コラム33 再び“理不尽さ”について

先日ある雑誌の座談会で「武道、道場を通じて培ったもの」と聞かれたから私は真っ先に「“理不尽さ(※)”に腐ることなく、努力を維持し続ける心を身に着けたこと」だと思う、と書いた。

 

(※)この場合の“理不尽さ”とは、自分の論理、公平さ、正義からの判断であり、他人には他人の論理、公平さ正義があるので、絶対的な価値とは言えない可能性があるが、自分なりの価値観では納得できないこと、と考えて良いだろう。

 

そうしたなら偶々、立て続けに2,3の雑誌で“理不尽さ”について作家や評論家が論じていて、ある作家は人生相談欄で「他人が自分を正しく評価してくれない」という悩みに対して、「人を鍛えるのは不平等さと理不尽さだ」と返事していて、「ああ、やはりこの人たちも現代人の“打たれ弱さ”について感じるところがあるんだなと妙に納得したものだった。

 

今は社会全体が少子化の影響もあり子供のころから「優しく、優しく」と子供を腫れ物に触るようにして育てているから、子供自体に困難や障害に突き当たるとすぐに悲鳴を上げて泣き叫び周りに(と言うか親に)訴え逃げ込むのが普通になっている。

 

従って自分の力でその状況を何とかしようという気迫も習慣も生まれないから、大人になっても障害困難にぶつかったならそれを自分の努力で好転させようという気にはならない。もっぱら親しい周りに不平不満として訴える。

 

しかし、複雑化する現在社会ではみな自分のことで手一杯だったりして、期待した通りのサポートは受けにくい。子供時代のように親に相談しても、一応成長し様々な分野や興味、友対人関係の中で生きている子供の問題すべてに応えられる親などいないから、子供時代のようにはいかない。

 

そうなると「誰も自分のことは分かってくれない」となり、人を避けるようになる。それでなくても現代社会での子供時代は、勉強と習い事で生身の人間関係(近所の子との遊びなど)の経験が少ないから、質問と答えと言った紋切り型の応答しかできず、人と柔軟な言葉のキャッチボールができない子供が多い。

何かの切っ掛けで、それが顕在化すると「口の利き方が分からない」となり、”村八”や“しかと”され、それに傷付き、内に籠るようになる。

 

それが長く続くと、人間関係を煩わしいものとして自分の世界に“引き籠る(※)” 、所謂 “コミュ障(コミュニケーション障害)” となる。

 

(※)これは大きな社会問題になっており、日本ではその数なんと、約100万人と言われている。

※2019年、内閣府の生活状況に関する調査において、40~64歳の分布の引きこもりの人数が61万人ということが推計された。61万人というと、都市の人口で言えば鹿児島市などとだいたい同じ数字だ。引きこもり100万人とは、この61万人と合わせ、64歳以下の引きこもりを合わせた数字。いまや引きこもりは、大都市を丸ごと飲み込むほどの数字に迫っている。恐ろしい数字だ。

 

そんな時“強くなりたい”という人間の原初的な欲求である武道や格闘技の世界に身を置くことは、みなが「他人より抜きん出て居たい」という欲求から生まれてくる、様々な屁理屈や力関係から“理不尽な”問題が次から次へと起こってくることに身を晒すようになる。

 

更に武道の世界も嘗てのように年長者に一目置いたり、伝統的権威を重んじたりではなく、昨今は「経験年数(先輩後輩関係)より戦績。伝統的権威などより、なんでも平等、みんな対等」という風潮が強くなって来ているから、社会的経験から生まれる組織運営の知恵は、勢い元気な若手の声に押し遣られがちで、様々な組織的問題の“落とし所“はしばしば見当違いな所になってしまう事も多い。

 

しかし、それを一々「納得できない」とか「俺の考えではそうじゃない」「あの試合のあの判定は何だ!!」などと言っても何の解決にもならない。みなあからさまに露骨に自分(か自分のグループ)のために活動しているのだ。(ウチなどは“善男善女”の集まりだから、傍からなんで!!??と言われるほどに、“公平”なことが多いが・・・・。)

 

そんな時、そんな事にどう対処するかで、その人間の人生は変わってくるだろう。「やってられね~よ」「あほらしいこんな世界俺は辞めてやる」なのか、ただ一途に「アイツよりハッキリ強くなってやる」「絶対に黒帯までは(優勝までは)辞めないぞ!」「だったならみんなが認めるまでやってやる!」と言った“意地”や所謂“根性”で努力を重ねるのか。

 

前者は恐らくどの世界に行ってもその繰り返しになり、「世の中は俺を認めてくれない」と言う繰り言を生涯吐き続けることになり、終いには「またその話か~」と人は離れて行くだろう。

 

後者は少しずつでも成果は出るものだし、例え武道の世界で成果には繋がらなくても、別な分野に進んでもその時に粘り抜いた精神力は、「何事もやり抜く」とか「嫌なことがあっても逃げないで前向きに生きる力を身につけたり」するものだ。

 

そして、そういう姿を見ている周りも「あの人は教条的、独善的に『俺のやり方、考え方が絶対だ!』とならず柔軟性があるが、一本 “芯” が通っているから信頼できる」となり、周りに人が集まってくるのではないだろうか??

 

武道修行が選手時代の勝敗が目的だったり、いずれ“プロ”の世界で生きて行くというのなら別だが、戦績も修行の目標、糧ではあるが、選手時代を終えた30歳代以上の長い人生の支えとなる“何か”を求めているならそういう長い人生で必ず2,3度、いや数度は巡り合うであろう“理不尽さ”に遭遇した時に、負けない経験を持っていることこそが、社会人としての“勝利”に繋がるのではないだろうか。