コラム17 年末エッセイ!!年越しを振り返る。わが生涯、二度目の海外での年越し!!泣&笑(中編)

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※ある年一度だけ海外で年越しをしたことがある(続く 笑)

というとなんか今風だと思われるかもしれないが、ある年(2007年)、私がニューヨークでのセミナーを終えての帰途の話(シチュエーションは格好いい)。

当時、娘は大学生活も後半に入っていたが、自分の進む方向が見つからないようで進路で悩んでいた。その数年前(高校2年生だった)には、一番多感な時期に一時の仲違はあったがそれも修復し、前のような仲のいい関係に戻っていた「おにぃ」を突然の出来事でなくし心に大きなダメージを受けていた。しかしそれも何んとか克服して生きていたが、同じ年代同士で相談できる唯一と言っていい人間だったから、参考となることが何もなくなって途方にくれたのも無理はなかった。
※生まれた頃から道場で多くの内弟子と一緒に暮らして、チョッと人見知りする子になっていたから、よけい「おにい」だけが頼りだった。

この2000年からの数年は、上述したようにそれまでの最も楽しい期間が、いきなり180度反転し奈落の底へ叩き下ろされたような期間になったので、我が家にとって思い出したくない寂しい年末、年始だった。娘も友達としたりして“家族”での年越しは途切れ途切れになった。「今年を振り返り来年に期す」作業も止めたし、年が近い姉が送ってくれるナメタ鰈(かれい)のある年越し膳を挟んでも笑顔は少なくただ時間の過ぎるのを待つみたいだった。好きだった「ゆく年くる年」も見ないで床に入ったり、朝は新宿の熊野神社への初詣が習慣になっていたがそれも止めた。また、それまでの正月3日、4日頃は古参の弟子を呼んで酒盛りやゲーム等をしたものだったが、そんな元気はなく、家族での楽しかった頃を撮り溜めしていたビデオを何時間もかけて観ては「こんなの撮るんじゃなかったな~」とため息をついていた。

そんな中の2001年の重苦しい年越し、正月。とは言っても否応なく娘も受験を考え時期になり「やはり、おにぃと同じ大学へ」と頑張っていたが、私たちも「あんなことをさせなければよかった」、「あの時、止めるべきだった」、「この先、何を励みに生きればいいんだ?」等々自分を(また口には出さなかったが、互いを)を責めたくなる時も多くなり、夫婦ともに不安定な状態が続いていた。ありがちに家内も一時は亡くなった子の事ばかり考えて宗教的なことに敏感になった。私は私で後ろばかりを振り返り、今にして思えば馬鹿な事を、考えていた。

とうとう、弟子達も見かねたのだろう、ある古参の弟子が代表し電話をよこし「先生の心境を考えると、来年の『第一回世界大会』は延ばした方が良いんじゃないでしょうか?」等と心配もされたくらいだった。こんな風に親が両方ともに立ち直れないでいるから(しかし、まだこぼす相手がいるだけ良かったと言えるのだが)、一人取り残された感じの娘はそれ以上に大変だったろう。遂には、いつまでもグズグズしている私に「お父さんお母さんは、いつまでもお兄ちゃんのことだけ考えて、私がいることを忘れているよー!!」とまで言われてしまった。

勿論そんな気はなく、ただ「女の子には穏便に幸せな人生を送れば・・」との考えだったから、あまり期待めいたことは言わなかったのだが、それが逆に自分は忘れられているという気持ちにさせたようだった。別な古参の弟子からも「自分達はいつまでも先生のそんな姿は見たくありません」とまで言われてはいたのだが「分かってはいるが・・・」という状態だった。しかしさすがにその言葉にはハッとさせられ「このままでは駄目だ、俺が気を強く持って家族を引っ張らなければ、俺も家族も大道塾もみんなダメになってしまう。何かの目標を持って生きなければ」と目覚めた。

こんな感じでようやく再び前を見始め「考えてみればあいつとの約束もあったんだ!」と、あとは眼前の大事業とでもいうべき「第一回世界大会」に向かって無我夢中で1年を過ごし、何とか無事やり終えた。

【参考】「2001北斗旗第一回世界空道選手権大会」外伝  

そんなこともあって、娘も徐々に気持を持ち直して受験勉強に打ち込むようになり、見事に進学を果たしてくれたので、一時は深刻だった“家族崩壊”も免れた。全く同じようなケース(長男を失くした事で両親が放心し、妹がぐれて家族崩壊した)も見聞きしていたから、実際そうなってもおかしくはなかった・・・・。そんなこんなの数年を過ごして(2005,6年ころか)の、この、卒業後の進路についての悩みの時期である。

私は娘がやる気になったんだからと(自分が望んで実現出来なかったからだろう。良くないことかもしれないが・・・)、「お前は英語が好きみたいだから、その好きな道をもう少し本格的に勉強してみたなら、その間に何かいい方向が見つかるんじゃないか。学費は先行投資と考えて何とかしてやるから老後はしっかりと見てくれよ(笑)」と言った所「いまさらまた勉強だなんて・・・」と言いながらも、その内に自分でネットなどを色々ひいて、海外の様々な大学の案内書などを取り寄せて「やってみたい」となった。

「アメリカはもう斜陽だとか言われているが、世界の中心は当分まだアメリカで、中でも世界の全てが集まり、いろんな人間が集まるので刺激も受けるし人脈も広がる。せっかく海外に出るなら、冒険するつもりでニューヨークにでも行ったらどうだ。英語だけでなく人生勉強になるぞ」と言ったのだが、娘はアメリカ(のガサツな所?)は好きではないらしく、「イギリスの方がいい」と決めて旅立った。

(と思っていて、書いた後に本人に確認したところ・・・・以下のようになりました(双方ともに譲らない 笑)。いかに人の記憶があいまいか、もしくは人はみな自分のメガネを通して自分の外界を見るものだという証左かもしれない。もっとも私の場合は子供ころから喧嘩ばっかりしていたし、親父には何十回となく(NHGなしの 笑)頭を殴られているので、打たれ強いのと裏腹に記憶力には全く自信がないので、大概「そうかぁ~」となるのだが 泣)

「とある就活の講演会である人の話きいていて、何か自分に自信がもてるような苦労と体験をしたらその先に見えるものが変わるのかも、って思ったのがきっかけ。その話にインスパイヤーされたのもあって、英語なんて好きでもなかったし、しゃべれないけどぶっ飛びで行ってみちゃえばどうだろう、って悩んで悩んだ末に決めた。けど、お兄ちゃんのこともあったし、何て言われるか心配で、「何言ってるんだー!」とちゃぶ台をひっくり返されるんじゃないか、反対に涙もろいお母さんには泣かれるんじゃないか、ってホントにドキドキの瞬間だった。勇気をだしておとーさんとおかーさんに相談したなら逆に「お前からその言葉を聞けて安心した」ってアメリカ行きを進められて驚いた。しかしそれ以上に、わたしがこの話を切り出さなかったらお父さんたち、わたしにガッカリしてたのかも・・・って考えると、ほんとにドキドキの瞬間だった」らしい。

でも、チョッと違うかもしれないが、親子の関係ってのはそういうものじゃないんだぞ。「鉄道員(ぽっぽや)Wikipedia」という浅田次郎原作で高倉健主演の映画がある。詳しくは読んで(見て)貰えばいいが、一人暮らしの父親を心配し亡くなった娘が度々姿を変えて出てくるのだが、あるシーンで「お父さんが怖がるかと思って」という言葉に対し「何言ってんだ、どんな姿でも子供を恐がる親なんかがいるもんか!!」というセリフがある。(私も当時は「幽霊でも良いから出て来い!」と心から思っていたから、全く同感できる)子供のことなら親は何でも認めるしかないんだ。ましてや、真剣に考えた上で決めたことならなお更だ。

後編へ続く

文書日付2013.1.5