読者アンケートにご協力ありがとうございました。
この特集は2013年11月に開催された全日本大会のパンフレット掲載記事より転載したものです。
(この記事内容について、当サイトにおいては掲載を省略します。)
空道全日本大会で上位進出を果たした経験をもつ選手や支部長に、得意技のポイントを公開してもらうこのコーナー。第2回目は、前回に引き続き、第一回世界大会日本代表、全日本準優勝1回(2010年-260級)、準決勝進出3回(2002年-260級、2003年-260級、2005年-250級)の成績を誇る平田誠一・弐段にご登場いただく。
平田弐段は、高校で柔道を始め、体育系大学を経て、教員(体育)となってからも柔道を続けてきた。現在は、柔道六段(紅白帯!)にして高校の副校長。30代で大道塾の門を叩き、46歳となる現在までに度々全日本大会上位進出を果たしている。
今回紹介する襟絞めは、相手の両腕を完全に制したうえで極めてしまうもの。ひとたび形に入ってしまえば、まったく抵抗の余地を与えない技だけに“地獄絞め”とさえ呼ばれる。地獄の1丁目、2丁目、3丁目・・・・・・、たっぷりとご堪能ください。
編集部からのお願い
知っているか、知らないかのレベルで争うべからず
野球の専門誌において、ダルビッシュ有をはじめとする一流の投手たちが、惜しげもなく、変化球を投げるときのボールの握り方を披露している。彼らに数億円の年収をもたらす商売道具ともいえる変化球。その秘密を、なぜ、公開してしまうのか? なんのことはない。彼らが「どんな握り方をしているのかを知らせたところで、それを真似して、自分と同じレベルのピッチングが出来るはずがない」と自信を持っているからなのだ。これぞ一流。対して、格闘技界のなかには「引退するまでは、技を掛ける手順は誰にも教えず秘密にしておきたい」と考える選手もいるようで・・・・・・。過去、格闘技雑誌の編集を行っていた際には、技術企画の取材を断わられることが多々あった。正直、知っているか、知らないかのレベルで勝負を争おうとするその姿勢には、セコさを感じたものだ。・・・・・・空道界のトップファイターのみなさんには“一流”であってほしい。競技全体の発展のためには、技術を公開しあって、より高度な技術をより広く浸透させたうえで、その精度を競おうじゃありませんか! どうか、次にあなたのもとに取材依頼があった場合には、今回の平田選手のように、広い懐で技を公開して下さい。よろしくお願いいたします(笑・空道無門編集部 朝岡秀樹)。
天下のジャッキー・チェンを68分間拘束!?
――まずは、仙台育ち、現在48歳の高澤さんが大道塾に入門した経緯からお聞かせください。
高澤 いえ、私は大道塾には入門していません(微笑)。
――??? ひょっとして、大道塾が創始される以前から、東塾長の門下に?
高澤 そうです。忘れもしません! 入門は1978年の4月7日。12歳のとき、中学校の入学式当日ですね。病弱だった小学生時代、漫画の「空手バカ一代」や映画「地上最強の空手」と出合って「自分でも、努力すればこんな風になれるんだろうか? ぜひ極真空手を習いたい」と。
――1978年というと、塾長もまだ現役選手の頃で?
高澤 塾長が極真会館主催の全日本空手道選手権で優勝したのが1977年の秋だから、その半年後に入門したことになります。塾長が最後の世界大会に出場したのが1979年だから、現役バリバリの頃ですね。
――では総合系を目指して門を叩いたのではなく、フルコンタクト空手の道場に通っていたら、ある日、突然、道場が大道塾になって、稽古が顔面パンチあり・組み技ありになった、と?
高澤 当時、塾長は仙台ヴァイタル・スクール、略してS・V・Sという名の複合的な教育の場を設立されたんです。その施設の中で、空手道場、書道教室などが開かれ、屋上のプレハブ小屋が学習塾になりました。80年の10月(高澤氏は中3)から、私は、その学習塾の一期生として通いはじめていて。
――ヴァ・・・・・・、ヴァイタル・スクール・・・・・・(絶句)。
高澤 はい。講師は、塾生のなかで、東北大学の学生だった人が務めていて、塾長には「一期生がいい高校に合格すれば、生徒が集まるだろうから、頼むぞ」なんて言われながら、年末くらいからは、もはや稽古のためでなく、勉強のためだけにS・V・Sに通うようになりまして。で、年が明けた81年の2月、高校受験を直前に控えた頃、S・V・Sに行き、いつものように屋上に上がろうとしたら「南田(高澤氏の旧姓)! ちょっと道場に入ってこい」と先輩の声がして。それで道場に足を入れたら、壁に貼ってある紙に「当道場は当面、団体名を空手道大道塾と名乗ります」と書いてあって。
――ドラマチックですね! それはそうと、受験の方は?
高澤 仙台一高(宮城県仙台第一高等学校)になんとか合格できまして。
――名門! では学習塾のその後は・・・・・・?
高澤 それが、我々の代が生徒4人で、我々のあと、1〜2年やったと思うけど、生徒は増えず、自然消滅したみたいです(苦笑)。
――残念! で、その後は、高校を卒業して、一浪して、塾長と同じ早稲田大学第2文学部に進学し、上京して、学業に勤しみながら、大道塾東京支部職員の業務をされた、と?
高澤 85年の4月に上京して、当時早稲田にあった東京支部道場の事務室に住みこんで、最初は月謝や家賃を払っていたんですが、グリーン帯を取ってから、月謝管理などの事務業務等をするのと引き換えにそれらを免除していただくようになりまして。
――そして、早稲田大学4年時には、大道塾早稲田大学同好会を設立した、と。卒業後は?
高澤 映画業界で働きたいと思っていて、フリーターをしながら、自主制作映画制作に取り組んでいました。
――お、いよいよ、映像制作の世界と繋がってきましたね。そもそも、なぜ映画業界を志望されたんですか?
高澤 小学生のときにブルース・リーの映画は観ていましたが、決定的だったのは、1979年7月。中学2年。入門して1年後。ジャッキー・チェン日本初上陸作品となった「ドランクモンキー酔拳」! この作品を映画館で観て、彼を好きになり、映画製作に携わりたい、と。
――実際、ジャッキー・チェンさん本人が、高澤さん制作の映画をみて、評価をくれたこともあるそうで。いったいどうやって、そこまでこぎ着けたのですか?
高澤 う〜ん、これ、載せていいんでしょうか? 結局、私がしたことは、映画の宣伝などで彼が来日する度に、空港なり宿泊先なり、ひたすら強引なおっかけをして、ときには香港にまで行くってことで。それで「今、兄弟弟子たちと映画をつくっているんです」「じゃあ、今度、持ってきてみろよ」という会話を交わせる段階になりまして。
――会話!? 会話って、何語で?
高澤 広東語ですね。
――広東語まで、わざわざ勉強を?
高澤 独学ですね。基本的には、彼の映画が教科書です。
――で、評価の方は?
高澤 みてもらったのは「ミラクル・ボトル」という作品(早稲田大学同好会の後輩であった青木伊之・現大道塾横浜北支部支部長が準主役として、朝岡秀樹・現水道橋支部支部長、門井研・現静岡北同好会責任者、寺田猛・現奈良桜井同好会責任者、松波健太・現衆議院議員が悪の軍団構成員として出演するアクション映画)だったんですが、けっこう、ケチョンケチョンでして。専門用語でいうと、イマジナリーラインっていうのがあって、それはつまり・・・・・・(長いので略)・・・・・・なんですが、それにかんして「なってない!」と厳しく指摘を受けて。
――でも「いいね!」って軽く流すんじゃなくて、厳しく言うっていうのは、それだけ親身になってくれたってことですよね。
高澤 そうですね。作品は68分ありましたからね。
――えっ! 天下のジャッキー・チェンを68分拘束!?
高澤 えぇ・・・。香港の撮影所の事務所まで、映写機とフィルムと変圧器を持って行って、そこで二人っきりの上映会をしてしまいました(笑)。
――スゴい! 今年はジャッキーさんの最新作「ライジング・ドラゴン」のイベントにコメンテーターとして出演されたりしてるらしいじゃないですか。
高澤 最近「いつもジャッキーのそばにいて会話をしているあの男はいったい何者?」ってなったようでして。おととしくらいから配給会社の方から「上映トークショーに出演していただけませんか?」と声を掛けていただくようになって。ファンの集いで「高澤が知るジャッキー・チェンの横顔」といったテーマで喋らせてもらい、スライドで彼との写真を公開したりして。
――もはや”ジャッキー・チェンの第一人者”なのですね! ・・・・・・話を20代の頃に戻しましょう。フリーターをしながら自主制作映画をつくって、それから?
高澤 その後、28歳のときに香港に渡って、日系の企業で働きながら、香港映画界で働くための足掛かりをつくろうとしていたのですが、母親が体調を崩したりといったことが重なって、半年ほどで仙台に帰郷せざるを得なくなってしまったんです。その後は、東北本部で稽古を再開しつつ、映像制作の仕事に携わりたいという気持ちを塾長にお話しして、北斗旗の大会ビデオを制作していたパナビデオ企画に就職させていただきまして。1994年の春に就職して、その春の体力別大会から、1996年の無差別大会までの試合ビデオ制作を担当しました。この96年に、大道塾初段をいただいております。
――その後は?
高澤 母親の体調が好転したこともあって、再び東京に出たいと思い、塾長にご相談したところ、再びお口添えをいただいて、映像制作会社クエストに就職しまして。1997年4月から99年3月まで2年間は、キックボクシングなどの作品制作をしていました。その後、退職して、フリーランスの映像制作者としての活動をはじめました。2000年春からは、北斗旗のGAORAでの放送の映像制作ディレクターに。GAORAの放映を休止した時期のウェブ中継の際を含め、今回の全日本無差別大会に至るまで、映像制作を担当しています。
――大会当日、会場では何をしているんですか?
高澤 基本的には、撮影班が陣取っているブースにいて、インカムでカメラマンに「こういうサイズで撮ってください」「ここでズームインしてください」といった指示をしていますね。あとは、勝ち上がった選手へのインタビューを行ったり、と。
――大会終了後、作品が出来あがるまでの作業というのは?
高澤 まずは"スイッチング"というのをつくります。一つの被写体を複数カメラで撮影しているので、それぞれ別々の角度からの映像を一本化する作業です。次にどこを切って、どこを残すか、1時間番組なら2時間に、2時間番組なら2時間に、ピッタリまとめることに時間を掛けます。映像が出来あがったら、大会名・選手名・勝敗などのテロップを打ち込み、音楽を選び、それらを映像に載せ、アナウンサーが読むナレーションの原稿を書き、実況の進行台本をつくり、実況の録音・ミキシングに立ち会って、出来あがったマスターテープを納品するところまで。それらをすべて、自分一人で行います。
――その編集作業というのは何日、何時間くらい掛かるもので?
高澤 う〜ん、フル稼働で10日から2週間くらいでしょうか?
――フル稼働というのは、丸一日働き続けて?
高澤 朝起きて、食事とトイレ以外は寝るまでずっとデスクに向かってって感じですね。
――じゃあ、1日16時間とか、それくらい!?
高澤 そんな感じですね。最初の1週間くらいは。
――では、GAORAの放送を観る方には、心して観ていただきたいですね!
高澤 (笑)。自分の希望としては「もっと□◇の試合をみせて欲しかった」「あそこは○△で撮って欲しかった」といった感想をぜひ頂きたいですね。それによって次の作品を向上させられますから。
――トーナメント大会映像の構成として「上位進出者全員の1回戦〜準々決勝をダイジェストで収録して、準決勝と決勝はノーカットで収録」といった形式であることが多いと思うのですが「準決勝や決勝は闘う二人の実力が拮抗しているがゆえに静かな展開になる試合が多いから、むしろ、1〜2回戦のなかで豪快な一本決着だったシーンを、その勝利者が上位に勝ち上がったかどうかにかかわらず、収録した方が楽しめる作品となるのでは?」といった声もあるのでは?
高澤 連盟からリクエストされている構成の方針が「無差別だったらベスト8以降、体力別だったら各階級決勝については攻防をノーカットで入れるように」なんです。あくまで上位進出者を中心に扱うという方針なので、彼らがどんな勝ち上がり方をしたのかも必然的に収録することになり、そうなると、その他の試合は余った時間内で、ということになります。
――なるほど。連盟としては「エキサイティングなショーより序列、あくまで上位に進出した者が長く画面に映るべき」という方針なんでしょうね。
高澤 そのあたり、ボクシングやキックボクシングなどワンマッチ形式で行われる興行と、武道スポーツのトーナメント大会では、映像のつくりかたに違いがありますね。
――では、いっぱい映るためには、とにかく強くあれ、と(笑)。ほかに、なにか、選手への要望などは?
高澤 武道家であって、タレントやプロ選手じゃないんだから、インタビューにかんしても「気の利いたことを言え」ってつもりもないですしね。淡々としたインタビューになって構わないのですが、ただ、緊張せず、かしこまらず、遠慮せず喋っていただけたら、と思っています。
――それにしても、思えば遠くへ来たものですね・・・。
高澤 入門して3回目の稽古のとき、初めて塾長の直接指導を受けて、そのとき、二人組みで行う補強運動の際、塾長が私とペアになって下さって。塾長に首を押されて「ほら、頑張れ!」なんて言われながら、「オレは一生この先生についていくんだな」って直感したんです、中学1年のガキがね。35年経っても、あのときの感覚は、鮮明に覚えています。
【編集部より】
現在、高澤氏が全力で編集中のCSスポーツチャンネルGAORA特番「2013北斗旗全日本空道無差別選手権大会」は次の日程で放映されます。
(初回)2013年12月27日(金)18:00-19:00
(再放送)2014年1月15日(水) 12:00-13:00 2014年1月18日(土) 26:00-27:00
2014.1.6更新