2018.11.29   12月度柔道クラススケジュール

12月度柔道クラススケジュール

12月度の日曜打撃投げクラス、火曜柔道ビギナークラス、水曜打撃投げクラスの開講および担当スケジュールを更新させました。

12月に移動させてご確認下さい。

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2018.11.26   東孝×中田宏 武道対談 後篇

※この記事は「空道チャンネル」で公開されている東孝×中田宏対談動画を文字起こし、編集したものです。

前篇

中田

よく野球だと野球バカ、空手だと空手バカっていう話になると、それしか知らないと逆に欠陥になってしまいかねないような、そういったリスクもあると思うんですよね。私は大学を出て松下政経塾というところに学んだわけですが、ここに塾是・塾訓・五誓という三つがあります。これを最初は自分の頭の中で解釈しようと思っても、概念としては理解できるようで理解できないですね。塾是「真に国家と国民を愛し 新しい人間観に基づく 政治・経営の理念を探求し 人類の繁栄幸福と 世界の平和に貢献しよう」、こう言った時にですね、「真に国家と国民を愛し」の真にとはどういうことだろうか?「新しい人間観に基づく」の新しい人間観とは?元々の人間観ってなんなんだ?とかですね、最初は単に諳んじているに過ぎない。ところが段々、それを自分の頭の中で考え、置き留めることによって、世の中の事象を見たり、自分が新たなことを知るということを通じて、これがもしかしたら人間観か、とか、真にっていうのはこういう意味なのか、という風に考えるようになってくるんですよね。だからおそらく、道場訓を頭の中に入れてる方は日ごろの中で気づく瞬間があると思いますね。

 

道場訓とか今はやる所が少ないのかもしれないですね。よく道場訓をやると、右翼、宗教みたいだとか言われるけども、全然違うと思うので。何のために汗水垂らしているのか、最終的にはこういう方向に向かってるんだぞ、というのが無いと。ただ肉体が強くなりました、だとそれをどう使うんだっていうのが最終的に無いと。糸の切れた凧じゃないけども、それが必要だと思うんですよね。何回も言われましたよ。「今時、道場訓ですか?」とか。何を目的にしているかというのがないとおかしいと思うので。

 

中田

こういうことは短期的に目に見えるようになるかというと、そうじゃないかもしれないですよね。ましてや競技の、他の競技団体の代表者とリングの上で戦いました、勝った、負けた、という話とは全然違うわけですよね。長い年月が掛かるかもしれないけども、その中から一人、二人と社会に間違いなく大きく寄与し、いい意味での影響を与えていく。また、ああいう風になりたいと思うような存在、人格者というのが生まれてくる。そのことの循環ができてくることが社会にとって重要な、道場、会、塾としての役割ということになるでしょうし、東先生は自分の後にそうやって繋がってくる循環を望んでいるように思いますね。

 

自分がいなくなっても歴史がずっと引き継がれていく。そう考えるのは楽しいですね。ただ青春の一時期を汗水垂らして一生懸命やった、選手としては力が衰えてきた、じゃあ俺に何が残るんだ?っていう時に、俺はこういう武道を世の中に定着させたなと思いたいし、みんながそれを引き継いで、大道塾の精神でこれからも世の中で活躍してほしいなと思いますね。

中田

先ほどから何回かお言葉にありました、実戦的、実戦という言葉ですけども、これもまたある意味では違和感があるように思うんですね。競技ということを考えれば、実戦性というのは全然求められていない格闘技もいっぱいあるじゃないですか。ポイントを取るというルールの中で勝ち負けを競えばいい。実戦性というのがそもそも求められているのか?という話で。「実戦って何だ?その辺で喧嘩することかよ?」という話になりかねないですし。実戦と競技、これは本質的な問題だと思いますね。空手だってそもそもは武器を持たない者の護身から始まっているわけです。僕は「怖い」と言われた時にいつも説明するのは、空手の型というのは必ず受けから入るんですよ、と。受けてから自分のアクションになる。自分から先に手を出すものではないんだ、というのが空手の型なんだと子供たちによく話したりするんですけど、そもそもは護身から競技として発展してきた。実戦性をずっと競技の中に根付かせていくのか?というのは意義があるようで、意義が感じられないようで、すごく難しいところだと思うんですが、ここら辺はどのように思われますか?

 

今、先に言われてしまったんですが、要するに護身なんです。実戦というのはケンカしてどっちが強い、どんな技が実際に使われるんだとか、そういう話になるじゃないですか。それは何のためかというと結局、護身のためなんです。自分の身、もしくは自分の仲間、家族、それを護るためにやるのが武道であり、根本は護身だと忘れてはダメだと思うんですよ。今流行ってるMMAは今でこそルールが整備されているけど、最初の頃は倒れてる人間を踏みつけてもいいし、四つん這いになってる人間をサッカーキックしてもいいっていう何でもありのルールだった。うちの選手がUFCというのに誘われて出たんですよ。私はあまり関係していなくて、どうしてもやりたいなら仕方がないだろうと認めたんだけども。実戦的ではあるかもしれないけど、そんなこと人前で見せていいのかって思いがあった。こんなもの日本人には流行らない、日本人は許さないぞって言ったんだけど、時代が変わったんだねえ(苦笑)。今はルールが整備されて最低限の安全性はってなってきたけど、護身という範囲から離れて、強ければいいんだってなっちゃう可能性があるわけですよ。だからうちの試合は後ろから攻撃しちゃダメだとか、倒れてる人間は絶対に直接当てちゃダメだ、とか。倒れてる人間は寸止めで、決めの動作でポイントを取るという。そこは一線を引いておかないと。実戦だったら何やってもいいですよ。物を持ってもいいし、だけどそれは許されないこと。あくまでも、自分の身を護る以上は人を過剰に傷つけちゃダメだというのがないと。そこが根本だと思いますね。

 

中田

今お聞きして改めて理解しました。そもそもが護身であるということを考えれば、相手を再起不能にやり込めるまでが護身ではないですよね。まず自分の身を護って、相手を倒したら、ある意味そこで一つの区切りになるわけであって、殺すまでやるわけですよね。それが護身であり、イコール実戦で。そうなると先ほどの格闘家イコール怖い、なんて話はまったく違ってくるわけですよね。今のルールのご説明でもあったように、倒れた人を最後までやり続けるということになれば、それはやっちゃダメなんだと競技のルールで言ったとしても、「何でやっちゃだめなんですか?」となりかねない。「何のために我々はこれをやっているんだ」ということをを最高位の概念として説き続けていくことが、空道の特異な在り方であり、本来の在るべき姿だと思いますね。

 

子供だって喧嘩になって馬乗りになって相手が泣いたら、昔はそこで止めてたわけですよ。今の子供はそこでやっちゃいますよね。テレビでやってるから。テレビはある意味でスタンダードになってるわけでしょう。そういうのは物凄く怖いですよね。実際、昔だったら泣いたらそこで終わったものが今の喧嘩は、相手が抵抗でき(動か)なくなるまで行くんですよ。怖いですよね。下手したなら単なる喧嘩で一生を棒に振るかもしれない。

 

中田

これは武道全般に言えることだと思いますけども、どこまでがやっていいことか悪いことか、論理的にひとつひとつを方程式のように教えることは無理だと思うんですね。概念としては言えます。でも方程式のようにそれを割り切った形で教えることは無理で。殴られたらどれだけ痛いか、ということについて実感の無い人同士の喧嘩ほど恐ろしいものはないと思うんですね。私も空手道をやってきて、防具を付ける流派でしたから、当時はすごく重たい鉄格子のような、剣道のような防具で。頭が重くてそれ自体が不快だったんですけど、それでもやります。やって、グローヴで顔面に当たります。これは直接的に当たったわけじゃないです。グローヴがあり、且つ面があって自分に衝撃が来てるんですが、それでもかなりの衝撃ですよ。本当に頭がクラクラします。それは競技で自分が人に対してやったことが発生しているわけで、しばらく立てなくなったり、ふっ飛ばされたり、倒れこむということになるわけです。殴られたら、何をやったら、どこにどれだけの衝撃があるのか。じゃあ最近の子供たちに取っ組み合いの喧嘩をしろという奨励は、我々が社会教育としてやれるわけではない。ルールの中でやる。肉体的な自分自身の思いというものを知るためには、今ほど広い意味での武道が欠かせないという風に私は思うんですね。

今、学校で体罰の問題とかあるじゃないですか。先生が過剰に子供を痛めつけて怪我をさせてしまったとか。私に言わせると、そういう人たちは人を殴ったり殴られたりした経験が無いんですよね。人間っていうのは殴ると興奮するんですよ。何もしてこない人でも、もし興奮して一回殴っちゃったら、よく頭が真っ白になったとか、重大に傷つけてしまうことがあるじゃないですか。あれは経験してないからなんですよ。それを試合なりでやってると、自分でこれ以上やっちゃダメだとか、コントロールができるようになる。人間誰もが持っているバイオレンスをコントロールするのも武道。特に打撃が入った場合は。組み技系はそこまでいかないんですけど、打撃は一歩間違えたら野獣になっちゃうから。自分のバイオレンスをコントロールする訓練にもなる。

 

中田

今日的に武道というものが広く求められていると思いますけど、それも先程の話で出ていたように、なんでもありの強者争いではダメで。そういう意味においては空道の存在は凄く重要だと思うんですね。僕はこれもすごいなと思ったんですけど、北斗旗という考え方ですね。何故そうなのか、ひとつひとつを詳しく解説して世の中に伝えようという努力をされていますよね。北極星に向けた道しるべ。自分自身、己を知るというのが北斗七星の意味なんだと。私自身が改めてその意味を知ったというような具合で、本当に感じ入ることだらけですね。繰り返しですけど若い人たちにこういうことが浸透して、広く社会で発揮されるようになってほしいですね。

 

――それでは最後に、東師範の方から北斗旗第五回世界空道選手権に向けての思いと、今後の空道の日本と世界における方向性に対する理想、中田宏さんには横浜の市長としてご活躍されまして、長年赤字だった横浜市を黒字まで持ってきた行政手腕がございますので、そういったものも含めて、ビジネスの展開ことなどアドバイスをいただければと思います。

 

冒頭に言ったんですけども、空道の世界大会は2001年から始まったんですよね。あの時、世界に17カ国ぐらい加盟国があって「うちもそろそろ世界大会やりましょうよ」、「先生、やってください」と言われて、格闘空手世界選手権という名前でやるのかなと考えた時に、海外から見たら色んな空手の世界大会があるわけですよ。伝統派の世界大会もあるし、極真の世界大会もあるし、その他の世界大会もあるし。「日本の武道界はどうなってるんだ?」って見られるんじゃないかって。これでうちが格闘空手世界選手権ってやったら、世界から見たらみんなの幸せのため、世界の平和のためって言ってる団体が分裂して争っているわけじゃないですか。

私は昔から大道無門っていう言葉が好きだったんで。自分の恩師が中国文学の村山吉廣先生っていう早稲田の名誉教授になられた先生なんですけど、その先生からそういう言葉を聞いていて。大きい道に門は作れないんだと。すべてを受け入れ咀嚼し自分の糧にして進むんだって聞いていたし。あと空っていう言葉自体が好きで。昔、空手は唐手(とうで)だったんですね。唐(とう)から来たから。日本に来た時に訓読みの“から”を取って空(から)にして。これを考えた人はすごい人だなと思って。空って言葉は考えれば考える程すごい言葉なんですよね。昔、小渕総理が真空総理って「私は何も言いませんから皆さん色々意見ください」って、あれと同じだと思うんですけど、「私はまっさらな状態で皆さんの話を聞きます。いいものは採り入れるし、最初から拘らない」、そういう考えってのはうちでやってきた格闘空手の考えと同じなんですよ。色んな技、突きでも蹴りでも投げでも、全部採り入れる。ひとつに拘ったら知らない所を突かれるわけですよ。空って言葉はものすごく好きでやってきたので。じゃあ空道ってことでやってみようと言ったら、みんなから反対されましたよ。「先生、20年前に大きな団体辞めて、やっと20年経って格闘空手が軌道に乗ってきたのに、また何かやるんですか?」みたいな。「空手から空道だと“手”抜きじゃないですか」なんて言われて(笑)。とにかく俺にこれやらせてくれ、と。俺はこれがやりたいから、もしよかったら付いてきてくれって言ったら、みんな本当に付いてきてくれて。最初、うちはでかいスポンサーがいるわけでもないし、会員の会費でやってるわけですよ。中には色んな団体が「うちが資金提供するぞ」とか「うちと組んでやろう」みたいな話も来たけども、それは色が着いてるじゃないですか。なるべくそういうのじゃなくて、武道そのものを追及したいと思っていたので。私は第1回がすごい成功したので、もういいなと思った。第1回やれば、あとは誰かがやってくれるだろうと(笑)。そうなったらそうなったで今度、色々あるわけですよ。「あんなものは一回で終わりだ」、「あれは危険すぎる」とか。今度はそれを反証していかなきゃならない。それで毎回、一回一回やってきたのがもう5回になって、すごい感無量なんですよね。よく5回持ったなって。選手のレベルも上がってきてるし。これがもっと世界に広がって、100カ国、150カ国、200カ国になって、将来的にはオリンピックになれたらいいなと。そういうつもりで進んで行きたいなと思いますね。これからも色々思うところがあったらアドバイスしていただいて、よろしくお願いしたいと思います。

 

中田

私はこれから先、東先生を通じ携わらせていただくことによって、改めて学びの機会を継続できるということに対して嬉しさを感じています。ともすると日常の中で、中々根詰めて学ぶという時間を作ることは難しいです。断片的に齧る時間を作ることは自分でも意識してやっていますけども、それとて流されてしまうケースが多いです。そういう意味ではみなさんと一緒になって、今後の会の発展に貢献させてもらうことは、自分にとっても継続して学んでいく機会になることを大変うれしく思っています。先ほど、横浜という市の改革の話と、これからについてということでご質問いただいたんですが、その観点から答えると、社会を動かしていくということは、ビジョンとシステムが必要なんですね。法律だとか様々な機関だとか、これがシステムになってくるんですね。しかし、本来それが何のためにあるの?というビジョンが無いままのシステムというのはそれだけが独り歩き、空回りする。「何のためにやってるんだ?これは。無駄遣いじゃないのか?」という話にどんどんなっていく。それが積もり積もっているのが今の日本社会だという風にも言えると思います。社会を動かしていく上でのビジョンとシステム、これが必ずセットでなければいけないと言えるのと同様に、今日ずっとお話をお伺いしていた人が鍛練、修行をしていく中で磨いていくのは、よく言うように肉体と、一方で精神だと思うんですね。精神というものがこれほどしっかりと何のためにということが明らかなっている格闘技というのは、他に間違いなく例が無いと断言できると思うんですが、精神を今度は自分の体を通じて世の中に対して、あるいは自分の生活や人生のためにというのも含めて体を使っていく。それが先ほど申し上げた社会でのシステムの方になるわけで、自分の体を健康に動かして、その手足を、あるいは表現、言葉を使って生きていくわけですから、その中における精神と肉体という、この間に入るのが学びであり、自分自身が考えるということだと思うんですね。理事長がよくおっしゃられるように、自分の頭で考えなきゃダメなんだ、と。教わったことができるんじゃなくて、自分の頭で考えなきゃダメなんだという、このことこそが結果としては人の生き方に差を産んでしまうことになるし、社会の営みもそうで、考えない人が溢れ返る社会というのは物凄く危険だと思います。一人一人が考える、その考える人が多ければ多いほど、間違った判断をしにくく、また多くの人が共鳴、共感、共有しながら、その意味をわかってシステムを使う。自分さえよければ、とか、タダだからもらっておこう、とか、他人はどうであれ自分にとっては得なんだ、こういう考えではないですね。社会の営みができるようになった時に健全な社会ができるわけですから、その意味においては社会と空道というのは当然のことながら結びついていく、と思いますので、空道の発展が社会の発展に繋がると確信をしながら、今後ご一緒に携わらせていただきたいと思いますし、私にとっては学びの機会にさせていただきたいと思っております。

 

先ほどから武道に身を置いた方だなというのは感じるので、そういう道という概念を持った人が政治の場で活躍してくれないと、今言ったように勝てばいい、儲かればいい、という世の中になってしまうと思うので益々のご活躍を期待しております。

 

中田

ありがとうございます。本当に感激です。「中田さんは何やってたんですか?」って聞かれた時に、空手道って答えるようにしてるんですよ。結構、空手っていう人も多いですけど。確かにフランクな時はそれでいいんですけど、道をつけるように意識していますね。柔道、剣道は当たり前に道がつくじゃないかと。

 

空手道だと三文字になるじゃないですか。長いから空手って言っちゃうんですよね。それもあったんですよ。柔道、剣道があって、で空道でいいじゃないかって。そしたら“手”抜きだって(笑)。

 

 

 

 

 

 

2018.11.26   東孝×中田宏 武道対談 前篇

※この記事は「空道チャンネル」で公開されている東孝×中田宏対談動画を文字起こし、編集したものです。

 

――空道連盟理事長の東孝さんと前横浜市市長、前衆議院議員、空道連盟副会長にご就任いただいている中田宏さんに御対談をしていただければと思います。東さんから大道塾のこれまでの経緯、そして12月1日から2日に開催される第5回世界空道選手権大会に対する思いなどお話いただけますでしょうか。

 

東孝(以下東)

私が1981年に大道塾を始めて大体40年。その前半20年間は格闘空手という名前で、空手に組み技や投げを入れてやっていたんですよ。元々柔道をやっていたので、そこに寝技も入れたいな、と。そうなると空手という範囲から離れるということで、空道という名前でやったのが2001年なんですよ。その時も皆さんに心配してもらったり反対してもらったり色々あったんですけど(笑)。私としてはずっと暖めていた構想だったので、2001年に第1回の世界大会をやって、今回で5回目になるんですね。ある意味、まったくの徒手空拳でやってきたので、よく20年持ったな、という気持ちもあるし、レベルも高くなってきているので、これを少しでも公の場に出したいなと。国体、いずれはオリンピック、そういう方向に持っていきたいなと思ってやっているんですね。そういう意味で色々ご協力いただきたいと思いますので、ひとつよろしくお願いします。

 

中田宏(以下中田)

よろしくお願いします。とにかく私からすれば東先生は憧れで。私も不肖、空手道をやっていた端くれだったものですから。町の道場に中学の頃から通い始めて、そして高校に進んで空手道部をやって、高校を出てからは空手道の世界で生きていこうかと思ったぐらいで。極真会の若獅子寮に入ろうかとパンフレットを取り寄せて考えたぐらいでしたから、東孝の名前は憧れ以外の何物でもなくてですね。当時の少年中田にとっては雲の上の人ですから、今も光栄で緊張しておりますが、こうやって携わらせていただいたこと自体、本当にありがたいご縁を感じていますし、今日色々お伺いしたいこといっぱいあるんですけど、発展を願う気持ちでいっぱいです。それは何故かというと社会の発展に繋がると、こう思っているからです。

 

変な話、日本は明治維新以来、紆余曲折があったけど、世界の先頭を走っていたし、今も続いているわけじゃないですか。それを支えたのが武士道を持った武士だと思うんですよ。ただ単に肉体的強者を作るだけじゃなくて、そういう強靭な精神力、体力を持った人間に社会のいろんな分野で働いて貰いたいなと。そういうつもりで、うちは塾なんですよ。最初、塾ってつけた時に、「今時塾なんて、古臭いじゃないか」って言われた。何々道場、何々会館って言うよりも、塾というお互い切磋琢磨するような場を作りたいなと思って始めたんですよ。そういう意味で、いずれうちから時代を動かす人間が出て欲しいなっていう気持ちでいますね。

 

中田

そういうひとつひとつに、東理事長の思いがこもっていることに心から感銘を受けています。やはり競技ということで争っている、切磋琢磨と言ってもいい、そういうケースというのはスポーツ界あらゆる所に見られると思います。それはそもそも競技自体の面白みであったりとか、正当性であったりとか、あるいは格闘技という広い意味で言えば、格闘技の中における強さを競っていたり、それぞれの会の存在意義みたいなものを発揮し合っているケースは世の中にいっぱいあると思うんですが、今おっしゃっていただいたように塾という名前をつけたのはこういう意味からなんだと。それからこの後、本当にお伺いしたいんですけども、ひとつひとつに、たとえば北斗旗の話にしても、塾訓の話にしても、ひとつひとつに思いを込めているというのは中々無い。たとえば野球やサッカーであるかといったら考えられない話だし、武道の世界で考えられるかといったら、これもあったとしても結果希薄になっているケースが多いと思うので、本当に心から敬意を表しています。

 

90年代に格闘技ブームというのが一時あったわけです。「なんで大道塾はそういうシーンに出ないんだ」と、そう言われることが随分あったんですよ。実際、みんな技術なり体力なりに自信を持っていたんで、やりたいという選手もいっぱいいて。ただやっぱり私はまだそういう時期じゃないな、と。単にエンターテイメントではなくて、武道、格闘技というのが社会から受け入れられる、そういう時が来るにはもうちょっと熟成する必要があるなと思ったのもあって、積極的には出さなかったんですよ。どうしても出たいという人間には、それはそれ以上私が踏み込めない部分だったんですけど。そういうブームが下火になって、今またもう少しブームになりつつあるので、それは間違わないように、きちんとした方向に持っていきたいな、というつもりなんですよね。

 

中田

ブームという言葉がまさに象徴しているように、別のところにおけるウケというのがあったんだろうと思うんですね。なんでウケていたのかと言ったら、人がやっていることを見ることでのエンターテイメント性であり、それをテレビ等で流すことによる視聴率、商業、売上というようなところまで、そこにおける魅力というものがあったから、みんなが寄ってきて騒ぎ、ブームになっていたはずであって。本来の主旨みたいなものがそもそもあったのかといったら、基本的には先生のおっしゃる武道の精神はなかったはずです。あったらそのままずっと、数字が取れようが売り上げが無かろうが続いていく話ですけども、一体どこへ行っちゃったんだ?というような競技はいくつもこの20年ぐらいの間であったと思うんですよね。ブームということはまさにそういうことなんだなと思いますね。

 

 

結局、スポーツを普及させるというのはアマチュアの部分がないと頭打ちになっちゃうんですよね。人気を出すにはテレビにしょっちゅう出て、派手なアドバルーンを揚げて、今度は誰と誰が戦うんだ、みたいな。そうすることが確かに観客を引っ張ってくるけども、それはあくまでエンターテイメントであって、競技そのものを応援してくれる、競技そのものを見てくれるのとはちょっと違うと思う。我々は人を制する技の応酬を競技でやるという意味でスポーツという言葉で一括りにされるんですけども、それは厳密にいえば“格闘技”で、どちらかというと強さを至上のものとする主義。確かに、誰が強いんだ?ということには物凄い興味あるけども、それだけになるとどんどんエスカレートしていって、奇想天外な試合が組まれたり、派手な方にばっかり走っていく傾向があるので。それといい対比なのが、当時、柔道は下火だったじゃないですか。格闘技がすごく流行って、全部が格闘技、格闘技で。でも今、柔道はまた盛り上がっている。柔道の選手がいろんなバラエティに出たりとか、それが悪いとは言わないけど、エンターテイメントが主になるようなことで普及してきたんじゃなくて、柔道そのものが底上げしてきたからそうなったと思うので、そこは前からだけども見習うことだなと思ってるんですよね。

 

中田

先ほど、塾という言葉を申し上げた感想になるんですが、東理事長から以前、湯呑をいただきました。この湯呑に道場訓が入っておりまして、毎日、私はこれを見ております。毎日見るためにはどこに置くのがいいかな、と。たまにお茶を飲むためだと、あまり家にいないことも時間として多いですから、お茶の機会だと減ってしまいますから、大変申し訳ないですけど、私の洗面所に置いてですね、朝、夜、歯を磨いてうがいをする時に湯呑を使っています。ですから毎日朝夕見るようにしてですね、本当に僕はこれすごいなと感じ入っていました。特に「もって人格の陶冶をなし、社会に寄与貢献する事を希うものなり」という最後の部分ですよね。そこまで明確に道場、流派、競技の目的というものがはっきりとしている。そういうところは無いと思うんですよね。

 

大抵の武道っていうのは心身を錬磨することっていうのがひとつの目的になっていますよね。じゃあその後どうするんだっていうのはやっぱりね。それによって少しでも社会に還元する、寄与貢献する。それが一番の根本だと思うので。確かに強い人を見るのは楽しいし、感動するけども、それは一過性のもので。そういう時に、「社会のために頑張ってるんだ」というのがあれば全然違うじゃないですか。社会性を持った者として在って欲しいな、ということなんですよね。

 

中田

私も「中田さん、何やってたんですか?」と聞かれて、私は空手、空手道をやってたんですって言うと、よく冗談も含めて「怖い」と言われるんですよね(苦笑)。これは理事長も何度もご経験されてると思いますけども、怖いって何なんだろうということを考えてみれば、すぐに手が出るんじゃないか、荒ぶれ者じゃないか、乱暴な人かもしれない、冗談も含めて、そういう言葉になってくるのは、強い者に対する憧れはあったとしても、その反面、強いことが独り歩きした時の在り様、表現という風に言えますよね。

 

私たちが子供の頃は姿三四郎が英雄で、姿三四郎の悪役は空手家なんですね(笑)。檜垣三兄弟が出てきて、最後には柔道に負けると。私たちも子供の頃は空手というのは怖い人たちがやるんだ、みたいな、そういう印象だった。それが大山館長の「空手バカ一代」というのが出てきて、明るく楽しく強い空手家みたいな感じが出てきた。それ以降一気に増えたと思うんですよ。ただ競技自体で言うと、私は柔道やってるからわかるんだけど、柔道というのは組んでから始まるじゃないですか。これは実戦的に言うと良し悪しがあるんですけど、とにかく柔道はスキンシップというのが普通にあるんですよ。人に触れて抵抗じゃなくて、当たり前に人に触れて競技が始まるんですよ。ところが打撃競技、空手もそうだし、ボクシング、キックボクシング、みんな離れて戦うじゃないですか。相手に捕まるということは、下手すると頭突きが来るかもしれないし、肘が来るかもしれない。そう考えるとどうしても、他人を入れたなら相手に攻撃されてしまうから、自分の制空(防御)圏というのができて、知らずに身構えてしまう。自然とそうなるんですよ。私が空手をやってたある時に偶々、「おう、東」って後ろから肩を叩かれたんですよ。その時、ビクッとしたんですよね。変な話、ゴルゴ13だったらそこで撃ってるわけですよ(笑)。空手だったらそこで裏拳とか出るのが正しいんですよ。ただ、それだとやっぱり社会的にはどうかな、と。戦国時代だったらそれで十分、それだけで完結しているけども。その時に、私は柔道やってたんで、人に触れるというのは慣れていた。競技やってた時も「東は空手の選手らしくないね」って言われて、半分嬉しいような、半分なんだろうな?、みたいに思っていたんだけど、それかなと思って。最初はうちも打撃中心だったけど、それに組み技、寝技も入れるようになると、選手のあたりが弱くなるんですよね。うちの塾生なんかはおそらく言われると思う。「空手、武道やってるようじゃないね」みたいな。それは今はすごく嬉しいですね。

 

中田

道場訓ということで申し上げれば、子供が親から言われて体を鍛えるために来ましたとか、色んなケースで入口を跨ぐ人たちがいると思います。強くなりたい、かっこいい、こういうところから入る人も勿論いると思います。端的に言えば、社会に貢献しよう、ということから道場に入る人は少ないと思います。しかし道場訓を稽古の度に唱和したり、自らがこれを色んな機会に接して読んで、という中では、やがて次第にひとつひとつ自分の生き方などに繋がってくるだろうと思うんですよね。そこは今までの長い運営の中で実感として出てきていらっしゃるんですか?

 

武道を教えるだけじゃなくて、色んな分野で社会で活躍して欲しい。そういう意味ではうちには色んな人がいるんで。交友じゃないけど長い間の、うち自体の雰囲気がある。いずれ俺たちは体を鍛えて世の中の役に立つようになるんだ、というのは自然にみんな持ってると思うんで、それは嬉しいですね。

後篇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.11.22   世界選手権日本代表・日本代表 目黒雄太選手がテレビ出演します!

11月23日(金=祝)6:15~6:25頃

めざましテレビ内コーナー「キラビト」にて。こちらは1分40秒程度のコーナーとなっております。

7:30~7:45頃

めざましテレビ内コーナー「25周年企画・新潟県」にて。こちらの放送尺は未定です。

※生放送の番組のため放送時間が急きょ変更になることがありますがご了承ください。