第3回東京都下・神奈川県空道選手権大会レポート

横浜北支部 支部長
青木 伊之

 6月11日(日)、晴天の中、今回で3回目を数える東京都下・神奈川県空道選手権大会が、塾長、事務局長を始め、高橋全国総運営委員長、関東地区、北信越地区の支部長の方々にお出で頂き、日本工学院八王子専門学校柔道場にて開催されました。
数を重ねるごとに出場者が増え、今回は75名とローカル大会としては大変盛況だったと思います。
なるべく多くの人に参加して頂けるよう、特にジュニアについてはカテゴリー数を増やして参入障壁を低くする努力をしており、それが徐々に実を結んでいるようです。

 さて、肝腎の試合内容ですが、大人のクラスについてはまだ帯の下の方々(青帯、黄帯)の活躍と、負けるものかという帯上の方々の意地がぶつかる好試合が多かったのが印象的でした。
帯下の選手達はまだまだ荒削りという印象ではありますが、昨年の今大会でも帯下で活躍した選手がその後全日本予選や本戦で活躍した例もあります。

 ベテランも新人も今大会に入賞した方々は是非この調子を継続して、全日本予選、本戦でも頑張ってほしいものです。
また、ジュニアについては佐久支部の活躍もそうですが、女子の頑張りが目につきました。
特にU13 B、Cルールについては男女混合で行いましたが、女子の選手の柔らかく且つ力強い組手が素晴らしかったと思います。

 毎年、全日本体力別直後の開催で、塾長、事務局長はじめ総本部の皆様、関東周辺の支部長の方々、役員、審判団、お手伝い頂いた横浜北支部をはじめとする塾生の皆様など、関係者の方々には大変ご迷惑をお掛けしておりますが、今後もこの大会を通して東京都下、神奈川県、そして関東地区の空道の発展のために尽くしてまいる所存でありますので、今後とも変わらぬご指導、ご鞭撻の程よろしくお願い致します。

 また、最後に、医療サポートとしてご協力頂いた日本工学院八王子専門学校 柔道整復科OB、OGの先生方および学生トレーナーの方々に厚く御礼申し上げます。押忍

更新日 2017.06.28

名取市スポーツ祭 第9回仙南杯空道選手権大会(仙南カップ) 大会レポート

大道塾仙南支部 支部長
佐藤繁樹

 6月25日(日)名取市民体育館 選手:103名

 仙南カップは、組手初心者や初めて大会に出場する選手の経験の場として、毎年、6月最終日曜日に開催しています。
また、本大会は名取市体育協会が主催するスポーツイベント「名取市スポーツ祭」の空道競技として行われている大会です。

 仙南カップは体重制、延長戦なし等、いくつかの安全性に配慮した特別ルールがあること、また最低2回は試合ができるので選手の試合経験が積めることで毎年多くの出場者で賑わっています。

 今回も選手103名がエントリーし、園児から中学生まで熱戦が繰り広げられました。
今大会で手応えを感じた選手は、ぜひ7月の宮城県大会に出場し更に上位を目指して挑戦してみてください。
また各選手今大会の結果を日々の稽古に役立ててほしいと思います。

 選手、選手のおうちの皆様、大会関係者の皆様、大変お疲れさまでした。
来年は第10回大会です。
引き続き、どうぞよろしくお願いします。

更新日 2017.06.30

2017年6月《埼玉、東京、宮城、茨城、神奈川》ワンマッチ交流戦 大会レポート

浦和/北本/大宮西支部長
渡邉慎二

6月25日(日)岩槻文化公園 柔道場

6/25(日)、年三回恒例のワンマッチ交流戦が、岩槻文化公園柔道場にて開催されました。
毎年、この時期のワンマッチは参加人数が多いのですが、今年に限っては何故か参加者が少なめで、組合せ作成が難航しました。最終的には「ワンマッチ戦」と言いつつ、多くの選手に2マッチをやってもらう形で、何とかエントリー選手のほぼ全員に試合を組むことができました(それでも1名、諦めてもらう人が出てしまいましたが)。
毎度毎度のことながら、試合前日、場合によっては当日まで(!)組合せに関し、「ああだ、こうだ」と頭を悩ませることになるのはワンマッチならではの苦労で、本当に大変なのですが、大会が終了して皆が嬉しそうな顔をしているのを見ると「やって良かったなぁ」と心底思います。また、これも毎度毎度のことながら、大きな怪我人が出ずに終了したのが、主催者としてはもっとも嬉しいことですね。大会に参加、協力いただいた各道場の皆様、ありがとうございました。
では、以下、目立った試合や、選手、道場などにつきコメントを。

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草加の少年部が元気があって大変に良かったです。八木優菜選手は女の子ならでは身体の柔らかさを活かしたハイキックを武器に、帯上2人を相手に見事に2勝を挙げてベストファイター賞を受賞しました。その弟、亮太選手も体格が上、実績もはるか格上の相手に、ポイントを先行されながらも、最後まで食らいつくファイトを見せました(ベストファイター賞受賞)。
・チーム賞があったなら早稲田準支部が受賞していたことでしょう。参加人数も多かったし、(技術的にはまだまだ拙い部分があっても)皆「気持ち」の出ていた良い試合ぶりを見せてくれました。なかでも主将の呂選手は、ボディから顔面へのパンチの打ち分けに日頃からの工夫と練習とをうかがわせました(ベストファイター賞受賞)。
・女性ファイターの参戦が5名は過去最大。全日本チャンプの大倉選手はもちろん、他4名も「稽古しているなぁ」と思わせる高いレベル、良い内容の試合ばかりでした。特に早稲田から出場した二人の選手=熊谷選手、ターニャ選手はどちらも他流派の黒帯を持っていて、「これから空道に慣れてきたら、更に大きく伸びそうだな」と大いに今後を期待させる闘いぶりでした(二人ともベストファイター賞受賞)。空道が今後WG、オリンピックを目指すなら、女子の盛り上がりも必須です。全国の女子空道家の皆さん、頑張ってください!
・今回はしばらくぶりに、遠く東北本部からの参戦者も来られました。宮城さんは48歳の年齢にもかかわらず2試合を闘い、見事に2勝。またもう1人、篠原さんも絶好調でキレッキレの組手を見せて2勝(内ひとつは一本勝ち)。2人で4勝獲得の大活躍でした。ちなみに篠原さんは、以前、短期出張で大宮西にしばらく出稽古に来ていた方。旧交を温めることができてうれしかったです。

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最後に。
試合をすれば、勝つ選手もいれば負ける選手もいます。勝った選手はおめでとうございます。また次も勝てる様に頑張ってください。負けた選手は残念でした。次こそは勝てるように頑張ってください。勝っても負けても重要なのは「次」です。勝っても負けても「次」を目指す、成長をめざす、そうして歩み続ける。それこそが武「道」です。また皆で頑張りましょう! 押忍!

更新日 2017.07.02

第10回 青森県空道選手権大会レポート

三沢・青森市支部 支部長
五十嵐 祐司

6月25日(日) 三沢市武道館

お陰様で、無事に大きな事故やケガもなく成功裏に終えることが出来ました。

2003年に初開催(第1回大会)した、この県大会も途中、中々うまくいかず第2回目を開くまで空白の5年があったりと、やはり定期開催は困難かと思う時期もありましたが、こうして節目となる10回目を迎えることができたのも東先生はじめ関係各位のご指導、ご協力の賜物です。
改めて御礼、感謝申し上げます。

更新日 2017.07.07

休刊となった『ゴング格闘技』、最後に掲載された東孝塾長のインタビュー記事を、編集部の許諾を得て紹介します。

2017年6月号をもって休刊となった格闘技専門誌『ゴング格闘技』、休刊前号となる2017年5月号に掲載された、東孝塾長のインタビュー記事。その内容は、大道塾の歴史をテーマとした会話を通じ、塾長の変わらぬ信念を紐解く、すべての塾生に読んで頂きたい内容でした。そこで、一部を抜粋し再編集するかたちにて、ゴン格編集部様の許諾を得たうえで、ここに紹介いたします。(多少の加筆、修正あり)

元原稿 http://www.daidojuku.com/home/column/25.html

加藤久輝がハレック・グレイシーに勝つ 大道塾としてのリベンジに東孝塾長はいま、何を想う?

熊久保英幸=聞き手

──1994年3月の『UFC2』に日本人として初めてUFCに出場した、当時、最強と言われていた大道塾・北斗旗王者の市原海樹選手が、ホイス・グレイシーに敗れてから23年目の今年、加藤久輝選手がハレック・グレイシーに勝ち、大道塾の選手がグレイシーに雪辱しました。塾長としても感慨深いところがあるのではないかと思い、取材にやってまいりました。

「うーん……期待を裏切って悪いんですが、あまりそういう想いはないんですよ」

──いきなり取材終了ですか……。

「空道は護身というものを土台に考えているわけです。これまでムエタイや柔術とどうのこうのと比較されてきましたが、護身が基本なんですよ。1対1で戦った時、最終的に寝技になることがあるという現実は分かりますが、実際にそうなるケースは1割か2割あるかないか。護身の基本は立っていることですし、仲間や身内を守るために、ある時はその場から逃げなくてはいけないんです。それに素手であること、着衣状態であることなどを総合的に考えて空道の体系を作ってきました。ムエタイと比較されるきっかけとなった長田(賢一)vsラクチャート(1987年4月24日、ルンピニースタジアムで対戦してラクチャートが2RにKO勝ち)にしても、ムエタイという競技のルールで見れば負けですが、私自身は最初に長田がダウンを奪ったことで〝これはウチの勝ち〟と思ったんですよ、今の総合の目で見て、グラウンドを全く知らない相手が倒れたと考えたならどうですか? コッチはそこを蹴るとか殴るという事を前提にルールを作っているわけですから。あと、同じくムエタイ元チャンピオンのパーヤップが北斗旗に出場した時に、ウチの選手にミドルキックを抱えて大内刈りで倒させた時は観客席から〝東! 汚いぞ!〟って野次が飛んだんです。いや、これはウチのルールの試合なのだから当たり前でしょうと思いましたが、そんなことを言っても、当時の立ち技万能(=ムエタイ最強論)という風潮の中では何を言っても仕方がないと黙っていましたが」

──想定している戦いが違うと言うか、競技が違うのだからその競技のスペシャリストとその競技のルールで戦ったら負けても仕方がないということですね。

「その後の件についても、あの当時は今考えれば〝総合〟の幕開けだったので、試行錯誤中の大道塾に(妄想を含めて笑)凄い夢を持ってくれている人たちが一杯いたんですよ。それまで空道、当時で言えば格闘空手のような格闘技はなかったわけですから。その人たちがどんどん話を進めていって、それでやってみたらああいう結果になった。そこで〝大道塾が負けた〟と言われても、こっちが最初から団体を挙げて万全の構えで行ってやられたわけではなく、ある意味個人の戦いですし、あくまでも大道塾の戦いは立っての戦いが主という意識が強かったので、私はそれほど何とも思わなかったんです。しかし、世間的には大道塾が負けた、との見方がされてしまいました。長田とムエタイの場合もしばらくは冬の時代が続きましたし、今度は柔術でも同じことが起こりました。そこで巡り巡って今回、久輝がグレイシーの選手に勝ったことはストーリー的には〝苦節23年、ついに……!〟みたいな話ですし、頑張って勝ってくれた久輝にはよくやったと言いたいです。でも、それはいろいろある試合の中のひとつで、久輝もそれを狙ってやっていたという話ではないですからね。逆に、ムエタイと交流したことでムエタイのいいところを吸収しましたし、柔術からもいろいろ吸収しています。ですから、どっちもウチを太くしてくれたという意味で、そんなに憎むべき相手でもないんですよ(笑)」

──グレイシーを敵対視していたわけではないんですね。

「全くないです。護身は立ったままやるものですが、当然寝技になる局面もあるので、寝技もやらないとダメだぞと私は30数年前から空手に寝技を取り入れるという試みをやってきたわけです。当時は『あんなものは空手ではない』と言われても格闘空手としてやってきて、空道と名付けたら『あれは空手じゃないか』と言われる。何をやっても〝はみだし〟は、叩かれるんですよね(笑)」

──極真は打倒・熊や牛を目指したが、熊や牛は打倒・極真を目指していなかった、という言葉がありましたが、それと同じようなものですね。グレイシーは打倒・他の格闘技を目指したかもしれませんが、大道塾は打倒グレイシーやムエタイを目指してはいなかった、と。

「そういう人が一生懸命やっていることを、しない人間がどうこう揶揄するのは好きじゃないですが、事実関係で言えばそうですね」

──現在では格闘技が広まっているので、違うルールで戦えばそのルールで強い選手の方が強いのは当たり前だと理解されていますが、当時は「誰々が負けた」ではなくその競技・団体が負けたと捉えられることが普通でした。

「そうですね。私自身は他流試合をやりたいって意識はなかったんですよ。私の格闘技観の中では格闘空手をやっていって、これに寝技をプラスしていけば完成するはずだっていう意識でいたんです。当時から道場では寝技をやっていましたが、トップ選手が『大道塾に寝技は要らない』なんて堂々とインタビューに答えたり、大会パンフレットに書いていたこともありました(笑)。まあ、私も大雑把な性格なので『人の口に戸は立てられねーしな?』と思っていました。当時はまだ寝技まで入れるのは早いと思っていたので、試合では投げまでにしていたんですが、10年くらい過ぎて、そろそろ寝技を解禁する時期かなと思っていたところ、ひょんなことから柔術と関わりが出来てしまい、今度は猛烈に生徒から寝技をやりたい!って言い出したんですよ。それまではいくら言っても『先生、寝技なんかいりません』と言っていたのに、あの試合を境にみんな逆に寝技をやりたいって言い出したから、試合での寝技を解禁したんです」

──大道塾にとっては、逆によかったんですね。

「そういう意味ではそうですね。私が描いた筋道どおりに行ってくれれば一番良かったんですが、ムエタイに引っ張られ柔術に振り回されました。まあ、それも大道無門じゃないかな、と(笑)」

──そもそも、格闘空手を始めた時は地上最強の格闘技を目指していたわけではなかったんですね。

「全くないですね。あくまでも身を守る護身術であることが基本です」

──それを周りが勝手に、大道塾は凄い、どんな格闘技にも勝てるんじゃないかって幻想を膨らませていったという。

「本当にそうです。そもそも私の格闘の原点は、小学生の時に中学生の番長に喧嘩で負けたことなんです。何をやっても勝てなかった、向かって行っても投げられて跳ね返されました。その時に、人は力を持たないと何を言ってもダメなんだと気付かされたんです。また、三島由紀夫が『文学をやっていても最後は日本刀なんだ。最後は日本刀を見せれば一目置くんだ』というようなことを言っていて、こんな偉い先生でも『力を評価している』のだから、自分で自分の身を守る術は絶対に大事なんだって焼き付いていました。だから、格闘技で日本一になるとか世界一になるって意識はなかったんです。極真に入った時も、空手で日本一になりたいとの気持ちはなく、柔道を知った上で打撃を覚えれば、大概の場合は身を護れるし、しかも指導員として夢だった海外留学ができると聞いたからです。極真時代の支部の標語は『人生はドラマだ!あなたの拳で!』で、武道・格闘技的には、一見、夢のない話ですが(笑)、逆にそのおかげか『山あり山あり』の、とんでもない人生が待っていましたが(笑)」

──あの試合をきっかけに、柔術というものの研究はされたんですか?

「もちろんです。負けたのは現実ですから、柔道だけの寝技ではダメだと。柔術を始め、いろいろな寝技を取り入れなくてはいけないと思いました。ただ最初は、全面的に解禁してしまうと知っている選手と知らない選手で大きな差が出てしまうので、柔道で認められている腕十字や腕がらみなど5種類の技だけを解禁しました」

──ホイス戦をきっかけに、選手の意識が劇的に変わったわけですね。

「そうです。それまではいくら私が言っても、『殴ったら倒れるでしょう』という感じでした。ましてや当時は大道塾の優勝者は空手界のエースみたいなものでしたからね。それこそ格闘空手そのものみたいな存在で、パンチをぶん回してみんなぶっ倒していたわけですから。だからみんながそういう意識だったんですよね。それがパンチひとつ当てることが出来ず、転がされて寝技でやられたのは生徒たちにとってはショッキングな出来事だったと思いますね。私は私の考えた道筋でやりたかったのに、キックブームの時はなんでグローブでやらないんだと周りから言われ、生徒たちも寝技なんかやる必要はない、ムエタイこそ最強だという意識になってしまった。それでトップの選手たちはみんなムエタイの試合をやったじゃないですか。今度はそれがガラッと変わって寝技が最強だというような意識になってしまって。ただ、だからと言って今、久輝がやっていることの結果がどうでもいいわけではなく、勝てば当然、嬉しいですよ。負けたら〝この野郎〟となりますが(笑)」

──話は技術的なことになりますが、マウントパンチ(寸止め)で効果になるといった要素が空道に取り入れられたじゃないですか。あれは柔術の実戦性を評価してのものですよね?

「最初にUFCの試合を見た時に、馬乗りになって殴っているのを見て、あんなものは先進国で流行るわけがない、ましてや日本では倒れている人間を叩くなんてそんなことを社会が許すわけがない、と当時のゴング格闘技で言いました。そう言っていたのがあれよあれよという間に広まって、〝ああ、日本人は変わったんだな〟と実感しました。私がそれがいい・悪いを言っても始まらない、昔ならやらなかったことを今はやるんだな、と。そうしたなら〝護身上〟やはり対応を覚えないといけない。だから取り入れました」

──いま思えば、ホイスに挑戦したことはよかったと思いますか?

「まあ、ウチはそういうところはしつこいんです。転んでもただでは起きない(笑)。ムエタイの時もそうですし、ヘタしたら団体が潰れるくらいの話じゃないですか。それこそいろいろな団体が柔術と絡まって、一時的にはそれなりに名前をあげていても、勝負に負けてガックリ来てダメになったという話が実際に、いっぱいありますよね。ウチはそういうところは苦にしません」

──むしろ、いいところを取り入れようとするんですね。

「あれを覚えればいいんだろう、という感じですね。大道塾らしいじゃないですか。それこそ大道無門ですよ。いろいろな格闘技は大道塾の敵ではなく、よく言えば師であるということです、エヘン!(笑)」

──大山倍達総裁も言われていた、我以外みな我が師の精神ですね。

「そこで覚えて、次に勝てばいいんです。ただ、あの時やらなくてもどこかで柔術とは交わっていたとは思います。ウチは何でもやろうみたいな姿勢ですからね」

──ホイス戦以降、大道塾としてダメージはあったんですか?

「ありました。あの当時はそれこそ、武道では大道塾が一番だって空気があったじゃないですか。それはもう凄かったですよ。弟子が減っていき、入門者がガクッと減りました。あれから10数年くらいは影響がありましたね」

──10数年も!?

「それにプラス、大山館長がなくなった後のフルコン界の変動や、K─1やPRIDEがあんな形で消えて武道・格闘技の信用が失墜し『やっぱりあの世界は……』と言った感じで潮が引くように競技者も、興味を持つ人口もガクッと減ったこともかなり影響しました。正直、ここは自慢して良いと思うけれど(笑)。私はこの世界に入る前に社会の底辺を経験して来て、『なるようになるさ。ダメなら大型免許があるから』と開き直れた私だからこそ、精神的に潰れずに持ったんだなと思いますよ(笑)。まあ、最近になって当時の悪いイメージを持っていた人が減ってきたんだろうし、やっと世の中が大人になって、ルールの違いが勝敗を分ける=誰が負けたから即、その団体がどうこうではないんだってことが分かってきたりして、また武道・格闘技復活の目が出てきたような気がするので、同じ轍を踏まないように、大事に大事に、武道・格闘技の健全な発展を期して行かなくてはと思っていますが……」

──そんなに影響が……グレイシーを怨みませんでしたか?

「それとこれとは話が別です。勝負の世界は勝った者が全部持って行くんですから、しょうがないな、と。長田がラクチャートに負けた時も凄かったですよ。それまでは年に入門者が何千人以上も入っていたのが、一気に半分以下になったんですから」

──大道塾は2度もピンチに陥っていたんですね。

「ただ、長田にしてもムエタイがやりたくてやったわけではないですからね。向こうのプロモーターに私が乗せられて、やってみますかと聞かれたから、「せっかくだからやってみます」というところから始まっているんです。最初は練習試合との話だったので、その話をもらってから3?4日はパタヤへ遊びに行っていたんですから。長田は長田で砂浜で足を切ってしまって。それでバンコクに帰って来たら新聞に試合のことが載っていて、日本の空手チャンピオンがムエタイのチャンピオンに挑戦する、みたいな話しになっていたという。その時に初めて、誰とやるんだと聞いたらルンピニーのチャンピオンだって言うわけです。メチャクチャな話ですよね。そんな状況で長田は初めてのルールで、グローブを着けたのも初めてくらいだったのに、最初にダウンを奪ったんですから、よくやったと私は思いました。ところが、日本に帰って来てその話が広まると評価がえらい悪い。手も足も出なかった、みたいな話になっていて驚きました。長田自身も、ムエタイがやりたいとかムエタイが最強だなんて思っていなかったですよ。ただ周りがそれをそのままには許さなかった。大道塾は、東はなぜ長田にやらせないんだ、と。私は長田がやりたいならやればいいと思っていたんですよ。でも長田からは何も言って来なかった。長田は長田で別にムエタイの試合をやりたいわけではないけれども、負けたと思われているのが嫌で悩んでいたとは思います。彼は彼で、自分がやると言ったら先生は嫌がるだろうと考えていたのかもしれない。でも段々と悩んでいる姿が目に付くようになってきたのは分かったので長田を呼んで、『やりたいならやったらいいんじゃないか』と言ったんですが、『自分はその気はありません』と。そうは言いながらも結局は収まらなかったので、あれが始まったわけです」

──1992年に後楽園ホールで開催された『THE WARS』ですね。

「その時に一番反応したのが、加藤清尚と飯村健一だったんですよ。長田はもう名前が出来上がっていたからいいけれども、彼らはこれからだったわけです。しかし、アマチュアと言っても当時、後先考えずに練習ばかりしていましたからね。その面ではプロと変わらないわけです。「俺たちは誰とやっても負けない」って意識があった。それが結局、長田が負けた、大道塾が負けたと言われてもの凄く悔しかったわけです。自分たちをキックの試合に出してくれみたいな話にもなりました。困ったもんだな、と。それで当時、週に一度、SAWの麻生(秀孝)さんが寝技の指導に来ていたから、終わった後ですし屋でいろいろな話をしていたんですよ。その時に、あいつらあんなこと言いやがってと愚痴を言ったら、麻生さんが『じゃあ東さんがやればいいじゃないですか』と言ったんです。そんなことは考えたこともなかったので〝えっ?〟と思ったんですが、協力してくれる人もいてやることになりました。それで一応はそれなりにグローブを着けた試合で勝ったんですが、加藤にしても飯村にしてもブレーキがかからなかったんですよ。第一、そっちの方が大道塾で試合をするよりも、反響が大きいわけじゃないですか」

──雑誌にも大きく取り上げられましたね。

「そう。それでやりたいというものをやめろと止めてもしょうがないだろう、と。ある時は飯村が来て、自分はキックの試合をしたいと言ってきたんです。その時に飯村は、私がダメだと言ったら辞めるつもりだったと後から言っていました。当時はそれほど選手が思いつめて、グローブでやることが強さの証明だ、みたいになっていたんですよね」

──グローブである程度証明したところで、今度はUFCが始まってWARSで修斗やパンクラスの選手と総合格闘技ルールで戦うことになりました。

「私は真っ直ぐ歩きたかったのに、あっちに引っ張られこっちに引っ張られ、足は引っ掛けられで(笑)」

──2002年のWARS6をもってピタリとやめてしまいましたよね。あれはなぜだったんですか?

「やりたいという選手がいなくなったからです」

──そうなんですか?

「逆に私は、最後までリングでの試合にはなじめなかったし、畑違いの準備は大変だったけれど、他の武道・格闘技の技を学ぶためにも、年に1回、もしくは2年に1回はやってもいいと思っていたんです。ところが選手たちは『もう大道塾は実力を証明したからいいです』と誰も手を上げなくなったんですよ。WARSを6回開催して、キックにも総合にもある程度対応出来ることが証明されたから、もういいです、と。元々、みんな格闘空手が好きだから始めたわけじゃないですか。名声が欲しくてやってみたけれど、結局は道衣を着てする武道が好きだから入って来た人間ですから。何回か「WARSをやりたいやつはいるか?」と聞いたんですが、1人か2人しかいませんでした。やる気のないものを無理強いしても碌な結果にはならないから、そこでやめたんです」

──そのうちの1人のようなものが加藤久輝選手なんですかね。

「久輝の場合は世界大会で負けたことが悔しかったからでしょうね。ウチには大きい相手がいないから、大きい相手とやりたいということで名古屋のALIVEジムに行くようになったんです」

──勝ったのは嬉しかったですか?

「勝って嬉しくないことはないです。久輝も直接知っている世代ではないですが、おそらく周りからウチとグレイシーの歴史を聞いていて、プレッシャーがあったかもしれない。よく頑張った、と言いたいですね。いつも生徒には言うんですよ、キックでもボクシングでも何でもやっていいけれど、『経験してみたい』とか、『試してみたい』みたいなお気楽な気持ちのヤツにはやらせたくありません。『やるからには、勝つつもりで練習をし、死に物狂いで戦え!」、と。せっかく先輩たちが築き上げてきた名前なのに、お前が中途半端な気持ちで負けたら大道塾が負けたって言われるんだから絶対に勝てよ、と。それで勝ったら嬉しい、負けたらばか者と言う。それはそうですよ。やる以上はそれくらいの覚悟は持ってもらわないといけない。挑戦心は良いけれども、ちゃんと背負ってやれということです。気軽にやってみたいなんて言われたら怒鳴りつけてやりますね。せっかく今までみんなで苦労してここまで大道塾、格闘空手、空道を持ってきたのに、お前でゼロになってしまうかもしれないんだぞ、と。言われた方はキョトンとしていますけれどね、時代が違うのかな(笑)」

──2001年から世界大会を開催したり、ロシアを中心に世界へ広がってきたことによって他のジャンルとかかわりを持たなくてもいいようになった、という面もあると思います。空道の中で成立するというか。空道で世界王者になることが高い壁になっているので、余所見をしている場合ではないですよね。

「今、世界王者になるのは本当に大変ですよ。先日、ジョージア(グルジア)に行って正式な支部に認可しました。行ってみたら、柔道のオリンピックチャンピオンや世界チャンピオン10人くらいと会ったんですが、なぜかみんな空道を応援しているんですよ。普通、柔道関係者が応援するなんてありえないでしょう。ところが今回支部長になったのも元々、トビリシ柔道連盟の理事長をやっていた人物で。昔、私が柔道をやっていた頃の東北のエースが遠藤純男氏(山下泰裕のライバルで1980年の全日本選抜柔道体重別選手権でカニバサミを仕掛け、山下の腓骨をへし折ったことで知られる)で、私が何回やっても勝てなかった宮城県のチャンピオンが、彼に30秒で投げられて負けたのを見て柔道を辞めました(笑)。ジョージアで会った柔道家たちはその遠藤氏と同期で、自分は遠藤とやって負けたと楽しそうに話をしていました。ジョージアで柔道は半分国技のようなもので人気があって、みんな身体がガッチリしていて体幹がしっかりしています。2月にインドで開催されたワールドカップに始めてジョージアの選手が出たんですが、いきなり-240で優勝してしまいました。あとタジキスタンの選手も優勝したんです。今までだったらロシアが全階級を制覇するか、せいぜい日本が一階級を獲るかくらいだったんですが、今回はロシアが3階級で優勝を逃しています。今度の世界大会は大変なことになるでしょうね。ロシアの独占状態は終わるかもしれません。今年の秋は仙台でアジア大会を開催します。そして、来年の世界大会に日本代表として選ばれるためには、今年の体力別とアジア大会、来年春の体力別と3大会の内2大会に出ることが条件となります。だから、久輝にも出ないと世界大会には出さないと伝えてあります」

───アジア大会の開催ですか!

「アジアならモンゴルが強いですね。あとはイラン、タジキスタン、カザフスタンあたりから選手が来ます。カザフスタンも強いですよ。ワールドカップのベスト3に2人くらい入っていました。とにかく旧ソ連系は強い。力があるし、体幹が強いし、何より日本選手にない『これで負けたなら俺の人生は終わりだ!』というほどのハングリー精神がある。今年の体力別各階級上位の2人~4人(に加え、秋の国内予選を勝ち抜いた選手)が日本代表となって、アジアの国々を迎え撃ちます。ワールドカップでは清水亮汰(2015年全日本無差別&2016年全日本体力別-250クラス王者)が、2014年の世界大会で勝っていた同じ選手に負けたんですよ。ワンツーでのばされてしまいました。だからウェイトをやって体幹、特に首を太くしろ、と言っても今の子たちはやらないんですよ。何度言ってもやりません。さすがに今回はのばされたからちょっとはやる気になったけれども。まず70%の力をもって、ガツンとぶつかり合っても、ある程度それを凌がない限り技の勝負にはならないんですよ。日本人同士の試合だと最初から名人戦で技のやりとりとなりますが、ロシアを相手にする時はまずぶつかって、それから回り込むなり離れるなり技の展開になるんですが、最初の段階でバンッと入ってこられると間合いは殺されるし、勢いづいてしまいます。体幹の強さが違うから。やっと本人もウェイトをしないといけないと思いますと言っているんですが、『僕たちは日本的な試合が好きです』とか言うんですよ。本当に今の若い選手たちは名人戦が好きなんです。相手がこう来たらこう返すというような」

──最初の、グレイシーが出てくるまでは寝技をやれと言ってもやらなかった、という話に似ていますね。

「なかなかうまくいきませんね。私は机の仕事に追われて、直接指導は無理だから要点だけ言うんですが、言うことを聞くのと聞かないのがいる。でもまあ、最終的には選手がそれらを取捨選択して、自分で組み立てた練習法や戦い方でやるのが一番いいんですよ」

──フィジカルでやられたら、今度は大道塾に必要なのはフィジカルだってなるかもしれませんね。

「ジョージアやモンゴルがのし上がってくる可能性が高いですからね。そうなって欲しいけれど…。これがラウンド制だったら動き回ってスタミナを消耗させてって戦い方もありますが、3分ですから半分以上はフィジカルで決まるわけです。まあ、日本人選手たちの活躍を暖かく見守ってあげてください」

更新日2017.7.9

2017.7.9  【塾長コラム】「休刊となった『ゴング格闘技』、最後に掲載された東孝塾長のインタビュー記事を、編集部の許諾を得て紹介します。」

【塾長コラム】休刊となった『ゴング格闘技』、最後に掲載された東孝塾長のインタビュー記事を、編集部の許諾を得て紹介します。

2017年6月号をもって休刊となった格闘技専門誌『ゴング格闘技』、休刊前号となる2017年5月号に掲載された、東孝塾長のインタビュー記事。その内容は、大道塾の歴史をテーマとした会話を通じ、塾長の変わらぬ信念を紐解く、すべての塾生に読んで頂きたい内容でした。そこで、一部を抜粋し再編集するかたちにて、ゴン格編集部様の許諾を得たうえで、ここに紹介いたします。(多少の加筆、修正あり)

元原稿 http://www.daidojuku.com/home/column/25.html

加藤久輝がハレック・グレイシーに勝つ 大道塾としてのリベンジに東孝塾長はいま、何を想う?

熊久保英幸=聞き手

──1994年3月の『UFC2』に日本人として初めてUFCに出場した、当時、最強と言われていた大道塾・北斗旗王者の市原海樹選手が、ホイス・グレイシーに敗れてから23年目の今年、加藤久輝選手がハレック・グレイシーに勝ち、大道塾の選手がグレイシーに雪辱しました。塾長としても感慨深いところがあるのではないかと思い、取材にやってまいりました。

「うーん……期待を裏切って悪いんですが、あまりそういう想いはないんですよ」

──いきなり取材終了ですか……。

「空道は護身というものを土台に考えているわけです。これまでムエタイや柔術とどうのこうのと比較されてきましたが、護身が基本なんですよ。1対1で戦った時、最終的に寝技になることがあるという現実は分かりますが、実際にそうなるケースは1割か2割あるかないか。護身の基本は立っていることですし、仲間や身内を守るために、ある時はその場から逃げなくてはいけないんです。それに素手であること、着衣状態であることなどを総合的に考えて空道の体系を作ってきました。ムエタイと比較されるきっかけとなった長田(賢一)vsラクチャート(1987年4月24日、ルンピニースタジアムで対戦してラクチャートが2RにKO勝ち)にしても、ムエタイという競技のルールで見れば負けですが、私自身は最初に長田がダウンを奪ったことで〝これはウチの勝ち〟と思ったんですよ、今の総合の目で見て、グラウンドを全く知らない相手が倒れたと考えたならどうですか? コッチはそこを蹴るとか殴るという事を前提にルールを作っているわけですから。あと、同じくムエタイ元チャンピオンのパーヤップが北斗旗に出場した時に、ウチの選手にミドルキックを抱えて大内刈りで倒させた時は観客席から〝東! 汚いぞ!〟って野次が飛んだんです。いや、これはウチのルールの試合なのだから当たり前でしょうと思いましたが、そんなことを言っても、当時の立ち技万能(=ムエタイ最強論)という風潮の中では何を言っても仕方がないと黙っていましたが」

──想定している戦いが違うと言うか、競技が違うのだからその競技のスペシャリストとその競技のルールで戦ったら負けても仕方がないということですね。

「その後の件についても、あの当時は今考えれば〝総合〟の幕開けだったので、試行錯誤中の大道塾に(妄想を含めて笑)凄い夢を持ってくれている人たちが一杯いたんですよ。それまで空道、当時で言えば格闘空手のような格闘技はなかったわけですから。その人たちがどんどん話を進めていって、それでやってみたらああいう結果になった。そこで〝大道塾が負けた〟と言われても、こっちが最初から団体を挙げて万全の構えで行ってやられたわけではなく、ある意味個人の戦いですし、あくまでも大道塾の戦いは立っての戦いが主という意識が強かったので、私はそれほど何とも思わなかったんです。しかし、世間的には大道塾が負けた、との見方がされてしまいました。長田とムエタイの場合もしばらくは冬の時代が続きましたし、今度は柔術でも同じことが起こりました。そこで巡り巡って今回、久輝がグレイシーの選手に勝ったことはストーリー的には〝苦節23年、ついに……!〟みたいな話ですし、頑張って勝ってくれた久輝にはよくやったと言いたいです。でも、それはいろいろある試合の中のひとつで、久輝もそれを狙ってやっていたという話ではないですからね。逆に、ムエタイと交流したことでムエタイのいいところを吸収しましたし、柔術からもいろいろ吸収しています。ですから、どっちもウチを太くしてくれたという意味で、そんなに憎むべき相手でもないんですよ(笑)」

──グレイシーを敵対視していたわけではないんですね。

「全くないです。護身は立ったままやるものですが、当然寝技になる局面もあるので、寝技もやらないとダメだぞと私は30数年前から空手に寝技を取り入れるという試みをやってきたわけです。当時は『あんなものは空手ではない』と言われても格闘空手としてやってきて、空道と名付けたら『あれは空手じゃないか』と言われる。何をやっても〝はみだし〟は、叩かれるんですよね(笑)」

──極真は打倒・熊や牛を目指したが、熊や牛は打倒・極真を目指していなかった、という言葉がありましたが、それと同じようなものですね。グレイシーは打倒・他の格闘技を目指したかもしれませんが、大道塾は打倒グレイシーやムエタイを目指してはいなかった、と。

「そういう人が一生懸命やっていることを、しない人間がどうこう揶揄するのは好きじゃないですが、事実関係で言えばそうですね」

──現在では格闘技が広まっているので、違うルールで戦えばそのルールで強い選手の方が強いのは当たり前だと理解されていますが、当時は「誰々が負けた」ではなくその競技・団体が負けたと捉えられることが普通でした。

「そうですね。私自身は他流試合をやりたいって意識はなかったんですよ。私の格闘技観の中では格闘空手をやっていって、これに寝技をプラスしていけば完成するはずだっていう意識でいたんです。当時から道場では寝技をやっていましたが、トップ選手が『大道塾に寝技は要らない』なんて堂々とインタビューに答えたり、大会パンフレットに書いていたこともありました(笑)。まあ、私も大雑把な性格なので『人の口に戸は立てられねーしな?』と思っていました。当時はまだ寝技まで入れるのは早いと思っていたので、試合では投げまでにしていたんですが、10年くらい過ぎて、そろそろ寝技を解禁する時期かなと思っていたところ、ひょんなことから柔術と関わりが出来てしまい、今度は猛烈に生徒から寝技をやりたい!って言い出したんですよ。それまではいくら言っても『先生、寝技なんかいりません』と言っていたのに、あの試合を境にみんな逆に寝技をやりたいって言い出したから、試合での寝技を解禁したんです」

──大道塾にとっては、逆によかったんですね。

「そういう意味ではそうですね。私が描いた筋道どおりに行ってくれれば一番良かったんですが、ムエタイに引っ張られ柔術に振り回されました。まあ、それも大道無門じゃないかな、と(笑)」

──そもそも、格闘空手を始めた時は地上最強の格闘技を目指していたわけではなかったんですね。

「全くないですね。あくまでも身を守る護身術であることが基本です」

──それを周りが勝手に、大道塾は凄い、どんな格闘技にも勝てるんじゃないかって幻想を膨らませていったという。

「本当にそうです。そもそも私の格闘の原点は、小学生の時に中学生の番長に喧嘩で負けたことなんです。何をやっても勝てなかった、向かって行っても投げられて跳ね返されました。その時に、人は力を持たないと何を言ってもダメなんだと気付かされたんです。また、三島由紀夫が『文学をやっていても最後は日本刀なんだ。最後は日本刀を見せれば一目置くんだ』というようなことを言っていて、こんな偉い先生でも『力を評価している』のだから、自分で自分の身を守る術は絶対に大事なんだって焼き付いていました。だから、格闘技で日本一になるとか世界一になるって意識はなかったんです。極真に入った時も、空手で日本一になりたいとの気持ちはなく、柔道を知った上で打撃を覚えれば、大概の場合は身を護れるし、しかも指導員として夢だった海外留学ができると聞いたからです。極真時代の支部の標語は『人生はドラマだ!あなたの拳で!』で、武道・格闘技的には、一見、夢のない話ですが(笑)、逆にそのおかげか『山あり山あり』の、とんでもない人生が待っていましたが(笑)」

──あの試合をきっかけに、柔術というものの研究はされたんですか?

「もちろんです。負けたのは現実ですから、柔道だけの寝技ではダメだと。柔術を始め、いろいろな寝技を取り入れなくてはいけないと思いました。ただ最初は、全面的に解禁してしまうと知っている選手と知らない選手で大きな差が出てしまうので、柔道で認められている腕十字や腕がらみなど5種類の技だけを解禁しました」

──ホイス戦をきっかけに、選手の意識が劇的に変わったわけですね。

「そうです。それまではいくら私が言っても、『殴ったら倒れるでしょう』という感じでした。ましてや当時は大道塾の優勝者は空手界のエースみたいなものでしたからね。それこそ格闘空手そのものみたいな存在で、パンチをぶん回してみんなぶっ倒していたわけですから。だからみんながそういう意識だったんですよね。それがパンチひとつ当てることが出来ず、転がされて寝技でやられたのは生徒たちにとってはショッキングな出来事だったと思いますね。私は私の考えた道筋でやりたかったのに、キックブームの時はなんでグローブでやらないんだと周りから言われ、生徒たちも寝技なんかやる必要はない、ムエタイこそ最強だという意識になってしまった。それでトップの選手たちはみんなムエタイの試合をやったじゃないですか。今度はそれがガラッと変わって寝技が最強だというような意識になってしまって。ただ、だからと言って今、久輝がやっていることの結果がどうでもいいわけではなく、勝てば当然、嬉しいですよ。負けたら〝この野郎〟となりますが(笑)」

──話は技術的なことになりますが、マウントパンチ(寸止め)で効果になるといった要素が空道に取り入れられたじゃないですか。あれは柔術の実戦性を評価してのものですよね?

「最初にUFCの試合を見た時に、馬乗りになって殴っているのを見て、あんなものは先進国で流行るわけがない、ましてや日本では倒れている人間を叩くなんてそんなことを社会が許すわけがない、と当時のゴング格闘技で言いました。そう言っていたのがあれよあれよという間に広まって、〝ああ、日本人は変わったんだな〟と実感しました。私がそれがいい・悪いを言っても始まらない、昔ならやらなかったことを今はやるんだな、と。そうしたなら〝護身上〟やはり対応を覚えないといけない。だから取り入れました」

──いま思えば、ホイスに挑戦したことはよかったと思いますか?

「まあ、ウチはそういうところはしつこいんです。転んでもただでは起きない(笑)。ムエタイの時もそうですし、ヘタしたら団体が潰れるくらいの話じゃないですか。それこそいろいろな団体が柔術と絡まって、一時的にはそれなりに名前をあげていても、勝負に負けてガックリ来てダメになったという話が実際に、いっぱいありますよね。ウチはそういうところは苦にしません」

──むしろ、いいところを取り入れようとするんですね。

「あれを覚えればいいんだろう、という感じですね。大道塾らしいじゃないですか。それこそ大道無門ですよ。いろいろな格闘技は大道塾の敵ではなく、よく言えば師であるということです、エヘン!(笑)」

──大山倍達総裁も言われていた、我以外みな我が師の精神ですね。

「そこで覚えて、次に勝てばいいんです。ただ、あの時やらなくてもどこかで柔術とは交わっていたとは思います。ウチは何でもやろうみたいな姿勢ですからね」

──ホイス戦以降、大道塾としてダメージはあったんですか?

「ありました。あの当時はそれこそ、武道では大道塾が一番だって空気があったじゃないですか。それはもう凄かったですよ。弟子が減っていき、入門者がガクッと減りました。あれから10数年くらいは影響がありましたね」

──10数年も!?

「それにプラス、大山館長がなくなった後のフルコン界の変動や、K─1やPRIDEがあんな形で消えて武道・格闘技の信用が失墜し『やっぱりあの世界は……』と言った感じで潮が引くように競技者も、興味を持つ人口もガクッと減ったこともかなり影響しました。正直、ここは自慢して良いと思うけれど(笑)。私はこの世界に入る前に社会の底辺を経験して来て、『なるようになるさ。ダメなら大型免許があるから』と開き直れた私だからこそ、精神的に潰れずに持ったんだなと思いますよ(笑)。まあ、最近になって当時の悪いイメージを持っていた人が減ってきたんだろうし、やっと世の中が大人になって、ルールの違いが勝敗を分ける=誰が負けたから即、その団体がどうこうではないんだってことが分かってきたりして、また武道・格闘技復活の目が出てきたような気がするので、同じ轍を踏まないように、大事に大事に、武道・格闘技の健全な発展を期して行かなくてはと思っていますが……」

──そんなに影響が……グレイシーを怨みませんでしたか?

「それとこれとは話が別です。勝負の世界は勝った者が全部持って行くんですから、しょうがないな、と。長田がラクチャートに負けた時も凄かったですよ。それまでは年に入門者が何千人以上も入っていたのが、一気に半分以下になったんですから」

──大道塾は2度もピンチに陥っていたんですね。

「ただ、長田にしてもムエタイがやりたくてやったわけではないですからね。向こうのプロモーターに私が乗せられて、やってみますかと聞かれたから、「せっかくだからやってみます」というところから始まっているんです。最初は練習試合との話だったので、その話をもらってから3?4日はパタヤへ遊びに行っていたんですから。長田は長田で砂浜で足を切ってしまって。それでバンコクに帰って来たら新聞に試合のことが載っていて、日本の空手チャンピオンがムエタイのチャンピオンに挑戦する、みたいな話しになっていたという。その時に初めて、誰とやるんだと聞いたらルンピニーのチャンピオンだって言うわけです。メチャクチャな話ですよね。そんな状況で長田は初めてのルールで、グローブを着けたのも初めてくらいだったのに、最初にダウンを奪ったんですから、よくやったと私は思いました。ところが、日本に帰って来てその話が広まると評価がえらい悪い。手も足も出なかった、みたいな話になっていて驚きました。長田自身も、ムエタイがやりたいとかムエタイが最強だなんて思っていなかったですよ。ただ周りがそれをそのままには許さなかった。大道塾は、東はなぜ長田にやらせないんだ、と。私は長田がやりたいならやればいいと思っていたんですよ。でも長田からは何も言って来なかった。長田は長田で別にムエタイの試合をやりたいわけではないけれども、負けたと思われているのが嫌で悩んでいたとは思います。彼は彼で、自分がやると言ったら先生は嫌がるだろうと考えていたのかもしれない。でも段々と悩んでいる姿が目に付くようになってきたのは分かったので長田を呼んで、『やりたいならやったらいいんじゃないか』と言ったんですが、『自分はその気はありません』と。そうは言いながらも結局は収まらなかったので、あれが始まったわけです」

──1992年に後楽園ホールで開催された『THE WARS』ですね。

「その時に一番反応したのが、加藤清尚と飯村健一だったんですよ。長田はもう名前が出来上がっていたからいいけれども、彼らはこれからだったわけです。しかし、アマチュアと言っても当時、後先考えずに練習ばかりしていましたからね。その面ではプロと変わらないわけです。「俺たちは誰とやっても負けない」って意識があった。それが結局、長田が負けた、大道塾が負けたと言われてもの凄く悔しかったわけです。自分たちをキックの試合に出してくれみたいな話にもなりました。困ったもんだな、と。それで当時、週に一度、SAWの麻生(秀孝)さんが寝技の指導に来ていたから、終わった後ですし屋でいろいろな話をしていたんですよ。その時に、あいつらあんなこと言いやがってと愚痴を言ったら、麻生さんが『じゃあ東さんがやればいいじゃないですか』と言ったんです。そんなことは考えたこともなかったので〝えっ?〟と思ったんですが、協力してくれる人もいてやることになりました。それで一応はそれなりにグローブを着けた試合で勝ったんですが、加藤にしても飯村にしてもブレーキがかからなかったんですよ。第一、そっちの方が大道塾で試合をするよりも、反響が大きいわけじゃないですか」

──雑誌にも大きく取り上げられましたね。

「そう。それでやりたいというものをやめろと止めてもしょうがないだろう、と。ある時は飯村が来て、自分はキックの試合をしたいと言ってきたんです。その時に飯村は、私がダメだと言ったら辞めるつもりだったと後から言っていました。当時はそれほど選手が思いつめて、グローブでやることが強さの証明だ、みたいになっていたんですよね」

──グローブである程度証明したところで、今度はUFCが始まってWARSで修斗やパンクラスの選手と総合格闘技ルールで戦うことになりました。

「私は真っ直ぐ歩きたかったのに、あっちに引っ張られこっちに引っ張られ、足は引っ掛けられで(笑)」

──2002年のWARS6をもってピタリとやめてしまいましたよね。あれはなぜだったんですか?

「やりたいという選手がいなくなったからです」

──そうなんですか?

「逆に私は、最後までリングでの試合にはなじめなかったし、畑違いの準備は大変だったけれど、他の武道・格闘技の技を学ぶためにも、年に1回、もしくは2年に1回はやってもいいと思っていたんです。ところが選手たちは『もう大道塾は実力を証明したからいいです』と誰も手を上げなくなったんですよ。WARSを6回開催して、キックにも総合にもある程度対応出来ることが証明されたから、もういいです、と。元々、みんな格闘空手が好きだから始めたわけじゃないですか。名声が欲しくてやってみたけれど、結局は道衣を着てする武道が好きだから入って来た人間ですから。何回か「WARSをやりたいやつはいるか?」と聞いたんですが、1人か2人しかいませんでした。やる気のないものを無理強いしても碌な結果にはならないから、そこでやめたんです」

──そのうちの1人のようなものが加藤久輝選手なんですかね。

「久輝の場合は世界大会で負けたことが悔しかったからでしょうね。ウチには大きい相手がいないから、大きい相手とやりたいということで名古屋のALIVEジムに行くようになったんです」

──勝ったのは嬉しかったですか?

「勝って嬉しくないことはないです。久輝も直接知っている世代ではないですが、おそらく周りからウチとグレイシーの歴史を聞いていて、プレッシャーがあったかもしれない。よく頑張った、と言いたいですね。いつも生徒には言うんですよ、キックでもボクシングでも何でもやっていいけれど、『経験してみたい』とか、『試してみたい』みたいなお気楽な気持ちのヤツにはやらせたくありません。『やるからには、勝つつもりで練習をし、死に物狂いで戦え!」、と。せっかく先輩たちが築き上げてきた名前なのに、お前が中途半端な気持ちで負けたら大道塾が負けたって言われるんだから絶対に勝てよ、と。それで勝ったら嬉しい、負けたらばか者と言う。それはそうですよ。やる以上はそれくらいの覚悟は持ってもらわないといけない。挑戦心は良いけれども、ちゃんと背負ってやれということです。気軽にやってみたいなんて言われたら怒鳴りつけてやりますね。せっかく今までみんなで苦労してここまで大道塾、格闘空手、空道を持ってきたのに、お前でゼロになってしまうかもしれないんだぞ、と。言われた方はキョトンとしていますけれどね、時代が違うのかな(笑)」

──2001年から世界大会を開催したり、ロシアを中心に世界へ広がってきたことによって他のジャンルとかかわりを持たなくてもいいようになった、という面もあると思います。空道の中で成立するというか。空道で世界王者になることが高い壁になっているので、余所見をしている場合ではないですよね。

「今、世界王者になるのは本当に大変ですよ。先日、ジョージア(グルジア)に行って正式な支部に認可しました。行ってみたら、柔道のオリンピックチャンピオンや世界チャンピオン10人くらいと会ったんですが、なぜかみんな空道を応援しているんですよ。普通、柔道関係者が応援するなんてありえないでしょう。ところが今回支部長になったのも元々、トビリシ柔道連盟の理事長をやっていた人物で。昔、私が柔道をやっていた頃の東北のエースが遠藤純男氏(山下泰裕のライバルで1980年の全日本選抜柔道体重別選手権でカニバサミを仕掛け、山下の腓骨をへし折ったことで知られる)で、私が何回やっても勝てなかった宮城県のチャンピオンが、彼に30秒で投げられて負けたのを見て柔道を辞めました(笑)。ジョージアで会った柔道家たちはその遠藤氏と同期で、自分は遠藤とやって負けたと楽しそうに話をしていました。ジョージアで柔道は半分国技のようなもので人気があって、みんな身体がガッチリしていて体幹がしっかりしています。2月にインドで開催されたワールドカップに始めてジョージアの選手が出たんですが、いきなり-240で優勝してしまいました。あとタジキスタンの選手も優勝したんです。今までだったらロシアが全階級を制覇するか、せいぜい日本が一階級を獲るかくらいだったんですが、今回はロシアが3階級で優勝を逃しています。今度の世界大会は大変なことになるでしょうね。ロシアの独占状態は終わるかもしれません。今年の秋は仙台でアジア大会を開催します。そして、来年の世界大会に日本代表として選ばれるためには、今年の体力別とアジア大会、来年春の体力別と3大会の内2大会に出ることが条件となります。だから、久輝にも出ないと世界大会には出さないと伝えてあります」

───アジア大会の開催ですか!

「アジアならモンゴルが強いですね。あとはイラン、タジキスタン、カザフスタンあたりから選手が来ます。カザフスタンも強いですよ。ワールドカップのベスト3に2人くらい入っていました。とにかく旧ソ連系は強い。力があるし、体幹が強いし、何より日本選手にない『これで負けたなら俺の人生は終わりだ!』というほどのハングリー精神がある。今年の体力別各階級上位の2人~4人(に加え、秋の国内予選を勝ち抜いた選手)が日本代表となって、アジアの国々を迎え撃ちます。ワールドカップでは清水亮汰(2015年全日本無差別&2016年全日本体力別-250クラス王者)が、2014年の世界大会で勝っていた同じ選手に負けたんですよ。ワンツーでのばされてしまいました。だからウェイトをやって体幹、特に首を太くしろ、と言っても今の子たちはやらないんですよ。何度言ってもやりません。さすがに今回はのばされたからちょっとはやる気になったけれども。まず70%の力をもって、ガツンとぶつかり合っても、ある程度それを凌がない限り技の勝負にはならないんですよ。日本人同士の試合だと最初から名人戦で技のやりとりとなりますが、ロシアを相手にする時はまずぶつかって、それから回り込むなり離れるなり技の展開になるんですが、最初の段階でバンッと入ってこられると間合いは殺されるし、勢いづいてしまいます。体幹の強さが違うから。やっと本人もウェイトをしないといけないと思いますと言っているんですが、『僕たちは日本的な試合が好きです』とか言うんですよ。本当に今の若い選手たちは名人戦が好きなんです。相手がこう来たらこう返すというような」

──最初の、グレイシーが出てくるまでは寝技をやれと言ってもやらなかった、という話に似ていますね。

「なかなかうまくいきませんね。私は机の仕事に追われて、直接指導は無理だから要点だけ言うんですが、言うことを聞くのと聞かないのがいる。でもまあ、最終的には選手がそれらを取捨選択して、自分で組み立てた練習法や戦い方でやるのが一番いいんですよ」

──フィジカルでやられたら、今度は大道塾に必要なのはフィジカルだってなるかもしれませんね。

「ジョージアやモンゴルがのし上がってくる可能性が高いですからね。そうなって欲しいけれど…。これがラウンド制だったら動き回ってスタミナを消耗させてって戦い方もありますが、3分ですから半分以上はフィジカルで決まるわけです。まあ、日本人選手たちの活躍を暖かく見守ってあげてください」

更新日2017.7.9

コラム21 「老骨に鞭打って(笑)」

「塾長スパー動画、予想通り、みんな驚いてますね。」

「驚いてる」って“人間機関車”(懐かしい言葉だ笑)が、化石燃料使用反対の声に押されて十分に供給できず馬力がでないためか?もしくは車体・車輪の摩耗によりガタピシしてるからか笑。この動画を見てどう思うかはそれぞれだと思うが、以前、63歳で9段の審査を受けた組手シーンが紹介されたなら、ドッカで「東も遂にこんなことをするのか。どうせ弟子は遠慮してるだけだろうに~」にみたいな反応が、塾内()外からあったと聞いた。

:内からの声としては「塾長はこんなことしなくても、過去の輝かしい実績や、不本意な結果でも、今は実際の試合映像で見れる時代になり、実力は誰しもが認めてるんだから、今更‥‥」という好意的なものから「塾長もTの仕事にも繋がる、セールストークに煽られて、イメージダウンするのも考えないで・・・」等というものまである。しかし、前者には「そうだろう、そうだろう」とニンマリしても(笑)、後者の「空道を盛り上げよう」として“格安”で働いていてくれる人間達 m(__)m が、逆に攻められるようなことになっては可哀想だ。聞き捨てならない!!

そんなこんなで「なぜ俺がこんな事をするのか?」は、いつか書かなくてはと思ってはいたんだが、できなかった事情を絡めて…。“総本部”は傍で見てるほど運営は楽じゃない()。為に、相も変わらず“少数精鋭”で切り盛りせざるを得ないから、それこそ小遣い社長として、日々の雑用に追いまくられてる。そんな身としては、半分「なに言われようが、そんなことは今しなくてはならないことじゃない。それより国内外からの、様々な事象に対応することは“今”必要なことだ」と思ってたのだが・・・・。

ある古参の塾生に「空道が国内外にこれだけ広がってれば‥でしょう」などと言われて「現実はボランティアみたいなもので、あなたの考える十分の一でもないよ~」といったなら「俺だって事業してるから分かるよ~」と来た。「ああ、分かってくれたんだな」と思ったなら、真逆な皮算用をされたみたいで腰を抜かした。「いや~」というと「俺を馬鹿にしてるの!!」とくる。「俺はそんなに甲斐性がないのか~」と返す言葉もない。

閑話休題。今回の動画について、またぞろ(又候)、色々な声が聞こえてきたので、言い訳でも年寄り自慢でもなく、その理由についてそろそろ書き留めなくてはとなった次第。くそ~!このくそ忙しい時に~~。

昔の選手時代を知ってる人間から見たなら「何で今更、こんなヨタヨタしてる映像を晒すんだ!」という声もあると思うが、俺は「はみ出し空手」の巻末(P218)で、

「単なる“我儘”や、チョッと有名になったからと「その気になって“独立”する」のではなく、50歳,60歳になってもできる“武道スポーツ”を確立する為だ。(中略) 実行しようとしてもできなかったなら、何もしないと同じだ。今後の生き方を見据えていただきたい。云々」

と大見得を切った以上、その年になったなら「俺は言ったことを、チャンと実行したぞ~!」と証明する義務があると、ずうと思ってきた。運動選手なら誰しも自分のことは過去の全盛時の姿で封印したいもので、それはそれでいいと思う。しかし、俺の場合は、かつての団体での歩みを期待してくれていた人たちに対して、ある意味、信頼を裏切ったかもしれない”過去”がある以上、それは避けてはいけないことだと思っているからだ。

「いや~俺も上に反発して別なことをやろうと思ったけど、実際自分で初めて見ると、思ったようにはできなかったよ」とは言いたくなかった。そして、これが東孝67歳11か月の組手であるの姿である。どう評価されるかは知らないが()、一応、「それなりに頑張ったな」とは言っていただけるのではないだろうか(m(__)m。

しかし、そんな辛気臭い話を離れても、この「勝手な“義務”」かもしれないが、があるから、この年でも汗を掻かなきゃならないし、お陰様で、終わった後の毎日の飯もビールも美味いんだ(笑)

「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候」(勝海舟)

コラム20 「空道○○カップ」と「空道○○選手権大会」の違い、及び、 今後の空道の展望について

かつて、1981年に空道のルーツである大道塾が宮城県で設立され、初めは、県内の数か所の支部が集まって、県大会が開かれ、次に2,3の県が集まって「交流試合」となり、それが全国のいくつかの地区でも始まり、現在の全国5地区での「地区大会」として「全日本選手権」に向けての予選となったのは、設立後16年を経た1987年の春でした。

今それが2001年に「第1回世界空道選手権大会」として「空道」を世界に発信して以来、各国で「国内大会」(国内的には「県大会」)が行われてきたものが、年数もほぼ同じくらいの15年目にして、今、一気に世界的規模にスケールアップし、遂には「各大陸」で(国内的には[地区大会]となる)「空道○○カップ」(カッコ内は大陸名)が行われるようになったと考えると、感慨無量なものがあります。

特に創生期に籍を置いた塾生や支部長も同様の想いがあると思います。(ご後援者、ファン、支部長、塾生等々、関係各位のご支援ご協力に、この紙面をお借りして、改めて感謝申し上げます)

さて、この「空道 ○○カップ」は直接には「世界大会」には繋がりませんが、今後いろんな国で、様々な名称の大会が創設され、その度ごとに空道のレベルは一段一段向上してゆくのでしょうが、それらの大会の中でも、その大陸で最大規模の大会が「空道 ○○カップ」(※)となるのです。

※10月4日に行われたモンゴルでの「第1回 空道アジアカップ モンゴル大会」( http://www.daidojuku.com/home/2015/mongol/ ) に次いで、既報の通り、11月1日には南米チリで、南米と北米の国、約10ヶ国が一堂に会し「第1回空道パンナム大会」が行われます。また来春には「第3回ヨーロッパカップ」も計画されており、いくつかの国からの希望も出ております。

更には、「世界大会」と次の「世界大会」の間には4年ありますが、世界大会の2年後には「空道 ワールドカップ○○大会」が開かれ「世界大会」に次ぐ、世界規模の大会となります。これには現在メキシコが名乗りを上げており、現在、政府やスポンサーと交渉中です。

そして、4年ごとの「第○回 世界空道選手権大会」は、常に、空道発祥の地、日本で開かれ、空道の最高峰を競う大会となるのです。

次回は2018年11月の「第5回 世界空道選手権大会」並びに[第2回 世界空道ジュニア選手権大会]ですが、4年は決して長くはありません。出場を期す選手、支部、後援者の方々は、それぞれの持ち場で一丸となって、今から計画を進めて頂きたいと思います。

(初稿2015.10.28)

コラム19 異種武道交流イベントによせて

編集部注)この文章は青森で開催された武道交流イベント記事(2015年2月23日掲載)へのコメントに加筆修正したものです。

嘗て、昭和柔道界の巨星、神永昭夫先生(※1)が、若くして亡くなった時にも「この人がいたなら日本の柔道界は盤石だったのに、と柔道界をあげて惜しまれた」と、空道のルーツである「大道塾」の初代理事長(※2)から聞いたことがあるが、斉藤(仁)氏(※3)の早逝もまた「柔道界にとって本当に惜しい人物を失くした」ものと思う。柔道というと(本人の意思とは関係なく)どうしても「世界の山下泰裕氏」(※4)が脚光を浴びがちだが、その当人すら「お互いにとって大きい存在だった (SANSPO.COM 1月21日記事)」と言っている。畑違いではあるが「技術的にも人間的にも評価の高い人物だ」と聞いていた。そのご縁でこんな良い企画が組めたのは、有難いことだった。感謝と同時に深甚なる哀悼の意を表したい。

こちらでも先日今、色々取り上げて貰ってる「スポーツゴジラ」発行元の「日本スポーツ学会」(長田渚左 代表理事 ※5)主催で、講道館で開かれた「スポーツを語り合う会」に参加することができた。その中で山下氏が「中国・南京やイスラエル、パレスチナ等での活動報告」 という演題で「柔道がいかに世界平和にコミットしてるか」という話や、筑波大学大学院スポーツ健康システム・マネジメント専攻長の菊幸一氏(※6)が「嘉納治五郎の魅力を語る」という演題で、「現代スポーツは嘉納治五郎から何を学ぶのか(※7)」という本を要約し「柔道の“教育性”や“文化性”の一方、加熱する“競技性”に、どう対応するか?」という、ウチにも当てはまる命題に関しての話を聞けたんだが、やはり柔道界に学ぶことは多い。

また、周知の事と思うが、柔術(寝技)は隔週でパラエストラ代表の中井祐樹師範(※8)に、本部の金曜日のクラスの後半に指導して貰っている。その縁で日大柔道部監督の金野潤先生の「柔道と柔術の技術交流を」という研究会にも参加させて貰えるようだ。パラエストラは武道という色は出してないのだろうが、柔道部出身の中井代表の指導する柔術は道の部分も残しているので、我々空道の選手も良い交流会になるのではと思う(勿論、組技や寝技主体だからアップアップするだろうが 笑)。

日本では少子化の影響に輪を掛けて若年層の武道離れがあり、国際大会に臨む予備軍育成はどの分野でも青息吐息である。何度も言うが、武道は日本の無形文化財と言っても良い重要な文化である。気付いていないのは武道をしない日本人だけだと、仕事のお蔭で100ヶ国以上は回って来たから、心の底から思う。また、海外では競技者がややもすると「勝てばいい=強くなればいい」式で捉えがちだが、武道を支援、導入してる社会的リーダー達の目的はそれのみではなく「社会を秩序の中で活性化させる」という事も大きな評価ポイントなはずである。だからこそ、貴重な国の予算を使って、武道を支援、育成してくれてるのだろう。

一方、武道母国である日本の場合、行政が放っておいても、武道は民間の支援でなんとかなってきたから「燈台下暗し」状態である。しかも、少子化の影響をもろに受け、競技人口の減少という面からも、行く末は厳しい。今迄の武道界のように、多くの人間が取り組んでいたから、技術体系の違いで足の引っ張り合いをする余裕もあった。しかし、今後はそんな”贅沢(?)“は許されない。少人数でも、違う体系の中から「根本的な違いはルール」として認めて、互いにとっての役立つ要素を学び合いながら、切磋琢磨しなければならない。即ち「武道母国日本の名誉を守る」という共通認識 (今はやりで言えば” 通奏低音(つうそうていおん)”か 笑)を元に、効率よく心技体を向上させ「己の分野では一歩も引かないぞ!という不退転の取り組み方をして行かなければ、日本武道の未来はないと思う。

閑話休題。ま、まだウチはにその前に、色々学び前進しなければならないことが山ほどあるんだが、そういう意味でも、今回のような機会を得たことは素晴らしい事だ。何にもまして、世界大会後、青森始め日本各地で、一般にはまだ耳慣れない「空道という武道」の選手が、一般だけでなくジュニアも含めて評価されることは本当にありがたい事だ。

本人たちの努力もさることながら、初めてそういう場に引き上げて頂いた、仙台市空道協会、平塚和彦会長(※9)を始めとする、各地での関係各位の方々のご尽力に心から、感謝申し上げます。

設立当初の「実戦性、安全性、大衆性を備えた武道」を創るのだ!と皆で、熱く燃えてはいたが、一人でいる時に湧き起こる「わぁ~俺たちはどこに向かってるんだろう・・・」という、えも言われない不安を思い出す時、この状況は夢のようである。重ねて御礼を申し上げさせて頂きます。

今回各地で表彰された選手や支部長、指導員、同じ支部の塾生諸君は、これがただ「自分たちの努力や指導、応援だけで達成できた」等とは決して思わないで貰いたい。「今日まで叱咤激励して頂いた多くの役員、後援者のお蔭だ」という事を忘れないで、しかし、まだまだ越えなければならない、山々に向かって行こう。

(初稿2015.2.23)

注(敬称略)

※1 神永昭夫(かみながあきお):宮城県仙台市出身の柔道家。日本代表として出場した1958年の世界選手権では準優勝。その後全日本選手権を、当時史上最多となる3度制覇(1960年,1961年,1964年)し、猪熊功とともに日本柔道界のトップ選手として君臨する(通称:神猪時代)。(ウィキペディア記事より引用)

※2 佐藤節夫(さとうせつお):初代大道塾理事長。現大道塾最高相談役。

※3 斉藤仁(さいとうひとし):青森県青森市出身の柔道家。ロサンゼルスオリンピック、ソウルオリンピック柔道男子95kg超級金メダリスト。(ウィキペディア記事より)

※4 山下泰裕(やましたやすひろ):柔道家。1984年ロサンゼルスオリンピック無差別優勝後、国民栄誉賞を授ける。引退から逆算して203連勝(引き分け含む)、また対外国人選手には生涯無敗(116勝無敗3引き分け)という大記録をもつ。(ウィキペディア記事より)

※5 長田渚左(おさだなぎさ):ノンフィクション作家。 近著に 『桜色の魂チャスラフスカはなぜ日本人を50年も愛したのか』 集英社刊。

※6 菊幸一(きくこういち):筑波大学体育系教授。同大学院スポーツ健康システム・マネジメント専攻長。

※7 菊幸一「現代スポーツは嘉納治五郎から何を学ぶのか」(単行本情報 Amazon

※8 中井祐樹(なかいゆうき):柔術家。パラエストラ東京主宰。現日本修斗協会会長。

※9 平塚和彦(ひらつかかずひこ):大道塾評議委員長。国際空道連盟顧問。全日本空道連盟副理事長。

コラム18 得意澹(たん)然、失意泰然

この所、格闘技雑誌が空道、大道塾の記事をよく取り上げてくれている。先月の「フルコンタクト」4月号では、「空道躍進!世界へ向けて(前篇)」、5月号では「空道躍進!世界へ向けて(後篇)」に加えて、「空道特別昇段審査」として海外2支部長の昇段審査の模様を、一方、「Fight &Life」4月号(Vol.41)では、「2014北斗旗 第4回世界空道選手権大会」への道、として「我々の知らぬ間に空道は世界を席巻していた!」、又、「ゴング格闘技」5月号ではゴン格的拳闘で「“武人”長田賢一、我レ、武ニ生キ、私ヲ滅ス」等々。

数年前には考えられない異常ともいえる“盛況振り”である。これ等は全て’90年代からの「どっちが強いでショー」の“格闘技ブーム”が2000年初めに崩壊し、見る影もなく地盤沈下をしているかのような「武道・格闘技界」にあって、1981年の大道塾設立、2001年の空道創始を通じて「武道こそが社会を支える人材を養成し、日本を、世界を救う道だ!」との、不器用ではあるが、現代社会が忘れている「武道の原点」を頑なに守ってきた「空道の理念」「大道塾の歴史」が、ようやく浸透し振り向いて貰えるようになったという事だろうか?(我々としてはそう思いたいものだが・・・)

天邪鬼(あまのじゃく)を言うようだが、残念ながらそうではないだろう。これらは全て、昨年のワールドゲームズデモ参加や、今年6月の日本外務省とロシアスポーツ省の後援による「日露武道友好年」への参加等々が、今までの「空道  大道塾独自の行事」としてではなく、様々な、より大きな機会に顔を出すようになった為に「空道の“イべント”とか“トピックス”」として取り上げられるようになったからだろう。更にはそれが来る11月の「2014北斗旗 第4回世界空道選手権大会」&「2014第1回世界空道ジュニア選手権大会」への注目へも繋がっているからなのだろう。何にせよ、設立以来の主義主張を通す為だったとはいえ、長かった暗闇のトンネルと抜け出たような晴れがましいような気になるのは、ご同慶の至りだ。

が、しかしこのようなイベントやトピックスで形成される、世論、世評というものは“ 移り気”なものである。即ち、この「世界大会の結果如何(いかん)」が、今後の評価にも直結していることを忘れてはいけない。例えは悪いが、言わば“格闘技ブーム”では注目されていなかった(自ら距離をおいていた=(イコール)一般的、世間的には「注目されていなかった」事になる)、“空道”という、まだそれほど“手垢の付いていない目新しい武道”に、世間がチョッと興味を持っただけなのだ。「これから、遠慮会釈なく“値踏み”される」という事を忘れてはならない。

過去10数年を振り返る時、順境の時には見知らぬ人もが集まるが、逆境の時には身近な人でさえ去る、という事を痛いほど学んだ。その時の為に「得意澹(たん)然、失意泰然」※1とか、「人と結びて有情を体す」(東京堂出版)でも触れたように「行蔵は我に存す、毀誉は云々」※2等々の言葉があるのだが、いざ現実にそうなった時には、頭ではそう思っても、心は中々そうは割り切れ(吹っ切れ)ないものだ。

※1  得意澹然、失意泰然(とくいたんぜん、しついたいぜん)・・「得意澹然(とくいたんぜん)」とは、物事が上手くいって得意な気分のときは、努めて淡々とした態度を示すこと。 「失意泰然(しついたいぜん)」とは、失意のときは、やせ我慢でいいからゆっくり落ち着いていること。

※2  原文は「行蔵(こうぞう)は我に存(そん)す。 毀誉(きよ)は人の主張、我に与(あずか)らず我に関せずと存じ候(そうろう)。 各人へ御示し御座候とも毛頭異存(もうとういぞん)これなく候。」
我が行いは自らの信念によるものである。けなしたりほめたりするのは人の勝手である。私は関与しない。どなたにお示しいただいてもまったく異存はない。

実際、好むと好まないとに関わらず、人生には何度かそういう逆境、苦境の時は必ずある。その時にへこたれない、潰れないためには何が必要なのか??それがこの世界の人間が日頃から(深く内容も考えないで?)“お題目”のように口にする“修行※3”の精神だろう。

※3  10年ほど前の宗教がらみの事件の為に、この言葉(修行)が敬遠され貶(おとし)められているが、(面白き事もなき?)この世(人世)を何とか全うするためには、この言葉は便利な、強力な支えとなってくれるもので、これらの逆境、苦境をも、今日的に言えば「ピンチはチャンス」即ち、「自分を磨くための試練」や、それ以上に「自分の厚みを増すための好機とすら捉える、強(したた)かさ、強靭さを思い起こさせてくれる言葉だ。(誰だって、「苦しい練習は嫌だが、人より苦しまなければ強くなれない。やるかー!」と同じだ 爆)

最近の日本は「長年の平和な社会が生んだ」賜物で、そういう人世の実相と離れた、軽くて明るい人が持て囃される時代(“好青年”や“爽やかさ”ブーム)だが、それは偶々の僥倖のお陰で、多くの賢人、先達が言うように「人類の歴史は戦いの歴史である」。最近の国際社会の情勢を見ていると、「この平和がいつ崩れてもおかしくはない」というのが時代の足音のような気がする。だから、その為にも、若い時に、大なり小なりの「逆境に打ち克つ」という経験が必要なのだと思うが、日本人は基本的には、17条憲法以来の「和をもって貴しとなす国是、歴史」と、海に守られた島国ゆえの「国防意識の極めて弱い≒平和を愛好する民族」≒「争い事は直視したがらない」民族だから、一度の敗戦で「病膏肓に入ってしまい」なるべく武道とか武術という荒事からは目を逸らしたい。その為に、武道の本質を意図的に脇にやり、ただ単なる肉体的強者を生み出すスポーツの一種としか扱わないのが、敗戦国日本の「世界に対しての“処世術”」なのだろう。

例によって、わき道で説教してしまった(悪い癖だ  笑)。だから、「これから、遠慮会釈なく“値踏み”される」という事を忘れてはならない、以降に続くが、最近ちょっと露出が増えたからと言って、風向き(世評、評判)はいつどのように変わるか分からないので、調子に乗り過ぎないに越したことはない。しかしながら、引用した「得意澹(たん)然、失意泰然」は「良い時だからと言って調子に乗り過ぎず、淡々としていろ。一方、失意の時だからと言って、悄然となるな。落ち着いて嵐の過ぎるのを待て」と言っているので、何も「調子の良い時までしかつめらしい(陰気臭い)顔をしろ」と言っているのではない。

結論。“ノッテル”時には、その勢いを自分から削ぐ必要はない。塾生のみなさんは、最近の風向きに安心、慢心することなく、まだ「空道 大道塾」を認識頂いていない多くの人々へ、これらの雑誌があれば単なる言葉以上に説明、広報をし易いので、是非、手に取って(購入して 笑)、「空道とは・・・」と積極的に「空道大道塾」と「世界大会」の広報、普及(並びに「社会体育としての武道スポーツ・空道」という原点を忘れずに、自分自身の日々の精進)に邁進して頂きたい。

最後に、(しつこい! 笑) 最近、候補選手は「頑張ります」、「必ず世界を獲ります」と言い、選手でない塾生は事ある毎に、「自分は選手ではありませんが、世界大会の為にできる限りの事はさせて頂きます」とは言ってくれる。有難う!!そうなのだ。「世界大会」は選手のみがではなく、正に“総力戦”なのだ。何度も言うが11月14~16日間の「世界大会の観戦」と、それまでの「広報活動」、「友人、知人の観戦勧誘」を常に心掛けて貰いたい。それが即ち、「全塾生が参加する世界大会」になるのだから。(完全にセールストークになっているか 爆)

文書日付2014.3.27