休刊となった『ゴング格闘技』、最後に掲載された東孝塾長のインタビュー記事を、編集部の許諾を得て紹介します。

2017年6月号をもって休刊となった格闘技専門誌『ゴング格闘技』、休刊前号となる2017年5月号に掲載された、東孝塾長のインタビュー記事。その内容は、大道塾の歴史をテーマとした会話を通じ、塾長の変わらぬ信念を紐解く、すべての塾生に読んで頂きたい内容でした。そこで、一部を抜粋し再編集するかたちにて、ゴン格編集部様の許諾を得たうえで、ここに紹介いたします。(多少の加筆、修正あり)

元原稿 http://www.daidojuku.com/home/column/25.html

加藤久輝がハレック・グレイシーに勝つ 大道塾としてのリベンジに東孝塾長はいま、何を想う?

熊久保英幸=聞き手

──1994年3月の『UFC2』に日本人として初めてUFCに出場した、当時、最強と言われていた大道塾・北斗旗王者の市原海樹選手が、ホイス・グレイシーに敗れてから23年目の今年、加藤久輝選手がハレック・グレイシーに勝ち、大道塾の選手がグレイシーに雪辱しました。塾長としても感慨深いところがあるのではないかと思い、取材にやってまいりました。

「うーん……期待を裏切って悪いんですが、あまりそういう想いはないんですよ」

──いきなり取材終了ですか……。

「空道は護身というものを土台に考えているわけです。これまでムエタイや柔術とどうのこうのと比較されてきましたが、護身が基本なんですよ。1対1で戦った時、最終的に寝技になることがあるという現実は分かりますが、実際にそうなるケースは1割か2割あるかないか。護身の基本は立っていることですし、仲間や身内を守るために、ある時はその場から逃げなくてはいけないんです。それに素手であること、着衣状態であることなどを総合的に考えて空道の体系を作ってきました。ムエタイと比較されるきっかけとなった長田(賢一)vsラクチャート(1987年4月24日、ルンピニースタジアムで対戦してラクチャートが2RにKO勝ち)にしても、ムエタイという競技のルールで見れば負けですが、私自身は最初に長田がダウンを奪ったことで〝これはウチの勝ち〟と思ったんですよ、今の総合の目で見て、グラウンドを全く知らない相手が倒れたと考えたならどうですか? コッチはそこを蹴るとか殴るという事を前提にルールを作っているわけですから。あと、同じくムエタイ元チャンピオンのパーヤップが北斗旗に出場した時に、ウチの選手にミドルキックを抱えて大内刈りで倒させた時は観客席から〝東! 汚いぞ!〟って野次が飛んだんです。いや、これはウチのルールの試合なのだから当たり前でしょうと思いましたが、そんなことを言っても、当時の立ち技万能(=ムエタイ最強論)という風潮の中では何を言っても仕方がないと黙っていましたが」

──想定している戦いが違うと言うか、競技が違うのだからその競技のスペシャリストとその競技のルールで戦ったら負けても仕方がないということですね。

「その後の件についても、あの当時は今考えれば〝総合〟の幕開けだったので、試行錯誤中の大道塾に(妄想を含めて笑)凄い夢を持ってくれている人たちが一杯いたんですよ。それまで空道、当時で言えば格闘空手のような格闘技はなかったわけですから。その人たちがどんどん話を進めていって、それでやってみたらああいう結果になった。そこで〝大道塾が負けた〟と言われても、こっちが最初から団体を挙げて万全の構えで行ってやられたわけではなく、ある意味個人の戦いですし、あくまでも大道塾の戦いは立っての戦いが主という意識が強かったので、私はそれほど何とも思わなかったんです。しかし、世間的には大道塾が負けた、との見方がされてしまいました。長田とムエタイの場合もしばらくは冬の時代が続きましたし、今度は柔術でも同じことが起こりました。そこで巡り巡って今回、久輝がグレイシーの選手に勝ったことはストーリー的には〝苦節23年、ついに……!〟みたいな話ですし、頑張って勝ってくれた久輝にはよくやったと言いたいです。でも、それはいろいろある試合の中のひとつで、久輝もそれを狙ってやっていたという話ではないですからね。逆に、ムエタイと交流したことでムエタイのいいところを吸収しましたし、柔術からもいろいろ吸収しています。ですから、どっちもウチを太くしてくれたという意味で、そんなに憎むべき相手でもないんですよ(笑)」

──グレイシーを敵対視していたわけではないんですね。

「全くないです。護身は立ったままやるものですが、当然寝技になる局面もあるので、寝技もやらないとダメだぞと私は30数年前から空手に寝技を取り入れるという試みをやってきたわけです。当時は『あんなものは空手ではない』と言われても格闘空手としてやってきて、空道と名付けたら『あれは空手じゃないか』と言われる。何をやっても〝はみだし〟は、叩かれるんですよね(笑)」

──極真は打倒・熊や牛を目指したが、熊や牛は打倒・極真を目指していなかった、という言葉がありましたが、それと同じようなものですね。グレイシーは打倒・他の格闘技を目指したかもしれませんが、大道塾は打倒グレイシーやムエタイを目指してはいなかった、と。

「そういう人が一生懸命やっていることを、しない人間がどうこう揶揄するのは好きじゃないですが、事実関係で言えばそうですね」

──現在では格闘技が広まっているので、違うルールで戦えばそのルールで強い選手の方が強いのは当たり前だと理解されていますが、当時は「誰々が負けた」ではなくその競技・団体が負けたと捉えられることが普通でした。

「そうですね。私自身は他流試合をやりたいって意識はなかったんですよ。私の格闘技観の中では格闘空手をやっていって、これに寝技をプラスしていけば完成するはずだっていう意識でいたんです。当時から道場では寝技をやっていましたが、トップ選手が『大道塾に寝技は要らない』なんて堂々とインタビューに答えたり、大会パンフレットに書いていたこともありました(笑)。まあ、私も大雑把な性格なので『人の口に戸は立てられねーしな?』と思っていました。当時はまだ寝技まで入れるのは早いと思っていたので、試合では投げまでにしていたんですが、10年くらい過ぎて、そろそろ寝技を解禁する時期かなと思っていたところ、ひょんなことから柔術と関わりが出来てしまい、今度は猛烈に生徒から寝技をやりたい!って言い出したんですよ。それまではいくら言っても『先生、寝技なんかいりません』と言っていたのに、あの試合を境にみんな逆に寝技をやりたいって言い出したから、試合での寝技を解禁したんです」

──大道塾にとっては、逆によかったんですね。

「そういう意味ではそうですね。私が描いた筋道どおりに行ってくれれば一番良かったんですが、ムエタイに引っ張られ柔術に振り回されました。まあ、それも大道無門じゃないかな、と(笑)」

──そもそも、格闘空手を始めた時は地上最強の格闘技を目指していたわけではなかったんですね。

「全くないですね。あくまでも身を守る護身術であることが基本です」

──それを周りが勝手に、大道塾は凄い、どんな格闘技にも勝てるんじゃないかって幻想を膨らませていったという。

「本当にそうです。そもそも私の格闘の原点は、小学生の時に中学生の番長に喧嘩で負けたことなんです。何をやっても勝てなかった、向かって行っても投げられて跳ね返されました。その時に、人は力を持たないと何を言ってもダメなんだと気付かされたんです。また、三島由紀夫が『文学をやっていても最後は日本刀なんだ。最後は日本刀を見せれば一目置くんだ』というようなことを言っていて、こんな偉い先生でも『力を評価している』のだから、自分で自分の身を守る術は絶対に大事なんだって焼き付いていました。だから、格闘技で日本一になるとか世界一になるって意識はなかったんです。極真に入った時も、空手で日本一になりたいとの気持ちはなく、柔道を知った上で打撃を覚えれば、大概の場合は身を護れるし、しかも指導員として夢だった海外留学ができると聞いたからです。極真時代の支部の標語は『人生はドラマだ!あなたの拳で!』で、武道・格闘技的には、一見、夢のない話ですが(笑)、逆にそのおかげか『山あり山あり』の、とんでもない人生が待っていましたが(笑)」

──あの試合をきっかけに、柔術というものの研究はされたんですか?

「もちろんです。負けたのは現実ですから、柔道だけの寝技ではダメだと。柔術を始め、いろいろな寝技を取り入れなくてはいけないと思いました。ただ最初は、全面的に解禁してしまうと知っている選手と知らない選手で大きな差が出てしまうので、柔道で認められている腕十字や腕がらみなど5種類の技だけを解禁しました」

──ホイス戦をきっかけに、選手の意識が劇的に変わったわけですね。

「そうです。それまではいくら私が言っても、『殴ったら倒れるでしょう』という感じでした。ましてや当時は大道塾の優勝者は空手界のエースみたいなものでしたからね。それこそ格闘空手そのものみたいな存在で、パンチをぶん回してみんなぶっ倒していたわけですから。だからみんながそういう意識だったんですよね。それがパンチひとつ当てることが出来ず、転がされて寝技でやられたのは生徒たちにとってはショッキングな出来事だったと思いますね。私は私の考えた道筋でやりたかったのに、キックブームの時はなんでグローブでやらないんだと周りから言われ、生徒たちも寝技なんかやる必要はない、ムエタイこそ最強だという意識になってしまった。それでトップの選手たちはみんなムエタイの試合をやったじゃないですか。今度はそれがガラッと変わって寝技が最強だというような意識になってしまって。ただ、だからと言って今、久輝がやっていることの結果がどうでもいいわけではなく、勝てば当然、嬉しいですよ。負けたら〝この野郎〟となりますが(笑)」

──話は技術的なことになりますが、マウントパンチ(寸止め)で効果になるといった要素が空道に取り入れられたじゃないですか。あれは柔術の実戦性を評価してのものですよね?

「最初にUFCの試合を見た時に、馬乗りになって殴っているのを見て、あんなものは先進国で流行るわけがない、ましてや日本では倒れている人間を叩くなんてそんなことを社会が許すわけがない、と当時のゴング格闘技で言いました。そう言っていたのがあれよあれよという間に広まって、〝ああ、日本人は変わったんだな〟と実感しました。私がそれがいい・悪いを言っても始まらない、昔ならやらなかったことを今はやるんだな、と。そうしたなら〝護身上〟やはり対応を覚えないといけない。だから取り入れました」

──いま思えば、ホイスに挑戦したことはよかったと思いますか?

「まあ、ウチはそういうところはしつこいんです。転んでもただでは起きない(笑)。ムエタイの時もそうですし、ヘタしたら団体が潰れるくらいの話じゃないですか。それこそいろいろな団体が柔術と絡まって、一時的にはそれなりに名前をあげていても、勝負に負けてガックリ来てダメになったという話が実際に、いっぱいありますよね。ウチはそういうところは苦にしません」

──むしろ、いいところを取り入れようとするんですね。

「あれを覚えればいいんだろう、という感じですね。大道塾らしいじゃないですか。それこそ大道無門ですよ。いろいろな格闘技は大道塾の敵ではなく、よく言えば師であるということです、エヘン!(笑)」

──大山倍達総裁も言われていた、我以外みな我が師の精神ですね。

「そこで覚えて、次に勝てばいいんです。ただ、あの時やらなくてもどこかで柔術とは交わっていたとは思います。ウチは何でもやろうみたいな姿勢ですからね」

──ホイス戦以降、大道塾としてダメージはあったんですか?

「ありました。あの当時はそれこそ、武道では大道塾が一番だって空気があったじゃないですか。それはもう凄かったですよ。弟子が減っていき、入門者がガクッと減りました。あれから10数年くらいは影響がありましたね」

──10数年も!?

「それにプラス、大山館長がなくなった後のフルコン界の変動や、K─1やPRIDEがあんな形で消えて武道・格闘技の信用が失墜し『やっぱりあの世界は……』と言った感じで潮が引くように競技者も、興味を持つ人口もガクッと減ったこともかなり影響しました。正直、ここは自慢して良いと思うけれど(笑)。私はこの世界に入る前に社会の底辺を経験して来て、『なるようになるさ。ダメなら大型免許があるから』と開き直れた私だからこそ、精神的に潰れずに持ったんだなと思いますよ(笑)。まあ、最近になって当時の悪いイメージを持っていた人が減ってきたんだろうし、やっと世の中が大人になって、ルールの違いが勝敗を分ける=誰が負けたから即、その団体がどうこうではないんだってことが分かってきたりして、また武道・格闘技復活の目が出てきたような気がするので、同じ轍を踏まないように、大事に大事に、武道・格闘技の健全な発展を期して行かなくてはと思っていますが……」

──そんなに影響が……グレイシーを怨みませんでしたか?

「それとこれとは話が別です。勝負の世界は勝った者が全部持って行くんですから、しょうがないな、と。長田がラクチャートに負けた時も凄かったですよ。それまでは年に入門者が何千人以上も入っていたのが、一気に半分以下になったんですから」

──大道塾は2度もピンチに陥っていたんですね。

「ただ、長田にしてもムエタイがやりたくてやったわけではないですからね。向こうのプロモーターに私が乗せられて、やってみますかと聞かれたから、「せっかくだからやってみます」というところから始まっているんです。最初は練習試合との話だったので、その話をもらってから3?4日はパタヤへ遊びに行っていたんですから。長田は長田で砂浜で足を切ってしまって。それでバンコクに帰って来たら新聞に試合のことが載っていて、日本の空手チャンピオンがムエタイのチャンピオンに挑戦する、みたいな話しになっていたという。その時に初めて、誰とやるんだと聞いたらルンピニーのチャンピオンだって言うわけです。メチャクチャな話ですよね。そんな状況で長田は初めてのルールで、グローブを着けたのも初めてくらいだったのに、最初にダウンを奪ったんですから、よくやったと私は思いました。ところが、日本に帰って来てその話が広まると評価がえらい悪い。手も足も出なかった、みたいな話になっていて驚きました。長田自身も、ムエタイがやりたいとかムエタイが最強だなんて思っていなかったですよ。ただ周りがそれをそのままには許さなかった。大道塾は、東はなぜ長田にやらせないんだ、と。私は長田がやりたいならやればいいと思っていたんですよ。でも長田からは何も言って来なかった。長田は長田で別にムエタイの試合をやりたいわけではないけれども、負けたと思われているのが嫌で悩んでいたとは思います。彼は彼で、自分がやると言ったら先生は嫌がるだろうと考えていたのかもしれない。でも段々と悩んでいる姿が目に付くようになってきたのは分かったので長田を呼んで、『やりたいならやったらいいんじゃないか』と言ったんですが、『自分はその気はありません』と。そうは言いながらも結局は収まらなかったので、あれが始まったわけです」

──1992年に後楽園ホールで開催された『THE WARS』ですね。

「その時に一番反応したのが、加藤清尚と飯村健一だったんですよ。長田はもう名前が出来上がっていたからいいけれども、彼らはこれからだったわけです。しかし、アマチュアと言っても当時、後先考えずに練習ばかりしていましたからね。その面ではプロと変わらないわけです。「俺たちは誰とやっても負けない」って意識があった。それが結局、長田が負けた、大道塾が負けたと言われてもの凄く悔しかったわけです。自分たちをキックの試合に出してくれみたいな話にもなりました。困ったもんだな、と。それで当時、週に一度、SAWの麻生(秀孝)さんが寝技の指導に来ていたから、終わった後ですし屋でいろいろな話をしていたんですよ。その時に、あいつらあんなこと言いやがってと愚痴を言ったら、麻生さんが『じゃあ東さんがやればいいじゃないですか』と言ったんです。そんなことは考えたこともなかったので〝えっ?〟と思ったんですが、協力してくれる人もいてやることになりました。それで一応はそれなりにグローブを着けた試合で勝ったんですが、加藤にしても飯村にしてもブレーキがかからなかったんですよ。第一、そっちの方が大道塾で試合をするよりも、反響が大きいわけじゃないですか」

──雑誌にも大きく取り上げられましたね。

「そう。それでやりたいというものをやめろと止めてもしょうがないだろう、と。ある時は飯村が来て、自分はキックの試合をしたいと言ってきたんです。その時に飯村は、私がダメだと言ったら辞めるつもりだったと後から言っていました。当時はそれほど選手が思いつめて、グローブでやることが強さの証明だ、みたいになっていたんですよね」

──グローブである程度証明したところで、今度はUFCが始まってWARSで修斗やパンクラスの選手と総合格闘技ルールで戦うことになりました。

「私は真っ直ぐ歩きたかったのに、あっちに引っ張られこっちに引っ張られ、足は引っ掛けられで(笑)」

──2002年のWARS6をもってピタリとやめてしまいましたよね。あれはなぜだったんですか?

「やりたいという選手がいなくなったからです」

──そうなんですか?

「逆に私は、最後までリングでの試合にはなじめなかったし、畑違いの準備は大変だったけれど、他の武道・格闘技の技を学ぶためにも、年に1回、もしくは2年に1回はやってもいいと思っていたんです。ところが選手たちは『もう大道塾は実力を証明したからいいです』と誰も手を上げなくなったんですよ。WARSを6回開催して、キックにも総合にもある程度対応出来ることが証明されたから、もういいです、と。元々、みんな格闘空手が好きだから始めたわけじゃないですか。名声が欲しくてやってみたけれど、結局は道衣を着てする武道が好きだから入って来た人間ですから。何回か「WARSをやりたいやつはいるか?」と聞いたんですが、1人か2人しかいませんでした。やる気のないものを無理強いしても碌な結果にはならないから、そこでやめたんです」

──そのうちの1人のようなものが加藤久輝選手なんですかね。

「久輝の場合は世界大会で負けたことが悔しかったからでしょうね。ウチには大きい相手がいないから、大きい相手とやりたいということで名古屋のALIVEジムに行くようになったんです」

──勝ったのは嬉しかったですか?

「勝って嬉しくないことはないです。久輝も直接知っている世代ではないですが、おそらく周りからウチとグレイシーの歴史を聞いていて、プレッシャーがあったかもしれない。よく頑張った、と言いたいですね。いつも生徒には言うんですよ、キックでもボクシングでも何でもやっていいけれど、『経験してみたい』とか、『試してみたい』みたいなお気楽な気持ちのヤツにはやらせたくありません。『やるからには、勝つつもりで練習をし、死に物狂いで戦え!」、と。せっかく先輩たちが築き上げてきた名前なのに、お前が中途半端な気持ちで負けたら大道塾が負けたって言われるんだから絶対に勝てよ、と。それで勝ったら嬉しい、負けたらばか者と言う。それはそうですよ。やる以上はそれくらいの覚悟は持ってもらわないといけない。挑戦心は良いけれども、ちゃんと背負ってやれということです。気軽にやってみたいなんて言われたら怒鳴りつけてやりますね。せっかく今までみんなで苦労してここまで大道塾、格闘空手、空道を持ってきたのに、お前でゼロになってしまうかもしれないんだぞ、と。言われた方はキョトンとしていますけれどね、時代が違うのかな(笑)」

──2001年から世界大会を開催したり、ロシアを中心に世界へ広がってきたことによって他のジャンルとかかわりを持たなくてもいいようになった、という面もあると思います。空道の中で成立するというか。空道で世界王者になることが高い壁になっているので、余所見をしている場合ではないですよね。

「今、世界王者になるのは本当に大変ですよ。先日、ジョージア(グルジア)に行って正式な支部に認可しました。行ってみたら、柔道のオリンピックチャンピオンや世界チャンピオン10人くらいと会ったんですが、なぜかみんな空道を応援しているんですよ。普通、柔道関係者が応援するなんてありえないでしょう。ところが今回支部長になったのも元々、トビリシ柔道連盟の理事長をやっていた人物で。昔、私が柔道をやっていた頃の東北のエースが遠藤純男氏(山下泰裕のライバルで1980年の全日本選抜柔道体重別選手権でカニバサミを仕掛け、山下の腓骨をへし折ったことで知られる)で、私が何回やっても勝てなかった宮城県のチャンピオンが、彼に30秒で投げられて負けたのを見て柔道を辞めました(笑)。ジョージアで会った柔道家たちはその遠藤氏と同期で、自分は遠藤とやって負けたと楽しそうに話をしていました。ジョージアで柔道は半分国技のようなもので人気があって、みんな身体がガッチリしていて体幹がしっかりしています。2月にインドで開催されたワールドカップに始めてジョージアの選手が出たんですが、いきなり-240で優勝してしまいました。あとタジキスタンの選手も優勝したんです。今までだったらロシアが全階級を制覇するか、せいぜい日本が一階級を獲るかくらいだったんですが、今回はロシアが3階級で優勝を逃しています。今度の世界大会は大変なことになるでしょうね。ロシアの独占状態は終わるかもしれません。今年の秋は仙台でアジア大会を開催します。そして、来年の世界大会に日本代表として選ばれるためには、今年の体力別とアジア大会、来年春の体力別と3大会の内2大会に出ることが条件となります。だから、久輝にも出ないと世界大会には出さないと伝えてあります」

───アジア大会の開催ですか!

「アジアならモンゴルが強いですね。あとはイラン、タジキスタン、カザフスタンあたりから選手が来ます。カザフスタンも強いですよ。ワールドカップのベスト3に2人くらい入っていました。とにかく旧ソ連系は強い。力があるし、体幹が強いし、何より日本選手にない『これで負けたなら俺の人生は終わりだ!』というほどのハングリー精神がある。今年の体力別各階級上位の2人~4人(に加え、秋の国内予選を勝ち抜いた選手)が日本代表となって、アジアの国々を迎え撃ちます。ワールドカップでは清水亮汰(2015年全日本無差別&2016年全日本体力別-250クラス王者)が、2014年の世界大会で勝っていた同じ選手に負けたんですよ。ワンツーでのばされてしまいました。だからウェイトをやって体幹、特に首を太くしろ、と言っても今の子たちはやらないんですよ。何度言ってもやりません。さすがに今回はのばされたからちょっとはやる気になったけれども。まず70%の力をもって、ガツンとぶつかり合っても、ある程度それを凌がない限り技の勝負にはならないんですよ。日本人同士の試合だと最初から名人戦で技のやりとりとなりますが、ロシアを相手にする時はまずぶつかって、それから回り込むなり離れるなり技の展開になるんですが、最初の段階でバンッと入ってこられると間合いは殺されるし、勢いづいてしまいます。体幹の強さが違うから。やっと本人もウェイトをしないといけないと思いますと言っているんですが、『僕たちは日本的な試合が好きです』とか言うんですよ。本当に今の若い選手たちは名人戦が好きなんです。相手がこう来たらこう返すというような」

──最初の、グレイシーが出てくるまでは寝技をやれと言ってもやらなかった、という話に似ていますね。

「なかなかうまくいきませんね。私は机の仕事に追われて、直接指導は無理だから要点だけ言うんですが、言うことを聞くのと聞かないのがいる。でもまあ、最終的には選手がそれらを取捨選択して、自分で組み立てた練習法や戦い方でやるのが一番いいんですよ」

──フィジカルでやられたら、今度は大道塾に必要なのはフィジカルだってなるかもしれませんね。

「ジョージアやモンゴルがのし上がってくる可能性が高いですからね。そうなって欲しいけれど…。これがラウンド制だったら動き回ってスタミナを消耗させてって戦い方もありますが、3分ですから半分以上はフィジカルで決まるわけです。まあ、日本人選手たちの活躍を暖かく見守ってあげてください」

更新日2017.7.9

2017.7.9  【塾長コラム】「休刊となった『ゴング格闘技』、最後に掲載された東孝塾長のインタビュー記事を、編集部の許諾を得て紹介します。」

【塾長コラム】休刊となった『ゴング格闘技』、最後に掲載された東孝塾長のインタビュー記事を、編集部の許諾を得て紹介します。

2017年6月号をもって休刊となった格闘技専門誌『ゴング格闘技』、休刊前号となる2017年5月号に掲載された、東孝塾長のインタビュー記事。その内容は、大道塾の歴史をテーマとした会話を通じ、塾長の変わらぬ信念を紐解く、すべての塾生に読んで頂きたい内容でした。そこで、一部を抜粋し再編集するかたちにて、ゴン格編集部様の許諾を得たうえで、ここに紹介いたします。(多少の加筆、修正あり)

元原稿 http://www.daidojuku.com/home/column/25.html

加藤久輝がハレック・グレイシーに勝つ 大道塾としてのリベンジに東孝塾長はいま、何を想う?

熊久保英幸=聞き手

──1994年3月の『UFC2』に日本人として初めてUFCに出場した、当時、最強と言われていた大道塾・北斗旗王者の市原海樹選手が、ホイス・グレイシーに敗れてから23年目の今年、加藤久輝選手がハレック・グレイシーに勝ち、大道塾の選手がグレイシーに雪辱しました。塾長としても感慨深いところがあるのではないかと思い、取材にやってまいりました。

「うーん……期待を裏切って悪いんですが、あまりそういう想いはないんですよ」

──いきなり取材終了ですか……。

「空道は護身というものを土台に考えているわけです。これまでムエタイや柔術とどうのこうのと比較されてきましたが、護身が基本なんですよ。1対1で戦った時、最終的に寝技になることがあるという現実は分かりますが、実際にそうなるケースは1割か2割あるかないか。護身の基本は立っていることですし、仲間や身内を守るために、ある時はその場から逃げなくてはいけないんです。それに素手であること、着衣状態であることなどを総合的に考えて空道の体系を作ってきました。ムエタイと比較されるきっかけとなった長田(賢一)vsラクチャート(1987年4月24日、ルンピニースタジアムで対戦してラクチャートが2RにKO勝ち)にしても、ムエタイという競技のルールで見れば負けですが、私自身は最初に長田がダウンを奪ったことで〝これはウチの勝ち〟と思ったんですよ、今の総合の目で見て、グラウンドを全く知らない相手が倒れたと考えたならどうですか? コッチはそこを蹴るとか殴るという事を前提にルールを作っているわけですから。あと、同じくムエタイ元チャンピオンのパーヤップが北斗旗に出場した時に、ウチの選手にミドルキックを抱えて大内刈りで倒させた時は観客席から〝東! 汚いぞ!〟って野次が飛んだんです。いや、これはウチのルールの試合なのだから当たり前でしょうと思いましたが、そんなことを言っても、当時の立ち技万能(=ムエタイ最強論)という風潮の中では何を言っても仕方がないと黙っていましたが」

──想定している戦いが違うと言うか、競技が違うのだからその競技のスペシャリストとその競技のルールで戦ったら負けても仕方がないということですね。

「その後の件についても、あの当時は今考えれば〝総合〟の幕開けだったので、試行錯誤中の大道塾に(妄想を含めて笑)凄い夢を持ってくれている人たちが一杯いたんですよ。それまで空道、当時で言えば格闘空手のような格闘技はなかったわけですから。その人たちがどんどん話を進めていって、それでやってみたらああいう結果になった。そこで〝大道塾が負けた〟と言われても、こっちが最初から団体を挙げて万全の構えで行ってやられたわけではなく、ある意味個人の戦いですし、あくまでも大道塾の戦いは立っての戦いが主という意識が強かったので、私はそれほど何とも思わなかったんです。しかし、世間的には大道塾が負けた、との見方がされてしまいました。長田とムエタイの場合もしばらくは冬の時代が続きましたし、今度は柔術でも同じことが起こりました。そこで巡り巡って今回、久輝がグレイシーの選手に勝ったことはストーリー的には〝苦節23年、ついに……!〟みたいな話ですし、頑張って勝ってくれた久輝にはよくやったと言いたいです。でも、それはいろいろある試合の中のひとつで、久輝もそれを狙ってやっていたという話ではないですからね。逆に、ムエタイと交流したことでムエタイのいいところを吸収しましたし、柔術からもいろいろ吸収しています。ですから、どっちもウチを太くしてくれたという意味で、そんなに憎むべき相手でもないんですよ(笑)」

──グレイシーを敵対視していたわけではないんですね。

「全くないです。護身は立ったままやるものですが、当然寝技になる局面もあるので、寝技もやらないとダメだぞと私は30数年前から空手に寝技を取り入れるという試みをやってきたわけです。当時は『あんなものは空手ではない』と言われても格闘空手としてやってきて、空道と名付けたら『あれは空手じゃないか』と言われる。何をやっても〝はみだし〟は、叩かれるんですよね(笑)」

──極真は打倒・熊や牛を目指したが、熊や牛は打倒・極真を目指していなかった、という言葉がありましたが、それと同じようなものですね。グレイシーは打倒・他の格闘技を目指したかもしれませんが、大道塾は打倒グレイシーやムエタイを目指してはいなかった、と。

「そういう人が一生懸命やっていることを、しない人間がどうこう揶揄するのは好きじゃないですが、事実関係で言えばそうですね」

──現在では格闘技が広まっているので、違うルールで戦えばそのルールで強い選手の方が強いのは当たり前だと理解されていますが、当時は「誰々が負けた」ではなくその競技・団体が負けたと捉えられることが普通でした。

「そうですね。私自身は他流試合をやりたいって意識はなかったんですよ。私の格闘技観の中では格闘空手をやっていって、これに寝技をプラスしていけば完成するはずだっていう意識でいたんです。当時から道場では寝技をやっていましたが、トップ選手が『大道塾に寝技は要らない』なんて堂々とインタビューに答えたり、大会パンフレットに書いていたこともありました(笑)。まあ、私も大雑把な性格なので『人の口に戸は立てられねーしな?』と思っていました。当時はまだ寝技まで入れるのは早いと思っていたので、試合では投げまでにしていたんですが、10年くらい過ぎて、そろそろ寝技を解禁する時期かなと思っていたところ、ひょんなことから柔術と関わりが出来てしまい、今度は猛烈に生徒から寝技をやりたい!って言い出したんですよ。それまではいくら言っても『先生、寝技なんかいりません』と言っていたのに、あの試合を境にみんな逆に寝技をやりたいって言い出したから、試合での寝技を解禁したんです」

──大道塾にとっては、逆によかったんですね。

「そういう意味ではそうですね。私が描いた筋道どおりに行ってくれれば一番良かったんですが、ムエタイに引っ張られ柔術に振り回されました。まあ、それも大道無門じゃないかな、と(笑)」

──そもそも、格闘空手を始めた時は地上最強の格闘技を目指していたわけではなかったんですね。

「全くないですね。あくまでも身を守る護身術であることが基本です」

──それを周りが勝手に、大道塾は凄い、どんな格闘技にも勝てるんじゃないかって幻想を膨らませていったという。

「本当にそうです。そもそも私の格闘の原点は、小学生の時に中学生の番長に喧嘩で負けたことなんです。何をやっても勝てなかった、向かって行っても投げられて跳ね返されました。その時に、人は力を持たないと何を言ってもダメなんだと気付かされたんです。また、三島由紀夫が『文学をやっていても最後は日本刀なんだ。最後は日本刀を見せれば一目置くんだ』というようなことを言っていて、こんな偉い先生でも『力を評価している』のだから、自分で自分の身を守る術は絶対に大事なんだって焼き付いていました。だから、格闘技で日本一になるとか世界一になるって意識はなかったんです。極真に入った時も、空手で日本一になりたいとの気持ちはなく、柔道を知った上で打撃を覚えれば、大概の場合は身を護れるし、しかも指導員として夢だった海外留学ができると聞いたからです。極真時代の支部の標語は『人生はドラマだ!あなたの拳で!』で、武道・格闘技的には、一見、夢のない話ですが(笑)、逆にそのおかげか『山あり山あり』の、とんでもない人生が待っていましたが(笑)」

──あの試合をきっかけに、柔術というものの研究はされたんですか?

「もちろんです。負けたのは現実ですから、柔道だけの寝技ではダメだと。柔術を始め、いろいろな寝技を取り入れなくてはいけないと思いました。ただ最初は、全面的に解禁してしまうと知っている選手と知らない選手で大きな差が出てしまうので、柔道で認められている腕十字や腕がらみなど5種類の技だけを解禁しました」

──ホイス戦をきっかけに、選手の意識が劇的に変わったわけですね。

「そうです。それまではいくら私が言っても、『殴ったら倒れるでしょう』という感じでした。ましてや当時は大道塾の優勝者は空手界のエースみたいなものでしたからね。それこそ格闘空手そのものみたいな存在で、パンチをぶん回してみんなぶっ倒していたわけですから。だからみんながそういう意識だったんですよね。それがパンチひとつ当てることが出来ず、転がされて寝技でやられたのは生徒たちにとってはショッキングな出来事だったと思いますね。私は私の考えた道筋でやりたかったのに、キックブームの時はなんでグローブでやらないんだと周りから言われ、生徒たちも寝技なんかやる必要はない、ムエタイこそ最強だという意識になってしまった。それでトップの選手たちはみんなムエタイの試合をやったじゃないですか。今度はそれがガラッと変わって寝技が最強だというような意識になってしまって。ただ、だからと言って今、久輝がやっていることの結果がどうでもいいわけではなく、勝てば当然、嬉しいですよ。負けたら〝この野郎〟となりますが(笑)」

──話は技術的なことになりますが、マウントパンチ(寸止め)で効果になるといった要素が空道に取り入れられたじゃないですか。あれは柔術の実戦性を評価してのものですよね?

「最初にUFCの試合を見た時に、馬乗りになって殴っているのを見て、あんなものは先進国で流行るわけがない、ましてや日本では倒れている人間を叩くなんてそんなことを社会が許すわけがない、と当時のゴング格闘技で言いました。そう言っていたのがあれよあれよという間に広まって、〝ああ、日本人は変わったんだな〟と実感しました。私がそれがいい・悪いを言っても始まらない、昔ならやらなかったことを今はやるんだな、と。そうしたなら〝護身上〟やはり対応を覚えないといけない。だから取り入れました」

──いま思えば、ホイスに挑戦したことはよかったと思いますか?

「まあ、ウチはそういうところはしつこいんです。転んでもただでは起きない(笑)。ムエタイの時もそうですし、ヘタしたら団体が潰れるくらいの話じゃないですか。それこそいろいろな団体が柔術と絡まって、一時的にはそれなりに名前をあげていても、勝負に負けてガックリ来てダメになったという話が実際に、いっぱいありますよね。ウチはそういうところは苦にしません」

──むしろ、いいところを取り入れようとするんですね。

「あれを覚えればいいんだろう、という感じですね。大道塾らしいじゃないですか。それこそ大道無門ですよ。いろいろな格闘技は大道塾の敵ではなく、よく言えば師であるということです、エヘン!(笑)」

──大山倍達総裁も言われていた、我以外みな我が師の精神ですね。

「そこで覚えて、次に勝てばいいんです。ただ、あの時やらなくてもどこかで柔術とは交わっていたとは思います。ウチは何でもやろうみたいな姿勢ですからね」

──ホイス戦以降、大道塾としてダメージはあったんですか?

「ありました。あの当時はそれこそ、武道では大道塾が一番だって空気があったじゃないですか。それはもう凄かったですよ。弟子が減っていき、入門者がガクッと減りました。あれから10数年くらいは影響がありましたね」

──10数年も!?

「それにプラス、大山館長がなくなった後のフルコン界の変動や、K─1やPRIDEがあんな形で消えて武道・格闘技の信用が失墜し『やっぱりあの世界は……』と言った感じで潮が引くように競技者も、興味を持つ人口もガクッと減ったこともかなり影響しました。正直、ここは自慢して良いと思うけれど(笑)。私はこの世界に入る前に社会の底辺を経験して来て、『なるようになるさ。ダメなら大型免許があるから』と開き直れた私だからこそ、精神的に潰れずに持ったんだなと思いますよ(笑)。まあ、最近になって当時の悪いイメージを持っていた人が減ってきたんだろうし、やっと世の中が大人になって、ルールの違いが勝敗を分ける=誰が負けたから即、その団体がどうこうではないんだってことが分かってきたりして、また武道・格闘技復活の目が出てきたような気がするので、同じ轍を踏まないように、大事に大事に、武道・格闘技の健全な発展を期して行かなくてはと思っていますが……」

──そんなに影響が……グレイシーを怨みませんでしたか?

「それとこれとは話が別です。勝負の世界は勝った者が全部持って行くんですから、しょうがないな、と。長田がラクチャートに負けた時も凄かったですよ。それまでは年に入門者が何千人以上も入っていたのが、一気に半分以下になったんですから」

──大道塾は2度もピンチに陥っていたんですね。

「ただ、長田にしてもムエタイがやりたくてやったわけではないですからね。向こうのプロモーターに私が乗せられて、やってみますかと聞かれたから、「せっかくだからやってみます」というところから始まっているんです。最初は練習試合との話だったので、その話をもらってから3?4日はパタヤへ遊びに行っていたんですから。長田は長田で砂浜で足を切ってしまって。それでバンコクに帰って来たら新聞に試合のことが載っていて、日本の空手チャンピオンがムエタイのチャンピオンに挑戦する、みたいな話しになっていたという。その時に初めて、誰とやるんだと聞いたらルンピニーのチャンピオンだって言うわけです。メチャクチャな話ですよね。そんな状況で長田は初めてのルールで、グローブを着けたのも初めてくらいだったのに、最初にダウンを奪ったんですから、よくやったと私は思いました。ところが、日本に帰って来てその話が広まると評価がえらい悪い。手も足も出なかった、みたいな話になっていて驚きました。長田自身も、ムエタイがやりたいとかムエタイが最強だなんて思っていなかったですよ。ただ周りがそれをそのままには許さなかった。大道塾は、東はなぜ長田にやらせないんだ、と。私は長田がやりたいならやればいいと思っていたんですよ。でも長田からは何も言って来なかった。長田は長田で別にムエタイの試合をやりたいわけではないけれども、負けたと思われているのが嫌で悩んでいたとは思います。彼は彼で、自分がやると言ったら先生は嫌がるだろうと考えていたのかもしれない。でも段々と悩んでいる姿が目に付くようになってきたのは分かったので長田を呼んで、『やりたいならやったらいいんじゃないか』と言ったんですが、『自分はその気はありません』と。そうは言いながらも結局は収まらなかったので、あれが始まったわけです」

──1992年に後楽園ホールで開催された『THE WARS』ですね。

「その時に一番反応したのが、加藤清尚と飯村健一だったんですよ。長田はもう名前が出来上がっていたからいいけれども、彼らはこれからだったわけです。しかし、アマチュアと言っても当時、後先考えずに練習ばかりしていましたからね。その面ではプロと変わらないわけです。「俺たちは誰とやっても負けない」って意識があった。それが結局、長田が負けた、大道塾が負けたと言われてもの凄く悔しかったわけです。自分たちをキックの試合に出してくれみたいな話にもなりました。困ったもんだな、と。それで当時、週に一度、SAWの麻生(秀孝)さんが寝技の指導に来ていたから、終わった後ですし屋でいろいろな話をしていたんですよ。その時に、あいつらあんなこと言いやがってと愚痴を言ったら、麻生さんが『じゃあ東さんがやればいいじゃないですか』と言ったんです。そんなことは考えたこともなかったので〝えっ?〟と思ったんですが、協力してくれる人もいてやることになりました。それで一応はそれなりにグローブを着けた試合で勝ったんですが、加藤にしても飯村にしてもブレーキがかからなかったんですよ。第一、そっちの方が大道塾で試合をするよりも、反響が大きいわけじゃないですか」

──雑誌にも大きく取り上げられましたね。

「そう。それでやりたいというものをやめろと止めてもしょうがないだろう、と。ある時は飯村が来て、自分はキックの試合をしたいと言ってきたんです。その時に飯村は、私がダメだと言ったら辞めるつもりだったと後から言っていました。当時はそれほど選手が思いつめて、グローブでやることが強さの証明だ、みたいになっていたんですよね」

──グローブである程度証明したところで、今度はUFCが始まってWARSで修斗やパンクラスの選手と総合格闘技ルールで戦うことになりました。

「私は真っ直ぐ歩きたかったのに、あっちに引っ張られこっちに引っ張られ、足は引っ掛けられで(笑)」

──2002年のWARS6をもってピタリとやめてしまいましたよね。あれはなぜだったんですか?

「やりたいという選手がいなくなったからです」

──そうなんですか?

「逆に私は、最後までリングでの試合にはなじめなかったし、畑違いの準備は大変だったけれど、他の武道・格闘技の技を学ぶためにも、年に1回、もしくは2年に1回はやってもいいと思っていたんです。ところが選手たちは『もう大道塾は実力を証明したからいいです』と誰も手を上げなくなったんですよ。WARSを6回開催して、キックにも総合にもある程度対応出来ることが証明されたから、もういいです、と。元々、みんな格闘空手が好きだから始めたわけじゃないですか。名声が欲しくてやってみたけれど、結局は道衣を着てする武道が好きだから入って来た人間ですから。何回か「WARSをやりたいやつはいるか?」と聞いたんですが、1人か2人しかいませんでした。やる気のないものを無理強いしても碌な結果にはならないから、そこでやめたんです」

──そのうちの1人のようなものが加藤久輝選手なんですかね。

「久輝の場合は世界大会で負けたことが悔しかったからでしょうね。ウチには大きい相手がいないから、大きい相手とやりたいということで名古屋のALIVEジムに行くようになったんです」

──勝ったのは嬉しかったですか?

「勝って嬉しくないことはないです。久輝も直接知っている世代ではないですが、おそらく周りからウチとグレイシーの歴史を聞いていて、プレッシャーがあったかもしれない。よく頑張った、と言いたいですね。いつも生徒には言うんですよ、キックでもボクシングでも何でもやっていいけれど、『経験してみたい』とか、『試してみたい』みたいなお気楽な気持ちのヤツにはやらせたくありません。『やるからには、勝つつもりで練習をし、死に物狂いで戦え!」、と。せっかく先輩たちが築き上げてきた名前なのに、お前が中途半端な気持ちで負けたら大道塾が負けたって言われるんだから絶対に勝てよ、と。それで勝ったら嬉しい、負けたらばか者と言う。それはそうですよ。やる以上はそれくらいの覚悟は持ってもらわないといけない。挑戦心は良いけれども、ちゃんと背負ってやれということです。気軽にやってみたいなんて言われたら怒鳴りつけてやりますね。せっかく今までみんなで苦労してここまで大道塾、格闘空手、空道を持ってきたのに、お前でゼロになってしまうかもしれないんだぞ、と。言われた方はキョトンとしていますけれどね、時代が違うのかな(笑)」

──2001年から世界大会を開催したり、ロシアを中心に世界へ広がってきたことによって他のジャンルとかかわりを持たなくてもいいようになった、という面もあると思います。空道の中で成立するというか。空道で世界王者になることが高い壁になっているので、余所見をしている場合ではないですよね。

「今、世界王者になるのは本当に大変ですよ。先日、ジョージア(グルジア)に行って正式な支部に認可しました。行ってみたら、柔道のオリンピックチャンピオンや世界チャンピオン10人くらいと会ったんですが、なぜかみんな空道を応援しているんですよ。普通、柔道関係者が応援するなんてありえないでしょう。ところが今回支部長になったのも元々、トビリシ柔道連盟の理事長をやっていた人物で。昔、私が柔道をやっていた頃の東北のエースが遠藤純男氏(山下泰裕のライバルで1980年の全日本選抜柔道体重別選手権でカニバサミを仕掛け、山下の腓骨をへし折ったことで知られる)で、私が何回やっても勝てなかった宮城県のチャンピオンが、彼に30秒で投げられて負けたのを見て柔道を辞めました(笑)。ジョージアで会った柔道家たちはその遠藤氏と同期で、自分は遠藤とやって負けたと楽しそうに話をしていました。ジョージアで柔道は半分国技のようなもので人気があって、みんな身体がガッチリしていて体幹がしっかりしています。2月にインドで開催されたワールドカップに始めてジョージアの選手が出たんですが、いきなり-240で優勝してしまいました。あとタジキスタンの選手も優勝したんです。今までだったらロシアが全階級を制覇するか、せいぜい日本が一階級を獲るかくらいだったんですが、今回はロシアが3階級で優勝を逃しています。今度の世界大会は大変なことになるでしょうね。ロシアの独占状態は終わるかもしれません。今年の秋は仙台でアジア大会を開催します。そして、来年の世界大会に日本代表として選ばれるためには、今年の体力別とアジア大会、来年春の体力別と3大会の内2大会に出ることが条件となります。だから、久輝にも出ないと世界大会には出さないと伝えてあります」

───アジア大会の開催ですか!

「アジアならモンゴルが強いですね。あとはイラン、タジキスタン、カザフスタンあたりから選手が来ます。カザフスタンも強いですよ。ワールドカップのベスト3に2人くらい入っていました。とにかく旧ソ連系は強い。力があるし、体幹が強いし、何より日本選手にない『これで負けたなら俺の人生は終わりだ!』というほどのハングリー精神がある。今年の体力別各階級上位の2人~4人(に加え、秋の国内予選を勝ち抜いた選手)が日本代表となって、アジアの国々を迎え撃ちます。ワールドカップでは清水亮汰(2015年全日本無差別&2016年全日本体力別-250クラス王者)が、2014年の世界大会で勝っていた同じ選手に負けたんですよ。ワンツーでのばされてしまいました。だからウェイトをやって体幹、特に首を太くしろ、と言っても今の子たちはやらないんですよ。何度言ってもやりません。さすがに今回はのばされたからちょっとはやる気になったけれども。まず70%の力をもって、ガツンとぶつかり合っても、ある程度それを凌がない限り技の勝負にはならないんですよ。日本人同士の試合だと最初から名人戦で技のやりとりとなりますが、ロシアを相手にする時はまずぶつかって、それから回り込むなり離れるなり技の展開になるんですが、最初の段階でバンッと入ってこられると間合いは殺されるし、勢いづいてしまいます。体幹の強さが違うから。やっと本人もウェイトをしないといけないと思いますと言っているんですが、『僕たちは日本的な試合が好きです』とか言うんですよ。本当に今の若い選手たちは名人戦が好きなんです。相手がこう来たらこう返すというような」

──最初の、グレイシーが出てくるまでは寝技をやれと言ってもやらなかった、という話に似ていますね。

「なかなかうまくいきませんね。私は机の仕事に追われて、直接指導は無理だから要点だけ言うんですが、言うことを聞くのと聞かないのがいる。でもまあ、最終的には選手がそれらを取捨選択して、自分で組み立てた練習法や戦い方でやるのが一番いいんですよ」

──フィジカルでやられたら、今度は大道塾に必要なのはフィジカルだってなるかもしれませんね。

「ジョージアやモンゴルがのし上がってくる可能性が高いですからね。そうなって欲しいけれど…。これがラウンド制だったら動き回ってスタミナを消耗させてって戦い方もありますが、3分ですから半分以上はフィジカルで決まるわけです。まあ、日本人選手たちの活躍を暖かく見守ってあげてください」

更新日2017.7.9

コラム17 年末エッセイ!!年越しを振り返る。わが生涯、二度目の海外での年越し!!泣&笑(後編)

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閑話休題。それから1年位してだろうか、北斗旗直前だったが、わたしはニューヨークで、第2回目のセミナー(※)を成功させ高揚した気持ちでロンドンにいた娘に「これから日本に帰るぞ」と電話で連絡した。しかし出ないしメールにも応えない。そんなことはないからすぐに私は「これは絶対病気か怪我をしてどうにかなってるんだから、すぐにお前行ってくれ!」と帰国次の日にすぐに家内を緊急で送った!!案の定、風邪かなんかで行った病院で院内感染したらしく、大変な高熱と疱瘡で救急車でICUに運ばれる騒ぎだった!!

(※)塾長コラム09  15年振り3度目のニューヨークは・・・・

ここも娘の談ではこうなる 笑。

「風邪だったのか、ウイルス感染だかの原因不明の高熱から始まって、救急病院に連れられて、そこから更に悪化して、結局40度の熱が3~4日続き、加えて全身発疹、嘔吐下痢扁桃炎などが始まって、どうやら救急病院で打った注射針からさらに感染したんではないのかと言われました。黒人街の病院だったし・・・イギリスの医療レベルは住む地域に因ってホントにまちまちみたいだから・・・。集中治療室から車イスで病室に戻って来たわたしを見たお母さんが、開口一番「あんなこんなゾンビみたいな顔になっちゃって?!」って抱きつかれて大泣きされたけど、お母さんの顔を見たときには本当にホッとした」そうだ。余談でこんな話も。「同じ家をシェアーしていた人に手伝ってもらって、いざ救急病院に行く時、やっとタクシーがきたら覚せい剤でラリってる見知らぬ黒人が玄関口でナイフだして「金だせ!!!」とかって。わたし「いい加減にしてよ!わたし苦しくてどうしようもないんだよ!はやく病院いかせてよ!って、渾身の力振り絞ってどなった。わたしもガムシャラによくやったよねぇ・・・」
だ、そうだ 恐!「蛙の子は蛙」(笑)かもしれないが、本当に刺されないで良かった。「おにぃ」が護ってくれたのだろう・・・合掌。

それまでも周りの人からは「よく一人娘を海外にだすね~」とか「心配じゃないの?」などと言われても、想像力の乏しい私は「そんなに悪いことばかり続くわけはないさ」とか「そんなこと言って臆病になったなら何にもできない。人生は守りに入っては後退するだけなんだよ」などと、したり顔で話してたが、この時ほど自分の浅はかさを呪い、単純さを後悔したことはなかった!!「もし今あいつに万が一があったなら、人と違った 変わった”人生を何とか生きのびてきた能天気な俺も、もう駄目だな!!」とまで思ったものだった。

幸い娘も順調に回復したが、一人で帰国させるのも心配だったし、珍しく気弱に「お父さん、迎えにきて」という言葉と、それまで度々希望していたウィンザー支部のセミナーや、助けてくれた友達や恩師へのお礼も兼ねて、「今年だけだぞ!」と海外で過ごすことになった年越しだった。で、正月早々取って付けたように1月2,3日とウインザ―支部でセミナー!をして来た(笑&泣)。良く家内から「塾長は仕事がらみでないと絶対に海外へは行かない人だから」と文句(?)を言われるが、よくよく貧乏性な私である。

そんな経験を経つつも何とか娘も卒業でき、2009年には念願の「英語を使う仕事」ができる会社に入社することができ、久々で平和な、嘗ては当たり前だった年越し、正月を迎える事が出来た。この間、約10年が過ぎていた!!(しかし中々世の中そう甘くはない。入社時の約束とは違う「中国語を勉強するような」アジア関係の仕事に回され悩み始まったが、家庭的にはここ数年は3人で「おにぃ」の話も平気で出来るような安定した「年越し」を過ごしている)

一方、本業の方は、設立当初は物珍しさから(?)マスコミの路線と合致して煽って貰い順風だった大道塾、空道も、90年代直前からの「社会体育としての総合武道」などと、「武道の格闘技化、プロ化」という時代の流れ(武道・格闘技+格闘マスコミ+社会のイケイケ風潮)に真っ向から逆らった為に、この20数年は様々な悪戦苦闘の連続だった。それでも時代が熱狂から覚めて再び地に足を付けてきた2010年過ぎからは、なんとか設立以来の方向で生き残れたように見える。ここ数年は特に海外との仕事の量が倍々と増えてき、ついに昨年思わぬところから「公的武道スポーツ」への橋頭保(きょうとうほ)を築くことができた。

かといって仕事柄、衆目を引く派手さとは裏腹に、(ましてや“社会体育”を標榜している以上、そう阿漕な事も出来ない笑)、いわば“ボランティア”団体みたいなものだから、台所は常に火の車である。そんな訳で、人手を増やそうにも大会社にも劣らないような結構な仕事量に見合うだけの報酬はできないし、その人生に責任が持てるほどの安定性が確立・担保されたわけではないので、外部から人材を安易に招くこともできない。そんなこんなもあり、「いつまでも親離れできないように見えるし、家内工業みたいで嫌だ」という娘を説得して、連盟の仕事を手伝わせる羽目になったしまった(但し「この仕事は正に世界中と繋がっている仕事だから遣り甲斐はあるぞ!」と騙した(笑)せいか、(どっかで聞いた話だ、おっと 恐)今は「毎日が面白い」と言ってくれているのでホッとしてる)。

そんな経緯で今年も好きな「ゆく年くる年」を見ながらゆったりとした良い年越し、正月が過ごせるはずだった!!のだが・・・・・。

周知のとおり、5月に「ワールドゲームズ2013Cari」への「デモ参」が決定した(※)のは良いのだが、8月頃にコロンビア支部長が「大会実行委員会との打ち合わせや、空道のデモンストレーションの為に12月25日~1月2日までのカリ市でのフェスティバルに来て、空道のアピールをしてください」との再三再四の要請。手を変え品を変え行けない理由を並べたのだが、「カリ市もその予定でスケジュールを組んでいるし、記者会見では20社程が塾長のインタビューを放送・放映する積りで待っています」と全く聞く耳を持たない。

編集部注※経緯については2012年6月の特集記事「東塾長インタビュー」を参照ください。

結局、12月中旬にとうとう押し切られてしまい、心ならずも年末年始二度目の海外となった次第。しかし、気が進まないとはいえ、考えてみたなら、空道のためなら、当然個人の好悪は言ってはいられない。そこで、“一蓮托生”とばかりに、これまでコロンビア開拓に貢献した稲垣や黒木を始め何人かの古参や、2012年の体力別、無差別の各階級の優勝者、入賞者に片っ端から電話したが(但し、いくらなんでも所帯持ちは遠慮したが)年末ということもあり中々いい返事がない。とうとう遠征出発の3日前まで電話、メール攻勢し、今回のメンバーを半ば強奪・拉致してコロンビアに来た(爆)。

この稿も27日から書き始めたが、行事が盛りだくさんで、今は朝3時だが大晦日の今日31日まで掛ってしまった。PCの示す日本の現在時間(プラス14時間)では、あと4時間後に「紅白歌合戦」が始まり、そのあとに一年の締めくくりとでもいう、大好きな「ゆく年くる年」が始まるのだろう。衛星放送でも見れるのだが、その時間にはカリ空港で入管手続きをしているころだ。その後も乗継地で一泊となるから、どう足掻いても、年来の習慣である「日本での年越し、元旦」は無理である。録画でも見れるのだろうが、年が変わる瞬間に価値があるものを、後で見ても・・・・。

という訳で、今年は残念ながら(しつこい!か 笑)、遠く地球の裏側から我が日本の初日の出を想像し、2013年が皆様と空道、そして大道塾にとってこれまで以上に良い年であることを祈りつつ (来年は必ず「ゆく年くる年」を、我が“日本”で炬燵に入りながらミカンを剥きながら見るぞ!!)

追伸(か?):中継地のマイアミで入管手続きの列(これがまた9・11テロ以来さらに厳しくなって、呆れるほど時間が掛る!!)に並んでいたなら、同行した笹沢が(※)フェイスブックで俺の嘆きを披露したみたいで、コノネンコから「今炬燵に入ってミカンを食べてます」というメールが入った!!この野郎!!!

※笹沢は前回のキプロスに次いでの同行で今回は当然対象外だったが、当初予定していたデモマッチ (両者共にコロンビア功労者(笑)の黒木VS 稲垣) の黒木は「行きたいのですが仕事が急に入ってしまって、済みません」で、稲垣が今までの悪行の報いか(笑)「この所、右足にチョッと痛みを覚えて蹴りは・・」となったので、チケットも解約できないし、今回はワールドゲームズの話もあるので、セミナー指導と、本部師範代役(“睨み役”兼 笑)で同行という事にした。そこで、堀越に声を掛けたなら「休みに入るの」でと即返事をよこしたが、その相手が見付からない。前述の基準(無差別上位、体力別各クラス優勝者)で怪我を聞いてない10人近くに連絡しても「旅行を予定しているので」、「急なので」、「チョと仕事で」という返事ばっかりで、途方に暮れてしまった!!とうとう3日前になって、「又もじゃ、無理だろう」という私の声を無視して(笑)、事務局長が「お家の一大事だから!」と強引に笹沢に振って“拉致”したものである。
ついでに、ないとは思うが、「会社で浮いてるかも」と言うのを、無理矢理やり繰りさせて参加させたのに、「あいつは続けて又もか」と取られてはかわいそうなので、老心ながら人選の事情説明まで 笑。

文書日付2013.1.5(1.9一部修正)

コラム18 得意澹(たん)然、失意泰然

この所、格闘技雑誌が空道、大道塾の記事をよく取り上げてくれている。先月の「フルコンタクト」4月号では、「空道躍進!世界へ向けて(前篇)」、5月号では「空道躍進!世界へ向けて(後篇)」に加えて、「空道特別昇段審査」として海外2支部長の昇段審査の模様を、一方、「Fight &Life」4月号(Vol.41)では、「2014北斗旗 第4回世界空道選手権大会」への道、として「我々の知らぬ間に空道は世界を席巻していた!」、又、「ゴング格闘技」5月号ではゴン格的拳闘で「“武人”長田賢一、我レ、武ニ生キ、私ヲ滅ス」等々。

数年前には考えられない異常ともいえる“盛況振り”である。これ等は全て’90年代からの「どっちが強いでショー」の“格闘技ブーム”が2000年初めに崩壊し、見る影もなく地盤沈下をしているかのような「武道・格闘技界」にあって、1981年の大道塾設立、2001年の空道創始を通じて「武道こそが社会を支える人材を養成し、日本を、世界を救う道だ!」との、不器用ではあるが、現代社会が忘れている「武道の原点」を頑なに守ってきた「空道の理念」「大道塾の歴史」が、ようやく浸透し振り向いて貰えるようになったという事だろうか?(我々としてはそう思いたいものだが・・・)

天邪鬼(あまのじゃく)を言うようだが、残念ながらそうではないだろう。これらは全て、昨年のワールドゲームズデモ参加や、今年6月の日本外務省とロシアスポーツ省の後援による「日露武道友好年」への参加等々が、今までの「空道  大道塾独自の行事」としてではなく、様々な、より大きな機会に顔を出すようになった為に「空道の“イべント”とか“トピックス”」として取り上げられるようになったからだろう。更にはそれが来る11月の「2014北斗旗 第4回世界空道選手権大会」&「2014第1回世界空道ジュニア選手権大会」への注目へも繋がっているからなのだろう。何にせよ、設立以来の主義主張を通す為だったとはいえ、長かった暗闇のトンネルと抜け出たような晴れがましいような気になるのは、ご同慶の至りだ。

が、しかしこのようなイベントやトピックスで形成される、世論、世評というものは“ 移り気”なものである。即ち、この「世界大会の結果如何(いかん)」が、今後の評価にも直結していることを忘れてはいけない。例えは悪いが、言わば“格闘技ブーム”では注目されていなかった(自ら距離をおいていた=(イコール)一般的、世間的には「注目されていなかった」事になる)、“空道”という、まだそれほど“手垢の付いていない目新しい武道”に、世間がチョッと興味を持っただけなのだ。「これから、遠慮会釈なく“値踏み”される」という事を忘れてはならない。

過去10数年を振り返る時、順境の時には見知らぬ人もが集まるが、逆境の時には身近な人でさえ去る、という事を痛いほど学んだ。その時の為に「得意澹(たん)然、失意泰然」※1とか、「人と結びて有情を体す」(東京堂出版)でも触れたように「行蔵は我に存す、毀誉は云々」※2等々の言葉があるのだが、いざ現実にそうなった時には、頭ではそう思っても、心は中々そうは割り切れ(吹っ切れ)ないものだ。

※1  得意澹然、失意泰然(とくいたんぜん、しついたいぜん)・・「得意澹然(とくいたんぜん)」とは、物事が上手くいって得意な気分のときは、努めて淡々とした態度を示すこと。 「失意泰然(しついたいぜん)」とは、失意のときは、やせ我慢でいいからゆっくり落ち着いていること。

※2  原文は「行蔵(こうぞう)は我に存(そん)す。 毀誉(きよ)は人の主張、我に与(あずか)らず我に関せずと存じ候(そうろう)。 各人へ御示し御座候とも毛頭異存(もうとういぞん)これなく候。」
我が行いは自らの信念によるものである。けなしたりほめたりするのは人の勝手である。私は関与しない。どなたにお示しいただいてもまったく異存はない。

実際、好むと好まないとに関わらず、人生には何度かそういう逆境、苦境の時は必ずある。その時にへこたれない、潰れないためには何が必要なのか??それがこの世界の人間が日頃から(深く内容も考えないで?)“お題目”のように口にする“修行※3”の精神だろう。

※3  10年ほど前の宗教がらみの事件の為に、この言葉(修行)が敬遠され貶(おとし)められているが、(面白き事もなき?)この世(人世)を何とか全うするためには、この言葉は便利な、強力な支えとなってくれるもので、これらの逆境、苦境をも、今日的に言えば「ピンチはチャンス」即ち、「自分を磨くための試練」や、それ以上に「自分の厚みを増すための好機とすら捉える、強(したた)かさ、強靭さを思い起こさせてくれる言葉だ。(誰だって、「苦しい練習は嫌だが、人より苦しまなければ強くなれない。やるかー!」と同じだ 爆)

最近の日本は「長年の平和な社会が生んだ」賜物で、そういう人世の実相と離れた、軽くて明るい人が持て囃される時代(“好青年”や“爽やかさ”ブーム)だが、それは偶々の僥倖のお陰で、多くの賢人、先達が言うように「人類の歴史は戦いの歴史である」。最近の国際社会の情勢を見ていると、「この平和がいつ崩れてもおかしくはない」というのが時代の足音のような気がする。だから、その為にも、若い時に、大なり小なりの「逆境に打ち克つ」という経験が必要なのだと思うが、日本人は基本的には、17条憲法以来の「和をもって貴しとなす国是、歴史」と、海に守られた島国ゆえの「国防意識の極めて弱い≒平和を愛好する民族」≒「争い事は直視したがらない」民族だから、一度の敗戦で「病膏肓に入ってしまい」なるべく武道とか武術という荒事からは目を逸らしたい。その為に、武道の本質を意図的に脇にやり、ただ単なる肉体的強者を生み出すスポーツの一種としか扱わないのが、敗戦国日本の「世界に対しての“処世術”」なのだろう。

例によって、わき道で説教してしまった(悪い癖だ  笑)。だから、「これから、遠慮会釈なく“値踏み”される」という事を忘れてはならない、以降に続くが、最近ちょっと露出が増えたからと言って、風向き(世評、評判)はいつどのように変わるか分からないので、調子に乗り過ぎないに越したことはない。しかしながら、引用した「得意澹(たん)然、失意泰然」は「良い時だからと言って調子に乗り過ぎず、淡々としていろ。一方、失意の時だからと言って、悄然となるな。落ち着いて嵐の過ぎるのを待て」と言っているので、何も「調子の良い時までしかつめらしい(陰気臭い)顔をしろ」と言っているのではない。

結論。“ノッテル”時には、その勢いを自分から削ぐ必要はない。塾生のみなさんは、最近の風向きに安心、慢心することなく、まだ「空道 大道塾」を認識頂いていない多くの人々へ、これらの雑誌があれば単なる言葉以上に説明、広報をし易いので、是非、手に取って(購入して 笑)、「空道とは・・・」と積極的に「空道大道塾」と「世界大会」の広報、普及(並びに「社会体育としての武道スポーツ・空道」という原点を忘れずに、自分自身の日々の精進)に邁進して頂きたい。

最後に、(しつこい! 笑) 最近、候補選手は「頑張ります」、「必ず世界を獲ります」と言い、選手でない塾生は事ある毎に、「自分は選手ではありませんが、世界大会の為にできる限りの事はさせて頂きます」とは言ってくれる。有難う!!そうなのだ。「世界大会」は選手のみがではなく、正に“総力戦”なのだ。何度も言うが11月14~16日間の「世界大会の観戦」と、それまでの「広報活動」、「友人、知人の観戦勧誘」を常に心掛けて貰いたい。それが即ち、「全塾生が参加する世界大会」になるのだから。(完全にセールストークになっているか 爆)

文書日付2014.3.27

コラム19 異種武道交流イベントによせて

編集部注)この文章は青森で開催された武道交流イベント記事(2015年2月23日掲載)へのコメントに加筆修正したものです。

嘗て、昭和柔道界の巨星、神永昭夫先生(※1)が、若くして亡くなった時にも「この人がいたなら日本の柔道界は盤石だったのに、と柔道界をあげて惜しまれた」と、空道のルーツである「大道塾」の初代理事長(※2)から聞いたことがあるが、斉藤(仁)氏(※3)の早逝もまた「柔道界にとって本当に惜しい人物を失くした」ものと思う。柔道というと(本人の意思とは関係なく)どうしても「世界の山下泰裕氏」(※4)が脚光を浴びがちだが、その当人すら「お互いにとって大きい存在だった (SANSPO.COM 1月21日記事)」と言っている。畑違いではあるが「技術的にも人間的にも評価の高い人物だ」と聞いていた。そのご縁でこんな良い企画が組めたのは、有難いことだった。感謝と同時に深甚なる哀悼の意を表したい。

こちらでも先日今、色々取り上げて貰ってる「スポーツゴジラ」発行元の「日本スポーツ学会」(長田渚左 代表理事 ※5)主催で、講道館で開かれた「スポーツを語り合う会」に参加することができた。その中で山下氏が「中国・南京やイスラエル、パレスチナ等での活動報告」 という演題で「柔道がいかに世界平和にコミットしてるか」という話や、筑波大学大学院スポーツ健康システム・マネジメント専攻長の菊幸一氏(※6)が「嘉納治五郎の魅力を語る」という演題で、「現代スポーツは嘉納治五郎から何を学ぶのか(※7)」という本を要約し「柔道の“教育性”や“文化性”の一方、加熱する“競技性”に、どう対応するか?」という、ウチにも当てはまる命題に関しての話を聞けたんだが、やはり柔道界に学ぶことは多い。

また、周知の事と思うが、柔術(寝技)は隔週でパラエストラ代表の中井祐樹師範(※8)に、本部の金曜日のクラスの後半に指導して貰っている。その縁で日大柔道部監督の金野潤先生の「柔道と柔術の技術交流を」という研究会にも参加させて貰えるようだ。パラエストラは武道という色は出してないのだろうが、柔道部出身の中井代表の指導する柔術は道の部分も残しているので、我々空道の選手も良い交流会になるのではと思う(勿論、組技や寝技主体だからアップアップするだろうが 笑)。

日本では少子化の影響に輪を掛けて若年層の武道離れがあり、国際大会に臨む予備軍育成はどの分野でも青息吐息である。何度も言うが、武道は日本の無形文化財と言っても良い重要な文化である。気付いていないのは武道をしない日本人だけだと、仕事のお蔭で100ヶ国以上は回って来たから、心の底から思う。また、海外では競技者がややもすると「勝てばいい=強くなればいい」式で捉えがちだが、武道を支援、導入してる社会的リーダー達の目的はそれのみではなく「社会を秩序の中で活性化させる」という事も大きな評価ポイントなはずである。だからこそ、貴重な国の予算を使って、武道を支援、育成してくれてるのだろう。

一方、武道母国である日本の場合、行政が放っておいても、武道は民間の支援でなんとかなってきたから「燈台下暗し」状態である。しかも、少子化の影響をもろに受け、競技人口の減少という面からも、行く末は厳しい。今迄の武道界のように、多くの人間が取り組んでいたから、技術体系の違いで足の引っ張り合いをする余裕もあった。しかし、今後はそんな”贅沢(?)“は許されない。少人数でも、違う体系の中から「根本的な違いはルール」として認めて、互いにとっての役立つ要素を学び合いながら、切磋琢磨しなければならない。即ち「武道母国日本の名誉を守る」という共通認識 (今はやりで言えば” 通奏低音(つうそうていおん)”か 笑)を元に、効率よく心技体を向上させ「己の分野では一歩も引かないぞ!という不退転の取り組み方をして行かなければ、日本武道の未来はないと思う。

閑話休題。ま、まだウチはにその前に、色々学び前進しなければならないことが山ほどあるんだが、そういう意味でも、今回のような機会を得たことは素晴らしい事だ。何にもまして、世界大会後、青森始め日本各地で、一般にはまだ耳慣れない「空道という武道」の選手が、一般だけでなくジュニアも含めて評価されることは本当にありがたい事だ。

本人たちの努力もさることながら、初めてそういう場に引き上げて頂いた、仙台市空道協会、平塚和彦会長(※9)を始めとする、各地での関係各位の方々のご尽力に心から、感謝申し上げます。

設立当初の「実戦性、安全性、大衆性を備えた武道」を創るのだ!と皆で、熱く燃えてはいたが、一人でいる時に湧き起こる「わぁ~俺たちはどこに向かってるんだろう・・・」という、えも言われない不安を思い出す時、この状況は夢のようである。重ねて御礼を申し上げさせて頂きます。

今回各地で表彰された選手や支部長、指導員、同じ支部の塾生諸君は、これがただ「自分たちの努力や指導、応援だけで達成できた」等とは決して思わないで貰いたい。「今日まで叱咤激励して頂いた多くの役員、後援者のお蔭だ」という事を忘れないで、しかし、まだまだ越えなければならない、山々に向かって行こう。

(初稿2015.2.23)

注(敬称略)

※1 神永昭夫(かみながあきお):宮城県仙台市出身の柔道家。日本代表として出場した1958年の世界選手権では準優勝。その後全日本選手権を、当時史上最多となる3度制覇(1960年,1961年,1964年)し、猪熊功とともに日本柔道界のトップ選手として君臨する(通称:神猪時代)。(ウィキペディア記事より引用)

※2 佐藤節夫(さとうせつお):初代大道塾理事長。現大道塾最高相談役。

※3 斉藤仁(さいとうひとし):青森県青森市出身の柔道家。ロサンゼルスオリンピック、ソウルオリンピック柔道男子95kg超級金メダリスト。(ウィキペディア記事より)

※4 山下泰裕(やましたやすひろ):柔道家。1984年ロサンゼルスオリンピック無差別優勝後、国民栄誉賞を授ける。引退から逆算して203連勝(引き分け含む)、また対外国人選手には生涯無敗(116勝無敗3引き分け)という大記録をもつ。(ウィキペディア記事より)

※5 長田渚左(おさだなぎさ):ノンフィクション作家。 近著に 『桜色の魂チャスラフスカはなぜ日本人を50年も愛したのか』 集英社刊。

※6 菊幸一(きくこういち):筑波大学体育系教授。同大学院スポーツ健康システム・マネジメント専攻長。

※7 菊幸一「現代スポーツは嘉納治五郎から何を学ぶのか」(単行本情報 Amazon

※8 中井祐樹(なかいゆうき):柔術家。パラエストラ東京主宰。現日本修斗協会会長。

※9 平塚和彦(ひらつかかずひこ):大道塾評議委員長。国際空道連盟顧問。全日本空道連盟副理事長。

コラム20 「空道○○カップ」と「空道○○選手権大会」の違い、及び、 今後の空道の展望について

かつて、1981年に空道のルーツである大道塾が宮城県で設立され、初めは、県内の数か所の支部が集まって、県大会が開かれ、次に2,3の県が集まって「交流試合」となり、それが全国のいくつかの地区でも始まり、現在の全国5地区での「地区大会」として「全日本選手権」に向けての予選となったのは、設立後16年を経た1987年の春でした。

今それが2001年に「第1回世界空道選手権大会」として「空道」を世界に発信して以来、各国で「国内大会」(国内的には「県大会」)が行われてきたものが、年数もほぼ同じくらいの15年目にして、今、一気に世界的規模にスケールアップし、遂には「各大陸」で(国内的には[地区大会]となる)「空道○○カップ」(カッコ内は大陸名)が行われるようになったと考えると、感慨無量なものがあります。

特に創生期に籍を置いた塾生や支部長も同様の想いがあると思います。(ご後援者、ファン、支部長、塾生等々、関係各位のご支援ご協力に、この紙面をお借りして、改めて感謝申し上げます)

さて、この「空道 ○○カップ」は直接には「世界大会」には繋がりませんが、今後いろんな国で、様々な名称の大会が創設され、その度ごとに空道のレベルは一段一段向上してゆくのでしょうが、それらの大会の中でも、その大陸で最大規模の大会が「空道 ○○カップ」(※)となるのです。

※10月4日に行われたモンゴルでの「第1回 空道アジアカップ モンゴル大会」( http://www.daidojuku.com/home/2015/mongol/ ) に次いで、既報の通り、11月1日には南米チリで、南米と北米の国、約10ヶ国が一堂に会し「第1回空道パンナム大会」が行われます。また来春には「第3回ヨーロッパカップ」も計画されており、いくつかの国からの希望も出ております。

更には、「世界大会」と次の「世界大会」の間には4年ありますが、世界大会の2年後には「空道 ワールドカップ○○大会」が開かれ「世界大会」に次ぐ、世界規模の大会となります。これには現在メキシコが名乗りを上げており、現在、政府やスポンサーと交渉中です。

そして、4年ごとの「第○回 世界空道選手権大会」は、常に、空道発祥の地、日本で開かれ、空道の最高峰を競う大会となるのです。

次回は2018年11月の「第5回 世界空道選手権大会」並びに[第2回 世界空道ジュニア選手権大会]ですが、4年は決して長くはありません。出場を期す選手、支部、後援者の方々は、それぞれの持ち場で一丸となって、今から計画を進めて頂きたいと思います。

(初稿2015.10.28)

コラム21 「老骨に鞭打って(笑)」

「塾長スパー動画、予想通り、みんな驚いてますね。」

「驚いてる」って“人間機関車”(懐かしい言葉だ笑)が、化石燃料使用反対の声に押されて十分に供給できず馬力がでないためか?もしくは車体・車輪の摩耗によりガタピシしてるからか笑。この動画を見てどう思うかはそれぞれだと思うが、以前、63歳で9段の審査を受けた組手シーンが紹介されたなら、ドッカで「東も遂にこんなことをするのか。どうせ弟子は遠慮してるだけだろうに~」にみたいな反応が、塾内()外からあったと聞いた。

:内からの声としては「塾長はこんなことしなくても、過去の輝かしい実績や、不本意な結果でも、今は実際の試合映像で見れる時代になり、実力は誰しもが認めてるんだから、今更‥‥」という好意的なものから「塾長もTの仕事にも繋がる、セールストークに煽られて、イメージダウンするのも考えないで・・・」等というものまである。しかし、前者には「そうだろう、そうだろう」とニンマリしても(笑)、後者の「空道を盛り上げよう」として“格安”で働いていてくれる人間達 m(__)m が、逆に攻められるようなことになっては可哀想だ。聞き捨てならない!!

そんなこんなで「なぜ俺がこんな事をするのか?」は、いつか書かなくてはと思ってはいたんだが、できなかった事情を絡めて…。“総本部”は傍で見てるほど運営は楽じゃない()。為に、相も変わらず“少数精鋭”で切り盛りせざるを得ないから、それこそ小遣い社長として、日々の雑用に追いまくられてる。そんな身としては、半分「なに言われようが、そんなことは今しなくてはならないことじゃない。それより国内外からの、様々な事象に対応することは“今”必要なことだ」と思ってたのだが・・・・。

ある古参の塾生に「空道が国内外にこれだけ広がってれば‥でしょう」などと言われて「現実はボランティアみたいなもので、あなたの考える十分の一でもないよ~」といったなら「俺だって事業してるから分かるよ~」と来た。「ああ、分かってくれたんだな」と思ったなら、真逆な皮算用をされたみたいで腰を抜かした。「いや~」というと「俺を馬鹿にしてるの!!」とくる。「俺はそんなに甲斐性がないのか~」と返す言葉もない。

閑話休題。今回の動画について、またぞろ(又候)、色々な声が聞こえてきたので、言い訳でも年寄り自慢でもなく、その理由についてそろそろ書き留めなくてはとなった次第。くそ~!このくそ忙しい時に~~。

昔の選手時代を知ってる人間から見たなら「何で今更、こんなヨタヨタしてる映像を晒すんだ!」という声もあると思うが、俺は「はみ出し空手」の巻末(P218)で、

「単なる“我儘”や、チョッと有名になったからと「その気になって“独立”する」のではなく、50歳,60歳になってもできる“武道スポーツ”を確立する為だ。(中略) 実行しようとしてもできなかったなら、何もしないと同じだ。今後の生き方を見据えていただきたい。云々」

と大見得を切った以上、その年になったなら「俺は言ったことを、チャンと実行したぞ~!」と証明する義務があると、ずうと思ってきた。運動選手なら誰しも自分のことは過去の全盛時の姿で封印したいもので、それはそれでいいと思う。しかし、俺の場合は、かつての団体での歩みを期待してくれていた人たちに対して、ある意味、信頼を裏切ったかもしれない”過去”がある以上、それは避けてはいけないことだと思っているからだ。

「いや~俺も上に反発して別なことをやろうと思ったけど、実際自分で初めて見ると、思ったようにはできなかったよ」とは言いたくなかった。そして、これが東孝67歳11か月の組手であるの姿である。どう評価されるかは知らないが()、一応、「それなりに頑張ったな」とは言っていただけるのではないだろうか(m(__)m。

しかし、そんな辛気臭い話を離れても、この「勝手な“義務”」かもしれないが、があるから、この年でも汗を掻かなきゃならないし、お陰様で、終わった後の毎日の飯もビールも美味いんだ(笑)

「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候」(勝海舟)

コラム10 治療院通い

注:下記文章は書きなぐり/書き下(くだ)し/推敲後日/再読修正アリ (笑)

チェコ・ポーランド遠征出発2日前の稽古で出稽古に来ているSの寝技に付き合ったおかげで持病の“ギックリ腰”再発!!青くなったがすかさず昔から診て貰っている平山カイロに急行。普通は神経が麻痺しているからか(??!!)どこを押されても痛みを感じない私が、「マッケンジーテクニックなる」簡単に言うと背中を頂点に、頭と脚が直角になるような「海老反り固め」で油汗を流した。平山センセイはそんな顔を見て勝ち誇ったようにニコニコしている。氏は元柔道出身で練習中の背負い投げからの頚椎捻挫で頭以外全身麻痺という重態から奇跡的に生還した人で、その後カイロを極めて素晴らしいテクニックで多くの重症患者を治している人だが、人が痛い顔をすると喜ぶ意地の悪い人だ(S男か?失礼 笑)
「クソー、以前は練習に出ていたからお返しも可能だったが今は忙しくて治療に専念していると思って!」と、「地団太を踏みたい」所だがそんな事をしたなら益々痛くなるので悔しいが我慢、我慢だ(泣)それにしても寝技や投げは腰に一番負担が掛かるから、本気で出来ないのは情けない。最近特にだ。

私の腰と膝も暫く期間をとって、休めばもっと回復するのだろうが、汗を流さないと飯も酒も美味くないし、果ては仕事にしろ時間潰しにしろ、活字を追っても集中力が落ちるという正真正銘、完全なる”運動中毒”患者の私だから、3日と大人しくしていられない。一方で治療しながらもそれをチャラにするような練習を続けているから、かなり複雑に消耗して来ていて、常にここに行けばメンテナンス完了とはならない場合もある。

その場合はこれまた長くお世話になっている仙腸関節の調整で治療する、腰痛といえば常に名前が挙がる、マスコミで話題のNクリニックや、右足の半月盤を除去してから欠かせない“エアロバイク漕ぎ”でなる、太腿の張りから来る腰痛などの場合は、最近家の近くで発見した全力でその筋肉を解してくれる整体院など、時々の症状であと2人のセンセイに世話になっている。現役時代に膝が痛かったのは、靭帯が伸びたのも原因だが、「こんなに右重点で蹴っていたな腰に負担が掛かるな」っと自覚しながらも、しかし私にはあのルールでは万能と確信していた、「下段蹴りの練習をし過ぎて腰の骨が滑り易くなっている」のが原因だ、とどこでも言われる。一種の職業病である。

「いい加減年なんだから、口だけで指導すれば」とか、「それなりに立派そうに見える年になったんだから(本当か?)神棚に上がったら」と言われるが、ざっくばらんな言い方をすれば、私はこれ(武道)で食ってる以上、常に体を張っておかないことには仕事をした気になれない現場志向の人間である。飯の食い上げになる。
お花のセンセイがお花を活けなくなったり、書道の先生が字を書かなくなったなら看板を外さざるを得ないように・・・・。

とは言っても現役時代の怪我が回復しないとか、勤続/金属(?)疲労から不具合が固定化した方々の場合などは、当然、お花や書道以上に体が資本の仕事だから、一概にそうも言えないのだが、心構えとしては「看板を上げている以上、動けるうちは体で教える」のが基本だと思っている(くどいがその方が飯も酒も美味い 笑)。動けるうちに「代稽古できる指導員が出来たから」等と偉そうにして、自分は腹を出し能書きだけ垂れているのでは「看板に偽りあり」と自分で言っているようなものである。当分、治療院通いもどうしようもない。

関連記事:チェコ・ポーランド遠征レポート

文書日付2007.7.23

コラム11 チェコ ヴァーツラフ広場での妄想(笑)

注:下記文章は書きなぐり/書き下(くだ)し/推敲後日/再読修正アリ (笑)

当時最高の視聴率を誇ったNHKドラマを見、維新の志士「坂本竜馬」に憧れ「いずれ俺も革命の志士たらん!」としてはいたが、いかんせん政治運動とは遠い田舎の、しかもまだ高校生であり、大学(改革)紛争から発展した学生運動には「遅れてきた世代」である私は、実際にはこの「革命運動ゴッコ(?)」には参加しなかった(良かった!親を泣かせないで)。

しかし、年代分けでは「70年安保世代」になる私にとって、日教組教師を中心とした(洗脳?)教育「共産主義から社会主義体制への移行は歴史的な既定路線であり、理論的な事実だ」という主張には単純に「そうかもしれないなー。いやそうあるべきだよなー。そうすれば俺もこのまま大学に行けるんだろうから・・・」と漠然たる共感を持っていた。

当時学生運動に走った学生の殆どはまじめな優等生で、同じような共感(平等社会の実現)から運動に取り組んだはずだ。幸か不幸か私は、まじめでも優等生せいでもなかったし、大学に入る金がなかったから遠回りしている内に、頭デッカチの直情径行、純粋真直ぐ君から脱皮し、世の中を複眼的に見られるようになった。又、念願かなって大学に入った頃には学生運動自体が下火になっており、そんなこんなで“流行り病(はやりやまい)”には感染しないで済んだ。

革命どころか、逆に大学への入学金を稼ぐために自衛隊に入り、デモ隊鎮圧の放水車に乗り、放水射手の訓練を受けていた!!!「俺ってもしかしてあっち側にいたんじゃないか?」と思いながら・・・。(好い加減だねーーー爆笑)

しかし、「チェコ事件」は私のような半端な共感にしろ、理論的な確信者にしろ、資本主義社会の中にも多くいた共産主義シンパ(支持者)に大きな疑いを持たせた歴史的な大事件だった。それは人間/人類の向上心にも繋がる利己心を肯定する自由主義経済を否定し、「生産手段の共有による私有財産否定を通じての平等社会の実現」という、マルクス・レーニンにより唱導され試行された「ソヴィエト連邦社会主義共和国」という、人類の壮大な「理想社会実験の“崩壊」の、 いわゆる「終わりの始まり!!」であった。「その時、歴史が動いた」風にドラマ仕立てで言うならば(笑)、「今、その歴史の現場にいる!」と思うだけで、感無量なものがあった。

後日談。そのチェコが共産主義政権を打倒して本当に自由主義政権を確立するのはこの事件から実に21年後。「プラハの春」以来積極的に改革を進めてきた、劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルが大統領に就任した。無血革命だった為、「ビロード革命」といわれる。

しかし、それほどまでにして手に入ようとする自由だが、自由は誰にでも輝かしい未来、人生を約束してくれる訳ではない。我々が何気なく生きる分には心地よい「自由」だが、一歩進んで人生を前向きに、向上心を持って生きようと思う者には、時にどうしようもない重荷になる。 「自己の責任で生きなければならない」という「選択肢の多さから来る不自由さ」を伴ってどう生きていいか分からなく、逆に無気力になる若者を多く生んでいる。

更には、「俺は誰の世話もしない代わりに、誰の世話にもならないから全くの自由だ。何を言ってもしても、俺の勝手だ。」という自己本位、自己中心な考えに至り、その通り出来るGift(天与の才能)に恵まれた一部の人間(エリート?)は良いにしても、中途半端な形で、自己に責任は持たないくせに完全な自由や、義務を果たさない権利のみを求める人間が増えている。

どちらにしろ、結果として多くの人間は“孤独”に至り他人と協調できない人間が増えている。人は皆、自由(本当の?)かもしれないが、孤独のうちにのたうち回っている。そんな多くの自由主義国を見るにつれ、これから人間が、人と繋がり協調してこそ成り立つ“社会”を維持して行くことはいつまで可能なのだろうか?と思ってしまう。

そんな時、外にだけ生き甲斐(目標、目的)を見出そうとすれば、(私の狭い視野かもしれないが)人類に多くのフロンティアは残ってないように見える。現代社会は早晩行き詰まりを感じざるを得なくなる、いや既にそうなっている?のではないのか?そんな中で、自己の中に生きる目標と価値を見出せる者のみが自己に自信を持て、他に働きかける力が生まれ、これからの社会を生き延びて行けるではないかと、漠然とだが思う。

そういう意味で、“消費される強さ=格闘技”ではなく、強くなりたいという人間の単純な本能/欲望の追求ではあるが、その過程で「一人では強くなれない事(教えてくれる先輩と、一緒に切磋琢磨してくれる同輩、指導力=人間性を磨いてくれる後輩とがいて始めて、本物の社会生活をする人間としての強さ/靭さが身に付く)に気付かせてくれる“武道”こそが、その答えを持っているのだと、「怖ず怖ず(おずおず)だが声を大にして(?)」言いたい。

武道は、現代のストレスの多い人間関係から生まれる、氷解不能に見えるほど巨大化/堅牢化しているその「孤独の克服」という社会現象に対し、「本能/欲望の追求を通じての協調性の涵養」という、様々な最新の医療や心理学では考えもしない角度からの解決法を持っている。

“武道”というと「フルーイ!」というのが若者の反応だが、古いどころか、現代社会を救う可能性を秘めた、不易流行で温故知新が可能な、日本が世界に誇れる文化なのだと、例に拠っての大仰な物言いを許して欲しい。

参考URL:NHKアーカイブス 激動の時代と日本人の「志」

関連記事:チェコ・ポーランド遠征レポート

文書日付2007.7.24 一部改稿2007.10.12

コラム12 組み技、寝技の練習の意義と実際

「空道の試合に勝つには組み技のレベルを上げないと」と町の柔道の道場へ行っても、レベルがではなく、職業的指導員がいるかいないかという意味で、アマチュアの道場は、大抵一人の指導員がいれば良い方で(いない場合は道場生同士で教える)、「手取り足取り」の指導は期待出来ない。

これは何も柔道に限らない。武道の世界的名声は高く、世界的な試合の時だけは「武道母国日本」等と持ち上げられ勝つのが当たり前みたいに見られているが、その割に武道の世界的価値や日本社会での教育的価値に見合う扱いはされていない日本では、どこの武道道場も維持するのが大変だというのが実情で、専従の指導者を常に置いている道場はまれである。その為、人手が足りなくて、大抵は受身を教えたなら即、乱取りとなるのが普通である。これではいくらか受けは強くなったり、力で頑張る癖は付くが、自分から相手を投げられるようにはならない。

それでも高校時代に柔道やレスリング、相撲などの組技を経験して即、乱捕りに対応出来る者なら別だが、「投げ技を基本から教えてもらい、打ち込みで形を作って、乱取りに進む」と考えて柔道の道場に入門しても、その希望は中々叶えられない。

一方、大道塾で両方をこなせる選手にしても、仕事を持っていながら練習する者が殆どだから、自分の練習時間が減るので、他人に教えることより自分の練習をしたがり、通常の練習以外で基本から組み技を教えたりはしたがらない。

そんな中で、総本部では毎週、金曜日はパラエストラから指導員を招いて、水曜日19:00からは山崎、寺園の両指導員が、組み技寝技の指導を行っている!!!参加しないのは絶対に勿体ないと思う。

金曜日のパラエストラの指導員は初心者にも丁寧に寝技の基本から教えてくれる。水曜日の寺園選手は柔道の経験こそないが(剣道の経験者。山田利一郎新潟支部長はじめ、大道塾のサウスポーの選手には意外と剣道の経験者が多い。)柔術の道場に通い、自分なりに研究して試行錯誤しつつ指導している。

逆に言うと、柔道未経験者としての経験(?)を生かして、いわば打撃中心に覚えてきた(組技の専門的な経験がない)多くの塾生が、空道=打撃系「総合(武道)の試合で、どう組み技や寝技に対処(自分が使う、もしくは、経験者の組技に対応)するか?の実験をしつつ取り組んでいる。これはこれで非常に貴重な試みである。

一方、山崎選手は周知の通り大学柔道(日本体育大学)の、まず組み技では最上級の修行経験を持ち、事実、数々の大会で豪快な投げ技と打撃の見事な連繋で、幾多の巨漢を破ってきた選手である。

それと、試合のように派手な/目に見える活動ではないので、「知る人ぞ知る」地味な話なのだが、同じくらいに評価したいのは、嫌がらないで初心者にも丁寧に基本の受身や、打ち込みを教える事だ。それは現役時代から変わらず、今も続いている。選手の習性を考える時、これは中々できるものではない。

手前味噌じゃないが、これらのクラスは本当に貴重なクラスで、塾生で組み技、寝技を覚えたい者が、なぜ総本部にあるこんな恵まれたクラスに参加しないで、余り指導体系が充実しているとはいえない、一般の道場に行くのか気が知れない。本当に不思議で且つ、勿体ない話だと思う。

なぜ空道にとって組み技が重要性を増しているのか?このところ連勝街道を驀進している藤松選手の勝利の方程式を見てみよう。

一つは、一発では威力は小さいかもしれないが皆が対応研究していなから貰ってしまう腰や、脇から出る「寸止め系の突き」。これは顔面近くから水平に出る今までのパンチと角度が違い、そういう「突きへの受け」の反復練習から生まれる「条件反射」がないので、安易に貰ってしまう。貰っても軽いからとさほど気にも留めない。(それが藤松の狙い目の一つでもあるのだろうが・・・)

しかしこの所の試合を分析したなら、「突き」、という意味では似ていても、これまでの打撃系にとっての寝技と同じ位に、「知らない技が一番怖い/威力がある」という武道・格闘技の大原則に立ち返って、重要視する必要がある。安易に考えて受けが形作られない限り、誰も取り組んでいない練習をしている藤松の突きは、益々当たる回数が多くなるだろう。

更にはその副次的な効果として、両拳を上げて顔面をガードする構えが一般的なフルコン系ではありえない、顔面ガラ空きの慣れない構え(単打戦が多い寸止めではこれが一般的)と、下から入ってくる突きに対戦相手の注意が集中してしまうから、何気ない下段蹴りや前蹴りをまともに貰ってしまう。

多くのKOは連打で注意の向いてない所に打撃が入るから生まれるが、一発二発ではダメージにならないこれらの攻撃でも、度重なるとそれが心理的な動転/負のスパイラルを招き、貰った方は自分の組手を忘れて、防御に関心が集中してしまい、結局、藤松の術中に嵌ってしまってしまう。

その上、ただの突き蹴りの選手がそれをするなら、「軽く打たせて(打たれても)倍にして返す」という方法があり、どういうことはないのだが、(彼の組手から学ぶ者は、ここを忘れてはいけない!)、藤松の場合は、その軽い突きをそれだけでは終わらせない、第二弾を持っているからより一層、より確実に、この戦法が功を奏する。

それが、この一撃必倒的組手の弱点である「乱打戦」を防ぐための組技だ。即ち、「相手が連/乱打戦に持ち込もうとして接近してきた場合や、チャンスを狙いつつ自分から単発で当て行き、ここだと思ったなら、素早く相手に密着して相手の連打を封じてしまい、投げ→寝技に繋ぐ戦法」である。

逆の場合もこの「投げ?寝技」の連携/展開が大きな抑止力になっている。相手がその連携/展開を恐れるがゆえに、掴まれたなら後ろに下がって逃げようと始めから腰が引けた状態から出す威力のない中途半端な攻撃や、思い切って入って行っても組まれた時点で「投げられるのでは!!」と、途中で攻撃を止めて/体を硬直させてしまう反応は、藤松の投げの絶好の下拵(ごしら)えだ。

しかしただ「投げ技が出来るから」では同じ結果は生まれない。今までも柔道ではもっと実績を持っている選手が出てきているが同じ事はできていない。それを可能にしているのは藤松の「打撃系用のステップから迅速確実に投げに入れる、構え方と運足」である。

私は組技に初めて取り組む人間に教える時「必ずサウスポーで覚えるように」と言う。それは打撃では柔道と逆で、多くの人間は通常左足前に構えるので、前に投げる技をかける場合、左の投げ技をかけた方が自分の体の回転が少なくて済むし、相手の体との密着を生むので、投げやすいからだ。

また、相手を後ろに倒す技でも、例えば相手の左前足を刈る左の大外刈りは、右足での継ぎ足一動作だけで刈れる。これは右足前で構えて柔道をしていた人間にはなかなか出来ない。どうしても二動作になり相手にその意図を読まれて防御されてしまう。藤松は通常右足前にして戦う選手が多い柔道を、高校時代からサウスポー(左足前)でしていたから、左足前の構えで打撃戦をしてそのまま左の技(特に大外刈り)にスンナリ入れるのだ。

他の選手は、それぞれの突きや投げは、柔道や寸止めでの見慣れたものであるが故に、特別の警戒心を持たないで対応しているが、この「一見ありふれている技」の組合せ/連繋の生んだ、これまでの結果をもっともっと意識的に再認識して対応策を研究しなければ、「もっと打ち合えれば・・・。効いたパンチはなかったのに、何となく投げられて寝技で負けた。負けた気がしない・・・」という、今までの勝負スタイルに捉われた/拘った総括をし、いつまでも不完全燃焼の負け試合を続けることになるだろう。

かと言って、語解して欲しくはないのだが、あの戦法/戦術が万全だというのではない。人の個性が千差万別であると同じように、その人によって生み出される勝負事にも定待った型や、究極の戦法はない。

ただ、今まで武道/格闘技最強を唱えていた打撃系が、柔術(寝技)の登場によって散々に苦渋を飲ませれている事を考えれば、時代の空気で「あんな時代錯誤な『寸止めスタイル』が様々な武道、格闘技の集大成とも言うべき『総合(武道・格闘技)』で通じるのも目新しいからだ。今に必ず失速する」等と思考停止し、歴代の戦士/選手の研究の成果である過去の実績にのみ寄り掛かり、現役の選手自らがこの戦法/戦術の研究もしないで戦いを続けるのなら、今後も死屍累々の戦野が続くだろうと言うことである。

今度はあの戦法/戦術を、上述したような先入観なしに、謙虚に研究吸収し、その土台に立ってその弱点(何にでも弱点・欠点はある)を突き、凌駕する戦法戦術を研究する選手が出てこなくては、空道の新たな発展はない。

元に戻るが、そういう意味でも、入門していても今まで食わず嫌いだった選手や、特にこれからの塾生には、これらのクラスに大いに参加して、上記の国内戦だけではない、次の世界大会ではより一層、対外国選手との戦いの大きなポイントとなる「投げ技、寝技」の充実に努めてもらいたいものだ。

<総本部 組み技関連クラス>
※支部所属の塾生も参加できます。
※金曜技研・組み技クラスは、塾長が出張、会議等で不在の際は内容が変更となります。詳細は総本部までお問い合わせください。

●水曜組み技クラス  19:00~20:30 3階道場
 指導員:山崎進(総本部指導員)
●金曜技研・組み技クラス 19:00~21:00 3階道場
 19:00~塾長指導 実戦組手(関節蹴り、金的蹴りあり)稽古
 20:00~パラエストラ指導員 寝技基本、スパーリング

一部改稿2007.11.8 文書日付2007.11.6