はみだし対談 目次 > (其の2)創成期のエピソード
島津 | 第二部の1話目は慎重に作っていきたいと思っています。第一部の最後はエピソードを濃縮したかたちだったので。 |
塾長 | そのへんを少しほぐしたかたちでね。 |
島津 | ええ、出来れば1話目は希望をもった終わらせ方にしたいんです。創成当時のお話を伺うと紆余曲折あったようなんですが「どん底だぁ〜」は避けたいので。 |
島津 | あたらめて創成期の話を伺いたいのですが、大道塾設立前に考えの違い(?)で去る人はいなかったのでしょうか? |
塾長 | 当時は「実際に相手に当てる空手」という事だけで十分に革新的だった。だから当時は「極真空手最強論」が広く受け入れられていた。しかし、ボクシングやキック、さらには“路上の戦い” (早い話が「喧嘩」笑)を経験している人間には逆に「あのルールでは強いのだろうが組まれたなら柔道や相撲などには勝てない」と見られていた。 幸か不幸か(笑)初めから漫画(「空手バカ一代」)に嵌(はま)った訳じゃなく、実際に何度も顔を殴られた経験から、俺も後者の視点に立っていたから「自分のやっている空手を、柔道時代のライバル達がやっている柔道や相撲に負けないレベルに上げるんだ」という考えは、「極真空手最強論」に憧れたからこそ入門して来た弟子の殆どには中々理解できなかった。 「胸を叩いているあの強力な拳をチョット上げて顔を叩けばどんな柔道家や力士にだって効くはずだ」と、ね。それでも大道塾に残ったのはそれまでの人間的な繋がり、言わば“付き合い”で付いてきたようなものだったろう。 |
島津 | 創成の頃は他流の大会にも弟子を送りこんでいますね。 |
塾長 | 始めは自分で大会を開こうなどという考えはなかったから、当時始まったばかりの硬式空手や日本拳法、テコンドーの大会に出したが、どうもウチの考えと微妙に違い徐々に生徒の熱意も薄れて行ったので、「自分達の考えるルールでの試合をするしかない」となった。この辺の経緯は「はみ出し空手から空道へ」(2002年発行 福昌堂)に書いてあるはずだが。 |
塾長 | そういった大会に弟子を出すことは遠回りだったかもしれないが、後に格闘空手から空道へと進化する上での大きなシミュレーションにもなったので、今では「あの頃はなー」と古参の弟子との懐かしい思い出となっている。だがその頃の俺自身は「武道の指導はあくまで余技で、昼間は別な堅気(笑)の仕事をしよう」と思っていたから、「自分で大会をしたりルールをつくらなければならないのか??それではこれに専従するしかないな!!」と気付いたときは「深入りし過ぎた!」と人生設計を根本から組み直さなければならないほどの大きな分岐点だった。 |
塾長 | 新しい道場生が入ってこなくて、なんとかしようとプレハブで学習塾の経営をはじめたが、当時仙台では既に学習塾のフランチャイズ化が進んでいて、無名のしかも道場生に来る学生をバイトで使って教えさせようという塾に生徒が集まるはずもなく半年で経営破綻。ついには自宅のアパートの家賃すら払えなくなって道場の上のプレハブで生活を始めたよ。 |
― | 当時、先生は新婚だったとうかがっていますが。 |
塾長 | 1980年の12月に長男の正哲が生まれて、翌年の2月(17日)に大道塾を設立したんだ。 |
島津 | (極真を離れて新しい流派を作ることに)奥さんは反対したりしなかったんですか? |
塾長 | 天然なのか、肝っ玉なのか、反対されたことはなかったね(笑) |
「(其の3)第二部について」に続きます