第10回 青森県空道選手権大会レポート

三沢・青森市支部 支部長
五十嵐 祐司

6月25日(日) 三沢市武道館

お陰様で、無事に大きな事故やケガもなく成功裏に終えることが出来ました。

2003年に初開催(第1回大会)した、この県大会も途中、中々うまくいかず第2回目を開くまで空白の5年があったりと、やはり定期開催は困難かと思う時期もありましたが、こうして節目となる10回目を迎えることができたのも東先生はじめ関係各位のご指導、ご協力の賜物です。
改めて御礼、感謝申し上げます。

更新日 2017.07.07

休刊となった『ゴング格闘技』、最後に掲載された東孝塾長のインタビュー記事を、編集部の許諾を得て紹介します。

2017年6月号をもって休刊となった格闘技専門誌『ゴング格闘技』、休刊前号となる2017年5月号に掲載された、東孝塾長のインタビュー記事。その内容は、大道塾の歴史をテーマとした会話を通じ、塾長の変わらぬ信念を紐解く、すべての塾生に読んで頂きたい内容でした。そこで、一部を抜粋し再編集するかたちにて、ゴン格編集部様の許諾を得たうえで、ここに紹介いたします。(多少の加筆、修正あり)

元原稿 http://www.daidojuku.com/home/column/25.html

加藤久輝がハレック・グレイシーに勝つ 大道塾としてのリベンジに東孝塾長はいま、何を想う?

熊久保英幸=聞き手

──1994年3月の『UFC2』に日本人として初めてUFCに出場した、当時、最強と言われていた大道塾・北斗旗王者の市原海樹選手が、ホイス・グレイシーに敗れてから23年目の今年、加藤久輝選手がハレック・グレイシーに勝ち、大道塾の選手がグレイシーに雪辱しました。塾長としても感慨深いところがあるのではないかと思い、取材にやってまいりました。

「うーん……期待を裏切って悪いんですが、あまりそういう想いはないんですよ」

──いきなり取材終了ですか……。

「空道は護身というものを土台に考えているわけです。これまでムエタイや柔術とどうのこうのと比較されてきましたが、護身が基本なんですよ。1対1で戦った時、最終的に寝技になることがあるという現実は分かりますが、実際にそうなるケースは1割か2割あるかないか。護身の基本は立っていることですし、仲間や身内を守るために、ある時はその場から逃げなくてはいけないんです。それに素手であること、着衣状態であることなどを総合的に考えて空道の体系を作ってきました。ムエタイと比較されるきっかけとなった長田(賢一)vsラクチャート(1987年4月24日、ルンピニースタジアムで対戦してラクチャートが2RにKO勝ち)にしても、ムエタイという競技のルールで見れば負けですが、私自身は最初に長田がダウンを奪ったことで〝これはウチの勝ち〟と思ったんですよ、今の総合の目で見て、グラウンドを全く知らない相手が倒れたと考えたならどうですか? コッチはそこを蹴るとか殴るという事を前提にルールを作っているわけですから。あと、同じくムエタイ元チャンピオンのパーヤップが北斗旗に出場した時に、ウチの選手にミドルキックを抱えて大内刈りで倒させた時は観客席から〝東! 汚いぞ!〟って野次が飛んだんです。いや、これはウチのルールの試合なのだから当たり前でしょうと思いましたが、そんなことを言っても、当時の立ち技万能(=ムエタイ最強論)という風潮の中では何を言っても仕方がないと黙っていましたが」

──想定している戦いが違うと言うか、競技が違うのだからその競技のスペシャリストとその競技のルールで戦ったら負けても仕方がないということですね。

「その後の件についても、あの当時は今考えれば〝総合〟の幕開けだったので、試行錯誤中の大道塾に(妄想を含めて笑)凄い夢を持ってくれている人たちが一杯いたんですよ。それまで空道、当時で言えば格闘空手のような格闘技はなかったわけですから。その人たちがどんどん話を進めていって、それでやってみたらああいう結果になった。そこで〝大道塾が負けた〟と言われても、こっちが最初から団体を挙げて万全の構えで行ってやられたわけではなく、ある意味個人の戦いですし、あくまでも大道塾の戦いは立っての戦いが主という意識が強かったので、私はそれほど何とも思わなかったんです。しかし、世間的には大道塾が負けた、との見方がされてしまいました。長田とムエタイの場合もしばらくは冬の時代が続きましたし、今度は柔術でも同じことが起こりました。そこで巡り巡って今回、久輝がグレイシーの選手に勝ったことはストーリー的には〝苦節23年、ついに……!〟みたいな話ですし、頑張って勝ってくれた久輝にはよくやったと言いたいです。でも、それはいろいろある試合の中のひとつで、久輝もそれを狙ってやっていたという話ではないですからね。逆に、ムエタイと交流したことでムエタイのいいところを吸収しましたし、柔術からもいろいろ吸収しています。ですから、どっちもウチを太くしてくれたという意味で、そんなに憎むべき相手でもないんですよ(笑)」

──グレイシーを敵対視していたわけではないんですね。

「全くないです。護身は立ったままやるものですが、当然寝技になる局面もあるので、寝技もやらないとダメだぞと私は30数年前から空手に寝技を取り入れるという試みをやってきたわけです。当時は『あんなものは空手ではない』と言われても格闘空手としてやってきて、空道と名付けたら『あれは空手じゃないか』と言われる。何をやっても〝はみだし〟は、叩かれるんですよね(笑)」

──極真は打倒・熊や牛を目指したが、熊や牛は打倒・極真を目指していなかった、という言葉がありましたが、それと同じようなものですね。グレイシーは打倒・他の格闘技を目指したかもしれませんが、大道塾は打倒グレイシーやムエタイを目指してはいなかった、と。

「そういう人が一生懸命やっていることを、しない人間がどうこう揶揄するのは好きじゃないですが、事実関係で言えばそうですね」

──現在では格闘技が広まっているので、違うルールで戦えばそのルールで強い選手の方が強いのは当たり前だと理解されていますが、当時は「誰々が負けた」ではなくその競技・団体が負けたと捉えられることが普通でした。

「そうですね。私自身は他流試合をやりたいって意識はなかったんですよ。私の格闘技観の中では格闘空手をやっていって、これに寝技をプラスしていけば完成するはずだっていう意識でいたんです。当時から道場では寝技をやっていましたが、トップ選手が『大道塾に寝技は要らない』なんて堂々とインタビューに答えたり、大会パンフレットに書いていたこともありました(笑)。まあ、私も大雑把な性格なので『人の口に戸は立てられねーしな?』と思っていました。当時はまだ寝技まで入れるのは早いと思っていたので、試合では投げまでにしていたんですが、10年くらい過ぎて、そろそろ寝技を解禁する時期かなと思っていたところ、ひょんなことから柔術と関わりが出来てしまい、今度は猛烈に生徒から寝技をやりたい!って言い出したんですよ。それまではいくら言っても『先生、寝技なんかいりません』と言っていたのに、あの試合を境にみんな逆に寝技をやりたいって言い出したから、試合での寝技を解禁したんです」

──大道塾にとっては、逆によかったんですね。

「そういう意味ではそうですね。私が描いた筋道どおりに行ってくれれば一番良かったんですが、ムエタイに引っ張られ柔術に振り回されました。まあ、それも大道無門じゃないかな、と(笑)」

──そもそも、格闘空手を始めた時は地上最強の格闘技を目指していたわけではなかったんですね。

「全くないですね。あくまでも身を守る護身術であることが基本です」

──それを周りが勝手に、大道塾は凄い、どんな格闘技にも勝てるんじゃないかって幻想を膨らませていったという。

「本当にそうです。そもそも私の格闘の原点は、小学生の時に中学生の番長に喧嘩で負けたことなんです。何をやっても勝てなかった、向かって行っても投げられて跳ね返されました。その時に、人は力を持たないと何を言ってもダメなんだと気付かされたんです。また、三島由紀夫が『文学をやっていても最後は日本刀なんだ。最後は日本刀を見せれば一目置くんだ』というようなことを言っていて、こんな偉い先生でも『力を評価している』のだから、自分で自分の身を守る術は絶対に大事なんだって焼き付いていました。だから、格闘技で日本一になるとか世界一になるって意識はなかったんです。極真に入った時も、空手で日本一になりたいとの気持ちはなく、柔道を知った上で打撃を覚えれば、大概の場合は身を護れるし、しかも指導員として夢だった海外留学ができると聞いたからです。極真時代の支部の標語は『人生はドラマだ!あなたの拳で!』で、武道・格闘技的には、一見、夢のない話ですが(笑)、逆にそのおかげか『山あり山あり』の、とんでもない人生が待っていましたが(笑)」

──あの試合をきっかけに、柔術というものの研究はされたんですか?

「もちろんです。負けたのは現実ですから、柔道だけの寝技ではダメだと。柔術を始め、いろいろな寝技を取り入れなくてはいけないと思いました。ただ最初は、全面的に解禁してしまうと知っている選手と知らない選手で大きな差が出てしまうので、柔道で認められている腕十字や腕がらみなど5種類の技だけを解禁しました」

──ホイス戦をきっかけに、選手の意識が劇的に変わったわけですね。

「そうです。それまではいくら私が言っても、『殴ったら倒れるでしょう』という感じでした。ましてや当時は大道塾の優勝者は空手界のエースみたいなものでしたからね。それこそ格闘空手そのものみたいな存在で、パンチをぶん回してみんなぶっ倒していたわけですから。だからみんながそういう意識だったんですよね。それがパンチひとつ当てることが出来ず、転がされて寝技でやられたのは生徒たちにとってはショッキングな出来事だったと思いますね。私は私の考えた道筋でやりたかったのに、キックブームの時はなんでグローブでやらないんだと周りから言われ、生徒たちも寝技なんかやる必要はない、ムエタイこそ最強だという意識になってしまった。それでトップの選手たちはみんなムエタイの試合をやったじゃないですか。今度はそれがガラッと変わって寝技が最強だというような意識になってしまって。ただ、だからと言って今、久輝がやっていることの結果がどうでもいいわけではなく、勝てば当然、嬉しいですよ。負けたら〝この野郎〟となりますが(笑)」

──話は技術的なことになりますが、マウントパンチ(寸止め)で効果になるといった要素が空道に取り入れられたじゃないですか。あれは柔術の実戦性を評価してのものですよね?

「最初にUFCの試合を見た時に、馬乗りになって殴っているのを見て、あんなものは先進国で流行るわけがない、ましてや日本では倒れている人間を叩くなんてそんなことを社会が許すわけがない、と当時のゴング格闘技で言いました。そう言っていたのがあれよあれよという間に広まって、〝ああ、日本人は変わったんだな〟と実感しました。私がそれがいい・悪いを言っても始まらない、昔ならやらなかったことを今はやるんだな、と。そうしたなら〝護身上〟やはり対応を覚えないといけない。だから取り入れました」

──いま思えば、ホイスに挑戦したことはよかったと思いますか?

「まあ、ウチはそういうところはしつこいんです。転んでもただでは起きない(笑)。ムエタイの時もそうですし、ヘタしたら団体が潰れるくらいの話じゃないですか。それこそいろいろな団体が柔術と絡まって、一時的にはそれなりに名前をあげていても、勝負に負けてガックリ来てダメになったという話が実際に、いっぱいありますよね。ウチはそういうところは苦にしません」

──むしろ、いいところを取り入れようとするんですね。

「あれを覚えればいいんだろう、という感じですね。大道塾らしいじゃないですか。それこそ大道無門ですよ。いろいろな格闘技は大道塾の敵ではなく、よく言えば師であるということです、エヘン!(笑)」

──大山倍達総裁も言われていた、我以外みな我が師の精神ですね。

「そこで覚えて、次に勝てばいいんです。ただ、あの時やらなくてもどこかで柔術とは交わっていたとは思います。ウチは何でもやろうみたいな姿勢ですからね」

──ホイス戦以降、大道塾としてダメージはあったんですか?

「ありました。あの当時はそれこそ、武道では大道塾が一番だって空気があったじゃないですか。それはもう凄かったですよ。弟子が減っていき、入門者がガクッと減りました。あれから10数年くらいは影響がありましたね」

──10数年も!?

「それにプラス、大山館長がなくなった後のフルコン界の変動や、K─1やPRIDEがあんな形で消えて武道・格闘技の信用が失墜し『やっぱりあの世界は……』と言った感じで潮が引くように競技者も、興味を持つ人口もガクッと減ったこともかなり影響しました。正直、ここは自慢して良いと思うけれど(笑)。私はこの世界に入る前に社会の底辺を経験して来て、『なるようになるさ。ダメなら大型免許があるから』と開き直れた私だからこそ、精神的に潰れずに持ったんだなと思いますよ(笑)。まあ、最近になって当時の悪いイメージを持っていた人が減ってきたんだろうし、やっと世の中が大人になって、ルールの違いが勝敗を分ける=誰が負けたから即、その団体がどうこうではないんだってことが分かってきたりして、また武道・格闘技復活の目が出てきたような気がするので、同じ轍を踏まないように、大事に大事に、武道・格闘技の健全な発展を期して行かなくてはと思っていますが……」

──そんなに影響が……グレイシーを怨みませんでしたか?

「それとこれとは話が別です。勝負の世界は勝った者が全部持って行くんですから、しょうがないな、と。長田がラクチャートに負けた時も凄かったですよ。それまでは年に入門者が何千人以上も入っていたのが、一気に半分以下になったんですから」

──大道塾は2度もピンチに陥っていたんですね。

「ただ、長田にしてもムエタイがやりたくてやったわけではないですからね。向こうのプロモーターに私が乗せられて、やってみますかと聞かれたから、「せっかくだからやってみます」というところから始まっているんです。最初は練習試合との話だったので、その話をもらってから3?4日はパタヤへ遊びに行っていたんですから。長田は長田で砂浜で足を切ってしまって。それでバンコクに帰って来たら新聞に試合のことが載っていて、日本の空手チャンピオンがムエタイのチャンピオンに挑戦する、みたいな話しになっていたという。その時に初めて、誰とやるんだと聞いたらルンピニーのチャンピオンだって言うわけです。メチャクチャな話ですよね。そんな状況で長田は初めてのルールで、グローブを着けたのも初めてくらいだったのに、最初にダウンを奪ったんですから、よくやったと私は思いました。ところが、日本に帰って来てその話が広まると評価がえらい悪い。手も足も出なかった、みたいな話になっていて驚きました。長田自身も、ムエタイがやりたいとかムエタイが最強だなんて思っていなかったですよ。ただ周りがそれをそのままには許さなかった。大道塾は、東はなぜ長田にやらせないんだ、と。私は長田がやりたいならやればいいと思っていたんですよ。でも長田からは何も言って来なかった。長田は長田で別にムエタイの試合をやりたいわけではないけれども、負けたと思われているのが嫌で悩んでいたとは思います。彼は彼で、自分がやると言ったら先生は嫌がるだろうと考えていたのかもしれない。でも段々と悩んでいる姿が目に付くようになってきたのは分かったので長田を呼んで、『やりたいならやったらいいんじゃないか』と言ったんですが、『自分はその気はありません』と。そうは言いながらも結局は収まらなかったので、あれが始まったわけです」

──1992年に後楽園ホールで開催された『THE WARS』ですね。

「その時に一番反応したのが、加藤清尚と飯村健一だったんですよ。長田はもう名前が出来上がっていたからいいけれども、彼らはこれからだったわけです。しかし、アマチュアと言っても当時、後先考えずに練習ばかりしていましたからね。その面ではプロと変わらないわけです。「俺たちは誰とやっても負けない」って意識があった。それが結局、長田が負けた、大道塾が負けたと言われてもの凄く悔しかったわけです。自分たちをキックの試合に出してくれみたいな話にもなりました。困ったもんだな、と。それで当時、週に一度、SAWの麻生(秀孝)さんが寝技の指導に来ていたから、終わった後ですし屋でいろいろな話をしていたんですよ。その時に、あいつらあんなこと言いやがってと愚痴を言ったら、麻生さんが『じゃあ東さんがやればいいじゃないですか』と言ったんです。そんなことは考えたこともなかったので〝えっ?〟と思ったんですが、協力してくれる人もいてやることになりました。それで一応はそれなりにグローブを着けた試合で勝ったんですが、加藤にしても飯村にしてもブレーキがかからなかったんですよ。第一、そっちの方が大道塾で試合をするよりも、反響が大きいわけじゃないですか」

──雑誌にも大きく取り上げられましたね。

「そう。それでやりたいというものをやめろと止めてもしょうがないだろう、と。ある時は飯村が来て、自分はキックの試合をしたいと言ってきたんです。その時に飯村は、私がダメだと言ったら辞めるつもりだったと後から言っていました。当時はそれほど選手が思いつめて、グローブでやることが強さの証明だ、みたいになっていたんですよね」

──グローブである程度証明したところで、今度はUFCが始まってWARSで修斗やパンクラスの選手と総合格闘技ルールで戦うことになりました。

「私は真っ直ぐ歩きたかったのに、あっちに引っ張られこっちに引っ張られ、足は引っ掛けられで(笑)」

──2002年のWARS6をもってピタリとやめてしまいましたよね。あれはなぜだったんですか?

「やりたいという選手がいなくなったからです」

──そうなんですか?

「逆に私は、最後までリングでの試合にはなじめなかったし、畑違いの準備は大変だったけれど、他の武道・格闘技の技を学ぶためにも、年に1回、もしくは2年に1回はやってもいいと思っていたんです。ところが選手たちは『もう大道塾は実力を証明したからいいです』と誰も手を上げなくなったんですよ。WARSを6回開催して、キックにも総合にもある程度対応出来ることが証明されたから、もういいです、と。元々、みんな格闘空手が好きだから始めたわけじゃないですか。名声が欲しくてやってみたけれど、結局は道衣を着てする武道が好きだから入って来た人間ですから。何回か「WARSをやりたいやつはいるか?」と聞いたんですが、1人か2人しかいませんでした。やる気のないものを無理強いしても碌な結果にはならないから、そこでやめたんです」

──そのうちの1人のようなものが加藤久輝選手なんですかね。

「久輝の場合は世界大会で負けたことが悔しかったからでしょうね。ウチには大きい相手がいないから、大きい相手とやりたいということで名古屋のALIVEジムに行くようになったんです」

──勝ったのは嬉しかったですか?

「勝って嬉しくないことはないです。久輝も直接知っている世代ではないですが、おそらく周りからウチとグレイシーの歴史を聞いていて、プレッシャーがあったかもしれない。よく頑張った、と言いたいですね。いつも生徒には言うんですよ、キックでもボクシングでも何でもやっていいけれど、『経験してみたい』とか、『試してみたい』みたいなお気楽な気持ちのヤツにはやらせたくありません。『やるからには、勝つつもりで練習をし、死に物狂いで戦え!」、と。せっかく先輩たちが築き上げてきた名前なのに、お前が中途半端な気持ちで負けたら大道塾が負けたって言われるんだから絶対に勝てよ、と。それで勝ったら嬉しい、負けたらばか者と言う。それはそうですよ。やる以上はそれくらいの覚悟は持ってもらわないといけない。挑戦心は良いけれども、ちゃんと背負ってやれということです。気軽にやってみたいなんて言われたら怒鳴りつけてやりますね。せっかく今までみんなで苦労してここまで大道塾、格闘空手、空道を持ってきたのに、お前でゼロになってしまうかもしれないんだぞ、と。言われた方はキョトンとしていますけれどね、時代が違うのかな(笑)」

──2001年から世界大会を開催したり、ロシアを中心に世界へ広がってきたことによって他のジャンルとかかわりを持たなくてもいいようになった、という面もあると思います。空道の中で成立するというか。空道で世界王者になることが高い壁になっているので、余所見をしている場合ではないですよね。

「今、世界王者になるのは本当に大変ですよ。先日、ジョージア(グルジア)に行って正式な支部に認可しました。行ってみたら、柔道のオリンピックチャンピオンや世界チャンピオン10人くらいと会ったんですが、なぜかみんな空道を応援しているんですよ。普通、柔道関係者が応援するなんてありえないでしょう。ところが今回支部長になったのも元々、トビリシ柔道連盟の理事長をやっていた人物で。昔、私が柔道をやっていた頃の東北のエースが遠藤純男氏(山下泰裕のライバルで1980年の全日本選抜柔道体重別選手権でカニバサミを仕掛け、山下の腓骨をへし折ったことで知られる)で、私が何回やっても勝てなかった宮城県のチャンピオンが、彼に30秒で投げられて負けたのを見て柔道を辞めました(笑)。ジョージアで会った柔道家たちはその遠藤氏と同期で、自分は遠藤とやって負けたと楽しそうに話をしていました。ジョージアで柔道は半分国技のようなもので人気があって、みんな身体がガッチリしていて体幹がしっかりしています。2月にインドで開催されたワールドカップに始めてジョージアの選手が出たんですが、いきなり-240で優勝してしまいました。あとタジキスタンの選手も優勝したんです。今までだったらロシアが全階級を制覇するか、せいぜい日本が一階級を獲るかくらいだったんですが、今回はロシアが3階級で優勝を逃しています。今度の世界大会は大変なことになるでしょうね。ロシアの独占状態は終わるかもしれません。今年の秋は仙台でアジア大会を開催します。そして、来年の世界大会に日本代表として選ばれるためには、今年の体力別とアジア大会、来年春の体力別と3大会の内2大会に出ることが条件となります。だから、久輝にも出ないと世界大会には出さないと伝えてあります」

───アジア大会の開催ですか!

「アジアならモンゴルが強いですね。あとはイラン、タジキスタン、カザフスタンあたりから選手が来ます。カザフスタンも強いですよ。ワールドカップのベスト3に2人くらい入っていました。とにかく旧ソ連系は強い。力があるし、体幹が強いし、何より日本選手にない『これで負けたなら俺の人生は終わりだ!』というほどのハングリー精神がある。今年の体力別各階級上位の2人~4人(に加え、秋の国内予選を勝ち抜いた選手)が日本代表となって、アジアの国々を迎え撃ちます。ワールドカップでは清水亮汰(2015年全日本無差別&2016年全日本体力別-250クラス王者)が、2014年の世界大会で勝っていた同じ選手に負けたんですよ。ワンツーでのばされてしまいました。だからウェイトをやって体幹、特に首を太くしろ、と言っても今の子たちはやらないんですよ。何度言ってもやりません。さすがに今回はのばされたからちょっとはやる気になったけれども。まず70%の力をもって、ガツンとぶつかり合っても、ある程度それを凌がない限り技の勝負にはならないんですよ。日本人同士の試合だと最初から名人戦で技のやりとりとなりますが、ロシアを相手にする時はまずぶつかって、それから回り込むなり離れるなり技の展開になるんですが、最初の段階でバンッと入ってこられると間合いは殺されるし、勢いづいてしまいます。体幹の強さが違うから。やっと本人もウェイトをしないといけないと思いますと言っているんですが、『僕たちは日本的な試合が好きです』とか言うんですよ。本当に今の若い選手たちは名人戦が好きなんです。相手がこう来たらこう返すというような」

──最初の、グレイシーが出てくるまでは寝技をやれと言ってもやらなかった、という話に似ていますね。

「なかなかうまくいきませんね。私は机の仕事に追われて、直接指導は無理だから要点だけ言うんですが、言うことを聞くのと聞かないのがいる。でもまあ、最終的には選手がそれらを取捨選択して、自分で組み立てた練習法や戦い方でやるのが一番いいんですよ」

──フィジカルでやられたら、今度は大道塾に必要なのはフィジカルだってなるかもしれませんね。

「ジョージアやモンゴルがのし上がってくる可能性が高いですからね。そうなって欲しいけれど…。これがラウンド制だったら動き回ってスタミナを消耗させてって戦い方もありますが、3分ですから半分以上はフィジカルで決まるわけです。まあ、日本人選手たちの活躍を暖かく見守ってあげてください」

更新日2017.7.9

2017.7.9  【塾長コラム】「休刊となった『ゴング格闘技』、最後に掲載された東孝塾長のインタビュー記事を、編集部の許諾を得て紹介します。」

【塾長コラム】休刊となった『ゴング格闘技』、最後に掲載された東孝塾長のインタビュー記事を、編集部の許諾を得て紹介します。

2017年6月号をもって休刊となった格闘技専門誌『ゴング格闘技』、休刊前号となる2017年5月号に掲載された、東孝塾長のインタビュー記事。その内容は、大道塾の歴史をテーマとした会話を通じ、塾長の変わらぬ信念を紐解く、すべての塾生に読んで頂きたい内容でした。そこで、一部を抜粋し再編集するかたちにて、ゴン格編集部様の許諾を得たうえで、ここに紹介いたします。(多少の加筆、修正あり)

元原稿 http://www.daidojuku.com/home/column/25.html

加藤久輝がハレック・グレイシーに勝つ 大道塾としてのリベンジに東孝塾長はいま、何を想う?

熊久保英幸=聞き手

──1994年3月の『UFC2』に日本人として初めてUFCに出場した、当時、最強と言われていた大道塾・北斗旗王者の市原海樹選手が、ホイス・グレイシーに敗れてから23年目の今年、加藤久輝選手がハレック・グレイシーに勝ち、大道塾の選手がグレイシーに雪辱しました。塾長としても感慨深いところがあるのではないかと思い、取材にやってまいりました。

「うーん……期待を裏切って悪いんですが、あまりそういう想いはないんですよ」

──いきなり取材終了ですか……。

「空道は護身というものを土台に考えているわけです。これまでムエタイや柔術とどうのこうのと比較されてきましたが、護身が基本なんですよ。1対1で戦った時、最終的に寝技になることがあるという現実は分かりますが、実際にそうなるケースは1割か2割あるかないか。護身の基本は立っていることですし、仲間や身内を守るために、ある時はその場から逃げなくてはいけないんです。それに素手であること、着衣状態であることなどを総合的に考えて空道の体系を作ってきました。ムエタイと比較されるきっかけとなった長田(賢一)vsラクチャート(1987年4月24日、ルンピニースタジアムで対戦してラクチャートが2RにKO勝ち)にしても、ムエタイという競技のルールで見れば負けですが、私自身は最初に長田がダウンを奪ったことで〝これはウチの勝ち〟と思ったんですよ、今の総合の目で見て、グラウンドを全く知らない相手が倒れたと考えたならどうですか? コッチはそこを蹴るとか殴るという事を前提にルールを作っているわけですから。あと、同じくムエタイ元チャンピオンのパーヤップが北斗旗に出場した時に、ウチの選手にミドルキックを抱えて大内刈りで倒させた時は観客席から〝東! 汚いぞ!〟って野次が飛んだんです。いや、これはウチのルールの試合なのだから当たり前でしょうと思いましたが、そんなことを言っても、当時の立ち技万能(=ムエタイ最強論)という風潮の中では何を言っても仕方がないと黙っていましたが」

──想定している戦いが違うと言うか、競技が違うのだからその競技のスペシャリストとその競技のルールで戦ったら負けても仕方がないということですね。

「その後の件についても、あの当時は今考えれば〝総合〟の幕開けだったので、試行錯誤中の大道塾に(妄想を含めて笑)凄い夢を持ってくれている人たちが一杯いたんですよ。それまで空道、当時で言えば格闘空手のような格闘技はなかったわけですから。その人たちがどんどん話を進めていって、それでやってみたらああいう結果になった。そこで〝大道塾が負けた〟と言われても、こっちが最初から団体を挙げて万全の構えで行ってやられたわけではなく、ある意味個人の戦いですし、あくまでも大道塾の戦いは立っての戦いが主という意識が強かったので、私はそれほど何とも思わなかったんです。しかし、世間的には大道塾が負けた、との見方がされてしまいました。長田とムエタイの場合もしばらくは冬の時代が続きましたし、今度は柔術でも同じことが起こりました。そこで巡り巡って今回、久輝がグレイシーの選手に勝ったことはストーリー的には〝苦節23年、ついに……!〟みたいな話ですし、頑張って勝ってくれた久輝にはよくやったと言いたいです。でも、それはいろいろある試合の中のひとつで、久輝もそれを狙ってやっていたという話ではないですからね。逆に、ムエタイと交流したことでムエタイのいいところを吸収しましたし、柔術からもいろいろ吸収しています。ですから、どっちもウチを太くしてくれたという意味で、そんなに憎むべき相手でもないんですよ(笑)」

──グレイシーを敵対視していたわけではないんですね。

「全くないです。護身は立ったままやるものですが、当然寝技になる局面もあるので、寝技もやらないとダメだぞと私は30数年前から空手に寝技を取り入れるという試みをやってきたわけです。当時は『あんなものは空手ではない』と言われても格闘空手としてやってきて、空道と名付けたら『あれは空手じゃないか』と言われる。何をやっても〝はみだし〟は、叩かれるんですよね(笑)」

──極真は打倒・熊や牛を目指したが、熊や牛は打倒・極真を目指していなかった、という言葉がありましたが、それと同じようなものですね。グレイシーは打倒・他の格闘技を目指したかもしれませんが、大道塾は打倒グレイシーやムエタイを目指してはいなかった、と。

「そういう人が一生懸命やっていることを、しない人間がどうこう揶揄するのは好きじゃないですが、事実関係で言えばそうですね」

──現在では格闘技が広まっているので、違うルールで戦えばそのルールで強い選手の方が強いのは当たり前だと理解されていますが、当時は「誰々が負けた」ではなくその競技・団体が負けたと捉えられることが普通でした。

「そうですね。私自身は他流試合をやりたいって意識はなかったんですよ。私の格闘技観の中では格闘空手をやっていって、これに寝技をプラスしていけば完成するはずだっていう意識でいたんです。当時から道場では寝技をやっていましたが、トップ選手が『大道塾に寝技は要らない』なんて堂々とインタビューに答えたり、大会パンフレットに書いていたこともありました(笑)。まあ、私も大雑把な性格なので『人の口に戸は立てられねーしな?』と思っていました。当時はまだ寝技まで入れるのは早いと思っていたので、試合では投げまでにしていたんですが、10年くらい過ぎて、そろそろ寝技を解禁する時期かなと思っていたところ、ひょんなことから柔術と関わりが出来てしまい、今度は猛烈に生徒から寝技をやりたい!って言い出したんですよ。それまではいくら言っても『先生、寝技なんかいりません』と言っていたのに、あの試合を境にみんな逆に寝技をやりたいって言い出したから、試合での寝技を解禁したんです」

──大道塾にとっては、逆によかったんですね。

「そういう意味ではそうですね。私が描いた筋道どおりに行ってくれれば一番良かったんですが、ムエタイに引っ張られ柔術に振り回されました。まあ、それも大道無門じゃないかな、と(笑)」

──そもそも、格闘空手を始めた時は地上最強の格闘技を目指していたわけではなかったんですね。

「全くないですね。あくまでも身を守る護身術であることが基本です」

──それを周りが勝手に、大道塾は凄い、どんな格闘技にも勝てるんじゃないかって幻想を膨らませていったという。

「本当にそうです。そもそも私の格闘の原点は、小学生の時に中学生の番長に喧嘩で負けたことなんです。何をやっても勝てなかった、向かって行っても投げられて跳ね返されました。その時に、人は力を持たないと何を言ってもダメなんだと気付かされたんです。また、三島由紀夫が『文学をやっていても最後は日本刀なんだ。最後は日本刀を見せれば一目置くんだ』というようなことを言っていて、こんな偉い先生でも『力を評価している』のだから、自分で自分の身を守る術は絶対に大事なんだって焼き付いていました。だから、格闘技で日本一になるとか世界一になるって意識はなかったんです。極真に入った時も、空手で日本一になりたいとの気持ちはなく、柔道を知った上で打撃を覚えれば、大概の場合は身を護れるし、しかも指導員として夢だった海外留学ができると聞いたからです。極真時代の支部の標語は『人生はドラマだ!あなたの拳で!』で、武道・格闘技的には、一見、夢のない話ですが(笑)、逆にそのおかげか『山あり山あり』の、とんでもない人生が待っていましたが(笑)」

──あの試合をきっかけに、柔術というものの研究はされたんですか?

「もちろんです。負けたのは現実ですから、柔道だけの寝技ではダメだと。柔術を始め、いろいろな寝技を取り入れなくてはいけないと思いました。ただ最初は、全面的に解禁してしまうと知っている選手と知らない選手で大きな差が出てしまうので、柔道で認められている腕十字や腕がらみなど5種類の技だけを解禁しました」

──ホイス戦をきっかけに、選手の意識が劇的に変わったわけですね。

「そうです。それまではいくら私が言っても、『殴ったら倒れるでしょう』という感じでした。ましてや当時は大道塾の優勝者は空手界のエースみたいなものでしたからね。それこそ格闘空手そのものみたいな存在で、パンチをぶん回してみんなぶっ倒していたわけですから。だからみんながそういう意識だったんですよね。それがパンチひとつ当てることが出来ず、転がされて寝技でやられたのは生徒たちにとってはショッキングな出来事だったと思いますね。私は私の考えた道筋でやりたかったのに、キックブームの時はなんでグローブでやらないんだと周りから言われ、生徒たちも寝技なんかやる必要はない、ムエタイこそ最強だという意識になってしまった。それでトップの選手たちはみんなムエタイの試合をやったじゃないですか。今度はそれがガラッと変わって寝技が最強だというような意識になってしまって。ただ、だからと言って今、久輝がやっていることの結果がどうでもいいわけではなく、勝てば当然、嬉しいですよ。負けたら〝この野郎〟となりますが(笑)」

──話は技術的なことになりますが、マウントパンチ(寸止め)で効果になるといった要素が空道に取り入れられたじゃないですか。あれは柔術の実戦性を評価してのものですよね?

「最初にUFCの試合を見た時に、馬乗りになって殴っているのを見て、あんなものは先進国で流行るわけがない、ましてや日本では倒れている人間を叩くなんてそんなことを社会が許すわけがない、と当時のゴング格闘技で言いました。そう言っていたのがあれよあれよという間に広まって、〝ああ、日本人は変わったんだな〟と実感しました。私がそれがいい・悪いを言っても始まらない、昔ならやらなかったことを今はやるんだな、と。そうしたなら〝護身上〟やはり対応を覚えないといけない。だから取り入れました」

──いま思えば、ホイスに挑戦したことはよかったと思いますか?

「まあ、ウチはそういうところはしつこいんです。転んでもただでは起きない(笑)。ムエタイの時もそうですし、ヘタしたら団体が潰れるくらいの話じゃないですか。それこそいろいろな団体が柔術と絡まって、一時的にはそれなりに名前をあげていても、勝負に負けてガックリ来てダメになったという話が実際に、いっぱいありますよね。ウチはそういうところは苦にしません」

──むしろ、いいところを取り入れようとするんですね。

「あれを覚えればいいんだろう、という感じですね。大道塾らしいじゃないですか。それこそ大道無門ですよ。いろいろな格闘技は大道塾の敵ではなく、よく言えば師であるということです、エヘン!(笑)」

──大山倍達総裁も言われていた、我以外みな我が師の精神ですね。

「そこで覚えて、次に勝てばいいんです。ただ、あの時やらなくてもどこかで柔術とは交わっていたとは思います。ウチは何でもやろうみたいな姿勢ですからね」

──ホイス戦以降、大道塾としてダメージはあったんですか?

「ありました。あの当時はそれこそ、武道では大道塾が一番だって空気があったじゃないですか。それはもう凄かったですよ。弟子が減っていき、入門者がガクッと減りました。あれから10数年くらいは影響がありましたね」

──10数年も!?

「それにプラス、大山館長がなくなった後のフルコン界の変動や、K─1やPRIDEがあんな形で消えて武道・格闘技の信用が失墜し『やっぱりあの世界は……』と言った感じで潮が引くように競技者も、興味を持つ人口もガクッと減ったこともかなり影響しました。正直、ここは自慢して良いと思うけれど(笑)。私はこの世界に入る前に社会の底辺を経験して来て、『なるようになるさ。ダメなら大型免許があるから』と開き直れた私だからこそ、精神的に潰れずに持ったんだなと思いますよ(笑)。まあ、最近になって当時の悪いイメージを持っていた人が減ってきたんだろうし、やっと世の中が大人になって、ルールの違いが勝敗を分ける=誰が負けたから即、その団体がどうこうではないんだってことが分かってきたりして、また武道・格闘技復活の目が出てきたような気がするので、同じ轍を踏まないように、大事に大事に、武道・格闘技の健全な発展を期して行かなくてはと思っていますが……」

──そんなに影響が……グレイシーを怨みませんでしたか?

「それとこれとは話が別です。勝負の世界は勝った者が全部持って行くんですから、しょうがないな、と。長田がラクチャートに負けた時も凄かったですよ。それまでは年に入門者が何千人以上も入っていたのが、一気に半分以下になったんですから」

──大道塾は2度もピンチに陥っていたんですね。

「ただ、長田にしてもムエタイがやりたくてやったわけではないですからね。向こうのプロモーターに私が乗せられて、やってみますかと聞かれたから、「せっかくだからやってみます」というところから始まっているんです。最初は練習試合との話だったので、その話をもらってから3?4日はパタヤへ遊びに行っていたんですから。長田は長田で砂浜で足を切ってしまって。それでバンコクに帰って来たら新聞に試合のことが載っていて、日本の空手チャンピオンがムエタイのチャンピオンに挑戦する、みたいな話しになっていたという。その時に初めて、誰とやるんだと聞いたらルンピニーのチャンピオンだって言うわけです。メチャクチャな話ですよね。そんな状況で長田は初めてのルールで、グローブを着けたのも初めてくらいだったのに、最初にダウンを奪ったんですから、よくやったと私は思いました。ところが、日本に帰って来てその話が広まると評価がえらい悪い。手も足も出なかった、みたいな話になっていて驚きました。長田自身も、ムエタイがやりたいとかムエタイが最強だなんて思っていなかったですよ。ただ周りがそれをそのままには許さなかった。大道塾は、東はなぜ長田にやらせないんだ、と。私は長田がやりたいならやればいいと思っていたんですよ。でも長田からは何も言って来なかった。長田は長田で別にムエタイの試合をやりたいわけではないけれども、負けたと思われているのが嫌で悩んでいたとは思います。彼は彼で、自分がやると言ったら先生は嫌がるだろうと考えていたのかもしれない。でも段々と悩んでいる姿が目に付くようになってきたのは分かったので長田を呼んで、『やりたいならやったらいいんじゃないか』と言ったんですが、『自分はその気はありません』と。そうは言いながらも結局は収まらなかったので、あれが始まったわけです」

──1992年に後楽園ホールで開催された『THE WARS』ですね。

「その時に一番反応したのが、加藤清尚と飯村健一だったんですよ。長田はもう名前が出来上がっていたからいいけれども、彼らはこれからだったわけです。しかし、アマチュアと言っても当時、後先考えずに練習ばかりしていましたからね。その面ではプロと変わらないわけです。「俺たちは誰とやっても負けない」って意識があった。それが結局、長田が負けた、大道塾が負けたと言われてもの凄く悔しかったわけです。自分たちをキックの試合に出してくれみたいな話にもなりました。困ったもんだな、と。それで当時、週に一度、SAWの麻生(秀孝)さんが寝技の指導に来ていたから、終わった後ですし屋でいろいろな話をしていたんですよ。その時に、あいつらあんなこと言いやがってと愚痴を言ったら、麻生さんが『じゃあ東さんがやればいいじゃないですか』と言ったんです。そんなことは考えたこともなかったので〝えっ?〟と思ったんですが、協力してくれる人もいてやることになりました。それで一応はそれなりにグローブを着けた試合で勝ったんですが、加藤にしても飯村にしてもブレーキがかからなかったんですよ。第一、そっちの方が大道塾で試合をするよりも、反響が大きいわけじゃないですか」

──雑誌にも大きく取り上げられましたね。

「そう。それでやりたいというものをやめろと止めてもしょうがないだろう、と。ある時は飯村が来て、自分はキックの試合をしたいと言ってきたんです。その時に飯村は、私がダメだと言ったら辞めるつもりだったと後から言っていました。当時はそれほど選手が思いつめて、グローブでやることが強さの証明だ、みたいになっていたんですよね」

──グローブである程度証明したところで、今度はUFCが始まってWARSで修斗やパンクラスの選手と総合格闘技ルールで戦うことになりました。

「私は真っ直ぐ歩きたかったのに、あっちに引っ張られこっちに引っ張られ、足は引っ掛けられで(笑)」

──2002年のWARS6をもってピタリとやめてしまいましたよね。あれはなぜだったんですか?

「やりたいという選手がいなくなったからです」

──そうなんですか?

「逆に私は、最後までリングでの試合にはなじめなかったし、畑違いの準備は大変だったけれど、他の武道・格闘技の技を学ぶためにも、年に1回、もしくは2年に1回はやってもいいと思っていたんです。ところが選手たちは『もう大道塾は実力を証明したからいいです』と誰も手を上げなくなったんですよ。WARSを6回開催して、キックにも総合にもある程度対応出来ることが証明されたから、もういいです、と。元々、みんな格闘空手が好きだから始めたわけじゃないですか。名声が欲しくてやってみたけれど、結局は道衣を着てする武道が好きだから入って来た人間ですから。何回か「WARSをやりたいやつはいるか?」と聞いたんですが、1人か2人しかいませんでした。やる気のないものを無理強いしても碌な結果にはならないから、そこでやめたんです」

──そのうちの1人のようなものが加藤久輝選手なんですかね。

「久輝の場合は世界大会で負けたことが悔しかったからでしょうね。ウチには大きい相手がいないから、大きい相手とやりたいということで名古屋のALIVEジムに行くようになったんです」

──勝ったのは嬉しかったですか?

「勝って嬉しくないことはないです。久輝も直接知っている世代ではないですが、おそらく周りからウチとグレイシーの歴史を聞いていて、プレッシャーがあったかもしれない。よく頑張った、と言いたいですね。いつも生徒には言うんですよ、キックでもボクシングでも何でもやっていいけれど、『経験してみたい』とか、『試してみたい』みたいなお気楽な気持ちのヤツにはやらせたくありません。『やるからには、勝つつもりで練習をし、死に物狂いで戦え!」、と。せっかく先輩たちが築き上げてきた名前なのに、お前が中途半端な気持ちで負けたら大道塾が負けたって言われるんだから絶対に勝てよ、と。それで勝ったら嬉しい、負けたらばか者と言う。それはそうですよ。やる以上はそれくらいの覚悟は持ってもらわないといけない。挑戦心は良いけれども、ちゃんと背負ってやれということです。気軽にやってみたいなんて言われたら怒鳴りつけてやりますね。せっかく今までみんなで苦労してここまで大道塾、格闘空手、空道を持ってきたのに、お前でゼロになってしまうかもしれないんだぞ、と。言われた方はキョトンとしていますけれどね、時代が違うのかな(笑)」

──2001年から世界大会を開催したり、ロシアを中心に世界へ広がってきたことによって他のジャンルとかかわりを持たなくてもいいようになった、という面もあると思います。空道の中で成立するというか。空道で世界王者になることが高い壁になっているので、余所見をしている場合ではないですよね。

「今、世界王者になるのは本当に大変ですよ。先日、ジョージア(グルジア)に行って正式な支部に認可しました。行ってみたら、柔道のオリンピックチャンピオンや世界チャンピオン10人くらいと会ったんですが、なぜかみんな空道を応援しているんですよ。普通、柔道関係者が応援するなんてありえないでしょう。ところが今回支部長になったのも元々、トビリシ柔道連盟の理事長をやっていた人物で。昔、私が柔道をやっていた頃の東北のエースが遠藤純男氏(山下泰裕のライバルで1980年の全日本選抜柔道体重別選手権でカニバサミを仕掛け、山下の腓骨をへし折ったことで知られる)で、私が何回やっても勝てなかった宮城県のチャンピオンが、彼に30秒で投げられて負けたのを見て柔道を辞めました(笑)。ジョージアで会った柔道家たちはその遠藤氏と同期で、自分は遠藤とやって負けたと楽しそうに話をしていました。ジョージアで柔道は半分国技のようなもので人気があって、みんな身体がガッチリしていて体幹がしっかりしています。2月にインドで開催されたワールドカップに始めてジョージアの選手が出たんですが、いきなり-240で優勝してしまいました。あとタジキスタンの選手も優勝したんです。今までだったらロシアが全階級を制覇するか、せいぜい日本が一階級を獲るかくらいだったんですが、今回はロシアが3階級で優勝を逃しています。今度の世界大会は大変なことになるでしょうね。ロシアの独占状態は終わるかもしれません。今年の秋は仙台でアジア大会を開催します。そして、来年の世界大会に日本代表として選ばれるためには、今年の体力別とアジア大会、来年春の体力別と3大会の内2大会に出ることが条件となります。だから、久輝にも出ないと世界大会には出さないと伝えてあります」

───アジア大会の開催ですか!

「アジアならモンゴルが強いですね。あとはイラン、タジキスタン、カザフスタンあたりから選手が来ます。カザフスタンも強いですよ。ワールドカップのベスト3に2人くらい入っていました。とにかく旧ソ連系は強い。力があるし、体幹が強いし、何より日本選手にない『これで負けたなら俺の人生は終わりだ!』というほどのハングリー精神がある。今年の体力別各階級上位の2人~4人(に加え、秋の国内予選を勝ち抜いた選手)が日本代表となって、アジアの国々を迎え撃ちます。ワールドカップでは清水亮汰(2015年全日本無差別&2016年全日本体力別-250クラス王者)が、2014年の世界大会で勝っていた同じ選手に負けたんですよ。ワンツーでのばされてしまいました。だからウェイトをやって体幹、特に首を太くしろ、と言っても今の子たちはやらないんですよ。何度言ってもやりません。さすがに今回はのばされたからちょっとはやる気になったけれども。まず70%の力をもって、ガツンとぶつかり合っても、ある程度それを凌がない限り技の勝負にはならないんですよ。日本人同士の試合だと最初から名人戦で技のやりとりとなりますが、ロシアを相手にする時はまずぶつかって、それから回り込むなり離れるなり技の展開になるんですが、最初の段階でバンッと入ってこられると間合いは殺されるし、勢いづいてしまいます。体幹の強さが違うから。やっと本人もウェイトをしないといけないと思いますと言っているんですが、『僕たちは日本的な試合が好きです』とか言うんですよ。本当に今の若い選手たちは名人戦が好きなんです。相手がこう来たらこう返すというような」

──最初の、グレイシーが出てくるまでは寝技をやれと言ってもやらなかった、という話に似ていますね。

「なかなかうまくいきませんね。私は机の仕事に追われて、直接指導は無理だから要点だけ言うんですが、言うことを聞くのと聞かないのがいる。でもまあ、最終的には選手がそれらを取捨選択して、自分で組み立てた練習法や戦い方でやるのが一番いいんですよ」

──フィジカルでやられたら、今度は大道塾に必要なのはフィジカルだってなるかもしれませんね。

「ジョージアやモンゴルがのし上がってくる可能性が高いですからね。そうなって欲しいけれど…。これがラウンド制だったら動き回ってスタミナを消耗させてって戦い方もありますが、3分ですから半分以上はフィジカルで決まるわけです。まあ、日本人選手たちの活躍を暖かく見守ってあげてください」

更新日2017.7.9

コラム21 「老骨に鞭打って(笑)」

「塾長スパー動画、予想通り、みんな驚いてますね。」

「驚いてる」って“人間機関車”(懐かしい言葉だ笑)が、化石燃料使用反対の声に押されて十分に供給できず馬力がでないためか?もしくは車体・車輪の摩耗によりガタピシしてるからか笑。この動画を見てどう思うかはそれぞれだと思うが、以前、63歳で9段の審査を受けた組手シーンが紹介されたなら、ドッカで「東も遂にこんなことをするのか。どうせ弟子は遠慮してるだけだろうに~」にみたいな反応が、塾内()外からあったと聞いた。

:内からの声としては「塾長はこんなことしなくても、過去の輝かしい実績や、不本意な結果でも、今は実際の試合映像で見れる時代になり、実力は誰しもが認めてるんだから、今更‥‥」という好意的なものから「塾長もTの仕事にも繋がる、セールストークに煽られて、イメージダウンするのも考えないで・・・」等というものまである。しかし、前者には「そうだろう、そうだろう」とニンマリしても(笑)、後者の「空道を盛り上げよう」として“格安”で働いていてくれる人間達 m(__)m が、逆に攻められるようなことになっては可哀想だ。聞き捨てならない!!

そんなこんなで「なぜ俺がこんな事をするのか?」は、いつか書かなくてはと思ってはいたんだが、できなかった事情を絡めて…。“総本部”は傍で見てるほど運営は楽じゃない()。為に、相も変わらず“少数精鋭”で切り盛りせざるを得ないから、それこそ小遣い社長として、日々の雑用に追いまくられてる。そんな身としては、半分「なに言われようが、そんなことは今しなくてはならないことじゃない。それより国内外からの、様々な事象に対応することは“今”必要なことだ」と思ってたのだが・・・・。

ある古参の塾生に「空道が国内外にこれだけ広がってれば‥でしょう」などと言われて「現実はボランティアみたいなもので、あなたの考える十分の一でもないよ~」といったなら「俺だって事業してるから分かるよ~」と来た。「ああ、分かってくれたんだな」と思ったなら、真逆な皮算用をされたみたいで腰を抜かした。「いや~」というと「俺を馬鹿にしてるの!!」とくる。「俺はそんなに甲斐性がないのか~」と返す言葉もない。

閑話休題。今回の動画について、またぞろ(又候)、色々な声が聞こえてきたので、言い訳でも年寄り自慢でもなく、その理由についてそろそろ書き留めなくてはとなった次第。くそ~!このくそ忙しい時に~~。

昔の選手時代を知ってる人間から見たなら「何で今更、こんなヨタヨタしてる映像を晒すんだ!」という声もあると思うが、俺は「はみ出し空手」の巻末(P218)で、

「単なる“我儘”や、チョッと有名になったからと「その気になって“独立”する」のではなく、50歳,60歳になってもできる“武道スポーツ”を確立する為だ。(中略) 実行しようとしてもできなかったなら、何もしないと同じだ。今後の生き方を見据えていただきたい。云々」

と大見得を切った以上、その年になったなら「俺は言ったことを、チャンと実行したぞ~!」と証明する義務があると、ずうと思ってきた。運動選手なら誰しも自分のことは過去の全盛時の姿で封印したいもので、それはそれでいいと思う。しかし、俺の場合は、かつての団体での歩みを期待してくれていた人たちに対して、ある意味、信頼を裏切ったかもしれない”過去”がある以上、それは避けてはいけないことだと思っているからだ。

「いや~俺も上に反発して別なことをやろうと思ったけど、実際自分で初めて見ると、思ったようにはできなかったよ」とは言いたくなかった。そして、これが東孝67歳11か月の組手であるの姿である。どう評価されるかは知らないが()、一応、「それなりに頑張ったな」とは言っていただけるのではないだろうか(m(__)m。

しかし、そんな辛気臭い話を離れても、この「勝手な“義務”」かもしれないが、があるから、この年でも汗を掻かなきゃならないし、お陰様で、終わった後の毎日の飯もビールも美味いんだ(笑)

「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候」(勝海舟)

コラム20 「空道○○カップ」と「空道○○選手権大会」の違い、及び、 今後の空道の展望について

かつて、1981年に空道のルーツである大道塾が宮城県で設立され、初めは、県内の数か所の支部が集まって、県大会が開かれ、次に2,3の県が集まって「交流試合」となり、それが全国のいくつかの地区でも始まり、現在の全国5地区での「地区大会」として「全日本選手権」に向けての予選となったのは、設立後16年を経た1987年の春でした。

今それが2001年に「第1回世界空道選手権大会」として「空道」を世界に発信して以来、各国で「国内大会」(国内的には「県大会」)が行われてきたものが、年数もほぼ同じくらいの15年目にして、今、一気に世界的規模にスケールアップし、遂には「各大陸」で(国内的には[地区大会]となる)「空道○○カップ」(カッコ内は大陸名)が行われるようになったと考えると、感慨無量なものがあります。

特に創生期に籍を置いた塾生や支部長も同様の想いがあると思います。(ご後援者、ファン、支部長、塾生等々、関係各位のご支援ご協力に、この紙面をお借りして、改めて感謝申し上げます)

さて、この「空道 ○○カップ」は直接には「世界大会」には繋がりませんが、今後いろんな国で、様々な名称の大会が創設され、その度ごとに空道のレベルは一段一段向上してゆくのでしょうが、それらの大会の中でも、その大陸で最大規模の大会が「空道 ○○カップ」(※)となるのです。

※10月4日に行われたモンゴルでの「第1回 空道アジアカップ モンゴル大会」( http://www.daidojuku.com/home/2015/mongol/ ) に次いで、既報の通り、11月1日には南米チリで、南米と北米の国、約10ヶ国が一堂に会し「第1回空道パンナム大会」が行われます。また来春には「第3回ヨーロッパカップ」も計画されており、いくつかの国からの希望も出ております。

更には、「世界大会」と次の「世界大会」の間には4年ありますが、世界大会の2年後には「空道 ワールドカップ○○大会」が開かれ「世界大会」に次ぐ、世界規模の大会となります。これには現在メキシコが名乗りを上げており、現在、政府やスポンサーと交渉中です。

そして、4年ごとの「第○回 世界空道選手権大会」は、常に、空道発祥の地、日本で開かれ、空道の最高峰を競う大会となるのです。

次回は2018年11月の「第5回 世界空道選手権大会」並びに[第2回 世界空道ジュニア選手権大会]ですが、4年は決して長くはありません。出場を期す選手、支部、後援者の方々は、それぞれの持ち場で一丸となって、今から計画を進めて頂きたいと思います。

(初稿2015.10.28)

コラム19 異種武道交流イベントによせて

編集部注)この文章は青森で開催された武道交流イベント記事(2015年2月23日掲載)へのコメントに加筆修正したものです。

嘗て、昭和柔道界の巨星、神永昭夫先生(※1)が、若くして亡くなった時にも「この人がいたなら日本の柔道界は盤石だったのに、と柔道界をあげて惜しまれた」と、空道のルーツである「大道塾」の初代理事長(※2)から聞いたことがあるが、斉藤(仁)氏(※3)の早逝もまた「柔道界にとって本当に惜しい人物を失くした」ものと思う。柔道というと(本人の意思とは関係なく)どうしても「世界の山下泰裕氏」(※4)が脚光を浴びがちだが、その当人すら「お互いにとって大きい存在だった (SANSPO.COM 1月21日記事)」と言っている。畑違いではあるが「技術的にも人間的にも評価の高い人物だ」と聞いていた。そのご縁でこんな良い企画が組めたのは、有難いことだった。感謝と同時に深甚なる哀悼の意を表したい。

こちらでも先日今、色々取り上げて貰ってる「スポーツゴジラ」発行元の「日本スポーツ学会」(長田渚左 代表理事 ※5)主催で、講道館で開かれた「スポーツを語り合う会」に参加することができた。その中で山下氏が「中国・南京やイスラエル、パレスチナ等での活動報告」 という演題で「柔道がいかに世界平和にコミットしてるか」という話や、筑波大学大学院スポーツ健康システム・マネジメント専攻長の菊幸一氏(※6)が「嘉納治五郎の魅力を語る」という演題で、「現代スポーツは嘉納治五郎から何を学ぶのか(※7)」という本を要約し「柔道の“教育性”や“文化性”の一方、加熱する“競技性”に、どう対応するか?」という、ウチにも当てはまる命題に関しての話を聞けたんだが、やはり柔道界に学ぶことは多い。

また、周知の事と思うが、柔術(寝技)は隔週でパラエストラ代表の中井祐樹師範(※8)に、本部の金曜日のクラスの後半に指導して貰っている。その縁で日大柔道部監督の金野潤先生の「柔道と柔術の技術交流を」という研究会にも参加させて貰えるようだ。パラエストラは武道という色は出してないのだろうが、柔道部出身の中井代表の指導する柔術は道の部分も残しているので、我々空道の選手も良い交流会になるのではと思う(勿論、組技や寝技主体だからアップアップするだろうが 笑)。

日本では少子化の影響に輪を掛けて若年層の武道離れがあり、国際大会に臨む予備軍育成はどの分野でも青息吐息である。何度も言うが、武道は日本の無形文化財と言っても良い重要な文化である。気付いていないのは武道をしない日本人だけだと、仕事のお蔭で100ヶ国以上は回って来たから、心の底から思う。また、海外では競技者がややもすると「勝てばいい=強くなればいい」式で捉えがちだが、武道を支援、導入してる社会的リーダー達の目的はそれのみではなく「社会を秩序の中で活性化させる」という事も大きな評価ポイントなはずである。だからこそ、貴重な国の予算を使って、武道を支援、育成してくれてるのだろう。

一方、武道母国である日本の場合、行政が放っておいても、武道は民間の支援でなんとかなってきたから「燈台下暗し」状態である。しかも、少子化の影響をもろに受け、競技人口の減少という面からも、行く末は厳しい。今迄の武道界のように、多くの人間が取り組んでいたから、技術体系の違いで足の引っ張り合いをする余裕もあった。しかし、今後はそんな”贅沢(?)“は許されない。少人数でも、違う体系の中から「根本的な違いはルール」として認めて、互いにとっての役立つ要素を学び合いながら、切磋琢磨しなければならない。即ち「武道母国日本の名誉を守る」という共通認識 (今はやりで言えば” 通奏低音(つうそうていおん)”か 笑)を元に、効率よく心技体を向上させ「己の分野では一歩も引かないぞ!という不退転の取り組み方をして行かなければ、日本武道の未来はないと思う。

閑話休題。ま、まだウチはにその前に、色々学び前進しなければならないことが山ほどあるんだが、そういう意味でも、今回のような機会を得たことは素晴らしい事だ。何にもまして、世界大会後、青森始め日本各地で、一般にはまだ耳慣れない「空道という武道」の選手が、一般だけでなくジュニアも含めて評価されることは本当にありがたい事だ。

本人たちの努力もさることながら、初めてそういう場に引き上げて頂いた、仙台市空道協会、平塚和彦会長(※9)を始めとする、各地での関係各位の方々のご尽力に心から、感謝申し上げます。

設立当初の「実戦性、安全性、大衆性を備えた武道」を創るのだ!と皆で、熱く燃えてはいたが、一人でいる時に湧き起こる「わぁ~俺たちはどこに向かってるんだろう・・・」という、えも言われない不安を思い出す時、この状況は夢のようである。重ねて御礼を申し上げさせて頂きます。

今回各地で表彰された選手や支部長、指導員、同じ支部の塾生諸君は、これがただ「自分たちの努力や指導、応援だけで達成できた」等とは決して思わないで貰いたい。「今日まで叱咤激励して頂いた多くの役員、後援者のお蔭だ」という事を忘れないで、しかし、まだまだ越えなければならない、山々に向かって行こう。

(初稿2015.2.23)

注(敬称略)

※1 神永昭夫(かみながあきお):宮城県仙台市出身の柔道家。日本代表として出場した1958年の世界選手権では準優勝。その後全日本選手権を、当時史上最多となる3度制覇(1960年,1961年,1964年)し、猪熊功とともに日本柔道界のトップ選手として君臨する(通称:神猪時代)。(ウィキペディア記事より引用)

※2 佐藤節夫(さとうせつお):初代大道塾理事長。現大道塾最高相談役。

※3 斉藤仁(さいとうひとし):青森県青森市出身の柔道家。ロサンゼルスオリンピック、ソウルオリンピック柔道男子95kg超級金メダリスト。(ウィキペディア記事より)

※4 山下泰裕(やましたやすひろ):柔道家。1984年ロサンゼルスオリンピック無差別優勝後、国民栄誉賞を授ける。引退から逆算して203連勝(引き分け含む)、また対外国人選手には生涯無敗(116勝無敗3引き分け)という大記録をもつ。(ウィキペディア記事より)

※5 長田渚左(おさだなぎさ):ノンフィクション作家。 近著に 『桜色の魂チャスラフスカはなぜ日本人を50年も愛したのか』 集英社刊。

※6 菊幸一(きくこういち):筑波大学体育系教授。同大学院スポーツ健康システム・マネジメント専攻長。

※7 菊幸一「現代スポーツは嘉納治五郎から何を学ぶのか」(単行本情報 Amazon

※8 中井祐樹(なかいゆうき):柔術家。パラエストラ東京主宰。現日本修斗協会会長。

※9 平塚和彦(ひらつかかずひこ):大道塾評議委員長。国際空道連盟顧問。全日本空道連盟副理事長。

コラム18 得意澹(たん)然、失意泰然

この所、格闘技雑誌が空道、大道塾の記事をよく取り上げてくれている。先月の「フルコンタクト」4月号では、「空道躍進!世界へ向けて(前篇)」、5月号では「空道躍進!世界へ向けて(後篇)」に加えて、「空道特別昇段審査」として海外2支部長の昇段審査の模様を、一方、「Fight &Life」4月号(Vol.41)では、「2014北斗旗 第4回世界空道選手権大会」への道、として「我々の知らぬ間に空道は世界を席巻していた!」、又、「ゴング格闘技」5月号ではゴン格的拳闘で「“武人”長田賢一、我レ、武ニ生キ、私ヲ滅ス」等々。

数年前には考えられない異常ともいえる“盛況振り”である。これ等は全て’90年代からの「どっちが強いでショー」の“格闘技ブーム”が2000年初めに崩壊し、見る影もなく地盤沈下をしているかのような「武道・格闘技界」にあって、1981年の大道塾設立、2001年の空道創始を通じて「武道こそが社会を支える人材を養成し、日本を、世界を救う道だ!」との、不器用ではあるが、現代社会が忘れている「武道の原点」を頑なに守ってきた「空道の理念」「大道塾の歴史」が、ようやく浸透し振り向いて貰えるようになったという事だろうか?(我々としてはそう思いたいものだが・・・)

天邪鬼(あまのじゃく)を言うようだが、残念ながらそうではないだろう。これらは全て、昨年のワールドゲームズデモ参加や、今年6月の日本外務省とロシアスポーツ省の後援による「日露武道友好年」への参加等々が、今までの「空道  大道塾独自の行事」としてではなく、様々な、より大きな機会に顔を出すようになった為に「空道の“イべント”とか“トピックス”」として取り上げられるようになったからだろう。更にはそれが来る11月の「2014北斗旗 第4回世界空道選手権大会」&「2014第1回世界空道ジュニア選手権大会」への注目へも繋がっているからなのだろう。何にせよ、設立以来の主義主張を通す為だったとはいえ、長かった暗闇のトンネルと抜け出たような晴れがましいような気になるのは、ご同慶の至りだ。

が、しかしこのようなイベントやトピックスで形成される、世論、世評というものは“ 移り気”なものである。即ち、この「世界大会の結果如何(いかん)」が、今後の評価にも直結していることを忘れてはいけない。例えは悪いが、言わば“格闘技ブーム”では注目されていなかった(自ら距離をおいていた=(イコール)一般的、世間的には「注目されていなかった」事になる)、“空道”という、まだそれほど“手垢の付いていない目新しい武道”に、世間がチョッと興味を持っただけなのだ。「これから、遠慮会釈なく“値踏み”される」という事を忘れてはならない。

過去10数年を振り返る時、順境の時には見知らぬ人もが集まるが、逆境の時には身近な人でさえ去る、という事を痛いほど学んだ。その時の為に「得意澹(たん)然、失意泰然」※1とか、「人と結びて有情を体す」(東京堂出版)でも触れたように「行蔵は我に存す、毀誉は云々」※2等々の言葉があるのだが、いざ現実にそうなった時には、頭ではそう思っても、心は中々そうは割り切れ(吹っ切れ)ないものだ。

※1  得意澹然、失意泰然(とくいたんぜん、しついたいぜん)・・「得意澹然(とくいたんぜん)」とは、物事が上手くいって得意な気分のときは、努めて淡々とした態度を示すこと。 「失意泰然(しついたいぜん)」とは、失意のときは、やせ我慢でいいからゆっくり落ち着いていること。

※2  原文は「行蔵(こうぞう)は我に存(そん)す。 毀誉(きよ)は人の主張、我に与(あずか)らず我に関せずと存じ候(そうろう)。 各人へ御示し御座候とも毛頭異存(もうとういぞん)これなく候。」
我が行いは自らの信念によるものである。けなしたりほめたりするのは人の勝手である。私は関与しない。どなたにお示しいただいてもまったく異存はない。

実際、好むと好まないとに関わらず、人生には何度かそういう逆境、苦境の時は必ずある。その時にへこたれない、潰れないためには何が必要なのか??それがこの世界の人間が日頃から(深く内容も考えないで?)“お題目”のように口にする“修行※3”の精神だろう。

※3  10年ほど前の宗教がらみの事件の為に、この言葉(修行)が敬遠され貶(おとし)められているが、(面白き事もなき?)この世(人世)を何とか全うするためには、この言葉は便利な、強力な支えとなってくれるもので、これらの逆境、苦境をも、今日的に言えば「ピンチはチャンス」即ち、「自分を磨くための試練」や、それ以上に「自分の厚みを増すための好機とすら捉える、強(したた)かさ、強靭さを思い起こさせてくれる言葉だ。(誰だって、「苦しい練習は嫌だが、人より苦しまなければ強くなれない。やるかー!」と同じだ 爆)

最近の日本は「長年の平和な社会が生んだ」賜物で、そういう人世の実相と離れた、軽くて明るい人が持て囃される時代(“好青年”や“爽やかさ”ブーム)だが、それは偶々の僥倖のお陰で、多くの賢人、先達が言うように「人類の歴史は戦いの歴史である」。最近の国際社会の情勢を見ていると、「この平和がいつ崩れてもおかしくはない」というのが時代の足音のような気がする。だから、その為にも、若い時に、大なり小なりの「逆境に打ち克つ」という経験が必要なのだと思うが、日本人は基本的には、17条憲法以来の「和をもって貴しとなす国是、歴史」と、海に守られた島国ゆえの「国防意識の極めて弱い≒平和を愛好する民族」≒「争い事は直視したがらない」民族だから、一度の敗戦で「病膏肓に入ってしまい」なるべく武道とか武術という荒事からは目を逸らしたい。その為に、武道の本質を意図的に脇にやり、ただ単なる肉体的強者を生み出すスポーツの一種としか扱わないのが、敗戦国日本の「世界に対しての“処世術”」なのだろう。

例によって、わき道で説教してしまった(悪い癖だ  笑)。だから、「これから、遠慮会釈なく“値踏み”される」という事を忘れてはならない、以降に続くが、最近ちょっと露出が増えたからと言って、風向き(世評、評判)はいつどのように変わるか分からないので、調子に乗り過ぎないに越したことはない。しかしながら、引用した「得意澹(たん)然、失意泰然」は「良い時だからと言って調子に乗り過ぎず、淡々としていろ。一方、失意の時だからと言って、悄然となるな。落ち着いて嵐の過ぎるのを待て」と言っているので、何も「調子の良い時までしかつめらしい(陰気臭い)顔をしろ」と言っているのではない。

結論。“ノッテル”時には、その勢いを自分から削ぐ必要はない。塾生のみなさんは、最近の風向きに安心、慢心することなく、まだ「空道 大道塾」を認識頂いていない多くの人々へ、これらの雑誌があれば単なる言葉以上に説明、広報をし易いので、是非、手に取って(購入して 笑)、「空道とは・・・」と積極的に「空道大道塾」と「世界大会」の広報、普及(並びに「社会体育としての武道スポーツ・空道」という原点を忘れずに、自分自身の日々の精進)に邁進して頂きたい。

最後に、(しつこい! 笑) 最近、候補選手は「頑張ります」、「必ず世界を獲ります」と言い、選手でない塾生は事ある毎に、「自分は選手ではありませんが、世界大会の為にできる限りの事はさせて頂きます」とは言ってくれる。有難う!!そうなのだ。「世界大会」は選手のみがではなく、正に“総力戦”なのだ。何度も言うが11月14~16日間の「世界大会の観戦」と、それまでの「広報活動」、「友人、知人の観戦勧誘」を常に心掛けて貰いたい。それが即ち、「全塾生が参加する世界大会」になるのだから。(完全にセールストークになっているか 爆)

文書日付2014.3.27

コラム17 年末エッセイ!!年越しを振り返る。わが生涯、二度目の海外での年越し!!泣&笑(後編)

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閑話休題。それから1年位してだろうか、北斗旗直前だったが、わたしはニューヨークで、第2回目のセミナー(※)を成功させ高揚した気持ちでロンドンにいた娘に「これから日本に帰るぞ」と電話で連絡した。しかし出ないしメールにも応えない。そんなことはないからすぐに私は「これは絶対病気か怪我をしてどうにかなってるんだから、すぐにお前行ってくれ!」と帰国次の日にすぐに家内を緊急で送った!!案の定、風邪かなんかで行った病院で院内感染したらしく、大変な高熱と疱瘡で救急車でICUに運ばれる騒ぎだった!!

(※)塾長コラム09  15年振り3度目のニューヨークは・・・・

ここも娘の談ではこうなる 笑。

「風邪だったのか、ウイルス感染だかの原因不明の高熱から始まって、救急病院に連れられて、そこから更に悪化して、結局40度の熱が3~4日続き、加えて全身発疹、嘔吐下痢扁桃炎などが始まって、どうやら救急病院で打った注射針からさらに感染したんではないのかと言われました。黒人街の病院だったし・・・イギリスの医療レベルは住む地域に因ってホントにまちまちみたいだから・・・。集中治療室から車イスで病室に戻って来たわたしを見たお母さんが、開口一番「あんなこんなゾンビみたいな顔になっちゃって?!」って抱きつかれて大泣きされたけど、お母さんの顔を見たときには本当にホッとした」そうだ。余談でこんな話も。「同じ家をシェアーしていた人に手伝ってもらって、いざ救急病院に行く時、やっとタクシーがきたら覚せい剤でラリってる見知らぬ黒人が玄関口でナイフだして「金だせ!!!」とかって。わたし「いい加減にしてよ!わたし苦しくてどうしようもないんだよ!はやく病院いかせてよ!って、渾身の力振り絞ってどなった。わたしもガムシャラによくやったよねぇ・・・」
だ、そうだ 恐!「蛙の子は蛙」(笑)かもしれないが、本当に刺されないで良かった。「おにぃ」が護ってくれたのだろう・・・合掌。

それまでも周りの人からは「よく一人娘を海外にだすね~」とか「心配じゃないの?」などと言われても、想像力の乏しい私は「そんなに悪いことばかり続くわけはないさ」とか「そんなこと言って臆病になったなら何にもできない。人生は守りに入っては後退するだけなんだよ」などと、したり顔で話してたが、この時ほど自分の浅はかさを呪い、単純さを後悔したことはなかった!!「もし今あいつに万が一があったなら、人と違った 変わった”人生を何とか生きのびてきた能天気な俺も、もう駄目だな!!」とまで思ったものだった。

幸い娘も順調に回復したが、一人で帰国させるのも心配だったし、珍しく気弱に「お父さん、迎えにきて」という言葉と、それまで度々希望していたウィンザー支部のセミナーや、助けてくれた友達や恩師へのお礼も兼ねて、「今年だけだぞ!」と海外で過ごすことになった年越しだった。で、正月早々取って付けたように1月2,3日とウインザ―支部でセミナー!をして来た(笑&泣)。良く家内から「塾長は仕事がらみでないと絶対に海外へは行かない人だから」と文句(?)を言われるが、よくよく貧乏性な私である。

そんな経験を経つつも何とか娘も卒業でき、2009年には念願の「英語を使う仕事」ができる会社に入社することができ、久々で平和な、嘗ては当たり前だった年越し、正月を迎える事が出来た。この間、約10年が過ぎていた!!(しかし中々世の中そう甘くはない。入社時の約束とは違う「中国語を勉強するような」アジア関係の仕事に回され悩み始まったが、家庭的にはここ数年は3人で「おにぃ」の話も平気で出来るような安定した「年越し」を過ごしている)

一方、本業の方は、設立当初は物珍しさから(?)マスコミの路線と合致して煽って貰い順風だった大道塾、空道も、90年代直前からの「社会体育としての総合武道」などと、「武道の格闘技化、プロ化」という時代の流れ(武道・格闘技+格闘マスコミ+社会のイケイケ風潮)に真っ向から逆らった為に、この20数年は様々な悪戦苦闘の連続だった。それでも時代が熱狂から覚めて再び地に足を付けてきた2010年過ぎからは、なんとか設立以来の方向で生き残れたように見える。ここ数年は特に海外との仕事の量が倍々と増えてき、ついに昨年思わぬところから「公的武道スポーツ」への橋頭保(きょうとうほ)を築くことができた。

かといって仕事柄、衆目を引く派手さとは裏腹に、(ましてや“社会体育”を標榜している以上、そう阿漕な事も出来ない笑)、いわば“ボランティア”団体みたいなものだから、台所は常に火の車である。そんな訳で、人手を増やそうにも大会社にも劣らないような結構な仕事量に見合うだけの報酬はできないし、その人生に責任が持てるほどの安定性が確立・担保されたわけではないので、外部から人材を安易に招くこともできない。そんなこんなもあり、「いつまでも親離れできないように見えるし、家内工業みたいで嫌だ」という娘を説得して、連盟の仕事を手伝わせる羽目になったしまった(但し「この仕事は正に世界中と繋がっている仕事だから遣り甲斐はあるぞ!」と騙した(笑)せいか、(どっかで聞いた話だ、おっと 恐)今は「毎日が面白い」と言ってくれているのでホッとしてる)。

そんな経緯で今年も好きな「ゆく年くる年」を見ながらゆったりとした良い年越し、正月が過ごせるはずだった!!のだが・・・・・。

周知のとおり、5月に「ワールドゲームズ2013Cari」への「デモ参」が決定した(※)のは良いのだが、8月頃にコロンビア支部長が「大会実行委員会との打ち合わせや、空道のデモンストレーションの為に12月25日~1月2日までのカリ市でのフェスティバルに来て、空道のアピールをしてください」との再三再四の要請。手を変え品を変え行けない理由を並べたのだが、「カリ市もその予定でスケジュールを組んでいるし、記者会見では20社程が塾長のインタビューを放送・放映する積りで待っています」と全く聞く耳を持たない。

編集部注※経緯については2012年6月の特集記事「東塾長インタビュー」を参照ください。

結局、12月中旬にとうとう押し切られてしまい、心ならずも年末年始二度目の海外となった次第。しかし、気が進まないとはいえ、考えてみたなら、空道のためなら、当然個人の好悪は言ってはいられない。そこで、“一蓮托生”とばかりに、これまでコロンビア開拓に貢献した稲垣や黒木を始め何人かの古参や、2012年の体力別、無差別の各階級の優勝者、入賞者に片っ端から電話したが(但し、いくらなんでも所帯持ちは遠慮したが)年末ということもあり中々いい返事がない。とうとう遠征出発の3日前まで電話、メール攻勢し、今回のメンバーを半ば強奪・拉致してコロンビアに来た(爆)。

この稿も27日から書き始めたが、行事が盛りだくさんで、今は朝3時だが大晦日の今日31日まで掛ってしまった。PCの示す日本の現在時間(プラス14時間)では、あと4時間後に「紅白歌合戦」が始まり、そのあとに一年の締めくくりとでもいう、大好きな「ゆく年くる年」が始まるのだろう。衛星放送でも見れるのだが、その時間にはカリ空港で入管手続きをしているころだ。その後も乗継地で一泊となるから、どう足掻いても、年来の習慣である「日本での年越し、元旦」は無理である。録画でも見れるのだろうが、年が変わる瞬間に価値があるものを、後で見ても・・・・。

という訳で、今年は残念ながら(しつこい!か 笑)、遠く地球の裏側から我が日本の初日の出を想像し、2013年が皆様と空道、そして大道塾にとってこれまで以上に良い年であることを祈りつつ (来年は必ず「ゆく年くる年」を、我が“日本”で炬燵に入りながらミカンを剥きながら見るぞ!!)

追伸(か?):中継地のマイアミで入管手続きの列(これがまた9・11テロ以来さらに厳しくなって、呆れるほど時間が掛る!!)に並んでいたなら、同行した笹沢が(※)フェイスブックで俺の嘆きを披露したみたいで、コノネンコから「今炬燵に入ってミカンを食べてます」というメールが入った!!この野郎!!!

※笹沢は前回のキプロスに次いでの同行で今回は当然対象外だったが、当初予定していたデモマッチ (両者共にコロンビア功労者(笑)の黒木VS 稲垣) の黒木は「行きたいのですが仕事が急に入ってしまって、済みません」で、稲垣が今までの悪行の報いか(笑)「この所、右足にチョッと痛みを覚えて蹴りは・・」となったので、チケットも解約できないし、今回はワールドゲームズの話もあるので、セミナー指導と、本部師範代役(“睨み役”兼 笑)で同行という事にした。そこで、堀越に声を掛けたなら「休みに入るの」でと即返事をよこしたが、その相手が見付からない。前述の基準(無差別上位、体力別各クラス優勝者)で怪我を聞いてない10人近くに連絡しても「旅行を予定しているので」、「急なので」、「チョと仕事で」という返事ばっかりで、途方に暮れてしまった!!とうとう3日前になって、「又もじゃ、無理だろう」という私の声を無視して(笑)、事務局長が「お家の一大事だから!」と強引に笹沢に振って“拉致”したものである。
ついでに、ないとは思うが、「会社で浮いてるかも」と言うのを、無理矢理やり繰りさせて参加させたのに、「あいつは続けて又もか」と取られてはかわいそうなので、老心ながら人選の事情説明まで 笑。

文書日付2013.1.5(1.9一部修正)

コラム16 改めて、基本に付いて

ここ10数年の、武道が単なる「どっちが強いでしょー」的なものになっていた社会風潮の中にあり「現実的な護身」とか「社会体育」と言った原点に固執し(?)、派手なパフォーマンスができずに、ご後援者やファンの方々に(中には支部長にも?)、「大道塾、空道はどうなってるんだ?」とか「これからどうなるんだ?」などと大変心配をして頂いておりましたが、既にHPでご存じのように、「大道塾」発足32年目、「空道」提唱12年目にして、これまでの地道、堅実な活動が認められ、[2013 World Games Cali]への参加(demonstration)、JWGAへの加盟などなど、様々な明るい話題が重なっております。その上に、参加が黒帯昇段の条件になったという“遅すぎた対策”も理由の一つである訳ですが(笑)、SC(合宿と言うには短すぎるのでSummer Camp 泣)が例年以上の盛り上がりを見せているのはご存じの通りです。

そんなSCで行われる定番の審査(※1)で気になったことが何点かあり、その都度注意しましたが、改めて注意を喚起しておきたいと思います。それは基本と移動の習熟度に支部間で大きな差があるという事です。恐らくある一定の割合の支部では基本を軽視したり(まさかとは思いますが)殆どしてない支部があるように見えました。これは空道が飛躍的に世界へ広がる予感のある今、絶対に見逃してはならない問題です。

(※1) 7,8,9月はSC以外では審査は認められません。賛否両論はあるでしょうが、いわばSCに参加したものの特典として審査が行われるのです。運営的にはこうしない方が受験者も多く本部や支部にとっては助かるのですが、単なる技術競争者集団ではなく、SCを通じて普段顔を合わせない支部生同士が、より親しくなれる、同じ場所で練習をし、同じ屋根の下で入浴し、食事をし、語り合という、より人間的な交流も何度かは経験して欲しいからです。でないと技術競争者集団の常で、会うのは大会とか審査会だけというライバル関係しか築けず、一旦亀裂が入ると修復することはなく縮小再生産の繰り返しになるからです。人間の幅を広げるのも一つの目的で武道修行をしたのに、心身の個性(強気、弱気、センスの有無、身長、体重など)で差が出やすい技術中心の付き合いは、チョッとした考えの相違がもとで普通の人以上に、疑心暗鬼になったり相互不信に陥ってしまいがちで、実際にそういう虚しい例を多く見ているからです。そういう時に歯止めになるのが、人間的な触れ合いの記憶なのです。

基本と移動は、現在いわゆる“伝統的な型”をしない空道、大道塾(理由参照 当コラム「型には二つの意味がある。一つは“技術の伝承”もう一つは“体育教育”」)にとっての数少ない共通項目で、芸事の奥義と言われる、守破離の“守”にあたる部分です。個人的な解釈をしたり、大会での実績を元に安易に変えて良い物ではありません(優勝者は10年で階級含めれば何十人生まれるわけで、その個性に合わせていては大変なことになります)。勿論、当職にも現実の攻防、護身から生み出しという自負はあるものの、競技としては未知の部分のある「空道という新しい武道」を始めた創立者としての限界はあり、当職が定めたことの全てが完全だとは全く思っていません。実際に、基本や移動なども発足当時から変わってる部分はあります。しかし、それは運営会議での協議と創立者である当職の合意があって初めて変わったものです。

(※2) 守破離(すはり、しゅはり) 意味

以下は守破離の元の意味に、武道生活50年になろうという私なりの、守破離という観点からの、基本に対する考え方です(破と離に付いては機会があれば書きますが、時間が・・・)。さて、“守”は字義通り、先達から受け継ぐ、その団体や流派の伝統、形式といった共通項を、無条件で伝え(教え)、伝えられる(教えられる)ことで、(ここからは私見の色合いが強くなるでしょうが)とかく技術習得が早い者が陥りがちな“独善的、唯我独尊的な性向”を抑止し、相互理解や切磋琢磨で成り立つ一般社会でも通用する人格を維持(担保?)するためにも、重要な導入過程(通過儀礼)というべきものです。これは“肉体的強さ”という、「他の芸事以上に周りに大きな影響を与える武道や武術」では、最も留意しなければならない点だと思ってます。強くて人の言葉を聞かない人間を育ててしまったなら社会に害毒をまき散らすようなものです。

だからその排他的な心情の萌芽を摘み取るために武道や武術界では“押忍”という、忍耐の上に更に、押し付ける、押えるといった語を加えて、上位者へ従う事が「一方的な受身(押し付ける)だけではなく、自分の意志(押える)でもある」という形式美に高めたのだと思います。(だから空道、大道塾では、今どき時代錯誤な響きのある“押忍”という言葉の(重い、暗い?)イメージを了解しながらも、敢えて今でも残しているのです。(そんなことをしても駄目な場合は駄目ですが 笑)

そういう意味でも、もう一度支部長、塾生は上述したように、空道がこれ以上世界的競技になる前に、同じ道着を着てるが、音だけが同じ「クードー」にしないように、改めて空道の基本や移動稽古の意味を振り返って貰いたいものです。

文書日付2012.8.30

コラム15 2011年年頭挨拶「みんなの力で日本再生元年に!」

「昨年末に書き掛けたのだが、例によっての(はみ出し・道草)人生だから今日になってしまった 謝」

日本衰退(滅亡)論

このところ日本の衰退が国内外のマスコミを通じて喧伝されて久しい。(私もそのお先棒を担いでいる一人だが笑)約10年ほど前に隣の国の偉い人が「日本なんてあと10(20?)年もすればなくなるよ」という恐ろしいことを言ってるし、極秘計画では日本の東半分が(内モンゴルやチベットみたいな)日本自治区で、西半分は東海省となるのだそうだ。

中国の偉いさん
日本解放第二期工作要綱
※米太平洋軍総司令官のティム・キーティング氏の発言:2007年5月に中国を訪問した際に、中国側から太平洋を東西分割して協力体制を持つのもどうかと言われたと7月の記者会見で冗談混じりに話していた。
2050極東マップ

政治・経済・国防の行方は?

いたずらに不安感を煽る“狼爺ィ”になる気はないのだが・・・・。実際、どこを向いているかわからないような政治の混乱。止まるところを知らない円高。票欲しさの収支を無視した“バラマキ政策”による1000兆円なんなんとする国債発行残高。“外国人参政権”等という狂気の沙汰としか思えない政策。人件費の安い海外への工場移転などによる国内産業の空洞化。経済成長率やGDPの下落等などの国内外経済の停滞。尖閣、竹島、北方領土などなど蚕食され続ける国土・・・・等など。「右を向いても左を見ても」じゃない、国内を見ても海外を見ても日本の発展どころか、現在の位置を維持するだけにしても、良い材料はどこにもないように見える。ここいら辺で日本も踏ん張らないと、本当にお隣さんの言う通りになるかもしれない。

一人ひとりが頑張るしかない!

一体我々はどうすればいいのか?と風呂敷を広げてみても、浮世離れした生活をしている愚生になど良い案が出てくるはずもない 泣。「みんなで力を合わせて頑張ろう」くらいの単純な事しか言えない 泣&謝。しかし、しかし、だがそうなのだ。それしかないのだ。敗戦から立ち上がった現在70歳80歳の先人に倣って、みんな一人ひとりが「今自分が取り組んでいる“それぞれの分野で”頑張る」しかないのだ!!必死になって人一倍、いや人二倍三倍頑張れば必ず自分の能力は向上するし道は開ける。他人の悪口批判はひとまず脇に置いて、まず自分の頭の上のハエを追え!だ。

何でも簡単に覚える、身につけることができるGift(天与の才能)を持っている人間に腹は立つ、「何であんな奴が俺より・・なんだ!!」と。しか、自分がそうでないなら、それを嘆いたところで何とかなるわけじゃない。ただの時間の無駄である笑。それならば、潔く(?)考えを切り変えなければならない。

時間の効用

そうなんだ。何度も言ってるが、何の分野でも凡人が他人より抜きんでるには「人より多くの時間をかける」しかないんだ。かと言って額面通りに人の2倍3倍なんて考えると億劫になる。取り敢えず、1.5倍でも人並よりは確実に違ってくる。逆に「短時間で効率よく何々をマスターする」とか、「無駄を省いて効果的な方法がある」などという本や雑誌の情報は溢れているが、そんな個性も能力も違う他人の成功例を読む暇があったなら、まず“行動”だ。闇雲でもいい、人より多くの時間を掛けて一つのことに取り組めば、普通に生きている他人の見えないものが見えてくる。その中で自然と自分に合った効率的な方法も身に付いてくる。「まず行動ありき」なんだ。

情報氾濫の中で

しかし、今の時代はいろんな情報が溢れすぎで一つのことに集中することが本当に難しい時代だ。新聞やテレビ、雑誌の情報を見たなら皆見たい知りたいものばかりで、一つの事の絶対的な知識を得ようと思っても別な情報が気になって仕方がない。また、いろんな情報に触れれば触れるほど真っ向から反対のものも沢山あるから、どれを選んでいいか分からなくなる。

そうなると、いろんなことは中途半端に知っているが確信が持てないから、結論が出せない。従って何事も熱く取り組む気がしなくなり、遠くから第三者的に物事を(斜めに)見たり、冷笑すること(熱くならないこと)が格好いいような気分、風潮が蔓延する。かくして、多くの人間は中途半端な評論家になり色んな事を浅く広く見て“したり顔”で、行動し発信する主体となる人間にケチを付ける。

「行蔵は我に存す~」

こういう人間は一生懸命物事に取り組む人間に取って一番厄介だ。自分では何も生産しない癖に人の向上心に水をかける。しかし、そんな奴は気にするな、放っておけ。そんな時は、昨年のNHKドラマにも出ていた幕末の偉人、勝海舟が言った格好いい言葉を思い出せ。『行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与(あずか)らず、我に関せずと存候』と。即ち「出処進退(自分の進む道と解釈しても良いだろう)は自分で決める事だ。誉(ほ)める、貶(けな)すは他人のする事だ。俺には関係ねー」と。

集中する難しさ

かく言う私も元々は何でも知りたがる“野次馬根性”の人間だから、空手に狂って一日5~8時間の練習時間を確保するために、練習と睡眠(と酒 笑)、気分転換の二番上映館 (池袋「名画座」、飯田橋「佳作座」、早稲田松竹)巡り以外、数年間「小説どころか、テレビを見ない、新聞も読まない」という日々が続いた時は心底、不安で一杯だった。「常識的な情報も知らないで果たして俺は時代に遅れていないのだろうか??」、「同級生は就職だ結婚だと言っているのに毎日毎日汗を流すだけの生活で果たして俺に未来はあるのか?」、「俺は浦島太郎になるんじゃないのか?」と。(その上、親からも「いつまで空手なんて夢を追っているんだ!!さっさと、就職しろ!」と“せっつかれた”し・・・)

しかしその一方、「何一つ自分に自信が持てない人間が社会人になって周りと一緒に行動(流され?)したからと言って、時代について行っているとは言えないはずだ。俺なりに考えてこの道を選んだんだから今はこの道に集中することだ!!」と、何度も何度も自分に言い聞かせ(て、最後は開き直っ)たものだった 爆。

「どこまでも“真理”を追求し間違いのない道のみを歩もう」と学者の道を極めるのも(頭の良い人間には)良いが、そうでないなら(笑)、ある程度自分で考えて決めたことに、とりあえず夢中になって取り組んで、過ちに気がついたならそれから修正すれば良いじゃないか?人生は何も一本道じゃない。そう考えるから窮屈になりみんなとチョッと違った道を歩むと不安になり、チョット失敗すると俺はもうだめだ!!となる。第一、そんなに物事の先が正確に読める人間が世の中に溢れているなら、世の中はもっともっと一直線に発展していたんじゃないのか?

俺の場合

閑話休題(はみ出し休止) 私の場合は政治家、冒険家、教育者、文筆家、(ヤクザ笑)などなど色んな道や夢があったが、10年近い“浮遊”ののちに(笑)、ある時一人になって、現実に実現可能な道を考えてみたならそう多くは残っていなかった。そこで教職課程も取っていたし勧めてくれる先生もいたから『高校の先生にでもなれたなら柔道を教え好きな本を一杯読みながらのんびり生きるか』が一つの道だった。

所が、それすらも仕事と空手と夜学で中途半端な勉強しかしてなかったから「果たして俺はチャンとしたことが教えられるのか?」という不安もあった。そこで「もっと本格的に勉強をしたい。それなら海外の大学に入るしかない。しかしそんな金はどこにもない。それなら自分が持っている乏しい能力の中でも多少他人よりはましだと思える運動能力を生かして実現するしかないだろう」

退路を断つ

という訳で、「よし!(当時の所属団体の機関誌に載っていた)“空手海外指導員” しかない!!」と“はみ出した”結論に達し、退路を自分から絶ってしまった。しかしだからこそ、それまで何事にも興味を持つが全てが中途半端だった私でも、「ここで結果を残せなかったなら、何の為にこんな回り道をしたか分からない」という想いから、死に物狂いで練習に集中でき、それなりの結果を出せたのだと思う。

こんな、死に物狂いで、練習をした時代があり、幾分かは人の見てない地平や時空を経験することができたからこそ、今“そこそこには”人前で偉そうに講釈したり、範を垂れたりして何とか飯も食えている。高校時代の“青雲の志”とはずいぶん離れた“職人”の世界ではあるが、こういう判断しかねる物事が次々と毎日起きてくる時代、様々な体験を重ねてきたからこそ、人より少しは確信のある、広い見方が出来るといいうことは、悪くない人生なんじゃないか?

目標設定と集中

繰り返すが、人生のどっかで「俺は何で世の中を渡って行くんだ?」と自問自答する時が必要だ。そして「ここが俺の分かれ道だな」と結論したなら、思い切って退路を断つくらいの気持ちで、他の事は暫く忘れて一つのことに集中することだ。そうすれば必ず人の見てない世界、地平が見える。

改めて、日本って国は?

先日「マラソン世界一周」を達成した間寛平氏が「日本が素晴らしい国だという事が分かった」と言っていた。口はばったい事を言わせてもらえば、私もこの仕事のお陰で7~80ヶ国前後を訪れていると思うが、全く同感である。まだ色々海外に学ぶこと、改善しなければならない事も多々あるが、いつも、どこの国へ行っても、“総合的に見て”日本という国は既に世界でも1,2番を争うほどに素晴らしい国だ!(見てない国とは比較できないが 笑)本当に海外に出る度に、日本に生まれた事に感謝する。日本人は日本に大きな誇りと自信を持って良い。そして感謝と。

高転び(※)したこの20年間の日本

日本は戦後の国民総懺悔的な教育、社会風潮の中で、だからこそと「経済第一主義」の国家運営をした。その内「ジャパン・アズNo1」(1980年) とまで称賛されたが、その「経済第一主義」が1980年代後半からの「日本経済脅威論」を招き、1985年「ドル安・円高」のプラザ合意を機に、(一時はバブル景気を謳歌しアメリカの象徴とまで言えるロックフェラーセンターを買収までしたが)円高により生命線と言うべき輸出の不振を招き経済も失速した(バブル崩壊)。「経済第一主義」の国家運営だったから、頼みの綱の経済が失速した事で、思想や文化を後回しにして育ってきた世代が大勢を占める現代日本は、思想文化歴史といった分野での(基礎)知識や蓄積で後れを取っており、世界から舐められっぱなし、言われっぱなしである。

※高転び:戦国時代、禅僧で武将でもあった安国寺恵瓊が、「信長の時代はあと3年か5年は続くだろうが、その後『高ころびに、あおのけに、ころばれ候ずると云々』と言ったのが原典。「調子に乗って浮かれて油断している所を足下をすくわれて真っ逆さまに転落するだろう」という意味。

日本再生“元年”だ!

しかし、当然どこにでもある欠点の“何十倍”もの素晴らしい長所がある、こんな立派な国を作った、こんな優秀な民族が、このままおかしくなるはずがない。日本人は島国で周りを海に囲まれて謂わば“純粋培養”されており、世界の中でもかなり人が良過ぎるから、チョッと浮かれて油断しただけだ。虚心に現在の地盤沈下を認めて、もう一度日本人としての自信と誇りを基に、一人ひとりが本気になって自分の持ち場を守り発展させることを心掛ければ、滅びるどころか日本は益々素晴らしい国になるはずだ。滅びるどころか、期待に反して“人類の理想郷”、“地上の天国”にもなれる国なんだ、日本は。

冗談半分で言えば「それはそれで憧れから日本に殺到されても怖い」位だ 爆。

文書日付2010.1.13