チリ遠征  >  塾長レポート

06-13Jan11 チリ遠征道中雑感

今回の遠征記は、「人数も多いから他のみんなに任せていいだろう」と思ってたが、生来の野次馬で、何でも、見たい、聞きたい、知りたい、知らせたい方だから、もっと先にしなくちゃならない大事なことが一杯あり、夜中の貴重な時間を使ってこんな雑文を書いてるときじゃないのだが・・・・。

しかし元々記憶力が弱い(だから同じことで何度も蹴躓く笑)上に、寄る年波で一層物覚えが悪くなってるから(先日弟子に“モロ”に、“自然”に、「先生“ボケ”ですか?」って。「お前、この野郎!!殴るぞ!」)“書く”ことで自分の記憶も確かなものにしておきたい(※)という思惑もある。

※(編集部注:塾長コラム13
人に見せるためではなく、「去年の今頃は何をしてたんだ?3年前は??5年前は??」と考えた時、雑文でも何かを書き遺しておけば、単に日誌や手帳を見て、ああこんな事をしてたんだな、とデジタル的に大文字の記憶を繋ぐだけではなく、それに小文字が加わり、更には色や匂い、小味といったものまできかせて、いい酒のツマミになるはずだから。

更には、境界が曖昧な仕事ではあるが笑、いわば公務で行って来たのだし、みんなに報告する為にもと、パソの受信メールや事務局からの「チェックお願いします」の書類を後回しにしてしまう。困ったものだ(泣)。
等々クドクドと言い訳しながら・・・。誰だ俺に「はみ出し人生」等とネーミングしたのは!!まさに“言霊(ことだま)”じゃないかぁぁぁー!!(笑)

********** ≪ここから本文≫**********

正月早々、松の内も明けない6日から13日まで行ってきた「チリ遠征(セミナー、大会、審査)」。今回は南米で初めての空道の大会で近隣のアルゼンチン、ペルー、ボリビア、コロンビア、ブラジルと5ヶ国が参加することになっていたのだが、「アスタマニアーナ」(Hasta manana! (スペイン語で「じゃまたあした」=「明日でも間にああーわな、焦るこたぁーない、まずビールでも飲めよ!」、に私には聞こえる 笑)の大陸だから、何の連絡もなくブラジル以外は来なかった!!!(泣)。

それでも空港に着く所から、時代の先端を行くチリ支部長Rafael Garay(ラファエルギャレイ※) がリアルタイムで“youtube”にUPしたこともあって(変な会話まで乗ってないだろうな、おい!)、セミナー、大会共に凄い反響だったらしい。片道25〜28時間の道中を繰り返すとは考えにくいが、つい“ノリ”で「初めての本格的な空道の大会なのに良い試合が多かった。よりレベルが高くなったころにまた来たい」などと言ってしまったが笑、今後の発展が本当に楽しみだ。

※元チリ中央大学の経済学部長で、現在はヘッドハンティングされ経済アナリスト、投資コンサルタント、飲食業や美術館などの経営をする(俺には訳が分らん)会社の役員をしているマルチ人間、「うーん、“空”だな―」(爆)

それはさておき(みんなに任せて)、途中ダラスで乗り継ぎがあり待ち時間が12時間!!!あった。ということで野次馬がおとなしくしていられる訳がない笑。1963年の11月22日に殺されたケネディ大統領の暗殺現場へと即、予定通りに向かった!!その射殺場所となった教科書倉庫は今でも残っており、というか博物館として(私のような無責任な野次馬には特に、だが)訪れる人の絶えない観光スポットになっている。

この事件は私が中学2年生の時だ(1963-1949=14歳)。テレビはその10年前の1953年からNHKが放映を開始して以来、1959年の明仁皇太子(今上天皇)と美智子さま(現皇后)の「ご成婚パレード」や、「1964年のオリンピック」を「テレビで見よう!!」とのキャンペーンが功を奏し、この当時で63%くらいの普及率だった。それでも現在のような「ニュース・ショー」は当然なく、教育テレビと同じく“堅い番組“で、一般庶民の間で積極的にニュースを見ようという人間は多くはなかったと思う。ニュースと言うのは何か仕事をしながらラジオで聞くのが普通だった。

だからこの事件は私にとって(NHK初の宇宙中継でもあり前評判も高かったこともあり)初めて、映像としてみた衝撃の暗殺事件だった、しかも正にリアルタイムで!!!(※) 確か日曜日の昼ころだと思うが(ケネディ大統領暗殺事件 Wikipedia)普通は野球部の練習で見れる時間ではないのだが、なぜかその日私は、日当たりの良い昼下がりの庭で洗濯物なんかを干しながら空を見ていた記憶がある。正にのどかな「うさぎ追いし〜あの山〜」の懐かしい世界である。が、事件は起こったのだ――!!!!!!

※初めにこの文を書いた時はそう思ったのだが、改めて調べてみると、事件の起きたのはダラス時間で12:30(中部標準時)で、日本との時差は-15時間だから、日本は夜中の12時からまだ3時間さかのぼって、夜の9時なはずだと思い直した。ということは昼に見たのは録画か?ああ、だから後述するが、ジャクリーン夫人の射撃を受けた直後の行動も見れた訳か!!

幸いウチの親戚で電気屋さんをしている人がいて「“オバンツァン”(祖母)に見せたい」というので、家にはテレビの創成期(私が小学生のころ)から当時として一番くらい大きかった(普通が14型のところ、今は中型でしかないだろうが)24型か27型のテレビ受像機(懐かしい言い方だ!!)が置かれていたから、テレビは比較的早くから馴染んだ“茶の間の王様”だった(これまた懐かしい言い方だ!!)。

相撲などが始まると隣近所から多くの人が集まって「若乃花頑張れ!」「栃錦負けるな!」と言う感じで大騒ぎだった。その人達を見て「俺の家は大きいし、すげーなー」とひそかに誇っていたものだった。(だから高校生になり大学進学を宣言した時に「どこにそんな金がある、ばかも休み休み言え!さっさと就職しろ!!」と親父に言われてときは本当にショックだった、シュン。その一言から、以降10年以上にも亘る人生の疾風怒濤(単なる“迷走”?)が始まったのだった・・・。

それでも、小学校低学年では、「冒険王」や「痛快ブック」、「少年画報」や「少年クラブ」、高学年になってからは始まったばかりの「少年マガジン」、「少年キング」、「少年サンデー」などを持ってる子分子(こぶんこ)から取り上げてはその連載漫画を夢中で読みまくっていた私も、中学頃には徐々に漫画で読んだ「ハリマオ」や、「恐怖のミイラ」、プロレスなどのテレビに惹きつけられ、毎週欠かさず見て、現在のような“妄想癖(脳?)”を醸成しつつあった(笑)。

閑話休題(はみ出し停止)。そんな時に、実際は海の向こうのアメリカだが、“目前”で本物の殺人事件が起き、しかもそれをテレビを通じてリアルタイムで見たのだ!!!! 隔世の感があり、今はこんな殺人事件の実写映像など毎日のように流されていて珍しくもなんともなくなったが(考えてみれば怖い話ではある!)、当時は、映画の中でならともかく、“現実の殺人事件”が人目に晒されるなど思いもよらなかったころだ!!しかも動く絵(映像)で!!!その衝撃は程度も広がりも空前絶後のものだった。

のんびりした田舎の中学生だったが、いわゆる団塊の世代で野球漬けの中学時代も後半に入り、“受験戦争”を契機に徐々に進路なども考えるようになり“世界”に目覚めてきていた私だったが、この事件は想像をはるかに超えていて、「こんな事が現実にあるのか!!!」、「本当に今、地球の裏側で起きてるの事なのか???」と言う感じですぐには信じられなかった。しかし、「まさかニュースで嘘を放送する訳がないだろうし・・・・やっぱり本当の事なんだろう」、と納得するしかなく(今の眉唾で見られるテレビと違って、当時はテレビは「真実そのもの」、「世界そのもの」だったから)、教科書では理想の国のように教えられていたアメリカって怖い国だなー」と身をすくめたものだった。

家柄がよくスポーツ万能(?に見えた)、頭脳明晰で二枚目で大統領選では、「国がなにをしてくれるかではない、諸君が国に何をできるかだ“And so, my fellow Americans, ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country.My fellow citizens of the world, ask not what America will do for you,but what together we can do for the freedom of man. ”」と、今の日本にも(こそ)絶対に必要な名演説で当選し、前年の1962年、ロシアがアメリカの裏庭(?)ともいうキューバにミサイルを配備して「第3次世界大戦が始まるのでは?」と世界を恐怖に陥れたあの「キューバ危機(Wikipedia)」を強靭な指導力で解決し、美人で知的で優雅な、聖母のようジャクリーン夫人との理想的な家庭を作って(その虚像が崩れた時も哀しかったが泣)、正に飛ぶ鳥を落とす勢いの“生ける伝説”が頭を撃ち抜かれ、その脳をジャクリーン夫人が半狂乱になりながら“掻き集めて”いる映像は(初めは何をしているかわからなかったが、後でその話を聞いたときは)正に、鳥肌が立ったものだった、今でも。

事件の公式調査委員会(ウォーレン委員会)は「暗殺者はすべての権威への根深い反感を持つオズワルドで、それを義憤に駆られたてジャックルビーが撃ち殺した」となってるが、そんなことを信じている人間はそういないだろう。明らかな口封じで、その後も続々と死んだ多くの事件関係者の一人としてジャックルビー自体も数年後に死んでいる。普通に考えてあまりに革新的な政策を嫌った(黒人への公民権運動への理解など) 旧体制派、「ベトナム戦争からの撤退」に反対の産軍複合体、父の代からの繋がりを切られかけていたマフィア等々、多くの既得権を侵されかけていた側からの巨大な陰謀だろう。

1963年の事件を見て「これから世界はどうなるんだろう?」と幼心(笑)に不安が過(よぎ)ったものだった。とはいえ世界はなんとかここまで来たのだが、2029年とか2039年という情報公開の日にはどんな事実が飛び出すのか?そのころ世界はどうなってるのだろうか???私がその日に“真相”とやらを知ることができるかどうは、年齢的にも“微妙な”ところだが(笑)・・・・・。

それ以上にすでに多くの事件資料の散逸が言われているらしいから、18年か28年後には、多くの歴史的な事件と同じように、曖昧な報告でこれもまた多くの歴史的事件と同じように闇の中に紛れてしまうのだろうか・・・。

人の心は移ろいやすいものだ。その時にも一時的な関心は高まるだろうが、特にその時に繋がる何らかの利害でも生じない限りは、事件の徹底的な解明などは行われないのではないか。正に“無常”正に「ゆく川の流れは絶えずして・・・・世の中にある人とすみか・・・無常をあらそひ去るさま」(方丈記 Wikipedia)である。

等々「休むに似たり」の考えを巡らせながらも「今俺は、あの時テレビで見た衝撃の事件現場に48年の時空を飛び越えて立っている!!」という感動(という言い方はないだろうが)、不思議(?)さは、「撮影禁止」の張り紙や警備員の目を盗んで、射撃現場の7階のすぐ上の階から殺された道路に目がけて、動画以外は評判の悪いXactiの、ムービーボタンを夢中で押すのに充分なエネルギーをくれたのだった 笑&反省

ここから様々な陰謀説の検証や、アメリカ銃社会への考察など、もっともっと話は広がるし、その後チリで全日程を終えて連れられて行ったWinery (ワイナリー、ワインの醸造所)で、眼前のどこまでも蒼く広がる空と、爽やかな風が渡る広大なVineyard(ビネヤード:葡萄園)を、車で道を分けながら進む時に感じた「この仕事も色々あり厭になることも度々だが、子供心に衝撃を受けた事件のダラスの現場を訪ねられたり、普通の仕事じゃ絶対に来ないだろう、地球の真裏のこの情景の中で(産直のワインで“いーいココロモチ”になれたり 笑)、しかも単なる観光客として通り一遍の説明を聞きながらウロチョロするのではなく、眼の色、肌の色は違うが気の置けない同じ道を志す人間たちと、“ワイワイ、ガヤガヤ”馬鹿を言いながら共に居れる、という幸せを考えた時、「弱音などはいたなら罰が当たるなー」と隣にいる友次支部長と話したものだった。

・・・云々と美しく(笑)続くのだが、「オトーサン、またも夜中から起きてるんでしょう?今日も運営会議の資料作りや夜は強化練習や新年会で忙しいんだから少しは仮眠しないと昨日みたいに悪酔いしますよ」との“お上(かみ)”の声で現実に返った!!!!

というわけで、取り留めもない話が、挙句に尻切れトンボで終わるという重なる失礼をお詫びして、取り敢えず今日はこの辺で、爆。

シツコク:でもワイナリーの感動は後日時間を見つけて続けたい、な―・・・・まる。

(2011.1.31改訂)

このページのトップへ

本サイトに掲載の記事・写真等の無断転載を禁止します。
Copyright(C) KUDO ALL JAPAN FEDERETION DAIDOJUKU. all rights reserved.
このページを閉じる