空道 選手列伝 > 第6回
15歳で空手を始め、16歳で大道塾入門。全日本大会初出場が25歳で、30歳で初優勝。38歳で迎えた昨年の世界選手権で優勝者マナヴァシアンの剛腕に敗れ、引退を決めた我妻猛。細身で長距離走が得意という体質の持ち主は、いかにして、厳しい稽古を耐え抜き、世界への階段を昇っていったのか?
――空道を始めたのはいつ?
我妻16歳です。15歳、高校1年である流派の空手を始めて1年間続けたんですけど、全然、強くなれる気がしなくて、そのとき雑誌で大道塾を知って「凄い道場が宮城県にある!」と知ってすぐに入門しました。高校1年の終わり、1993年です。
――それまでの生まれ育ちやスポーツ歴は?
我妻小・中と野球をやってました。宮城県蔵王町で生まれて、育ちました。
――あのスキー場の?
我妻そうです。スキー場のある町です。雪の積もる。
――そんなところから仙台市まで通うのは、高校生にとっては遠かったのでは?
我妻もともと高校が仙台市内、それも東北本部に近いところにあったので。蔵王から高校までは電車で1時間くらいなんです。
――高校1年生にとっては、1993年当時の大道塾東北本部の稽古は厳しかったんじゃないですか(苦笑)。
我妻長田(賢一)先輩が支部長で峯岸(昭夫)先輩がいらっしゃって、武山(卓巳)先輩、小川(英樹)先輩、五十嵐(祐司)先輩・・・・・・、厳しくて、毎日足を引きずって帰っていました。
――激しいスパーをガンガンやって?
我妻もう、白帯は潰されるのが当たり前(苦笑)。同期の白帯は40人くらいいましたけど、ほとんどすぐにいなくなって、3人くらいしか残りませんでした。※編集部注・・・・・・現在はこのような稽古はしておりません。
――コノネンコ(・アレクセイ)師範は後輩にあたる?
我妻自分が入門した1年後に、18歳でやって来ました(すでにウラジオストック支部でキャリアを積んでいたので、先輩後輩関係でいえばコノネンコ師範が先輩にあたる)。
――昔から体は細かった?
我妻長距離走が速いタイプです。
――その頃の稽古って、ウェイトトレーニング重視の主義で、みんな身体がガッチリしてましたよね?
我妻みんなやってましたね! ガンガンやってましたね。
――そんな中で、持久力タイプの16歳が、よく40分の3の方に入りましたね。
我妻どうしても強くなりたいっていう思いが、強かったからじゃないでしょうか。
強くなればなんとかなると信じて練習していましたから。――何センチ、何キロくらいだったんですか?
我妻175センチで60キロあるかないか。
――1993年頃って、いわゆる極真ルールでガンガン前に出る組手が稽古の基礎としてあったかと思います。そのような細身の体型では、苦労されたのでは?
我妻最初はローで倒されていました。そのうち、相手が勢いよく入ってくるときに膝蹴りを合わせられるな、と掴めて徐々に勝ちパターンが出来あがってきました。極真ルールでは最高で東北大会5位でした。
――では、あのフィジカル主義の時代を耐え抜いてきたことが、技術を身につけるうえで活きた、と?
我妻そうですね。武山先輩にもよく潰されたけど、小川先輩には特にシゴいていただきまして。小川先輩に教わりたくて、小川先輩の勤務する仙台大学に教わりに行って、マンツーマンでスパーリングするんですけど、1時間は止まらないんですよ。倒れて、立ち上がるまで小川先輩が待ってて、立ち上がったらまた倒されて・・・。それが1時間です。
――よくも、まあ、それを続けましたね・・・。
我妻どうしても北斗旗で優勝したいというのがありまして。
――ちなみにウェイトトレーニングは取り組まなかったのですか?
我妻やってました! やってたんですけど、重量が上がんなかったんですよね。
筋肥大しにくいタイプみたいで。――16歳で入門して、その後の実績は?
我妻全然、芽が出なかったですね・・・。高校では極真ルールでの東北地区5位が最高で、東北地区の高校生大会優勝、それくらいですね。24歳で初めて東北大会で優勝して、25歳から軽重量級(-250クラス)で北斗旗に出場しました。
――全日本出場まで9年掛かっているわけですね。
我妻はい。でも、当時はすぐにアツくなってしまっていたし、自分の闘い方も確立できていなかったので、すぐに殴り合いをしてしまって、その度に打ち負けていて。その後、北斗旗には軽重量級には2回出て、いずれも1〜2回戦負けで、27歳くらいから仙台のドラゴンジムというところへ2年くらいムエタイを習いに行って、減量するようになって、闘い方も打ち合いをしないようになって。長い距離で闘って、距離が詰まったら組むという自分に合ったスタイルが出来あがってきました。それから中量級(-240クラス)にエントリーするようになって、28歳くらいからパラエストラ仙台でブラジリアン柔術を習いはじめたこともあって、2007年に30歳で初優勝しました。
――16歳で大道塾に入門して、30歳で初の全日本制覇。長い道のりでしたね。
我妻そうですね。空手を始めてから15年掛かって・・・・・・。
――幹として、東北本部で培った心と体の下地があって、枝葉として、ムエタイ、ブラジリアン柔術の技術が加わって、スタイルが完成した、と。通常、総合格闘技的な競技だと、アップライトで構える選手も、引き込んでガードから攻める選手も少ないから、立ってムエタイ、寝て柔術というスタイルは異色ですよね。
我妻はい(笑)。体重が軽くてリーチが長いことを活かした、“距離の闘い方”をしよう、と。
――襟を掴んで遠心力を活かして引き込む、あの独特の技(詳しくは2015全日本体力別大会パンフレット掲載の企画ページ「空道無門」での写真解説参照)は、どうやって生まれたんですか?
我妻小川スペシャルを参考に、自分で考えたものです。打撃に意識が集中している選手はバランスが崩れているので、そこで、打撃を打つとみせかけておいて引き込もう、と。
――七帝大学柔道(高専柔道)などでも、同様の理合いで、遠心力を活かして引き込む技術を用いるようですが、それはご存じない?
我妻それは知らないですね。マススパーの中で「あっ!」という感じで、みつけました。
――全日本優勝後の実績は?
我妻2009年の第3回世界大会に出場し、準決勝で田中俊輔に負けて3位、2011年ワールドカップに出場して1回戦で前十字靭帯を断裂して負けて、手術して1年後に復帰して、そして2014年の第4回世界大会で優勝したゲガム・マナヴァシアンに負けました(ベスト8)。
――全日本を制したのは1度だけなんですね。
我妻1回だけです。準優勝の経験もありません。全日本で優勝した後も、体力別では準決勝での敗戦が続いて、2010年なんかは「絶対優勝できる」って思ってたのに、悪い癖が出て、1回戦で打ち合って、無名の選手に負けたりして。入賞したのは、あとは無差別で2010年にベスト4に入っただけです。
――じゃあ、2014年の世界選手権は、日本代表として選出されること自体、容易なことではなかった?
我妻2013年の体力別は-250クラスで準決勝でコノネンコ先輩に負けて、2014年の体力別は-240クラスで内田(淳一)に負けてベスト8止まりでしたから・・・。ギリギリですよね(苦笑)。ただ、気持ちとしては、ワールドカップで惨敗して情けなくって仕方なくて「絶対もう一度世界へ」って気持ちしかなかったですね。
2014体力別 -240準々決勝 内田選手戦
――そんななかで勝ち取った世界選手権出場ですが、いかがでしたか?
我妻吹っ切れた気分ですね。こんなにも、強いのか、と。ロシア人に一方的にやられて。負けたのはもの凄く悔しいですが、壁の厚さを感じて。
――マナヴァシアン戦、あらためてDVD(「空道オンデマンド http://kudo-channel.com/」で発売中)で観ると、我妻選手のカウンターのテンカオが完璧なタイミングでヒットしていますが、マナヴァシアンは・・・・・・
2014北斗旗 第4回世界空道選手権大会ー240 マナヴァシアン戦
我妻止まらないですよね。当たった感触が「跳ね返されてる」って感じで。逆にマナヴァシアンの攻撃は、一発一発がもの凄い衝撃で。胸でも、腕でも、当てられたところの感覚がすべて麻痺してしまう感じで。パンチでも蹴りでも膝でも「何だろう? これは」って。
――それでいて、マナヴァシアンは組み技も巧みで、まだ21歳なんだから、タチの悪いヤツですよね。
我妻そうですね(苦笑)。同じ階級であんなに攻撃力がある人間は初めてでした。信じられないという気持ちです。こんなに差があるのか、と。完全に今回で引退すると決めていたので、最後、強い選手と当たることが出来て、自分的には・・・・・・。
――スッキリはしている?
我妻ええ。悔いがないと言ったらウソになりますが・・・・・・、下の代が育ってきているので、全日本や世界大会に送り出す側に回ります。
――正直、もっとも日本人選手の層が厚いと思っていた-240クラスで、チリやモンゴルの選手に敗れて、誰も日本人がベスト4に入らないとは思ってもいなかったです。
我妻日本人選手の能力が下がったのではなく、ロシア以外の各国の力が伸びたということだと思います。特にモンゴルの選手は、ワールドカップのときにみて「ロシア人と同じくらい強いな」と警戒していました。日本はもっと練習環境を整えていかないとダメだと思います。
――ところで、社会生活の面では、高校卒業後はどんな進路を?
我妻練習をするのに支障のない仕事を選んできました。高校卒業後、25歳くらいまで家業の手伝いをしていて、それから就職して工場でコピー機を製造する作業をしていました。その後、34歳くらいから専門学校に通って柔道整復師の免許を取得しました。今は会社員として接骨院の仕事をしながら、夜に大道塾角田(かくだ)支部の指導と自分の稽古をしています。世界大会前は、会社が練習がしやすいように勤務時間を夕方5時までに限定するなど、サポートしてくれました。
――角田支部を開いたのは、いつ、どのような経緯で?
我妻30歳のときに「東北本部からこちらに練習に来ていいですか?」と当時の角田支部・支部長の方に訊いたら「じゃあ、もう任せるよ」という流れになって、引き継いだかたちですね。
――角田というのは、宮城県の中でどのあたりに?
我妻福島県との境ですね。福島の原発から50キロくらいで、放射線量も高いところです。海はないので、津波の被害はなかったのですが・・・。
――じゃぁ、震災後は活動を休止されたり・・・。
我妻そうですね。一時期は。練習に来るにも、みんなマスクをして。
――それは大変でしたね・・・・・・。お子さんも稽古されているんですよね?
我妻いや、よく勘違いされるんですけど、自分は独身ですので(微笑)。
――あれ? ジュニアの大会の入賞者に「我妻〇〇(角田支部)」とあったものですから。我妻って、ひょっとして、その地域では多い苗字ですか?
我妻ああ、もう、その地域には「我妻」がたくさんいまして。私は独身です(微笑)。ずっと試合中心の生活をしてきたもので。
2015.5.1更新