“格闘空手家”東孝と大道塾 ② 日本人の拠り所になり得るのが空手だ

国際社会を迎えた現在、国内のみにとどまらず、海外に雄飛する日本人も決して少なくはないだろう。21世紀を目前に、社会機構が増々複雑になっていくこの現代で、日本人の心の拠り所となり得るものの確かなひとつ、これこそが武道なのではないだろうか。

かつて、日本人にとって、大事を成すときに心の支えとなったものは剣道であった。幕末という激動の時代の中、かの坂本龍馬が、西郷隆盛が、そして勝海舟も剣の道を通して日本人、または人間としての誇りに目ざめたのである。

明治から昭和への興隆期、そして敗戦から再興へと日本は険しい道を辿って現在に至っている。その折々に日本を動かした人々の多くは世界に誇る武道・柔道を心の礎として世に立っていたのではなかろうか。

現在、そしてこれからの時代、柔道と共に、空手もその役割りを担っていかなければならない時が来たのだ! 勿論、日本人がすべて空手を学ぶということではないだろう。また、私は決して右翼思想の持ち主でもない、それをまず断っておく。ただ、「空手」という日本武道が、我々日本人が地球レベルで事に臨むとき、精神的支えになる時代がすぐそこまできているということだ。

しかし、現代日本武道として、多大なる可能性を秘めたこの空手の現実を考えた時、私の心は暗澹としたものになってくる。多くのルールが存在し、多くの大会が行なわれる。私はこれを否定しているのではない。

これら群雄割拠の状態でも、それが発展的視野に立つものなら結構だ。これも空手界の活性化のために重要な意味を持つこともあり得るからだ。だが、現在の空手界は違う。建前や能書きだけが空回り、結局自分達の殻に閉じ込もった閉鎖的状況が現実だ。そして〝世界最強″〝一撃必殺″やたら仰々しい謳い文句の競争。しかしその現実は格闘技としての技術さえまだまだ発展途上なのが今の空手だ。

多様化した価値感が存在する現代社会において、又、一方ではそれと逆の方向も出ている。それがスポーツ化の傾向だ。
それはそれで空手が競技として、スポーツとして、また文化として細分化されてくることも一方しかたがないとは思う。
ただ、私は私の格闘技人生の中で、あくまでも男の本能たる闘争心を極限まで追究し得る空手、「格闘空手」を生涯の目標としてやってきた。そしてこの格闘性追究によって生まれた格闘空手を、誰にも否定はさせない。格闘空手の持つ、その武術性・格闘性については他に一歩も譲らない。その程度の自負は持っているつもりだ。