この対談は『月刊空手道』(福昌堂発行)1985年2月号に収録されたものです。肩書は掲載当時のものです。
2
解説・指導 大道塾代表・東孝 ●協カー長田賢一、佐和田亮二、賀上賢一
空手道リアル・アーツシリーズ⑤
新世紀の空手!格闘空手を謳う東孝が今、超実戦空手の極意を公開 スーパーテクニック講座 第5弾!
- 国際人の大きな財産である“武道”
最近日本人が海外に出ることが非常に多くなったようだ。 観光に、ビジネスに、種々の階層の日本人が気楽に世界に飛び出す時代になった。さて、このように日本人が海外に出て、まったく新奇な異国の地、異なる人種の群れに自らをおいた時、一体我々は日本人としていかなる誇り、いかなる拠り所を心の中に持つだろうか。 また、いかなるものを我々日本人は海外で期待されているのだろうか。
確かにGNP世界第2位というのも、 経済大国日本としての潜在的な大きな誇りであることは間違いないだろう。 しかし、特に欧米人によって日本人がエコノミックアニマル、 イエローモンキーなどと陰口をたたかれることが未だにあるという現実も忘れてはいけな い。
だがそんな欧米人も多くの人間が日本人に対しては、東洋の神秘日本、武士道武道の国日本という一種幻想に近い憧れを抱いているのも事実なのである。 海外に出る日本人が、その地の人に 「空手はできるか」「柔道をやっているか」と聞かれる機会が未だに多いのも、その一つの裏付けになろう。本国日本においては形骸化し、死語になりつつある「武士道」も、彼ら欧米人は、「高潔で信義を重んじ、高いプライドと狂気的な実行力を持つサムライの生き方」 として、その言葉に畏敬の念を抱いているのだ。 未だに文化的、または体力的にも漠然たるコンプレックスを感じてしまう欧米人からこのように 「サムライの子孫」 日本人として我々が見られるということは、半面それが誤解であると自嘲しながらも自信と 誇りをつい感じてしまうものである。 この日本人に対する欧米人の憧憬は、考えてみれば我々の大きな財産であるといえないだろうか。私はその財産を、単に過去のものとして我々が無視してよいものだとは決して思わないのであ る。
- 似非「武道」を排す
以上のように考えた時、日本において武道という言葉が、ややもするとヤクザまがいの暴力主義と誤解され、 特に空手の世界ではことさら実戦うんぬん、勝利第一主義の象徴として歪曲されていることに私は大きな懸念を感じるのだ。
自らの団体のコワモテ的宣伝文句として武道、武道と声高に叫べば叫ぶ程、まともな人間は空手から遠のいていく。 正に悪質は良質を駆逐するのである。
これは私一人の杞憂だろうか。 それこそ我国において空手が、現在でも柔道や剣道と比べ、一種胡散臭い目で見られていることの一つの原因になっているといえないだろうか。
- 空手人の責任
それでもそれを国内的スケールで見る分には、国民に対し空手関係者のみが恥をかけばよいと諦められる。しかし国際的視点にたてば、先に述べたように、現在様々な分野で日本が注目され、特に日本の経済進出に各国の批判があびせられている中で、武道だけは西欧文明と異なる東洋的イメージに包まれ、単純に(だからこそ純粋に) 美化されている現実を忘れてはいけない。そしてそのような情況の中で実際に空手は世界に普及しつつあるのだ。彼ら欧米人は武道に対してそういった美しい幻想を抱くがゆえに、逆に厳しい目を持っている。 そんな彼らに対して、自分達の都合で歪めきった武道精神を見せつけられてはたまらない。やはり日本人は建て前のみで、実際は信用できない人種だと結論されてしま うだろう。これは国の大きな損失だといっても過言ではないだろう。
私は過去、ある世界大会でこれが日本人のやり方か(?)」 「これが、 BUDO Spirit なのか(?)」という外人選手の発言を耳にして暗澹たる気持になった記憶がある。たとえ空手の世界、それもごく一団体のこととはいえ、こういう悪感情はいったん持たれると、それをぬぐい去るのは容易でない。そういった点を我々空手人は今一度考えなければならない時期にあると思うのだ。
- 武道精神と現実社会
現代のように厳しい競争社会において、「どんな手段を使ってでも勝つ」という主義、能力は確かに一つの価値観といえるかもしれない。だが、その価値観がどの分野にも、それこそ政治、 商売の世界から武道やスポーツ、ひいては教育の分野まで浸透してしまったら、これは大きな問題である。これは単に一国の問題にとどまらないのだ。 国際時代を迎えて世界的にクローズアップされている日本、その一つの財産ともいえる武道の純潔性を、 我々空手人は決してないがしろにしてはいけな いと私は思うのである。