当コラムは2002年に発行されたエッセイ集『日々是雑念』に収録された文章を加筆・修正したものです
◎「武士道精神」の復活?
最近、老若を問わず多くの言論人により、又それに力を得て、武道を愛好する人々の間に「武士道」という言葉が頻繁に唱えられるようになった。さすがに始めは「アナクロ(時代錯誤)と取られるのでは」と及び腰で「オズオズ」と、意外に思ったほどの反撃も見えないと分かった最近では「堂々と」、「武士道精神」の復活が声高になされるようになった。 待望される理由を私なりの解釈で翻訳(?) すると大体以下のようなものだ。
昨今の、日本をリードすべき層の堕落・崩壊は凄まじい。政治家(屋?)は、国の名誉などより、安全第一の叩頭主義(?※1) 官(奸?) 僚は公僕意識どころか特権意識、親方日の丸意識での汚職、血税浪費。経(傾?) 済人の、「ハゲタカと言われようが、何と言われようが屁理屈を言わないで、要は、儲かりゃ良いーんだ主義」、文化人の「歴史に正義などはない。力関係しかないから、長いものには巻かれるしかない」といった恥も外聞もない、小心翼翼、厚顔無恥、弱肉強食、敗北・虚無主義、等々。
※1:叩頭主義(東の造語):相手の無理難題にも、叩頭(頭を地に付けて拝礼するさま)を旨とし、事を荒立てない別名、臣従主義。
かつて、明治維新期に日本を訪れ、「何千年の歴史などと言っても、たかが東洋の島国だ、教育してやる」と高をくくって来日した諸外国の来訪者たちが、その当時、既に寺子屋の普及で世界最高だった識字率(50%。イギリスで20%))の高さに驚き、逆に「貧しいが高貴で誇り高く優秀な民族」とまで評価された、あの日本人はどこに行ったのだ?!(今こそその根底をなした「武士道精神」を復活させるべきだ!!と続く→後述) 私の歴史の知識は高校程度のもので、学生生活もバイトと空手(と宴会)にその殆どが費やされ、専門的に歴史や哲学を勉学する時間はなかった。従って、歴史や政治の本を読むのが好きというだけで、そういった社会事象やそれへの反動として唱えられ始まった「武士道精神」に付いて言いたい所があっても、中途半端な知識で「偉そうな、訳知り顔な事」を言って恥を掻くようなことだけは避けて来た。
それでも、何故今日のような日本らくになったのかに付いて考えるきっかけとして、始めは20数年前、機関紙「大道無門」の中で、数年前はエッセイ!「日々是雑念」中の「チョッと待った武士道」の中で、国際連盟事務局次長、新渡戸稲造博士の名著「武士道」に触れたことがある。 当時は正に「何を今更、“武士道”等というアナクロな話を」という感じで無視されたものだったが、この本は、その後、年を経るに従って加速度的に、様々な出版社から、様々な言論人の解説付きで出版されるようになった。
要約すると「唯一神を持たない、従って、神による行動の指針を持たない、(しかも“理”と、“利”に聡い) 日本人が、あからさまな生存競争もなくそれなりに穏便な社会を維持してきたのは、日本の歴史に“武士道精神”があったからだ」、述べられている」と。 「歴史に見る日本の行く末」で日本の教育の崩壊を予言した、小室直樹氏は「人をつくる教育国をつくる教育」の中で、「堕落した日本人の再生は偉大な人物を生み出す『松蔭教育』しかない」「松陰の教育の極意は、『死に甲斐』であった。「武士道とは、死ぬことと見つけたり」は、将に吉田松陰のエートス(精神)そのものである。 最近ではベストセラー「国家の品格」を著した、藤原正彦お茶の水女子大学理学部教授が「いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、「国家の品格」を取り戻すことである。と述べられている。
柄に似合わずの“活字好き”でも、仕事(事務雑務、メール送受信、作文、指導、自主錬、渉外、社交、等々)に追いまくられ、中々時間の取れない最近は、手っ取り早く情報を仕入れる為に一寸した時間は、「ゴルゴ13」や、「ゴーマニズム宣言」などの情報漫画(?) を読んで向学心(爆笑)を満たしている。
特に、真摯で広範な学習から読み込まれた情報や知識を、一般人の常識感覚で選別し構築した、素朴だが、骨太な論理をベースに描かれる、「ゴ-マニズム宣言」(小林よしのり氏)は、面倒な問題でも、考えやすく調理してくれるので、自分程度の「浅学な訳知り顔」にも、適度な刺激を与えてくれる有難い漫画だ。数年前、その中でもやはり「武士道精神を備えたものに政治をさせろ」と書かれていた。
このように、最近様々な場で“武士道精神”が称えられている風潮を感じるにつけ、「何でもかんでも合理主義の西欧が優れていて、非論理的、情緒的な日本は駄目な国」だという、敗戦以来ずっと引きずってきた“敗戦ショック”からの、戦後50年を過ぎてやっとの、覚醒として私も大いに喜びたい。 とは言っても、へそ曲がりな性分からか、この風潮に諸手で賛成は出来ず、実際にその風潮に悪乗りする、武士道精神とは全く縁もゆかりもなさそうな、「外見で武士道を売りもにする武道家」が最近澎湃と出現するのを見るにつけても、再び「チョッと待ったぁー!」と言いたくなるのだ。
実際、上記の「ゴーマニズム宣言」にも、「武士道精神を評価してもらうことは有難いが、人よりは少しは実践的、多角的に触れて来た者として、“武士道”に連なる“武道”(≒)を実践する現場を見たとき、それは危険な礼賛では?」と手紙を書かせて貰ったものだった。
忠誠、犠牲、信義、廉恥、礼儀、潔白、質素、倹約、尚武、名誉、情愛などなどを重んずる“武士道精神”(広辞苑より)は正しく理解されて行動の規範になれば,その責任意識や“恥”を知る日常行動により、現実に徳川三百年の平和をもたらし、義に殉ずる精神力、死をも恐れない“潔(いさぎよ)さ”により、明治維新のような偉大な成果を生むとは思う。
しかしこの武士道精神は一歩間違えば、武士≒死を賭して主君に仕える者(侍ふーさぶらふ、即ち“侍”)という図式から、ややもすると、単純で分かりやすい“葉隠れ武士道”――「武士道とは死ぬ事と見付けたり、二つ二つの場にて、早く死方に片付くばかり也、(中略)犬死などという事は上方風の云々・・・。」(山本常朝)―という極論に、簡単に走るきらいが大きくある。また現実に、昭和期の“問答無用”の軍閥政治を招いた歴史的事実があったことも忘れてはならないと思うのだ。
“武士道精神”とはある意味で、強い肉体と靭い精神とのバランスを失わないだけの“強靭さ”を持った吉田松陰のような“天才”、もしくは、そこまでは要求しないにしろ、かなりな“人間(社会)通”で分別のあるものが持つのなら、命懸けで社会人類の為、言葉を変えれば「誇り高く、公に生きる」という、理想的な意志を強固にしてくれる強力な武器(?)だとは思う。 しかし、中途半端な、肉体だけが強くて、「普通の精神や分別しかない者」が扱ったなら、それは“命懸け”という極彩色で形容される部分だけが肥大化し、生命を抹殺するという過剰な精神量とに酔い痴れて、「“死”という絶対的な恐怖」を乗り越える時に感じるであろう高揚感が一人歩きし、忽ち、簡単に全てを、己だけではなく他人をも、抹殺できる“凶器”にもなりうるものだからだ。
醒めた言い方をするなら、自分だけなら「、ご自由に」とも言えるかもしれないが、それには止まらず、同じ事を他人にも要求し始めるのだ。当然、死んだ本人が、ではなくそれを賞賛した周囲の“空気”が。いわゆる“詰め腹”も含めて。
本当の死を前提として闘って来た訳ではないが,少なくとも現代で、最も直接的に相手を倒す事を前提とした“闘い”を追求し、肉体の威力と精神の凶暴さの境界に立つ高揚感を、充実もしくは喜びとして体感して来た者の一人として、その極限の(正確に言えば、極限に近い)至高感が分かるのだ。
そういう意味で昨今の、楽天的な (?) 「武士道」礼賛の風潮には慎重でありたいと思う。 “武道の教育効果”を誰よりも訴え“武道が評価される事”に無上の嬉しさを感じ、“情”や,“熱”を人一倍大事にしたいと思いながらも、「肉体の持つ“狂気” というものを知る者として、その怖さを真に理解しコントロール出来る者でなければ、“武士道精神”を軽々にもてあそぶべきではない、と訴えたい。
“武士道精神”という劇薬を安易に賞賛することは、本来の“武士道精神”が根底に持つ“理”よりも、その表層である“熱”や“情”に浸る快感に陥って振り回されてしまう危険性を同時に抱え込むことだ。あくまでも“情”や“熱”は、“理”のコントロールがあってこそ正しい方向に向かう」という事を、遠慮会釈なく、くどいぐらいに叫びたい。
◎「“武道精神”とは?」
「武士道に連なる武道」と述べたように“武道”は“武士道”から生まれたものだから、当然多くの共通の価値を共有してはいる。しかし、大きく似て非なる点がある。それは“死”というものに対しての捉え方の違いである。
さて、「“武士道”とは死ぬ事と見つけたり」というあまりに有名な葉隠れ武士道の一節から、“武士道”には「命を惜しまない心構え」が最初からあったような錯覚を持っている人が多いのではなかろうか?私はそれは違うと思う。“武士道”の原型は、“死”が日常的にあった戦国時代に、死の恐怖を乗り超えるために、仏教や儒教をベースにして萌芽したものだと思うが、しかし実際その頃の“兵の命”は戦力として掛け替えのないものだったはずで、「その場その場で早く死んだ方が真の武士である」(山本常朝「葉隠」)等とは、絶対に考えなかったはずである。
ところがその後、江戸中期の安定した時代、当然、死が稀なものとなり、死を恐れる風潮が出て来た。そんな時代、物事への対応や己の出処進退の判断をする時に、命を惜しむのが一般的な人間の自然な性(さが)であるから、逆説として「武士道とは死ぬ事と見つけたり」という極論に到れば、少なくとも卑怯・無責任の謗りは招かないとして生まれたものであろう。即ち当初は「命を惜しむ風潮を嘆いた論」だったはずである。
山本博文 東京大学史料編纂所々長は「葉隠の武士道」の中で、「しかし『葉隠』は武士の処世術に満ちた書物なのである」、「作者の山本常朝は、職務をより全うする為にも出世しなければと思い、自分が家老になる為にひたすら藩主に迎合するように努めた」とすら書いている。ここまで書かれると寂しい気もするが、「職務を全うする為に」という前提なら「理想と現実の折り合い」という意味で、ま、腑に落とせるか・・・・。
そもそもは、単に、地方藩の藩主の側役ではあったが、さして重要な役目を務めたとも言えない、ましてや家老などではなく、主君の死に殉じて隠棲した一老人(山本常朝)の悲憤慷慨(?)を、彼に私淑した若い祐筆役(書記)が纏めたのが「葉隠聞書」であり、当初は「鍋島論語」として佐賀藩士の間でのみ読まれた物である。
ところが日本は言霊(※2ことだま)の国である。ましてや「平和な時代には過激な言論が好まれる」という定説(?)そのままに「武士道とは死ぬことと見つけたり」という、正しく「鬼面人を威す」その言葉が、太平楽の江戸時代には「新鮮な過激思想」として一人歩きし始め、一地方の「聞き書」の一節、「その場その場において早く死んだ者が、真の武士だ」が、「武士道そのもの」となってしまった。
※2:言霊(ことだま) 言葉に宿っていると信じられる霊的な力。古代その言葉の不思議な威力によって吉凶様々な事象がもたらされると信じられ、畏敬された。
現代社会も「生き馬の目を抜く競争社会」ではあり、人はそれぞれの場で“闘って”いるし、いざとなれば否応なく命を懸ける場面に突き当たるはずだ。身近な例で言えば、普段は「武士道精神」などという高邁な精神など毛ほどにも見せない、ごくありふれた中小企業の社長だって、会社が立ち行かなくなれば“死”を選んでしまうのが、善し悪しは別にして、“現実”である)
しかし、少なくとも現代の競争・闘争は“始めから死を前提とした闘い”ではなく、逆に多くの人は“生”を前提とし、豊かな“生”を享受しようとして日々競争し闘っているのではないか? 確かに、競争の激しい社会ではあるが、現代に生きる人々は闘争心や攻撃心を掻き立て闘いながらも、信義、廉恥、礼儀、名誉といった多くの倫理観により、最低限の人間相互の信頼関係を失わず、社会秩序を維持し、安定した社会を成り立たせているのが現代である。
多くの人も、まさか“生”を前提とした現代において「生きるとは,いかに見事に死ぬかと言う事である」とはもはや言わないだろう。即ち、“武士道精神”から少なくとも、前提としての“死”の部分を除いて信義を重んじ、正々堂々、積極的に生きる、等々が現代に求められている精神なのだ(これが私の言う“武道精神”である)
武士道と比べた時、それ(武道)は人を、国を動かすまでの本質的な力を持たないという人もいるかもしれない。あくまでも厳然たる死が存在するから大きな力となりうるのだと。それではそういう人達は、“死を恐れない”と言う意味で“武士道精神”と似通うパレスチナとイスラエルの“殉教者”による、果てしない、不毛の、としか思えない、自爆合戦を“積極的”に称賛するのだろうか?
そういうと、今度は、「正しい武士道精神は「滅私奉公(己を去り、公に殉ずる)」の精神で実行され、無関係な他人を巻き込んだりはしない。自爆テロはあくまでも、「来世での自分の幸福」を担保され(妄信し?) 実行され、無関係の人間を殺すことを躊躇しない」と言われる。
それは身贔屓(?)というものではないのか?少なくとも、特攻を敢行した人達が、死を賭しながら自分の為ではなく国を想ったことは疑わないが、一方で、自分の死が自分の家族や親類縁者への、(国や地域からの)何らかの“評価”に繋がると信じてもいたはずだ。 更に、命を奉ずる事だけが至高の善だとするならば、漠然とにしろ「命を大切にする事」、「生きて幸せになる事」を志向しながら、今日まで連綿と続いて来た、人間と文明の進化を否定してしまう事になるだろう。
この程度の小論でそこまで厳密に言うこともないと思うが、テロルは政治的軍事的弱者が、圧倒的な強者に対抗しようと思う時、その一つの手段となる可能性は現実的には否定できない。しかし、道義的、倫理的には、絶対許されない。としなければ、平和な社会の前提が崩壊する。
そう考えた時、嘗て「死の対称としての生を輝かせた精神」ではなく、「始めから生そのものをより輝かす為にある“精神”」こそが、現代に生きる我々が拠り所とすべきものなのだと思う。そしてそれを育ててくれる大きな一つは、現代社会には観念として存在はしても、現実に実践されることのない“武士道精神” (観念は過激になりがちだ)ではなく、“武道”として生身の人間によって実践される中から育くまれる“武道精神”だと確信している。
真のリーダーが死を賭して事に臨む心掛けを、自己に向けて(他に対してはではない、“絶対”に!) 胸中深く秘めているのなら、我々凡人の及ばない所だが、社会を成り立たしめている圧倒的多数の我々凡人が掲げて、触れて良いのは“武士道精神”から“死”を除いた“武道精神”までだと、私は思う。
文書日付2006.4.28