コロンビア遠征記  国際空道連盟副理事長  高橋英明

9月19日(木)の17:55に成田を発ち、26日(木)の14:25に同じく成田に帰国という丸1週間の日程で、パンアメリカン空道選手権大会(以下、パンナム大会)の日本審判団団長として、南米コロンビアまで行ってきました。 往きは、飛行機が駐機場を離れてから最終目的地に着陸するまでちょうど24時間、帰りは乗り継ぎの時間が長かったのと太平洋は向かい風の中を飛んだので31時間という行程でしたが、6フライトともにスケジュール通りに飛んだということもあって、それほど長いとは感じませんでした。 南米コロンビアといっても、実際に行ったのは南米大陸ではなく、バルガス支部長が道場を構えているサン・アンドレス島というところ【写真01】で、首都のボゴタから、日本で言ったら東京から沖縄に飛んだような距離のところにある、カリブ海の美しい島です。 ネットで調べると、「コロンビア領の楽園」とか、「7色の海と呼ばれる濃淡の異なる美しい海の色と透明度は、世界の美しいビーチランキング入りする程で、感動間違いなし」などと言われているところです。 8月の初めに塾長に聞いていたときには、パンナム大会は10月末にベネズエラで開催するということだったので、その辺りの日程は空けていましたが、メキシコの支部長で国際空道連盟の理事を務めているカルロス・トレホから、コロンビアで9月21,22日にパンナム大会を開催したいので助けてほしいというメールがあったのが8月18日。その後塾長とやりとりをして、塾長から日本のS級審判員に遠征の募集通知があったのが8月21日のことでした。 急な呼びかけだったので、手を挙げてくれたのは渡辺慎二支部長のみで、それに総本部から岩崎大河を派遣するという状態でしたが、もう一人を何とかしていただきたいというお願いをして、A級審判員の神山歩美が行ってくれることになりました。 塾長から募集通知があった時点では、単に「コロンビアでパンナム大会があり、9月19日成田発で、24日か25日成田着の旅程で協力できるS級審判を探しています」ということで、開催地がサン・アンドレス島ということは知らされなかったのですが、私の方からもあえて開催地を知らせることはしませんでした。開催地が風光明媚なところだから行くということではなく、コロンビアでのパンナム大会の支援のために行ってあげたいという純粋な気持ちを期待したことによります。 手を挙げてくれた慎二と歩美には、行ってくれるということを聞いてから、「カリブ海のサン・アンドレス島だよ、俺は水泳パンツを持って行くよ」ということを連絡しました。 本大会の開催により、少なくともここ7年間は継続的に国際大会を開催していることになり、これは国際空道連盟にとって非常に価値のある大会ということになります。 この1週間の様子については、各自から時系列でレポートされていると思うので、私からは、いちおう想定内ではあったけれど「やっぱり」という事態や逆に「よかった」こと、他方で想定外の思いがけなかったことの視点から、レポートします。海外遠征だといろいろなことがあるので、今後の皆さんの参考のために。 あり得ると予想していた(想定内の)こと。 その1:早朝に到着した際に、ホテルの部屋が予約されていなかったこと 出国翌日の早朝3時にサン・アンドレス空港に着き、バルガス支部長夫妻が迎えてくれたのですが、ホテルに行ったら、部屋は同日の夜からしか予約されておらず、また深夜のためにそのホテルで新しく部屋を確保してもらうこともできませんでした。すなわち寝るところがないという状況でした。これは、日本を出る前から気になっていたので、事務局長やメキシコのトレホを通して心配事として伝えてもらっていたのですが、バルガスは英語がわからないこともあって直接のやりとりはできていなかったので、「やっぱり」という事態でした。このあとどうなったかは、「思いがけなかったこと」の欄で。 その2:最終日のホテルの部屋が予約されていなかったこと これも、日本を出る前から気になっていたことでしたが、その通りに部屋は出発の1日前までしか確保されていませんでした。到着・出発共に、他国からの選手団よりも1日前後していたことによると思われます。これは、最後の宿泊のみ別の部屋に移してもらって、解決。移った部屋の方が快適でした。 その3:大会参加者が前日の夜まで確定しなかったこと まあ、これはそうなるだろうと十分に予期していたことでしたが、参加者リスト提出のデッドラインを大会前日の20:00と指定し、それから慎二と二人で手分けして、深夜までかかって組合せ表を作成しました。ちゃんと20:00までに参加者リストが届いたし、全員の身体指数の計測値や年齢が記入されていたし、特に問題はなし。ただし、私は20:00までにホテルの夕食を済ませていましたが、後で聞いたら慎二は夕食をとっていなかったということ。20:00から組合せ表を二人で分担して作成すると言っておいたから、それまでに夕食は済ませているだろうと思っていたのに。 その3:ホテルへのタクシーの迎えが予定の時間より1時間も遅いことがあったこと 日本ではあり得ないことだけれど、これも、あり得るとは思っていたので、特にいらいらすることもなく、ホテルのロビーで待機。ドライバーによっては、ちゃんと時間通りに来ました。 その4:全試合(42試合)の審判を担当したこと 当初は、日本から4人の審判員と、メキシコのトレホにブラジルのトーレスの6人でまわせると思っていましたが、直前にトレホが仕事の都合で来られなくなって、結局5人で審判を担当。監査役を置けないことについては事前に塾長の了解を得ていましたが、実際には私が副主審兼監査役ということにしました。ちなみに前回のチリでのパンナム大会も5人で全試合を担当しました。人数的に余裕がなかったので、試合の写真はなし。また試合のレポートもなしです。 その5:テレビ局の取材があったこと テレビ取材が入る可能性はあると思っていましたが、現地のテレビ局と、本土のスポーツ関係のテレビ局とが来ており、それぞれから取材を受けました。放送の際は字幕スーパーでスペイン語を入れるということで、英語でやりとりをしました。「誰がこの大会をオーガナイズしたのか?」という質問に対しては、「全て、コロンビアの代表であるロナルド・バルガスが準備し、そこに国際空道連盟が我々審判団を派遣した」と答えましたが、その通り、バルガス夫妻が全てを準備しました。いろいろとスポンサーも探したようです。他には、「パンナム大会をサン・アンドレス島で開催することについてどう思うか?」といったような質問があったかと思います。質問にわからない単語があっても、「?」という顔をしてインタビューを止めたりはせずに、適当に流しました。 その6:海の真ん前のホテルだったこと 日本を発つ時点でホテルの名前は2つ聞いていて、ほんとはどっちなのかは行ってみないとわからないという状況でしたが、実際には更に別のホテルでした。でも、道を渡ってすぐ先が海岸で、また繁華街もすぐ近くにあり、きれいで、そこのホテルが一番よかった。食事も3食付いていました。El Doradoという名前のホテルで、和訳すると「ホテル黄金郷」です。【写真02~05】 朝日が昇るのが6:15頃で、その時間は遠浅の海を沖の方まで出て、泳いだり、座れる深さのところを探してしばらく海水に漬かっていたりしました。ホテルの部屋はシャワーだけでしたが、泉温30℃のナトリウム・塩化物温泉に毎日1時間漬かりながら、朝日が昇るのを眺めていたようなものです。【写真06~08】 その7:治安が良かったこと 観光地なので治安は悪くはないだろうと思っていましたが、思っていた以上に良かった。東洋人の姿はまったく見かけることがなく、我々を見かけて写真を撮らせてくれという人がいたり、日本人だと言うとすごく喜んでくれたりでした。 思いがけなかった(想定外の)こと その1:サン・アンドレス島に入るために、ひとり約50ドルのツーリストカードを購入しなければならなかったこと コロンビアの首都ボゴタの空港で200USドルをコロンビアペソに両替しましたが、サン・アンドレス島に渡るためにはツーリストカード(7年間有効)というものを購入しなければならず、結局4人分の購入のために、その両替したお金をほぼ全て、両替の直後に失ってしまいました。 その2:深夜にも拘わらず、別のホテルの部屋が速やかに確保できたこと あり得ると予想していたことのその1の事態に対して、バルガスが迅速に動いてくれて、そのホテルから車で5分程度のところに別のホテルを見つけてくれました。ここで3時間熟睡できたし、その前には飛行機の中でもよく寝られたので、その後の時差ぼけはほとんどなく過ごすことができました。 その3:バルガスの怪我の状況 昨年の世界大会に、バルガスの姿はありませんでした。怪我でもしたのかと思っていましたが、大きなガラスが頭上からアキレス腱の位置に落下し、世界大会の直前に大怪我をしたということ。その画像を見せてくれましたが、断裂したアキレス腱がむき出しになり、また骨の損傷もあったと思える、すごい状態でした。よく足を切断せずに済んだなと思えるような怪我でした。しかし、それからまだ1年も経っていない現在、まだ試合はできないとは言うものの、サンドバックをしっかり蹴れていたし、大会の閉会式後には、皆が集まって写真撮影している前で繰り返しバク転をしていたし、信じられない回復の状況でした。来年のワールドカップには復帰してくるだろうと思います。 その4:オープンエアーの大会会場であったこと バルガスの道場のすぐ隣に、屋根はかかっているけれど壁がない、オープンエアーのミニサッカー場が2面あり、その人工芝の上にマットを敷いて試合場としました。バルガスは、これを見て塾長はどう思われるだろうかと心配していましたが、その心配はまったくないと答えておきました。エアコンが効いた室内と同等に、快適でした。【写真09など】 その5:大会前日にセレモニーがあったこと 開会式は大会当日だろうと思っていましたが、実際には、金曜日に計量、土曜日に開会式と審査会、日曜日に大会がありました。開会式での挨拶はスペイン語でするつもりで、弟子の横井にスペイン語訳をしてもらっていたのですが、1日早く急に挨拶することになり、もう少し流暢にしゃべる練習をしておきたかった。これはちょっと残念。司会進行はスペイン語と英語の2カ国語で行われ、国際大会らしい、しっかりとした進行でした。私の挨拶も、英訳してくれました。写真は、開会式でのイベントです。【写真10,11】 その6:大会当日に、大会出場者の追加や削除がなかったこと あり得ると予想していたことのその3のように、大会前日の深夜まで掛けて大会組合せ表を作成したのですが、翌朝には追加の参加者や欠席者が出て、いろいろ変更の必要性が出るだろうと予想していました。ところが、変更したのはジュニアのひとりを、実際の体格を見て年齢区分から体重区分に変更して別の組合せに移しただけで、出場者の追加や削除はありませんでした。これは、良い驚き。 その7:大会が時間的にスムーズに進んだこと 南米なので、その日の内に始まって、その日の内に終わればそれでよいと思っていたのですが、そうではなくてスムーズに始まり、また選手の登壇などもスムーズに行われ、大会全体がスムーズに進んだことは、失礼ながら大きな驚きでした。ただ、選手が両方とも青の道着姿というケースがよくあり、審判をしていてどっちが白側なのかの判断に迷うことが何回かありました。 その8:リーグ戦を知らなかったこと ジュニアも一般も共に、3人でのリーグ戦というカテゴリーが多かったのですが、記録係などがこれをどう記録したり選手を呼び出したりするのかわかっていませんでした。大会が少し進んだところでこのことが判明し、説明をして、事なきを得ました。 その9:想定した時間内に全てが終了したこと ジュニアの試合が、通常予定する2時間で終了し、その後も、一般の選手が待ちきれないということですぐに一般の試合を開始したこともあって、想定していた時間内に全て(ジュニア24試合、一般15試合、年長者のワンマッチ1試合、テレビ用等のエキジビション2試合の、計42試合)を終了することができました。これも、良い驚き。バルガスのところの道場生が、よく働いてくれました。 その10:大河がちゃんと審判を務めてくれたこと 大陸大会の審判は、副審はB級以上、主審はA級以上という決まりがあるのですが、今回は理事長のご判断により、特別に大河に審判員としてコロンビアに行ってもらいました。実際に副審を務めている様子を見て、主審もさせられるだろうと思い、最後の270超級の決勝の主審と、その後のエキジビション2試合の主審を担当してもらいました。問題はまったくなし。 その11:ブラジルのトーレス支部長が審判員として成長していたこと 前回のパンナム大会の際は、トーレスはこちらのほうをチラチラ見ながら旗を挙げていたのですが、今回はそんなことはなく、ちゃんと自身の判断で判定していました。4試合ほど、主審も経験させました。もう少し訓練すれば、世界大会で副審もできるだろうと思います。今回の大会の成果のひとつです。 その12:ブラジルが、次のワールドカップ開催地として名乗りを上げてくれたこと トーレスから、相談があるということで話を聞きましたが、来年のギリシャでのワールドカップの次を、ブラジルで開催したいという希望を持っているということでした。これは、非常にうれしい申し出でした。もし実現すれば、第1回ワールドカップをロシアで、第2回をインド(アジア)で、第3回をギリシャ(欧州)で、第4回をブラジル(アメリカ大陸)で、ということになります。実現するとよいなと思いました。 その13:バルガスの道場 専用の道場を持っているのだろうとは思っていましたが、中心部から車で10分程度のところの美しい海岸近くに、1階が道場、2階が住まいという道場を構えていました。道場の前にはバーベキューなどが楽しめるようなスペースが、横には人工芝が敷かれて子供たちが遊べるような広いスペースがあり、すごく理想的な環境でした。【写真23~32】で子供たちが戯れている姿を見ると、よくわかると思います。 その14:大会終了の翌日に、ダイビングを体験できたこと この先、スキューバダイビングを経験することはなく生涯を終えるだろうと思っていましたが、大会翌日にダイビングに誘われました。サン・アンドレス島をできるだけ楽しんで日本に帰ってほしいという気持ちが伝わってきたので、喜んで申し出を受けました。2名のインストラクターは、バルガスのところの道場生でした。こちらは通訳のエミルを含めた5人とも、スキューバダイビングは初めてでしたが、30分間、水深10mのところまで潜りました。大きな魚には出会えませんでしたが、透明度は高く、気持ちの良い経験でした。私が普段持ち歩いているコンパクトカメラは、水深15mまでの防水仕様かつ耐衝撃仕様のタフなものなので、いろいろと撮影しました。ただし残念ながら撮影者自身の写真はありません。【写真33~42】 最後に パンナム大会をサン・アンドレス島で開催することを許可してもらったことに加えて、国際空道連盟から審判団を派遣してもらったことに対して、バルガスは大変感謝していました。多くの人たちが、我々が行ったことをとても喜んでいました。ホテルの近くの寿司屋の店主からは、いつでもいいから招待したいと行ってもらえましたが、我々のスケジュールと寿司屋の開店時間とが合わずに、残念ながら行くことはできませんでした。そのかわり、さよならパーティーに寿司の舟盛りを差し入れてくれました。【写真16】 空道を通して自分自身が楽しむ・喜ぶことも大事ですが、私の年齢になると、自分自身のことよりも、周りの人たちが喜ぶ姿を見て喜ぶという、仏教で言う(私は無宗教ですが)「欲界(六つの欲天と、人間界、八大地獄で構成)」の最高位にある「他化自在天(他人の楽しみも自由に自らのものとして楽しむことができるところ)」に生きるという人生を追求したいと思います。ちなみに、この他化自在天の王が、織田信長が名乗ったと言われる「魔王」です。「魔王」は、社会人時代の私のあだ名でもありました。 とにかく、多くの人たちに喜んでもらえました。慎二と歩美は、コロンビアまで行ってくれて、ほんとにありがとう。大河もご苦労様でした。 大河は初めての海外遠征ということでしたが、【写真20~22】のように、さよならパーティーを盛り上げてくれました。私などはこのようなことはできない中で、日本人を代表して周りを喜ばせてくれたという、貴重な役割も果たしました。ただし、今回のように快適な遠征は希だと認識しておいてください。私は今回の遠征がちょうど20回目になります(そのうちメキシコ、オーストラリア、インドネシア、ドイツ、中国は単独行。今回のコロンビア、スペイン、インド3回のうちの1回は、隊長として)。遠征によっては10日間以上の期間、観光などのイベントは一切入れずに指導に集中したりしたこともあり、それはそれで良かったのですが、今回の遠征が一番幅広く楽しめましたし(スペイン・バルセロナも食べ物・飲物がすごくおいしくてよかったですが)、体調もよかったです。 膝に問題があるので、セミナーに同行しても役には立てませんが、今回のような国際大会であれば、審判として役に立てます。この先いつまでできるかわかりませんが、年に1度は行けるとよいと思います。 最後に、日本審判団団長にご指名いただいた塾長、いろいろと手配をしてくださった事務局長、ありがとうございました。フライトは、往き・帰り共にAmerican航空系のOne Worldに属しているところだったので、乗り継ぎはきわめてスムーズに行えました。遅延もまったくありませんでした。また成田とダラス間は、足を伸ばせる席を確保していただいたので、快適でした。プレミアムエコノミーの席よりもゆっくりできたと思います。そのおかげもあって、時差ぼけに苦労することはありませんでした。 以上

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