「東日本大震災」においての、東塾長・事務局長を始め役員の皆様、支部長及び全国の塾生の方々におかれましては度重なる御支援・御尽力方、感謝の念で一杯であります。
思い出しても憎む(恨む)べき3月11日の地震そして津波・・・。その日は平日の金曜日=私自身、仕事の関係(市役所では建築課に所属しておりまして3月の時期は公共工事の完成検査が目白押しなのです)で旧雄勝町それも雄勝中学校(色々、ニュースとかで一躍有名?になってしまいましたが)内での完成検査があり終了後の帰り足=地震発生時は釜谷トンネル(国道398号線の旧道峠)手前で、この世のものとは思えない「揺れ」を体験しました。それからの石巻までの移動時間(記憶では1時間弱とは思いますが)は余震及び津波の「恐怖」を感じ(石巻大橋付近を通過した時に、実際の津波第一波を見た際は驚愕してしまい言葉を失ったことを記憶しています)ながら市役所まで、何とか帰庁(その後は≒25泊26日以上の市役所生活(現況でも週2〜3回の夜勤があり生活リズム自体が未だに被災している感があり・・・)が始まり塾長・事務局長への報告(自分自身、震災後最初の一報として報告した際、塾長・事務局長の声を聞いていて「涙」が溢れていました)及び塾生の安否確認は衛星電話という災害優先電話を使うことになり=改めて災害を痛感)しました。
震災からの1ヶ月というのは被害状況・復旧への計画立案に没頭しバタバタしましたが、何とか対応(対処)することが出来た様な気がします。それからは世に言う「災害→復旧→復興」の段階でいう復旧に入ってきました。仕事柄、公共施設の仮復旧(復興と言わないのは都市計画の見直しがあり施設等は仮設的に機能復旧させることが主眼でして)それと仮設住宅建設の対応(諸官庁の事務手続き)で自宅に戻っては「泥に様に寝る」の繰り返しの期間が続いております。
支部塾生の安否については大方、無事が確認出来ましたが、中には家を流されたりとか、家族は無事だったものの親戚を亡くしたりとか、会社自体も津波に流され失(離)職した者、少年部の子供達の中においては前述した者とか学校が(仮)再開になっても避難場所と併行しており、今は改善されたものの学校によっては劣悪な環境が現況です。
その中で、今後の道場(稽古)の再開ですがライフラインは復旧しているものの道路事情とか色んな要素(環境)での安全確保(確認)が第一と考え「様子見」的ではありますが再開のタイミングを判断したいと思っています。
私には石巻支部に尊い「弟子」がおります。このまま震災に負けて終らせる訳にはいきません。
「空道」を、この石巻の地で活動(再開させて)することが責務と自戒し、又それが東塾長を始め皆様への恩返しであると胸に刻んで日々を過ごしている状況であります。押 忍
石巻支部長 三浦悦夫
【編集部より補足(三浦支部長の近況メール)】「遅れましたが、ようやく自宅パソコンにも座る時間帯を(も)作れメッセージ文を送付することが出来ました。改めて震災からの期間においての御支援・御尽力に深く感謝を申し上げます。追伸ではありますが清治が軽重量級で優勝することが出来ました・・・何と述べればというか、1つの「光」には申し分ないほどの出来事(ビッグニュース)です。 押 忍」
更新日 2011.6.2
押忍。石巻支部の千葉です。
3月11日の東日本大震災による津波で自分の家は流されて何もかも無くなってしまいました。自分の家は石巻市北上町の河口付近にあり直ぐ海が見える所にありま した。
その日は仕事をしていて、地震直後すぐ自宅に戻ろうと車で向かいました。ところが道路は陥没していたり、段差は出来ているし信号も停電で動いていなくて、家に居る母親と祖母それから子供達が避難しているか心配で焦る一方でした。そして、家に向かっている途中、目の前に川幅一杯に津波が上って来るのが見えました。そこは自宅から10q程上流の所で波が堤防にあたり、その後は堤防も超えてきて、自分の車の前にゴミが流れてはきましたが、無理矢理乗り越えなんとか逃げることが出来ました。
それから山側の道路を急いで帰りましたが、自宅から5qの場所からは車で向かうことが出来ませんでした。
それでも家族が心配で、ここに止まってはいられない心境でしたが、とりあえず津波が落ち着いてから夜に子供達の安否確認に、避難場所の中学校へ歩いて向かい確認が出来て先ずは一安心しました。その場所で近所の人とも会い、母親達は山の方に逃げたと聞きましたが、確認するまで安心できず夜明けとともに歩いて自宅に向かい、その時、初めて被災した光景を見て凄くがっかりしました。周りの家は無くガレキだらけで、まさかこんなに悲惨な状態だと思いませんでした。そして自宅付近に着いたら、やはり何も無くなっていました。そして母親達は高台の寺に避難していると聞いたので、確認し家族が全員無事でやっと安心することができました。
自分の家族は無事でしたが、近所の家ではかなり犠牲になった方もおります。とても悲しい出来事で、しばらくの間(期間)は夢であって欲しいと思っていましたが、毎日目が覚めても見る光景は変わらず、やっぱりこれが現実なんだなぁと思いました。
最後に、東先生・事務局長をはじめ大道塾関係者の皆様から物資さらに義援の御厚意を頂きありがとうございました凄く助かっています。何か御礼をしなくてはと考えていますが、今現在の環境(状況)下では何も出来ない自分ではありますが、今後も大道塾に尽力・精進できる様に頑張っていきますので、よろしくお願いします。本当にありがとうございました。
石巻支部指導員 千葉新市
更新日 2011.5.17
この度は多大なる御支援を頂きまして誠に有り難うございます。
震災からもう2ヶ月が過ぎますが、未だ生活して行く場所が(住む家が)決まりません。住んでいたアパートは、今回の震災(地震)による津波で全壊(状態)してしまい、又、その地区は全壊地域に指定(増改築の色々な制限)された上、海(正確には北上川からの潮位)が満潮の時には冠水してしまい暫くはその地区には住めそうにもないので、なるだけ早めに仮設住宅にでも住めれば良いと思います。そして仕事の方(仕事柄)と言えば毎日、不眠不休状態で働いています。(主に東北電力系の復旧作業でして)
この様な毎日忙しい中でも時間を作り「自主トレ的」なことはしています。幸い同じ職場に支部塾生でもある阿部宏信(3級)がいるので、ミット打ちとかマススパー等はしていました。今回の北斗旗体力別は諸事情により参戦することが出来ませんでしたが、又、改めて全日本クラスに出場し、そして(来るべき)第四回世界大会に出場出来る様に頑張りたいと思います。
今後「一生涯を通じ空道に携わっていく」こと(選手・指導者として)が皆様に対する恩返しになれば良いと思います。
最後に東塾長を始め事務局長、役員の皆様、黒木先輩、木村猛先輩、全国の先輩方、塾生の皆様には、改めてですが温かい御支援を頂きまして誠に有り難うございます。
押 忍
石巻支部指導員 菅原智範
更新日 2011.5.15
この度の震災に際し、東先生を始め役員様、全国の支部長並びに塾生の方々に心のこもった過分の御見舞を賜りまして、本当に有り難うございました。御厚情、心 より厚く御礼申し上げます。
まず始めに津波のあったあの日(3月11日)の事を書きたいと思います。
震災に遭った日、私は多賀城市内におりました(2年前より仕事の転勤で多賀城市に住んでおります)。市内を車で走行中に前方と側面から津波が襲いかかって来ま
した。
まさか市内まで津波が押し寄せようとは警察を始め、誰一人として思わなかったでしょう。いち早く車より脱出し、津波に流されつつも近くのフェンスにしがみ付き、すぐそばの建物1階窓をこじ開け、完全に冠水した1階を泳ぎながら近くにいた数名と共に上の階へと避難する事が出来ました。外では雪が降り凍えるほど寒い日
でした。空き部屋となっていた建物上階には運良く廃材(木材)や備品が置かれたままになっていたので、机の引き出しを火鉢代わりに、部屋にあった角材等、燃えそうな物を「正拳・手刀・足刀」で片っ端から叩き折り、一晩過ごせるだけの薪を確保し「暖」を取る事が出来ました。(見れば葬儀屋さんが置いていった物でした。「仏に助けられた」とは正にこの事です。)
津波に流される人・車に閉じ込められたまま流される人・電柱にしがみついている人、周辺では助けを求める悲鳴や叫び声が聞こえ、どうする事も出来ない自分が悔しかったです。数キロ先では石油コンビナートが燃え、物凄い火柱と黒煙を上げ炎上していました(自分の職場のすぐ隣です)。この世の終わりかと思う様な光景でした。
夜も更け、辺りの水が少し引いてきた頃から周辺の捜索(救助)を消防団の方と手分けしながら開始しました。自衛隊や消防士の方も救助活動をしていましたが、余
りにも広範囲なので、こちらまでは手が回らなかったのです。
車に閉じ込められた人や屋根に取り残された人など数名救助する事が出来ましたが、見つけた時には既に手遅れだった人などもいました。これほど人の死を身近に
感じたときは無かったです。
そんな困難な状況ながらも、隣の居酒屋さんが夜中に温かい御馳走を持って来てくれたり、見ず知らずの人同士が協力しあい助け合って、人の優しさや温かさや強さ
に身を持って痛感した夜でした。
石巻市の被害状況は報道にあるとおりとても甚大で、石巻支部の仲間の中にも家が流された方も多くいます。しかし皆無事で本当に良かったです。現在急ピッチで
復旧作業が進んでいる事と思われます。
私の実家のある女川町も壊滅的な被害を受け、20m近い津波で町の7割以上が破壊されました。原発が生き残ったのがせめてもの救いです。
私の実家の方は幸い津波にはのまれなかったものの2度の強い地震(本震・余震)で家と仕事場(自営業で水産加工をしています)が大きな被害を受けました。
それに加え、地盤沈下により満潮時には道路が冠水し通行不可能となっています。それでも現在は町のライフラインも徐々に復旧し、家の仕事の方も再開したとの事
でした。女川町は8ヵ年の復興計画を掲げ、再生に向けて歩きだしています。
5.22の北斗旗体力別への出場は正直迷いましたが、今こそ「東北!宮城!石巻!(&女川!)の底力を見せる時だ!」と思って出場を決意致しました。
支部道場も被害を受け、また交通手段も無いので稽古は困難な状況ですが、東北本部や各支部道場などに出稽古させていただいております。出場するからにはもちろ
ん勝ちにいきます。
最後になりますが皆様の心温まる御支援、本当に有り難うございました。
これから更に自分が選手として指導者として精進していく事が大道塾皆様への「恩返し」と思い、生涯を賭け取り組んで参ります。
押 忍
石巻支部指導員 鈴木清治
更新日 2011.5.14