ザ・ソウルファイター The Soul Fighter 北斗旗王者・ 長田賢一、 灼熱の ムエタイを征く 後編 ⑥

この連載は『月刊空手道』(福昌堂発行)1987年9月号に収録されたものです。肩書は掲載当時のものです。

激闘!

 ムエタイの殿堂ルンピニー・スタジアム。しかしこの木造バラックの建物は古く、まるで大きな昔のサーカス小屋だ。 この日、この会場は久々に超満員の観客で沸いた。観客数4500人はみな、我が最強のムエタイ戦士が日本人空手家を倒す光景見たさに集まってきたのだ。 リングの上はまるで温室のようだ。 立っているだけで汗が玉のように噴き出す。 薄暗い観客席は人、人、人で溢れる。長田はかつてない程の緊張感を味わった。 音楽に合わせてラクチャートはワイクル (戦士の踊り)を踊る。まったくといっていい程のポーカーフェイスだ。観客のざわめき、音楽、そして熱気が長田の周りでうねりだす。 長田は、この時初めて自分が単にラクチャートだけでなく、タイの空気、灼熱の風土、すべてを相手にしている事を実感した。

 長田は空手着を脱ぎ捨てると、マットの感触を確かめながら四つのコーナーを一周した。緊張感からくる脱力感、しかし空手家である長田にとって、この感覚は反面最高のエクタシーでもあった。 あと数十秒で、この体に張りつめたすべてのエネルギーを爆発させる事ができる。 レフェリーが注意事項を説明する間、 長田はラクチャートの、表情のない氷のような眼を見つめた。

 午後八時二十三分、試合開始のゴングが鳴った。はじかれたようにリング中央に駆け出す。マウスピースを噛みしめて、長田はおもむろにジャブから右の中段回し蹴りを放つ。しかしこれは空を切る。 ラクチャートが初めて表情を崩した。 長田に向って口だけで笑う。長田は体勢を直しながらニッと笑い返す。

 サウスポーのラクチャートが左の回し蹴りを放つ瞬間、長田はカウンターの右ストレートをぶち込み、蹴りとパンチの連打で追いつめる。ラクチャートは退がる。「今だ!」 長田はフックを振るう。しかし、これも大きく空を切る。

 長田はフッと、自分が素手の感覚でパンチを出している事に気づく。 素手なら確実に相手のアゴ、テンプルにヒットしているはずのパンチが、グローブのおかげで、ただの大振りになっている。またグローブでガードされた顔面にヒットさせる事が、こんなに難しいとは長田は思わなかった。それに、たった十発程度のパンチを出しただけで、両腕は鉛の塊をぶら下げているように重い。

 そこで長田は戦法を変えざるを得なくなった。空手のようにパンチで相手をたたみ込む戦法はとれない。 しかし身についた自分のスタイルはなかなか崩せるものではない。これ以後、長田は、両腕に疲労感が蓄積するのを感じながらも、無意識にパンチを振る事によって、自らを追いつめていく事になる。

 ラクチャートは自分から仕掛けてこない。ラウンドは長田の動きを見る事に徹っしているようだ。しかし、時おり出す左の回し蹴りはシャープでパワフルだ。 また、決してスマートではないもののパンチもうまい。

 そこで長田は、間合いを保ちながら右ローキックをラクチャートの内股にヒットさせる。サウスポーのラクチャートには、これが思いの他よく決った。 ラクチャートの表情がまた変った。〝変則的な” 長田の動きに動揺している。

 長田はパンチから内股への蹴り、そしてパンチの連打でラクチャートをコーナーに追いつめる。だが百戦以上の試合経験を持つラクチャートは、さすがコーナーワークがうまい。ブロックをしながら 右サイドに逃げきる。

 ムエタイの試合は、三分五ラウンドで行なわれる。試合をうまくリードするには、当然ペース配分を考えなければいけない。そしてこれは、より場数を踏む事によって経験で身に着くものだ。しかし、初めてのラウンド制を経験する長田は完全にこのペース配分を忘れた。 空手の試合にラウンド制はない。まれに延長戦はあるものの、三分の試合にすべてを出しきるのが長田が闘ってきた空手だ。

 長田はまたもやローキックからパンチで前に出る。ラッシュ、ラッシュ、フック気味の右ストレートがラクチャートの 右アゴにヒットした! ダウンするラクチャート、しかし、レフェリーはカウントをとらない。立ち上がったラクチャートにはダメージがない。

 時間はラスト三十秒を切った。 ラッシュに次ぐラッシュで疲労がたまりだした長田には、もはや次のラッシュをかける力はなかった。増々パンチが大振りになる。だがそれでも長田は、蹴りの連打でラクチャートを追いつめる。ラクチャー トは退がる。

 ゴング。一ラウンドが終った。 長田は椅子に座り込み、水を頭からかぶった。一方、ラクチャートは立ったままセコンドの話に耳を貸している。

 再びゴング、ニラウンド目が始まった。 今度はラクチャートが先に仕掛ける。押し込むような前蹴りを受けて、またもや長田はラッシュをかける。右ストレート、フック、肘、 長田は勝負をここに賭けた。

 しかしラクチャートはコーナーにつまりながらブロックを固める。そして、KO を狙い大振りになる長田の隙を鋭い肘打ちで応襲する。 右、左、左の肘が長田のアゴを捕えた。 この瞬間、長田は、「思ったほど、肘は効かない」

こう思った。このフッとした安堵感がラクチャートの再び大きな隙を作った。 堅固なガードを持て余した長田の顔面に、 ラクチャートはコーナーから逃れながらワンツーを入れる。左ストレートが長田の右眼を強打した。大きな衝撃を感じた長田はこの後、ラクチャートが三重にかすんで見え出す。しかし、ラクチャートも長田のカウンターを怖れ、次の攻撃が出ない。

「まずい! 相手が見えない。こうなったら相手を投げ潰すしかない」

 長田は膝蹴りを打つラクチャートにクリンチし、バックから投げを打つ。 長田にとっては、これが致命的誤算となる。 素膚に塗られたワセリンと汗、そしてグローブ着用、長田は二度、三度と執拗に投げを試みるが、すべって決まらない。 もつれ合いからクリンチ・・・・・・、レフェリーに静止された時、長田には、もうひとかけらのスタミナも残っていなかった。 両腕は重くガードが効かない。

 それに対して、ラクチャートは活き活きしている。若干、動きのリズムも早くなったようだ。カウンターを怖れながらも蹴り、パンチ、膝蹴りを長田のボディと顔面にヒットさせる。 長田は完全に棒立ちになった。  続いて左右のフックが入る。グラつく長田。

 この時、長田にはもう意識がない。ただ、空手家〟の本能だけが、長田の五体を支えていた。

 ラクチャートは間髪を入れず、左ストレートから飛び込むような姿勢で右のショートフックを長田のテンプルに決めた。 長田は後ろのロープにバウンドして、そのままマットに崩れ落ちた。

 レフェリーはスリーカウントまで数えるが、右手を振りゴングを促す。 長田は必死で立ち上がり、ファイティングポーズをとる。しかし、会場にはゴングが響きわたる。それをかき消すかのような歓声

こうして二ラウンド二分五十秒、 ラクチャートのテクニカルノックアウトで試合は終了した。

この瞬間、長田の三週間にわたるタイの夢が、そして長田の最も熱い夜が終りを告げたのである。