(其の4)支えてくれた方々について

(其の4)支えてくれた方々について

 ― 道場生以外でキーとなる方についてお話をお聞かせください。
塾長 まずは(最終回でもふれたが)半沢義巳先生だね。多くの後援者に支えられて仙台で一番のホテルで東北経済界のドンともいうべき(株)カメイの亀井文蔵会長を始め錚々たる仙台政財界の方々を招いて大道塾設立パーティをやったときに、半沢先生は「東君!これからが大変なんだぞ。」とアドバイスをしてくれた(脅し 笑?)。当時は俺も若くて向う見ずだったから「何を心配してるんだろう、こんなに盛り上がってるのに・・・」とすぐにその意味はわからなかったが、徐々にそれはボディブローのように効いて来た…。
半沢義巳先生
その生き方が東塾長の道標となった半沢義巳先生
塾長 その後に想像もしていなかった事態が様々に起き(道場使用停止の画策、指導員の引き抜き、後援者の切り崩し、かつての先輩や後輩、元弟子の誹謗中傷、離反等など・・)予想もしていない展開が生まれる度に、「果たして俺は代表者として団体を主唱するなどという能力や資質があるのか?」などと悩んだりした時にも、先生は「東、始めた以上は途中で投げるわけにはいかないんだからな」と会う度に励まされたし、血液型も同じB型と聞いていて、その先生が率先して道着を着て生徒と触れ合う姿を見ていたので「そうか、おれも半沢先生のような、 肩肘張らない自分の“地”で生徒と接する指導者を目指せば何とかなるかー」と力付けられたものだった。もっとも、ガサツな武骨者の俺(※)などの事を”若い友人だ”などと言って一緒に飲んだり歌ったりしてくれたが、先生はキリスト教徒で教育者だったから、軽妙洒脱でいわゆる品格があったけど…(笑)
※せめて「粗にして野だが卑ではない」位は言いたいが(泣)
半沢先生との思い出を語る東塾長
塾長 様々な紆余曲折はあったが、今に至るルールの原点である顔面パンチ+投げの「第1回全東北空手道選手権大会」を(株)カメイやミヤギテレビの亀井文蔵会長(当時)や、元理事長で現相談役、全国食肉卸売業協会佐藤節夫理事長や、評議委員長で現仙台市体育指導委員協議会平塚和彦理事長のご指導のもとで開催出来たことが一つの契機になった。

(第1回全東北空手道選手権大会についてのエピソードは本編までお待ちください)

塾長 佐藤節夫相談役は第9回全日本で優勝した時に極真会総本部の評議委員長だった河合大介先生に紹介されたんだが、先生は政界のフィクサー的な人だと聞いていたから“怖くて”1年位逢わなかった(笑)所が東京に出る度に何度も「会ったか?」と聞かれるので初めは「アリバイ的に会うだけにしよう」と思ってたんだが、俺も柔道上がり(で、へそ曲がり?)という事もあったのか、すっかり意気投合してしまった訳だ(笑)
柔道五段で既に宮城県柔道連盟の理事までしていて、当時は今以上に、空手界と柔道界は犬猿の仲だったにもかかわらず、空手界代表的な極真会で俺の弟子になったため、一時は理事まで外されたほどだった。しかし、心身ともに“サムライ”みたいな人だから「肩書なんてどうでもいい、コッチの方が実戦の役に立つ」って(笑)何と白帯から始めたわけさ。そういう意味で本当に漢(おとこ)らしい人なんだ。

左から佐藤節夫相談役、東塾長、平塚和彦評議委員長
(2008北斗旗全日本空道体力別選手権大会にて)
塾長 大道塾という名前の「塾」は佐藤節夫相談役がアドバイスしてくれたものだ。
島津 えっ、そうなんですか。
塾長 最初俺は当時一般的だった「○○会館」とか「○○館」かなと、漠然と思っていたんだが、「単なる武術(芸)者ではなく、社会に貢献できる武道人の養成(社会体育)」という俺の考えを理解してくれて「それなら人間を育てるという意味で“塾”だろう」となった。
○○は大学の恩師である村山吉廣先生(現早稲田大学名誉教授)から教わった「大道無門」から「大道」としたんだが、その二つが揃うと確かに古色蒼然と見えないこともなく笑、親しくしていた先輩などからは「お前いまどき古いよー」と嘲笑されたりしたが、俺としては結構気に入っていた(当たり前だが)。ところがここにきてなんだか“塾”ブームだ。全く人間てのは…。

「(其の5)創成期のエピソード2」に続きます