2018.11.26   東孝×中田宏 武道対談 後篇

※この記事は「空道チャンネル」で公開されている東孝×中田宏対談動画を文字起こし、編集したものです。

前篇

中田

よく野球だと野球バカ、空手だと空手バカっていう話になると、それしか知らないと逆に欠陥になってしまいかねないような、そういったリスクもあると思うんですよね。私は大学を出て松下政経塾というところに学んだわけですが、ここに塾是・塾訓・五誓という三つがあります。これを最初は自分の頭の中で解釈しようと思っても、概念としては理解できるようで理解できないですね。塾是「真に国家と国民を愛し 新しい人間観に基づく 政治・経営の理念を探求し 人類の繁栄幸福と 世界の平和に貢献しよう」、こう言った時にですね、「真に国家と国民を愛し」の真にとはどういうことだろうか?「新しい人間観に基づく」の新しい人間観とは?元々の人間観ってなんなんだ?とかですね、最初は単に諳んじているに過ぎない。ところが段々、それを自分の頭の中で考え、置き留めることによって、世の中の事象を見たり、自分が新たなことを知るということを通じて、これがもしかしたら人間観か、とか、真にっていうのはこういう意味なのか、という風に考えるようになってくるんですよね。だからおそらく、道場訓を頭の中に入れてる方は日ごろの中で気づく瞬間があると思いますね。

 

道場訓とか今はやる所が少ないのかもしれないですね。よく道場訓をやると、右翼、宗教みたいだとか言われるけども、全然違うと思うので。何のために汗水垂らしているのか、最終的にはこういう方向に向かってるんだぞ、というのが無いと。ただ肉体が強くなりました、だとそれをどう使うんだっていうのが最終的に無いと。糸の切れた凧じゃないけども、それが必要だと思うんですよね。何回も言われましたよ。「今時、道場訓ですか?」とか。何を目的にしているかというのがないとおかしいと思うので。

 

中田

こういうことは短期的に目に見えるようになるかというと、そうじゃないかもしれないですよね。ましてや競技の、他の競技団体の代表者とリングの上で戦いました、勝った、負けた、という話とは全然違うわけですよね。長い年月が掛かるかもしれないけども、その中から一人、二人と社会に間違いなく大きく寄与し、いい意味での影響を与えていく。また、ああいう風になりたいと思うような存在、人格者というのが生まれてくる。そのことの循環ができてくることが社会にとって重要な、道場、会、塾としての役割ということになるでしょうし、東先生は自分の後にそうやって繋がってくる循環を望んでいるように思いますね。

 

自分がいなくなっても歴史がずっと引き継がれていく。そう考えるのは楽しいですね。ただ青春の一時期を汗水垂らして一生懸命やった、選手としては力が衰えてきた、じゃあ俺に何が残るんだ?っていう時に、俺はこういう武道を世の中に定着させたなと思いたいし、みんながそれを引き継いで、大道塾の精神でこれからも世の中で活躍してほしいなと思いますね。

中田

先ほどから何回かお言葉にありました、実戦的、実戦という言葉ですけども、これもまたある意味では違和感があるように思うんですね。競技ということを考えれば、実戦性というのは全然求められていない格闘技もいっぱいあるじゃないですか。ポイントを取るというルールの中で勝ち負けを競えばいい。実戦性というのがそもそも求められているのか?という話で。「実戦って何だ?その辺で喧嘩することかよ?」という話になりかねないですし。実戦と競技、これは本質的な問題だと思いますね。空手だってそもそもは武器を持たない者の護身から始まっているわけです。僕は「怖い」と言われた時にいつも説明するのは、空手の型というのは必ず受けから入るんですよ、と。受けてから自分のアクションになる。自分から先に手を出すものではないんだ、というのが空手の型なんだと子供たちによく話したりするんですけど、そもそもは護身から競技として発展してきた。実戦性をずっと競技の中に根付かせていくのか?というのは意義があるようで、意義が感じられないようで、すごく難しいところだと思うんですが、ここら辺はどのように思われますか?

 

今、先に言われてしまったんですが、要するに護身なんです。実戦というのはケンカしてどっちが強い、どんな技が実際に使われるんだとか、そういう話になるじゃないですか。それは何のためかというと結局、護身のためなんです。自分の身、もしくは自分の仲間、家族、それを護るためにやるのが武道であり、根本は護身だと忘れてはダメだと思うんですよ。今流行ってるMMAは今でこそルールが整備されているけど、最初の頃は倒れてる人間を踏みつけてもいいし、四つん這いになってる人間をサッカーキックしてもいいっていう何でもありのルールだった。うちの選手がUFCというのに誘われて出たんですよ。私はあまり関係していなくて、どうしてもやりたいなら仕方がないだろうと認めたんだけども。実戦的ではあるかもしれないけど、そんなこと人前で見せていいのかって思いがあった。こんなもの日本人には流行らない、日本人は許さないぞって言ったんだけど、時代が変わったんだねえ(苦笑)。今はルールが整備されて最低限の安全性はってなってきたけど、護身という範囲から離れて、強ければいいんだってなっちゃう可能性があるわけですよ。だからうちの試合は後ろから攻撃しちゃダメだとか、倒れてる人間は絶対に直接当てちゃダメだ、とか。倒れてる人間は寸止めで、決めの動作でポイントを取るという。そこは一線を引いておかないと。実戦だったら何やってもいいですよ。物を持ってもいいし、だけどそれは許されないこと。あくまでも、自分の身を護る以上は人を過剰に傷つけちゃダメだというのがないと。そこが根本だと思いますね。

 

中田

今お聞きして改めて理解しました。そもそもが護身であるということを考えれば、相手を再起不能にやり込めるまでが護身ではないですよね。まず自分の身を護って、相手を倒したら、ある意味そこで一つの区切りになるわけであって、殺すまでやるわけですよね。それが護身であり、イコール実戦で。そうなると先ほどの格闘家イコール怖い、なんて話はまったく違ってくるわけですよね。今のルールのご説明でもあったように、倒れた人を最後までやり続けるということになれば、それはやっちゃダメなんだと競技のルールで言ったとしても、「何でやっちゃだめなんですか?」となりかねない。「何のために我々はこれをやっているんだ」ということをを最高位の概念として説き続けていくことが、空道の特異な在り方であり、本来の在るべき姿だと思いますね。

 

子供だって喧嘩になって馬乗りになって相手が泣いたら、昔はそこで止めてたわけですよ。今の子供はそこでやっちゃいますよね。テレビでやってるから。テレビはある意味でスタンダードになってるわけでしょう。そういうのは物凄く怖いですよね。実際、昔だったら泣いたらそこで終わったものが今の喧嘩は、相手が抵抗でき(動か)なくなるまで行くんですよ。怖いですよね。下手したなら単なる喧嘩で一生を棒に振るかもしれない。

 

中田

これは武道全般に言えることだと思いますけども、どこまでがやっていいことか悪いことか、論理的にひとつひとつを方程式のように教えることは無理だと思うんですね。概念としては言えます。でも方程式のようにそれを割り切った形で教えることは無理で。殴られたらどれだけ痛いか、ということについて実感の無い人同士の喧嘩ほど恐ろしいものはないと思うんですね。私も空手道をやってきて、防具を付ける流派でしたから、当時はすごく重たい鉄格子のような、剣道のような防具で。頭が重くてそれ自体が不快だったんですけど、それでもやります。やって、グローヴで顔面に当たります。これは直接的に当たったわけじゃないです。グローヴがあり、且つ面があって自分に衝撃が来てるんですが、それでもかなりの衝撃ですよ。本当に頭がクラクラします。それは競技で自分が人に対してやったことが発生しているわけで、しばらく立てなくなったり、ふっ飛ばされたり、倒れこむということになるわけです。殴られたら、何をやったら、どこにどれだけの衝撃があるのか。じゃあ最近の子供たちに取っ組み合いの喧嘩をしろという奨励は、我々が社会教育としてやれるわけではない。ルールの中でやる。肉体的な自分自身の思いというものを知るためには、今ほど広い意味での武道が欠かせないという風に私は思うんですね。

今、学校で体罰の問題とかあるじゃないですか。先生が過剰に子供を痛めつけて怪我をさせてしまったとか。私に言わせると、そういう人たちは人を殴ったり殴られたりした経験が無いんですよね。人間っていうのは殴ると興奮するんですよ。何もしてこない人でも、もし興奮して一回殴っちゃったら、よく頭が真っ白になったとか、重大に傷つけてしまうことがあるじゃないですか。あれは経験してないからなんですよ。それを試合なりでやってると、自分でこれ以上やっちゃダメだとか、コントロールができるようになる。人間誰もが持っているバイオレンスをコントロールするのも武道。特に打撃が入った場合は。組み技系はそこまでいかないんですけど、打撃は一歩間違えたら野獣になっちゃうから。自分のバイオレンスをコントロールする訓練にもなる。

 

中田

今日的に武道というものが広く求められていると思いますけど、それも先程の話で出ていたように、なんでもありの強者争いではダメで。そういう意味においては空道の存在は凄く重要だと思うんですね。僕はこれもすごいなと思ったんですけど、北斗旗という考え方ですね。何故そうなのか、ひとつひとつを詳しく解説して世の中に伝えようという努力をされていますよね。北極星に向けた道しるべ。自分自身、己を知るというのが北斗七星の意味なんだと。私自身が改めてその意味を知ったというような具合で、本当に感じ入ることだらけですね。繰り返しですけど若い人たちにこういうことが浸透して、広く社会で発揮されるようになってほしいですね。

 

――それでは最後に、東師範の方から北斗旗第五回世界空道選手権に向けての思いと、今後の空道の日本と世界における方向性に対する理想、中田宏さんには横浜の市長としてご活躍されまして、長年赤字だった横浜市を黒字まで持ってきた行政手腕がございますので、そういったものも含めて、ビジネスの展開ことなどアドバイスをいただければと思います。

 

冒頭に言ったんですけども、空道の世界大会は2001年から始まったんですよね。あの時、世界に17カ国ぐらい加盟国があって「うちもそろそろ世界大会やりましょうよ」、「先生、やってください」と言われて、格闘空手世界選手権という名前でやるのかなと考えた時に、海外から見たら色んな空手の世界大会があるわけですよ。伝統派の世界大会もあるし、極真の世界大会もあるし、その他の世界大会もあるし。「日本の武道界はどうなってるんだ?」って見られるんじゃないかって。これでうちが格闘空手世界選手権ってやったら、世界から見たらみんなの幸せのため、世界の平和のためって言ってる団体が分裂して争っているわけじゃないですか。

私は昔から大道無門っていう言葉が好きだったんで。自分の恩師が中国文学の村山吉廣先生っていう早稲田の名誉教授になられた先生なんですけど、その先生からそういう言葉を聞いていて。大きい道に門は作れないんだと。すべてを受け入れ咀嚼し自分の糧にして進むんだって聞いていたし。あと空っていう言葉自体が好きで。昔、空手は唐手(とうで)だったんですね。唐(とう)から来たから。日本に来た時に訓読みの“から”を取って空(から)にして。これを考えた人はすごい人だなと思って。空って言葉は考えれば考える程すごい言葉なんですよね。昔、小渕総理が真空総理って「私は何も言いませんから皆さん色々意見ください」って、あれと同じだと思うんですけど、「私はまっさらな状態で皆さんの話を聞きます。いいものは採り入れるし、最初から拘らない」、そういう考えってのはうちでやってきた格闘空手の考えと同じなんですよ。色んな技、突きでも蹴りでも投げでも、全部採り入れる。ひとつに拘ったら知らない所を突かれるわけですよ。空って言葉はものすごく好きでやってきたので。じゃあ空道ってことでやってみようと言ったら、みんなから反対されましたよ。「先生、20年前に大きな団体辞めて、やっと20年経って格闘空手が軌道に乗ってきたのに、また何かやるんですか?」みたいな。「空手から空道だと“手”抜きじゃないですか」なんて言われて(笑)。とにかく俺にこれやらせてくれ、と。俺はこれがやりたいから、もしよかったら付いてきてくれって言ったら、みんな本当に付いてきてくれて。最初、うちはでかいスポンサーがいるわけでもないし、会員の会費でやってるわけですよ。中には色んな団体が「うちが資金提供するぞ」とか「うちと組んでやろう」みたいな話も来たけども、それは色が着いてるじゃないですか。なるべくそういうのじゃなくて、武道そのものを追及したいと思っていたので。私は第1回がすごい成功したので、もういいなと思った。第1回やれば、あとは誰かがやってくれるだろうと(笑)。そうなったらそうなったで今度、色々あるわけですよ。「あんなものは一回で終わりだ」、「あれは危険すぎる」とか。今度はそれを反証していかなきゃならない。それで毎回、一回一回やってきたのがもう5回になって、すごい感無量なんですよね。よく5回持ったなって。選手のレベルも上がってきてるし。これがもっと世界に広がって、100カ国、150カ国、200カ国になって、将来的にはオリンピックになれたらいいなと。そういうつもりで進んで行きたいなと思いますね。これからも色々思うところがあったらアドバイスしていただいて、よろしくお願いしたいと思います。

 

中田

私はこれから先、東先生を通じ携わらせていただくことによって、改めて学びの機会を継続できるということに対して嬉しさを感じています。ともすると日常の中で、中々根詰めて学ぶという時間を作ることは難しいです。断片的に齧る時間を作ることは自分でも意識してやっていますけども、それとて流されてしまうケースが多いです。そういう意味ではみなさんと一緒になって、今後の会の発展に貢献させてもらうことは、自分にとっても継続して学んでいく機会になることを大変うれしく思っています。先ほど、横浜という市の改革の話と、これからについてということでご質問いただいたんですが、その観点から答えると、社会を動かしていくということは、ビジョンとシステムが必要なんですね。法律だとか様々な機関だとか、これがシステムになってくるんですね。しかし、本来それが何のためにあるの?というビジョンが無いままのシステムというのはそれだけが独り歩き、空回りする。「何のためにやってるんだ?これは。無駄遣いじゃないのか?」という話にどんどんなっていく。それが積もり積もっているのが今の日本社会だという風にも言えると思います。社会を動かしていく上でのビジョンとシステム、これが必ずセットでなければいけないと言えるのと同様に、今日ずっとお話をお伺いしていた人が鍛練、修行をしていく中で磨いていくのは、よく言うように肉体と、一方で精神だと思うんですね。精神というものがこれほどしっかりと何のためにということが明らかなっている格闘技というのは、他に間違いなく例が無いと断言できると思うんですが、精神を今度は自分の体を通じて世の中に対して、あるいは自分の生活や人生のためにというのも含めて体を使っていく。それが先ほど申し上げた社会でのシステムの方になるわけで、自分の体を健康に動かして、その手足を、あるいは表現、言葉を使って生きていくわけですから、その中における精神と肉体という、この間に入るのが学びであり、自分自身が考えるということだと思うんですね。理事長がよくおっしゃられるように、自分の頭で考えなきゃダメなんだ、と。教わったことができるんじゃなくて、自分の頭で考えなきゃダメなんだという、このことこそが結果としては人の生き方に差を産んでしまうことになるし、社会の営みもそうで、考えない人が溢れ返る社会というのは物凄く危険だと思います。一人一人が考える、その考える人が多ければ多いほど、間違った判断をしにくく、また多くの人が共鳴、共感、共有しながら、その意味をわかってシステムを使う。自分さえよければ、とか、タダだからもらっておこう、とか、他人はどうであれ自分にとっては得なんだ、こういう考えではないですね。社会の営みができるようになった時に健全な社会ができるわけですから、その意味においては社会と空道というのは当然のことながら結びついていく、と思いますので、空道の発展が社会の発展に繋がると確信をしながら、今後ご一緒に携わらせていただきたいと思いますし、私にとっては学びの機会にさせていただきたいと思っております。

 

先ほどから武道に身を置いた方だなというのは感じるので、そういう道という概念を持った人が政治の場で活躍してくれないと、今言ったように勝てばいい、儲かればいい、という世の中になってしまうと思うので益々のご活躍を期待しております。

 

中田

ありがとうございます。本当に感激です。「中田さんは何やってたんですか?」って聞かれた時に、空手道って答えるようにしてるんですよ。結構、空手っていう人も多いですけど。確かにフランクな時はそれでいいんですけど、道をつけるように意識していますね。柔道、剣道は当たり前に道がつくじゃないかと。

 

空手道だと三文字になるじゃないですか。長いから空手って言っちゃうんですよね。それもあったんですよ。柔道、剣道があって、で空道でいいじゃないかって。そしたら“手”抜きだって(笑)。