東ヨーロッパ(バルカン)大会東孝旅日記

10月16日

今回の大会は昨年「第一回欧州大会」(大会レポート)を成功させたブルガリア連盟がバルカン半島周辺の国のレベルアップを図るために企画したもの。夏にもロシアから指導員を呼んでセミナー(1週間!!)をしたりして、支部や周辺国の技術向上も仕掛けているディンコ支部長のヤル気が感じられる大会だ。

本来、この「東ヨーロッパ(バルカン)大会」に行く予定はなかったのだが、一つは海外試合を切望していた岡 裕美選手が、昨年の「世界vsロシア対抗格闘技大会」(大会レポート)を仕事の関係で見送ったり、先の「アジア大会」でも、(空道の新興地)アジアには女子塾生は結構いるものの国際大会に出るレベルの選手はまだいないということで、「世界女子の研究の為にも、今回は是非に」ということで参加することになった。

結局、ブルガリア側からも「大会翌日に審査を受けたい指導者もいるので、やはり塾長に審判監査を兼ねて来て頂きたい」となった。実際、人数に関係なく受験者の一人は四段で、この段位の受験者を審査できるのは六段以上でないとできないので私が行くしかない。さらにまた、アジア大会翌日の昇級・段審査の受験者数を顧みると、受験手続も私一人では手に負えないと思い、就職活動で日本を離れたくない娘を無理やり引っ張り出して3人でブルガリアに向かった。

国内的には全日本前でかなり慌ただしい時期である。以前ならとても海外遠征どころの話ではない。これには国内の行事の大概は積年のマニュアルもあるとはいえ、田中、柴田の両事務局が、迅速、適切、強引(?)に対応処理してくれるので、世界大会を前にして心置きなく海外の行事に当たれるという頼もしい援護射撃(?)もあるからだ(多謝!) 両人を含め、スタッフ的には零細企業(町工場?)並みの総本部だ、「この人数でホントよくこれだけの行事をやるよなー!」と、誰も褒めてくれないが(愚痴を含んで)自画自賛。

しかも次の週の10月24日には、昨年から始まった第一回、第二回の「欧州大会」(大会レポート)、「第一回アジア大会」(大会レポート)に次ぎ、「地(大陸)大会(※)」の第4弾、「中東・アフリカ大会」が行われる。前3回同様、初期の「地(大陸)大会」もあるので、主催国のUAE(アラブ首長国連邦)の要請により、結局、審判と選手で日本からは全体で10人弱の代表団になった。

※「地(大陸)大会」:世界大会の前段階として各地域で、参加意識、運営能力、試合技術、審判技術等々の向上を図る目的で行われる。国内の「地区大会」と混同なきよう。日本側には選手の海外試合体験、審判の模範演武と言った基本的な意味がある。特に中東は広義(地政学上、他の国際競技等々)では既にアジアの一部として扱われている。

そんな諸々で、いくら私が「若い(成長してない?)ですねー」と煽て(呆れ?) られても、「東ヨーロッパ(バルカン)大会」が終わってすぐ日本に戻ってまた中東引率では(「2週間で海外2往復」)体力的には別にしても、時間的、経費的な意味で大きな無駄になる。そのままUAEに直行した方が良いだろうと、日本軍(笑)は事務局長に引率してもらう事にした。

21:55 海外遠征する場合、夕方発は離陸直後に食事が出てそのまま眠れるという意味で、体調上頗(すこぶ)る良い流れだ。尤も大道塾を立ち上げて以来、睡眠は基本が3-4時間で、元気な時や仕事がたまっている時は3時間前後、疲れている時は5-6時間、但し眠くなったなら即“うたた寝”、という生活なので、いつも時差の中で生活しているようなものだから、朝出発でもあまり関係ないが(苦笑)約13時間の飛行中、例によっ てビールや水割りを片手に雑誌を読んだり、映画を観たりウツラウツラしたりの贅沢な時間を過ごし、パリ・ドゴール空港着。

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10月17日

22時+13時≒35時(-24時)で、次の日の朝11時なはずだが、時差-7時間なので11-7時=4時。(正確には04:15)。ここで6時間待ち!!少しでも時間を減らそうと、出発ゲートを確認したあとは、「折角、岡がパリの地を踏んだのだから」と第1ターミナルの車寄せまで出て「これでパリの土を踏んだな!」と馬鹿なことをしたりしながら6:30からのコーヒーショップで一杯。何をって?当然、コーヒーでしょう笑。
7時頃にゲートに戻り、ワイヤレスに切り替えてきたはずだからと接続するがローカル(空港内)には繋がってもインターネットにが繋がらない。結局、今回は同行者が少なくしかも二人は試合後翌日の19日に帰国するので、日誌は自分も書くようだろうと、観念してキーボードをパチパチ。10:20出発。
14:05 昨年できた第2ターミナルに到着、ロシア、セルビア、リトアニア勢が迎えてくれた。

今回のトーナメント会場となるStara Zagora cityはブルガリア中南部の都市で、通常は車で2時間半の距離だが、途中大型トラック横転事故の影響もあり4時間半掛り!7時頃着。8時からルールミーティング(何点か課題) 9時からホテルレストランでウェルカムパーティ だが、金曜日で街有数のレストランなためか歌手の生出演で話も何もできない。互いに身振り手振りや顔つきでそれらしいコミュニケーションしかできなかった。11時、部屋に戻りやっと休めるかとホッとする間もなく、来年の「第三 回世界空道選手権大会」等などの話をと部屋のドアをノックするロシア勢と協議(叫議??)開始。

ロシアは来年2月の「全ロシア少年大会」の後、5月に国内予選をして選手を絞りその後、7月を手始めに1週間ほどの合宿(!)を数度繰り返して11月に臨むのだそうだ。(例年私に審判長として臨席を希望するが世界大会の時だけは「予算がないから」と呼ばない(笑)それだけ本気ということだが、日本勢にこれほどの意識があるかと言われれば正直心もとない。

NHG空マスクの件についても「確かに、この新しいマスク[NEO Head Gear空 (ネオヘッドギア 空)]は視界が広くていいが、正面が従来より低くなった分、鼻が高い自分ら欧米人はすぐに鼻に当たり不利で、日本勢に有利になっている」等と言う。これは有利不利の問題ではなく、今回のマスク改良の理由でもあるので、誤解のないようにチャンと説明しておいた方が良いと以下のように説明した。

「確かに外国人選手は打たれ強く,多少東洋人に打たれても頑張れることは認める。しかし、本来なら当たって何らかのダメージになるのに、マスクに守られて突っ込んで来るのは実戦を考えれば何度も取れる戦法ではない。逆に、本来ならスウェーなどでかわしてダメージを避けられるはずが、従来の面では中央部が盛り上がっているので横からのフックが引っ掛かりやすいし、空気穴で視界が狭いからがストレートも見えにくくパンチをもらいやすかった。

今までは一般社会人が現実に近い試合を(顔面攻撃を認めながら失明や、顔を傷つけことなしに)戦うにはあの防具しかなかったから仕方がなかった。しかし30年近く、素手に近い状態で顔面殴打、連打が可能な面を追求してきた我々だからこそ、これを開発できたんだ。自分達にとっての有利不利などという狭い考えからではなく、武道界全体のことを考えている」等など縷々(るる)説明したなら、最後は彼らも納得した。

それにしてもこの世界は大きく実績がモノを言う。年々、力を付けて来ているロシア勢、主張もそれなりになってきている。政治経済文化と「退潮著しい日本」として国際社会の中での地盤沈下が進んでいるが、この辺で日本勢が現在の状況を自覚し、日本にとっての大きな財産である武道、中でも新しい武道として世界に発信力がある空道を何としても守らなければならない。そんなこんなを思いながら過ごした時間だった。
眠い目をこすりながらいる第2ボス(というと怒るが笑)にメモを取らせながら様々に協議。とは言っても、連中も空道を愛しているが故の提言だ。胸襟を開いて話せば分かる。1時過ぎにやっと決着を見た。

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10月18日

4時頃起床。寝たのが2時過ぎだからレム睡眠とノンレム睡眠のひと山1時間半で起床。
まだボーとしているがメールが気になり7時までPC。7時半朝食。9時出発、10時試合開始。ロシア中心のヨーロッパ大会から見ると、「空道」後進国(済まん!)東欧が中心だから、初めは酷い試合が多かった。第1戦の岡は、師匠であるZorinが「ビコワを一回り大きくして今ビコワより強くなりつつある」と自慢した上り坂のDarya Timoshina(ロシア)に延長判定で敗れたが、ブルガリアのNina Djurovaには判定勝ちをして1勝1敗だった。岡は今回の試合で来る世界大会への課題を見つけたと思う。4時終了。 

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10月19日

審査10:30-13:00 前回の第一回アジア大会(モンゴル)のあとのような大勢での審査を予想していたにも関わらず勝手に「今回は黒帯審査だけ」と通知したらしくて(!)それ程でもなかったのでちょっとムッ!とした(笑)。しかし、受験者が多いと多方面に目を配らなくてはならないから自分が動くことはあまり出来ないが、逆だと自分も練習を兼ねて一緒に汗を掛ける。基本が終わって体が温まってくると、次第に「道着を着た甲斐があったなー!」という気になってしまう(この年でこんなことを考えている“センセイ”もいないだろうなー、経営者失格か?まったく困ったものだ 笑)

14:00 審査終了後近くの有名なイタリアレストランまで歩きながら移動。いろんな国や街に行っても、「せっかく“ジュクチョー”を呼んだのだ。いろんな行事をこなして欲しいと」ばかりに行事を入れ込むので、勢い車での移動が多く中々歩く機会はない。こうやってみんなとああでもないこうでもないベチャクチャ喋りながら歩くと、眼の端にその街の素顔が見えたり、空気や風を肌で感じられるので非常に楽しいものだ。20分ほど歩いて、これまた有名な(と言いながら名前は覚えてはいないが)イタリアレストランに着き、乾いた体に水分補給をしながらピッツアを3人分食べた。満足、満足。フー、これでこの地での公式行事も無事終了。心身ともに一番寛ぐ時間だ。
15:30 ホテルに戻り18:00までPCチェック。

19:00 ブルガリア滞在最終日。旅先では下にも置かないような接待を受けるから(そうでないところも稀にはあるが 笑)通常は帰る前日のディナーはこちらが持つことになっている。が、今回は期間に短いということもあるからか、みな特にロシア勢は!!連日、[昼夜を分かたない公的、私的行事]の疲れで、中華レストランに集まった時はみな疲れ顔。特に通訳は(支部長がノンビリしているから 笑)「行事の全部を私に振って来る!」と常々こぼしていたがもう限界か?私に対してもムスッとして「取りつく島もない」状態(俺に八つ当たりするな!)

ブルガリアは1908年、ロシアによりオスマン帝国から解放されたこともあり、冷戦の時は親ソ連の体制をとりソ連の16番目の共和国と呼ばれた程で、殆どの人はロシア語を話す。ロシア連盟が例によって「ヨーロッパの一員」として審判協力をしたこともあり、みな初めは疲れた顔をしていたが料理を前にしたなら俄然、元気復活!!ロシア語で会話し楽しそうに腹を抱えたりテーブルを叩いたりして騒いでいるのに、それを全く私に伝えない。冗談の好きなエストニアのゴルベフ支部長が中心になって例によっての際どい冗談を連発していたんだろうが(エストニア遠征レポート)、私も世界中のあらゆる国の会話に放り込まれるのには慣れているから、言葉は分からなくても話している連中の表情や反応で大体の意味は分かるようになった。いつ宇宙からの使者が来ても大丈夫である(笑)。

ここで紹介して良いのは(笑)どうも前回日本に来た時の話で「道路を渡ろうと“左を見て”車が来ないからと、一歩踏み出したなら、突然右から大きなクラクションを鳴らされて飛びあがっちゃったよ!!」という話のようだ。これは逆な意味で我々日本人もこの話の右と左を逆にすると同じ経験をするから分かる、分かる・・・、という感じだ。これらの話を愛嬌のある顔で身振り手振りで大袈裟に話すから、みんな爆笑の渦だ!!

しかしそれも延々と30分も続けられるとこっちの集中力も切れてくるから、途中から全く話の流れが分からなくなった。しかし彼女は全く通訳しようとしない!!海外に同行する塾生の多くが味わうであろう、「会話の中での孤独」を初めて味わった。本来なら「訳してくれよ」というところだが私も疲れて相手の機嫌を取る気もなくなっていたから、そのまま白けた顔をしていたなら、向いのフィリポフが気を遣って訳してくれた・・・。フィリポフは外国人にしては珍しく気配りのできる男だ。ま、プロの通訳じゃないから文句も言えないと我慢したが、それにしてもまったく・・・・。

早々に切り上げて宿に帰り次の中東大会の主催者ドバイのMatvey(※)と交信、大会準備状況を尋ねてから入浴。01:30就寝。(※ロシア読みでは“マタエフ”だが今時の若い日本人以上に日本語に詳しいコノネンコ(東北支部)に“マタベイ”(又兵衛?)という名前を付けて貰って喜んでいた。

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10月20日

04:28-10:47 メール(NY、クエ、本部電、根田等々)  09:00 朝食  10:30 出発 途中昼食
13:40 空港着 15:00  ソフィア発
16:55 パリ着(3時間?) ここでも6時間待ちだが、丁度日誌を付けてなかったので打ち込み。
23:20 パリ発。アラブ人のバアちゃんがパリで苦労して娘を育てたのだろう、「娘がドバイで医者をしてるので遊びに呼ばれたの」とリンゴを差し出しながら嬉しそうに話しかけてくる。

東孝旅日記 中東アフリカ大会」へ続く

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