えています。私の夢は、仙台での生活を土台にして、更に世界のどこかで暮らしてみて、自分の人生経験をより豊かにしたいと思います。


仙台にホームシック

 私は、仕事上で色んなところを旅してきました。以前は旅でホームシックのときに眼を閉じると、大学に通うときによく通っていたウラジオストックのプーシキンスカヤー通りに降る雨を見ました。今は眼を閉じると広瀬川の静かな朝や、晴れた泉ヶ岳からの風景や、定禅寺通りの緑の並木道や、霧におおわれている松島などを見ます。

 私の友達も、声を揃えて仙台が住みやすいと話しています。短期間で来ている人は、たぶんそれが分からないだろう。たぶん仙台は他の日本のどこでもと同じに見えます。しかし、ここに住めば住むほど、この場所のすばらしさが見えるようになります。それは最高のロケーションと、ここに住んでいる人と、都会なのに田舎っぽい雰囲気です。これが仙台をとても住みやすい場所にしています。

 しかし、残念ながら、外国人が仙台でできる仕事が少ないので、この住みやすい環境に憧れても、ここに住める外国人は多くないです。それぞれの外国人はそれぞれの国の文化を背負って、それぞれの経験をもっているから、日本の生活の中で、日本の社会とお互いに利益を得られると思います。将来は日本社会も国際化が進み、仙台というすばらしいところが、皆にとってもっと住みやすい、住みたい町になることを望んでいます。


当記事は別冊東北学編集室様の了承を得て転載したものです。
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筆者紹介】  アレクセイ・コノネンコ

1974年ウラジオストック生まれ

東北福祉大学の考古学研究室研究助手
大道塾東北本部師範代 四段
171センチ 78.5キロ
[戦績]
2001第一回空道世界大会軽重量級準優勝
2003北斗旗軽重量級準優勝
2004北斗旗軽重量級優勝

2005年に年に開催された第二回空道世界大会ではロシア語・英語・日本語でルール説明を行うなど、文武両道に秀でた「青い目のサムライ」。
フジテレビ「ザ・グレートジャーニー」企画他宮城県警の民間通訳など多方面で活躍中。
コノネンコ師範代
2006北斗旗体力別大会
(成田支部長谷部信 撮影)

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