詳細は後日記すが、取り敢えず、行程だけ。
29日、仙台―仙台新港(多賀城、七ヶ浜町)―塩釜―石巻―南三陸町(旧名 志津川町)―気仙沼と、支部や支部長がいるところを、東京から事務局長と、運転を交替して貰う為に黒木克昌 江東支部長と、仙台からの燃料、車の調達も兼ねて木村猛指導員の4人で駆け足で回り、30日は朝から生家のある鹿折と気仙沼市内を回り、同日夜に帰京した。
時間が足りなかったので被害の大きかった支部長や東北本部に来られる支部長たちとだけ会ったが、帰京して残務整理をしていたなら、今朝、長田賢一 仙台西支部長から電話が入った。長田の性格から、何もしないでいるはずがないと思っていたが、やはり「ボランティアを自分の生まれた岩沼地区で行っています。捜索活動や、遺体引き上げ、復旧、復興活動のボランティアですが凄まじいです。」とのこと。「みんなが、心配しているのだから、簡単なレポートでも良いから送れよ。」と言った所「大した被害ではないですが、それでもテレビやパソコンが壊れて外部と中々通信ができませんが、落ち着いたなら送ります。」とのこと。
なお集計が間に合わないので、今回は皆様方からの貴重な支援金などはお渡ししておりません。
29日朝6時から支援物資の積み込み、7時に出発し東北道を北上。11時に仙台に入り、東北本部に来られた、コノネンコ夫婦、佐藤繁樹 仙南支部長、中川博之 多賀城支部長に少しばかりだが今足りないものを配る。東北本部も壁に大きなヒビが張ったが、使えなくなるような酷さではないだろう。
次に、佐藤節夫最高相談役の(株)佐藤畜産に回り、予てお願いしていた肉を積んで隣町の利府町の会社に勤めている浪岡文雄 仙台南支部長を訪ねた。最愛の人を亡くした者の気持ちが痛いほどに分かるので、互いに言葉にならない。抱きしめるだけだった。
その後、少し戻る感じで、被害のひどかった仙台新港(新車が何千台と、丸めた“紙屑”のように積み重なっていた!!)、コノネンコの住んでいた七ヶ浜(進入禁止)の前を通り、多賀城へ。
石巻の三浦悦夫支部長や菅原智範指導員は市内から離れて救援活動をして会えないので、多賀城に住んでいる鈴木清治指導員のアパートを訪ね「みんなに配ってくれ」と物資を託す。
それから「三陸縦貫道」に入り、松島―豊郷―登米を通過し、町の半分の人口が地震と津波で亡くなった「南三陸町(旧名 志津川町)」に入った。新聞やテレビの二次元の画像では伝えきれない、周り全部が瓦礫、スクラップと言った廃材集積場のような “荒涼たる現実”に息をのむ。
歌津―本吉(津谷)―大谷を過ぎて故郷、気仙沼に入った。気仙沼の殆んどの地区はまだ電気、ガス、水道のライフラインがまだ復旧していないので、町は既に真っ暗でどこも回れない。その日は、気仙沼でよく氾濫する大川沿いにあるが、あと30cmの差で氾濫せず、奇跡的に無傷と言っていいほどのすぐ上の姉の家に泊めてもらう。
次の日、トンネルをくぐって、多くの小中学時代の友達の家々がある(はずの) “鹿折地区”へ。所がそこに遭ったのは南三陸町(旧名 志津川町)以上の、“惨状”であった。
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一昨年亡くなった次兄の奥さん(義姉)の家は、地震の次の津波に次いで、なんと陸地に乗り上げた大型船から流失した重油で跡形もなく焼失していた。三女の家は一階部分が津波による“鉄砲水(?)”で壁や戸がすっかり壊され柱だけが残っていた。(それでも完全に土台を見せてひっくり返っている近所の家と比べたなら・・・・)
もっと鹿折中心部にあった、幼稚園時代からの友達の呉服店や豆腐屋、ガラス屋のある新浜地区までは、通行止めで近付けなかった。
重苦しい気分で、子供の頃泳いだり、魚釣りをした鹿折川を遡って、気仙沼港から2kmほども山際にある「まさかここまでは津波も来ないだろう」と思っていた実家につく。しかし、幸いに(と言っては語弊があるが)20年ほど前に左手の山に市営住宅ができ、その排水が大雨の時などは家の後ろを流れる土手を超えて敷地内に流れ込むというので、10年前に土盛りをして高くしていたから、家の前の田(方言で“田んぼ”)で止まった。(とは言っても、海水が入った田での米作りはいつ再開できるのだろうか・・・・) 家は約400年の風雪に耐えた古い家だが、総かわら屋根なので、その重さが怖かったが、新しい盛り土がショックを吸収してくれたのだと思う、何トンもの瓦を乗せた家は壁が少し落ちたくらいで大丈夫だった。土盛りした当初は多少床がきしんだりしたので長兄は「俺はとんでもないことをしてしまった!」と悔やんでいたが「兄貴!あんたの決断のお陰で400年の家が潰れないで済んだんだよ、本当にありがとう」と繰り返し言いたい。
気仙沼支部で少年部の面倒をよく見てくれていた上野君と連絡が取れ、気仙沼駅で無事を喜んだが「70年、3代に亘って続けてきたカキの殻を粉砕して肥料などにする工場も家もすべて失ったので、○○県に引っ越します。でもいつかは戻ってきたいです。」とのこと。「その街なら電車で一本だから必ず連絡くれよ。」と言ったが・・・・彼が再び道着を着る日の、一日でも早いことを祈るばかりだ。
駅には甥(長兄の長男)が勤めているのでチョッとの間話したが、彼も「あの日は丁度休みだったので、隣り町の『陸前高田市』(今回最も被害の酷かった市の一つ)の、有名な海浜公園『高田松原』にランニングをしに行ってた。一時間くらい走って良い気分で遅い昼ご飯を食べていた時に、あの地震と津波だった。地震で我が家もギシギシ大揺れして怖かったが、あと1時間ランニングが遅かったならと思うと・・・。」と口をつぐむ。「良かったなー、それにしても田んぼに海水が入ったことでチョッと堪(こた)えてるようだから兄貴を頼むな。」と言い残し旧市内へ。
駅は町外れにあるので徐々に中心部に近づく。大学の大先輩(70何歳?)でいつも元気なT・Kさん(※1) や、私の高校時代は柔道部始まり柔道部で終わったから、先輩や後輩の行方を捜して歩いた。高校柔道部の大先輩で仲人を務めて頂いた元県会議長(故人)のお宅も、気高柔道部の後輩、拓大柔道部出身のK・A君(※2)の店も津波の直撃を食って滅茶苦茶だった。
※1 宮城に帰った当初様々な人を紹介して頂いた大学の大先輩(70何歳?)はもともと元気な方で、偶々、朝の災害情報番組見ていた時にもテレビで家族に無事を伝えていたが、津波で流されながら隣の物置の屋根につかまりながら、高い山から「がんばれー」という声に「まだまだ死なねーから、お経なんかあげんじゃないぞー」と叫んだという方だ。
※2 拓大柔道部の寮と私の下宿が近いのでショッチュウ一升酒を飲んだ後輩で、家業の八百屋を継いだK・Aは親戚の家に避難しているらしく、店の前まで行ったが、シャッターがひし曲がって店の中は泥だらけだった。向かいの人から「店の後ろにいるんじゃないのー」と言われて周ったが誰もいなかった。携帯番号も知らなかったので会えなかったが、まずは無事を再度確認できた。
小中学時代の仲間もそれぞれ奥さんに実家や親せきの所に避難していて一人にしか会えなかった。(「このままみんなバラバラになってしまうのかなー」という同級生の声が、現実味を持ってこだました。)鹿折で呉服店を営んでいたE・Kさん(通称、英さん)は、幼稚園からの友人でやはり避難所にいて近くの市立病院(我々が子供のころは“公立病院”と言った)の所で会った。「津波警報が出て、一旦、三坂(さんさか。高台)に逃げたけど店の物が気になり戻ったところに津波が押し寄せてあわてて逃げ帰った(これで流される人が多いらしい)。その高台まで波が押し寄せてきたときはゾーッとしたよ!店も家もみんな流されてしまった。地盤が50cmも下がってチョッとした満ち潮でも、海水が土地に流れ込むようになったから再開は無理かなー?」と言いながら、義務感からだろう「でも鹿折に呉服店がなくて良いのかなー?」と再開の意欲を見せてくれたのが救いだった。
ここに来るまでの途中も思い続けてきたことだが、「俺が事業でもしていれば、こんな時にもっともっとみんなの力になれるのになー。日頃からボランティアみたいなこの仕事では、できる事には限りがあるしなー。」と自分の無力さを思い知らされる。
最後に、松岩地区に避難している、同じく気高柔道部の“伝説の先輩”の一人M・Tさん(※3)を訪ねた。電話で話した時は「家から会社から船からみんな亡くした。」と、さすがにかすれ声だった。「あの先輩でもあんなに気落ちしている。尤も無理もないなー。」、しかし「どうしても会って行きたいから後で電話します。」と電話を切った。同じ学年で、岩井崎で民宿をしていたN・Sさんは残念ながら津波に巻き込まれたらしく、「新聞の(死亡)欄に名前が載っていた。」と知人から聞いた。人の良い後輩の面倒見の良い先輩だった。合掌。
※3 Tさんは今、船主であり「気仙沼遠洋漁業協同組合」の「代表理事・組合長」をして活躍している人だ。高校時代は当時県下で5本の指に入った気仙沼高校で、高校3年間の全教科の平均点が90何点(!)という人でありながら、宮城県の高校柔道チャンピオンであり、しかもハーフみたいな堀の深い顔をして184.5cmの長身、人格温厚というスーパーマン!!みたいな人だ。家業を継ぐために大学には行かなかったが、この人が「中央に出るチャンスがあったなら、もっともっと大暴れしたんだろうな〜。」、「世の中には途方もない人達が一杯いるんだ。チョッとくらい物事が上手く行っているからって、慢心するんじゃないぞ!」と、常に自戒させてくれる人である。
電話で安否を知りえたのが(震災の)10日も後だった。さすがのTさんもその時は「あずまー、全部なくしたよー。」とチョッと元気なさそうに聞こえたが、会ったならいつもの大人風の佇まいは変わらなく「今みんなの為にも行政と掛け合っている。」と元気な顔を見せてくれ、一安心した。「先輩!一旦耀いた人間は、それを見て育った人間がいる以上、絶対に人に弱みは見せられないから大変でしょうけど、頑張ってください、また来ます。」
今週末には「関東地区予選」が控えておりその準備がまだ完全じゃないので、本当に駆け足で回ったが、こんな感じで“現場”を見てきた。改めて、この“戦争(※4)”は長引くだろう、との思いを強くした。
あなたに想像がつくだろうか??あなたに明日こんな事があったなら、あなたはどう思いどう行動しますか???人に尋ねる前に、私ならどうする、どうなるのだろう????その時にも“武道精神だ!”などと言っていられるのだろうか・・・・。
それはともかく、これだけでは何もしてないと同じだ。引き続いて私にできることはし続けて行く積りだ。この項では故郷気仙沼の事柄が多くなったが、多くの皆さんの(塾生仲間への)引き続いてのご支援ご協力の歩度をお願い致し、取り急ぎの報告としたい。
掲載日 2011.4.1 一部修正2011.4.2
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(仙):仙台市 (鹿):鹿折(気仙沼市) (南):南三陸町 (気):気仙沼市
掲載日 2011.4.1
※4 前回の雑文で“戦争”と言ったが、精神的、内面的なものを考えれば、それ以上だろう。戦争なら「どういう動機や意図で始めたか」は「それまでの経緯」と言うものがあったり、大本営発表にしろ、事前に分かっているだろうし、負けたなら悔しかろうが納得してなかろうが、戦力を失えばそこで終わる。しかし、ここには「何の悪意や意図も、何の罪も咎もない人達が、普通に暮らしていたある日、突然それまでの人生で積み上げてきた全てを“一瞬にして”奪われてしまった」のだ!!!
しかも、白旗を上げてもいつまた襲い掛かって来るか分からない。「なんで俺が、こんな目に遭うんだ?」とか、「俺が何をしたんだ!!」と叫びたくなるはずだが、怒りをぶつける相手がいないのだ!!まさに“不条理の世界”である。どうやったなら気持ちの整理を付けて前に進めるのだろう?
訪ねた人たちはみな一様に「こんなことで負ける訳にはいかない」とか「他の人に比べたなら命があっただけでも有難いと思わないと」と自分を奮い立たせようと前向きな言葉でいうが、ボソッと「でもこれからどうなるんだろう」とか、「何から手を付けて良いかわからない」と声を絞り出す。しかし「手に付ける何物もない」中で、過ごさなければならない、この“極寒の暗闇”は想像するだけで恐ろしい。 私だけでなく最近の日本人の多くは、仏教徒とはいっても実質、脱・離・無宗教のようなものだから、今更言えたセリフではないのだが、こんな時には「世の中には神も仏もいないのか!!!」と叫びたくなる。しかし、それは虫が良いというものだろう。宮本武蔵の信奉者でなくても、やはり一人ひとりが「神仏を尊びながらも神仏に頼らず(※5)」力を合わせて、自分たちの力でこの“国難”に立ち向かうしかないのだ。
※5 神仏を尊び神仏にたのまず - 伊勢ー白山 道