読者アンケートにご協力ありがとうございました。
この特集は2013年5月に開催された全日本大会の大会パンフレットから転載したものです。
(この記事内容について、当サイトにおいては掲載を省略します。)
3人の子どもたちとともに
――まずは、プロフィールからお願いいたします。
清水 昭和40年3月1日生まれ、48歳です。宮城県仙台市生まれで、結婚するまでは仙台にずっといました。今は、宮城県の湧谷(わくや)町というところに住んでいます。
――涌谷町? 仙台からはどれくらい離れたところで?
清水 40〜50キロ北でしょうか。
――震災の被害は?
清水 内陸なので、特にはなかったです。
――どんな特色の街なんですか?
清水 う〜ん、なんでしょう・・・。
――農産物とか、水産物とか、なにか特産品があるのでは・・・。
清水 う〜ん、特にないですね。田んぼはありますけど…。
――……田んぼですか…。他には何も?
清水 う〜ん、まぁ砂金の町だとか言いますけど。
――えっ! 金!!
清水 えぇ、まぁ、昔は金が採れたみたいで、奈良の大仏なんかに使われているらしいですけど。
――凄いじゃないですか! で、その涌谷町で職業は何を?
清水 中学校の教員です。科目は社会科です。
――現在、所属されている修武会という団体は、どんな団体なんですか?
清水 15年前くらいですか、結婚して涌谷に来てから、自分で開いた道場です。
――大人にも子どもにも教えている?
清水 そうです。
――そこで教えられている技術は、どんなキャリアのなかで培われたものなのでしょう?
清水 もともと中学・高校では野球をやってまして、東北学院大学に入学してから、20歳のときに少林寺拳法の町道場に入門しました。大学4年生になるときに、大学内に日本拳法の愛好会ができまして、そこに所属しました。
その後は、大学を卒業する前後から、並行して防具着用で競技を行う流派の空手の道場にも通うようになりました。
――大学卒業後は、すぐに教員に?
清水 いや、大学を卒業してから教員になるまでは4年間ありまして・・・。
――やはり、教員採用は狭き門で?
清水 それもあるんですが・・・、正直いうと、格闘技をやりたくて・・・(苦笑)。講師などをアルバイトでやりながら、キックボクシングにも取り組んでいまして。
――どちらのジムで?
清水 仙台青葉ジムです。
――年でいうと何年頃?
清水 あれは・・・・・・あれは・・・・・・何年頃だったかなぁ(苦笑)。
――資料をみると新空手の全日本大会で優勝したのは1994年ですね。
清水 あぁ、そうです、94年くらいですね。
――では、その頃まで日本拳法と空手とキックボクシングを3つ並行して?
清水 あぁ・・・・・・それが、空手の方が・・・。89年に初めて大道塾の大会に出場した後か、2回目の出場の後か、大道塾の大会に出ることにかんして「それはダメだ!」と言われまして。それで、空手は辞めてしまいまして・・・。
――そうだったんですか・・・。所属団体を辞めてまで北斗旗に出続けようと思ったのは、なぜですか?
清水 当時、格闘技界の中で、北斗旗っていうのは、勝てば強さの証明になるものでしたから。
――それ以降、北斗旗での成績は?
清水 最初は中量級で判定で1回戦負けでした。その後は、中量級で1回、軽量級にしてから2回くらい、ベスト4に入っていると思います。
以前は無差別大会に出るために東京まで行っていましたけど、最近は仙台で行われる体力別大会だけ出ています。――何回くらい出ていることになりますか?
清水 う〜ん、体力別、無差別合わせると、多分今回で27回目だと思います。
仙台で行われる大会は、全部出ていると思います。――えっ! 名古屋で行われた4回の大会を除いて、89年から今年まで24年間、休まず体力別全日本大会に出場し続けているということですか?
清水 たぶん、そうだと思います。
――それは、凄い偉業じゃないですか! 印象に残っている相手はいますか?
清水 いっぱい闘ってきたんでそれぞれにいろんな印象がありますけど、小川英樹さんとやったときには何も出来なかったことが思い出としてありますね。慎重に攻めようと思って、ちょっと様子をみるつもりで軽く蹴ったローキックを掴まれて足関節を極められて・・・。あっという間に試合が終わってしまって。あとは加藤清尚さんとか、飯村健一さんとか、強い方々ともやらせていただいて。闘いながら楽しむことが出来ました。
――小川選手に足関節を極められたのは90年代中盤だったと思うんですが、そもそも清水選手は、空手・拳法・キックボクシングと、打撃競技をやっていて、打撃技術の成果を試す場として北斗旗に出場しはじめたのでは?
清水 ええ、そうですね。
――北斗旗に寝技が導入された91年以降「なんでオレが寝技なんかやらなきゃならないんだ?」っていう気持ちにはなりませんでした?
清水 でも、東先生の考え方が凄くいいなぁって思って。格闘技であるなら、何にでも対応できなきゃいけないんじゃないかなって。投げでも寝技でも何でも許される状況の中で自分の得意な打撃で倒したいっていうのがあって。だから、北斗旗のルールがどんどん進化していって、勉強しなきゃいけないことが増えたことで、かえって自分の技術が深められてよかったのかな、と思っています。
――小川選手に一本負けした頃は寝技に対応し切れていない印象を受けましたが、その後、みるみる寝技が上手くなりましたよね?
清水 柔術に取り組みはじめまして。
――いわゆるブラジリアン柔術ですか。湧谷町に道場が?
清水 いえ。仙台にある草柔会という道場に車で通っています。
――そこまでして技術を磨いて、北斗旗に挑み続ける理由は何ですか?
清水 はっきり言うと、まだ1回も優勝していないからですね。打撃中心でやってきて、獲ろうと思った大会は全部優勝してきまして。この北斗旗のルールで優勝したいな、というのはありますね。今はもう「すべてを北斗旗のために」っていうつもりでやっていますね。
――投げ、寝技に加え、掴み、頭突き、ヒジ打ちまでOKのルールというのは面白いですか?
清水 面白いですね!
――あと一歩で決勝というところで、次から次に出てくる若い世代に待ったを掛けられたりするじゃないですか。そういう時って、悔しかったりしません?
清水 いや、負けは負けで。年齢だとか、気にしないですね。
――この先は、何歳ぐらいまで続けようとか、プランはありますか?
清水 いやぁ〜。今までもまったくそういうことは考えることもなく続けてきたんで。技術的にはまだまだ向上していると思いますし、体力も落ちているという感覚はないので。武道として考えた場合、何歳でも闘えなきゃという面もありますし。そう言いながら、どこまで続けられるかは分かりませんが(笑)。
――清水選手こそ、空道家の鑑ですね!ちなみにご家族は?
清水 妻と、高校1年生の娘、中学2年生と小学3年生の息子がいます。
――お子さんに道場で教えられたりは?
清水 ええ。みんな小さい頃からやってます。実は、今年は娘を北斗旗に出したかったんですけど「年齢制限で18歳から」ということだったんで・・・。
――では、近い将来、親子出場もあると?
清水 そこまで私が持ちますかどうか(苦笑)。
今年3月24日に開催された総合武道選手権大会(無差別)では、決勝戦において右ストレートで技有り(ダウン)を奪って優勝を果たしている
空道全日本大会で上位進出を果たした経験をもつ選手や支部長に、得意技のポイントを公開してもらうこのコーナー。記念すべき第1回目は、平田誠一・弐段の巴投げと、巴投げが崩れた場合に相手を仕留める襟絞めをクローズアップしたい。
平田弐段は、高校、体育系大学を経て、教員(体育)となってからも柔道を続けてきた。現在は、柔道六段(紅白帯!)にして高校の副校長。30代で大道塾の門を叩き、46歳となる現在までに第一回世界大会日本代表、全日本準優勝1回(2010年−260級)、準決勝進出3回(2002年−260級、2003年−260級、2005年−250級)の成績を誇る。
その華麗な巴投げと、相手の意識を喪失させる襟絞めは、対戦相手にとっては脅威であり、観る者にとっては驚異。 考えてみれば、首投げ(腰車)やタックルといった投げ技や腕関節技、足関節技、裸絞めが、筋力の強い外国人選手には力づくで堪えられやすいものであるのに対し、巴投げや襟絞めは、ひとたび形に入れば力で凌がれることはないものである。文化の違いから生じる感覚の差からか、ロシアの格闘技・サンボにおいて首を絞める技が一切認められていないことから考えても、「巴投げ→襟絞め」は、日本人が国際大会で切り札的に使いうるもの。世界を狙う者は、身につけるべし!
(以下記事内容について、当サイトにおいては掲載を省略します。)
※掲載イメージ
2013.9.30更新