2020.01.28   大道塾40周年記念パーティー 東塾長のご挨拶

以下は、パーティ前のいわば“アンチョコ(笑)”ですが、脱線したり継ぎ足したりで、実況としばし違っています。例によっての“はみだし人生”ですので、ご容赦のほどを(<(_ _)>)。

 

本日はお寒いところ、また正月のお忙しい中、「大道塾設立40周年、空道創始20年を祝う会」に、このように多くの方々にお集まり頂きまして、誠に有難うございました。

初めに大道塾と空道、それと一体の自分史を絡ませながら略歴を述べさせて頂きます。

 

私は1949年5月の宮城県の気仙沼市に生まれました。子供のころは当時創刊されたばかりの少年漫画雑誌「少年画報」「冒険王」等の影響で赤胴鈴之助、まぼろし探偵、月光仮面、怪傑ハリマオという漫画に夢中になる一方、これまた大人気だったプロ野球の王や長島に憧れ草野球に夢中になっていました。

 

体力があり余っていたので、草野球では物足りず、ガキ大将宜しく子分どもを引き連れて毎週隣村や隣町との“決闘ゴッコ”に明け暮れる“悪童”ぶりで、とうとう先生に「お前はこのままでは感化院行きだ!」とまで怒られ、親父には病院に入院するほどぶっ叩かれ、お袋には「ウチの400年の歴史に傷をつけるようなことだけはしないでくれ」と泣かれ、さすがにこれではいかんと反省し「良い子路線」に変更したような小学生でした。

 

そんなことで中学校では大人しく野球部に入り、持ち前の馬力を認められ、2年生から4番でを任されてましたが、練習では常に場外ホームランなのに、試合では全くダメで、「今度は打つだろう」という先生の期待を裏切り続け、卒業時までに打ったのは内野ゴロ一本という体たらく。

 

実は中学で急に“路線変更”し、品行方正な中学生になろうと、急に周りの目を意識しすぎたために4番打者としてバッターボックスに入ると急に「みんなに見られている」という意識が過剰になり、金縛りになったような状態で体が動かなくなったためでした。

 

そんな姿を見た親父は「お前は精神力が弱いから高校では柔道でもやれ!」と言われて、「そうか小学校ではガキ大将だった俺も、このままではみんなに舐められっぱなしになるな~!!ということで高校では柔道を始めたんです。

 

その頃は初めてオリンピック競技になった柔道のために国を挙げての柔道ブーム。あらゆるテレビや漫画で柔道を取り上げていて『柔(やわら)』『柔道水滸伝』「姿三四郎」等々。大体は講道館館長の矢野正五郎(モデルは加納治五郎館長)のもとで書生をしながら柔道に精進する、福島出身の実在の天才柔道家、西郷四郎先生をモデルにした姿三四郎が主人公の修行あり恋あり涙ありの青春熱血物語。

元は古流柔術の良い点と足技を考案し体系化しそれを“柔道”と名乗った、いわば新興武術だった柔道があらゆる格闘技と戦って勝つ筋書きですが、最後に対抗馬となるのは明治に中国経由で沖縄から日本本土に入ってくる唐手(のち空手)で、檜垣三兄弟というのが最強の悪役で、当時まぼろしの技術だった蹴りを使うために、初めは散々やられまくるのですが、修行に修行を重ね、人間的にも成長した姿三四郎の柔道が捕まえてぶん投げて勝つので、「ヨシ、俺も姿三四郎になろう」と。まさかその時、自分が後でそんな悪役だった空手をやるとは思わなかったんですが(笑)。

 

そんな訳で高校時代は、授業はさぼっても柔道の練習にだけは出て練習していましたから一応高校3年では県で重量級ベスト4にまでなりました。そんな訳で、高校三年の時に県の上位3校のみで戦う東北六県の学校対抗柔道選手権というのがありました。その時に見たのが、後年、世界大会でも何度か優勝している遠藤純男選手です。柔道全日本9連覇の山下泰裕選手を河津掛けで怪我をさせて、変な意味で有名になりましたが、、。

 

彼と対戦したのが自分が2回やって勝てなかった宮城県の優勝者、吉川修選手(のち拓殖大学柔道部主将)で、実力もあり紙付きだったんですが、その彼を遠藤純男選手が30秒ぐらいで投げたんですね!!しかもそれが跳腰という技で、柔道には大外刈り内股、払い腰、背負い投げと色々派手な技がありますが、その中でも最も派手な技で、それを見てから「俺はちょっと、柔道向いてないかな」と思ってしまったんです(笑)。

 

所が私は邪念が多い人間ですから、柔道に無中になりながらも、一方では、その頃ちょうど70年安保だったので、天下のNHKが「三姉妹」「竜馬がゆく」と言った明治維新をテーマにしたドラマを続けてやっていたこともあり、そういう政治運動のようなものも興味があったんです。その当時の先生は、おそらく60年安保運動などをしたために普通の会社では敬遠され、マスコミか先生になるしかないとなった、共産党系の日教組の先生がけっこう多かったと思うんですよ。その先生が言うには「東、見ろ、昔、明治維新は藩から起こって来た。薩摩藩、長州藩、土佐藩…。今は大学から革命が起こるんだ!」と。これを授業でやるわけですよ、凄い時代でした(笑)

 

 

私は単純だから、早く東京に行ってデモ隊にでも入り、旗の一つでも振らないと時代に置いていかれるなと。と思いながらも、分裂気味なんで、三島由紀夫先生が楯の会というのをやってまして、それが当時「平凡パンチ」と人気を二分してた「プレイボーイ」のグラビアにカラーで特集されたりしてたんで、カッコイイーと思って手紙書いたんです。そしたら東京の大学生じゃないとダメだっていうんです。「やっぱり、俺は東京に出なくてはいけないな」とそう思いました。

 

とは言っても東京に知り合いはいないし、大学に行くにも学費の話をしただけで「百姓が大学に行って何するんだ。就職しろ!」と親父に怒鳴りつけられ、まず無理だったので、「私を東京に行かせてくれるなら自衛隊に入りますよ」と自衛隊勧誘の人に言ったんです。普通は東京から地方に行くことはあるんですけど、地方から東京に行くなんて無理なんです、でも私、馬力があったんで、向こうもそれを買ってくれて、結局、東京の練馬駐屯地に約2年間いました。その時、何していたかというと、学生運動鎮圧の訓練をしていましてました。放水車に乗って暴徒に水を掛けるわけです。「おかしいな~、俺はあっち側にいたはずなんだけどな」と思いながら‥‥(爆)。

 

70年安保も下火になって来た頃、自衛隊に入ったお陰でお金も溜まったんで、早稲田に入ることが出来ました。残念ながら(幸か不幸か?)、学生運動終わっているし、何しようかなと思って文学部のキャンパスをふら付いていた時に、美人の女子学生に声をかけられて「あなた、生き甲斐ないでしょ?」と聞いてきたから「そうだ、生き甲斐がないんだ」って答えました。「一緒に勉強会に行かないですか」と誘われたんですね。

 

当時「勝K連合」って言ったんですが「●一教会」の勧誘だったんですね。私その会に1週間参加しまして、その当時、約200人ぐらいが参加してましたね。その会、1週間終わる頃にはほぼ皆涙流して「私の生き方は間違ってた。これから社会のため、世のためにこの宗教を広めます」と言う感じで皆入信したんですよ。その人達は皆北朝鮮(間違い、韓国-東注)に送られ合同結婚式に参加するわけですよね。その時、私が入信して韓国行っていたらどうなってるかわからないんですけども、もし行ってたなら当時タレントで全盛期だった桜田●子の旦那の“東 某氏”は東孝だったかも爆。

 

最後まで私を折伏しようとしてた人間が「あんたらは専門用語は知っているから口では勝てないが、顔が偽物だ」と悪態をつく私に「「あなたには、サタンが付いてるから、もう救いようがない」とか言われまして「何言ってんだバカヤロウ、サタンだろうがサンタだろうが関係ネェや」と言って振り切った、積りでした。

 

でもなんか洗脳されていたんでしょうね、「夜中にあなたの所にサタンが乗り移るんだ」って言われたからか、寝ていたら布団が重くなってきて「うぁ~ッ」って大騒ぎしたんですよ。そしたら、隣に住んでいた女子大生のオネェさんが「東さん運動不足なんじゃないですか?」と言うんですよ。「運動命で生きてきた俺がこれはまずい!」と思って極真空手をやるようになったんです。

 

極真会入ってとても面白かったし、大山先生に直に教わりました。でも私、柔道やっていたもので、組むとすぐ投げるんです。蹴りとかパンチとかは決まらなくても、柔道知らない人間には技がいくらでもかかるわけですよ。「空手は突き蹴りで、離れて戦う」という理由で反則ですけど。そしたら大山館長に「お前、柔道やるなら講道館に行け」って言われるようになったんです。

 

柔道はそれまで嫌になるほどしていたんで今更そんな気はなかったんで、そのまま極真を続けていましたが、「俺の今までの路上の勉強(笑)から言っても、柔道と空手を組み合わせた方が絶対に現実味があるし、見てても面白いんじゃないかな」という想いは年々強くなりまして、館長にも何度か直訴したのですが勿論却下され続けました。

 

当時は自分の夢は別にあったので、自分で団体を作るなどとは考えてませんでしたが、全日本で優勝した(1977年)の3年後の「第2回世界大会」で“極真命”のような考えに頭から水を掛けられるようなことがあり「それでは昼は別な仕事をしながら夜、自分の理想とする武道をするしかないか~」と、81年に投げを認めた「格闘空手」を標榜した大道塾を発足させました。

 

さて、文明論というにはオコがましいのですが、宗教も因習も違う様々な民族が隣り合って存在しているために“闘争が常態”の海外と違って、日本社会というのは「和を持って尊しとなす」というように協調性というか、お互いに助け合ってという社会ですからそれは非常に社会が安定していて良いんですけど。新しいことをやろうとする時、それがものすごく壁になるんです。新しいことをやるのはかなりの抵抗がある。「格闘空手」という新しいことをやることになっった為に、指導員が離れていったり、先輩からも「お前がやっているのは空手じゃない」と言われたり、普段は見えない人間性が見えたりと、結構きつい数年でした。

 

そんな時、東北では有名な亀井商事(現カメイ株式会社)の亀井文蔵社長がすごく大道塾のことを気に入ってくれまして、毎回大会にも来てくれたし、ズームイン朝なんかにも毎年出られたんです。それで日本全国に知られ、だんだん生徒も入り始めたんですけども、中々公的に認められることはなくて、そのうちに、文明の衝突で常に新しいものが生まれる海外の方で珍しがられドンドン広がって、15,6年ぐらい経って加盟国が17,8か国になった時に遂に「世界大会をやって欲しい」という声が上がってきたんですね。

 

その時、チョッと立ち止まって考えたのは、極真空手も伝統派の空手―今度オリンピックに入りましたけれども、それも世界大会やっている。その他にいくつかの世界大会がある。ここでまた新たに格闘空手の世界大会やったら世界チャンピオンが10人近くになり、「日本の空手界は一体どうなっているのか」と世界の人に言われるんじゃないかと思いました。さらに、投げや締め関節入れるとなると、闘いの様相が変わってくるので実際、「格闘空手」っていうのを名乗るのも失礼かなと思ったりして悩んでいました。

そんなこんなの2,3年を過ごしている時、息子が「お父さん、俺もオリンピック出たい」と言うんですね。それを聞いて「格闘空手では無理だな。しかし、総合格闘技のようなものがないから、それだったら出られるかな」と思ったりもしました。ただ、それは気の遠くなるような目標だし、もう50歳にもなって今からまた新しいことするのかと、大道塾で独立する時も色々裏切りや抵抗があって嫌な思いをしたのに、今更また、そんなことやりたくないなと思っていました。

 

そしたらその3日後に急に息子が亡くなって、自分は生きる張り合いをなくしたようで、どうしていいか分からなくなったんです。1年ぐらいグズグズ過ぎたなら、娘からも「お父さんしっかりして、大道塾はどうするの!!」弟子からも「私たちは強い先生に憧れて大道塾に入りました。お辛いでしょうがそんな先生見たくありません」などと色々言われて。「そうだな、俺が頑張らなければ大道塾はダメになってしまうんだ!もう少し頑張らなくてはならないな」と「息子にオリンピックに出れるような道を開いてやりたかったな」と、そういう意味もあって50歳と半年の歳になって「空道」というのを始めたんですね。案の定、色々なことが起き、一年一年を乗り越えるのは大変だったけど、その度に決意した日を思い出しながら牛の歩みを重ねてきました。

 

しかし、振り返ればあっという間の20年で、何とかここまで来ました。オリンピックの前にはワールドゲームスがあるんです。今の空手もそうですし、バトミントンやトランポリンなんかもまずはワールドゲームスに出て「これは人気ありそうだ、組織もしっかりしてる」という判断をIOCからされてオリンピック競技の可能性が出てくることになるんです。一昨年にデモンストレーション競技でしたがワールドゲームスにも出ることが出来ましたし、2025年には青森国体で公開競技ということで、全日本選手権が国体でやれるようになりました。そういう意味で、やっと7合目まで来たなと。

 

ウチは10周年、20周年、30周年のお祝いは、大会後の打ち上げの時にやったくらいで、こんな、特別な日を設けてパーティーはやったことがなかったんですけども、私も動けるのはあと10年ぐらいかなと、そういう意味で、昨日の支部長会議で「あとの10年間、みんなで一致団結してもっともっと空道をしっかりしたものにしよう。体育協会に加盟したり、国体に出たり、そういう風な目標でやろう!」と決意表明しました。

 

また今日お集まりになられている皆さんにも「我々のこういう決意をご理解いただき、今まで以上に見守って頂きたいたいと思います」と、ある意味“人騒がせな”な集まりを行いました。お許し頂きたいと思います。なんとか自分が棺桶に入る前に(笑)空道をより一層、高度な国際競技にしたい。そういうつもりでやっております。今後、益々のご指導ご鞭撻をお願いし、開会のあいさつに代えさせて頂きます。長々とご清聴有難うございました。