2019.07.13   引っ越し騒動始末記

 この一ヶ月間の引っ越し騒動について折々のエピソードをマトメて見よう。そもそもは旧本部道場(既にそうなってしまった、ああ)の建物は、バブルがはじけたからこそウチが使えるようになったものであり、しかも、既にウチが入る時には30年を経過しており、練馬の元本部から移る際には「池袋に移るんですか~、凄いですね~」などと言われたものだが、この建物も「あと20年くらいかな?」という予想はあった。

入居13年目の2013年、東日本震災では建物全体が揺れ、5階の部屋の本棚、事務用棚などは壊滅状態だった。壁にはヒビが入り、屋上からの雨漏りは酷くなり会議室の天井がシミだらけで側壁はシロアリにも食われてたりして緊急でべニア板で塞いだ。同時に、階段の壁の繋ぎ目からも水がシミだし階段が濡れるなどもしたので、当時の塾生でそういう関係の工事をしていたT氏などから応急修理をして貰ったが「一応しましたがこれ以上は無理です」と言われたものだった。

2年ほど前には水道管や下水管なども詰まってバイパス管を使って凌いだが、この辺りから、「そろそろ本気になって次の物件を探しておかないと」と思うようになった。それでなくても、文部科学省の地震調査研究推進本部は、2011年に「東海地震が30年以内に87%の確率で発生すると予想される」と発表している。今は2019年だからあと21年以内には87%以上の確立という事になるのではないか??

「そうなったなら、稽古中なら多くの弟子が被災するだろうし、練習中でなくても住みこんでいる連中に危害が及んでは、預かった親御さんに申し開きができない」などと思い、切羽詰まって何軒かの不動産屋さんに相談した。建物自体は今年の初めにはなんとガス漏れ騒ぎまであった!!万が一が爆発が起きてたならビル密集地でのそれは悲惨な大事故に繋がっただろうし、今ノンビリこんなことは書いてはいられなかったはずだ。

足掛け2年ほど、50件ほどの物件を当たってみた昨年、漸く9割程度の容積率の建物が、旧本部道場から歩いて15~20分、車で5分位の、近くに神田川が流れる情趣豊かな、学習院下や面影橋(※)から徒歩3分という高田の地に見つかった。 (尤も、改築費が半端でなく掛かり、結局、又、長いローンが続くことになったが…泣)

※ 面影橋を渡ると、すぐに太田道灌が高田の地で鷹狩りに出てにわか雨に会い、近くの農家に雨具を借りようとした処、一本の山吹の枝を出されて「何を勘違いしているんだ!」と怒ったが、あとでそれは、平安時代中期の応徳3年(1086)、白河天皇の勅命で編まれた「御拾遺集」の中の一句「七重八重、花は咲けども山吹の、実の一つだになきぞ悲しきhttp://www7a.biglobe.ne.jp/~reroman/doukan.htm 」で、「貧しくて実の一つだに(=蓑一つ)さえない」という意味だと知り己の無学を恥じた、という逸話で知られる碑が立っている。

さて引っ越しが正式に決まってからは、荷物の梱包と1階への移動やらで毎日が修行時代並みの“鍛錬の日々”だった。業者に頼もうかとも思ったが、なんせ、練馬の、1面の道場と2DKの事務所と2DKの寮=70数坪から、いきなり2倍の5層の建物(150坪)に引っ越したため、その時点で断捨離しておくべきだった古い書類(※)や格闘技雑誌等、何でもかんでもを運び込み、その上、余ったスペースにドンドン新しく集積したものだから、今度のビルは同じようには収納できないとなっての断捨離は滅茶苦茶な量になった。

※20年間、国内5か所の春秋(10回)の地区大会(200大会!)と、年2回の全国大会(40大会!)、年5地区での合宿(5×20=100回!)、年3回の支部長会議(3×20=60回!)これらの書類(段ボール30箱)を、5階にあった長さ1800cmx奥行き60cm3段の倉庫に詰め込んでいた。それからまた20年が過ぎ、同量以上の書類ができ、その上に、書類量で数倍の世界大会を5回もしていた!!!その文書量たるや!!想像するだに恐ろしかった。

まず1階のウェイトルームは、1台300kg前後あるマシーンが5台とその後、買い増した軽量のが2台。到底、自分達では移設できないので、丁度マシンが古くなってシートが破れたり、プレートが錆びたりしてたのでメンテナンスして貰うことにした。私が極真会の第1回世界大会(1976年)後に仙台に帰郷して、10年後の1986年に再度、上京するきっかけを作って頂いた、早稲田大学雄弁会元事務局長の淵上貫之先生(弁護士)のご子息、雄志君がThinkフィットネス株式会社に勤めていたので相談し、分解修理とシートの張替え、プレートの総入れ替えなどを頼み、作業後は新道場に運んでもらったから、最大の重量物は何とか片付いた。

次の重量物は50枚ほどの畳だが、20年前に1枚約3万円ほどで購入した、中にクッションが入っている最新式の最高級品で、当時としては軽いものだったが、それでも1枚10数キロあり持ちにくい上に、狭い階段を運ぶためこれまた難物だった。まだまだ使えると思うのだが、年月でそれなりに凸凹が出てきたり、最近寝技の稽古が増えているため、畳の間から汗が染み込むらしく、若い指導員連中からは「夏などには臭い(※)が…。せっかく新しい道場に移るのですから云々…」などと、他人の懐具合も考えない“強訴”(笑)が出てたので思い切って、今多くの柔術の道場が使っているジョイントマットをシートで被う方式にし、これも何とかクリア。

※今の過剰に衛生観念の強い若者は臭いに敏感、というより抵抗力がない。道着なども1回着たならすぐに洗う。その度に「水の無駄、電気の無駄、洗剤の無駄で、生地にも悪い。そして何より、時間と労力の無駄。そんなに洗濯して干して・・という時間があったならもっと練習できるだろうが!!」と説くが耳を貸さない。我々が選手の頃は道着などは通常1週間位着てから洗うものだった。私は練習は毎日だったが、3回以内で洗ってたから綺麗好きと思われていた方だった。中には1~2週間くらい着続ける“剛の者”もいて、こうなるとさすがに嫌がられたるが・・・・。

それにしても、今の若い者はチョッとしたタバコの匂い、汗の臭い、道着の臭いにすぐ顔を顰めて距離を取る。勿論、接近し接触して技の交換をする格闘技の場合は、全く道着も洗わなかったり、歯も時々しか磨かないとか、滅多にシャンプーもしないような人間は、論外だが、多少の臭いや汗は人間が生きてる限り嫌でも発せられる生理現象であり、逆にいつも無菌状態で生きていたなら、菌は益々強くなり、人間は益々弱くなるだろう。第一、そんなことを嫌がるようでは、「単なる闘争ではなく、どんな場合でも逞しく生き抜ける力を身に着けることも武道修業の一つ」であることを忘れてはいないか!!!と言いたんだが…。

閑話休題。最後が、山の様な量の書類や雑誌、書籍など、「チリも積もれば最も重いもの」となる紙類(=書類)だが、その書類も千差万別でしかも色々な場所にあるから、片っ端から同じ箱に詰めれば良いというものではなく、それらを分類してからでないと箱詰めできない。だから業者に頼んでも、結局は自分が張り付いて指示しないと進まないので二度手間になるだけだ。仕方ないから自分たちでやろうとなったのだが、今度は、書類はある程度読まないと分別できないので、ザっと軽く読みながら作業をする。すると中にはずうーと忘れてた懐かしい手紙や、忘れたかった嫌な思い出、出版した自分の本の原稿等々(※)が出てきたりして、つい読み耽ってしまい、一日で梱包できたのが箱1個という日もあった泣。

※有望だったが、いろいろ私への不信や同期や先輩へのに疑問、不満を持って辞めていった弟子からの「大道塾に失望しました云々」から「色々自分で経験した今になって先生の気持ちが分かりました云々」などの悲喜こもごもな手紙。ある団体にはまり、私の知らない間に退会して、遂には道を誤り「塾長が好きでした・・・・。あのまま大道塾を続けていたなら…」という慚愧の手紙を認(したた)めてきた元大学生の弟子。大道塾を始めた時に「裏切者!」などの誹謗中傷をされ、当時はまだワープロも打てなかったから“象形文字”などと言われながらも(笑)自分の本意を綴った、初めての著書「はみ出し空手」の手書き原稿。

20世紀最後の年の2000年、池袋本部の設立(2月)の直後に念願の早稲田大学政経学部に入学し(4月)、且つ、春の交流試合で優勝しそれまでの人生で最高の高揚を味わった僅か数か月後(8月)、突然、この世を去った、分身だとまで思った息子、正哲(まさあき)への鎮魂の書「お~い、まさあき!」。その原稿や“友達”とされた青年たちの言行を時系列でまとめ「民事に持ち込もうか!」とまで思い詰めた頃の資料などは、涙で見えなくなった。

箱はミカン箱の1.5倍~2倍くらいの段ボールなのだが、これに記念品や遠征時に貰った記念品などを詰めると約30kg。くだんの紙類(書類、記録)となると隙間なく詰め込めるものだから、一杯詰め込むと50kg位になる。4割くらいが30kgで6割くらいは50kgで、合計でなんと250箱!!これを2人の指導員(清水亮汰、岩崎大河)と、週一だけ休みの寮生指導員1人(安富北斗)+女性の事務局2人(田中さん、柴田さん)+事務局長と自分、合計6人と1人という態勢でやった。運ぶのはもちろん野郎どもだから3人と1人しかいない!!

(※)古稀だからなどとは言ってられない。旧道場の5階から物品エレベータのある3階までの約35段(42歩)と、新道場の1階から4階までの52段(64歩)を、膝や腰をコキコキと鳴らしながら(笑)、若い連中の4割くらいの割合では担いだから、最後には喋るのも嫌になり、荷物を抱えてただ黙々と階段を踏みしめた。一方で若さ真っ最中で力が滾る亮汰や大河は鼻歌交じりで“塾長”を追い上げる!!この野郎!!

そんなクタクタで漸く夜、床についた時には段ボール箱が追いかけてきた!!(事務局長は書類の束だったそうだ!!笑) 22,3歳の馬力最高の頃、バイトで昼夜続けて(5時~8時の3時間の合間に、飯を食って仮眠して)1カ月くらい有楽町線(池袋―護国寺間)の地下鉄掘りをしてた時に、体が疲れ切って、どことなく擽(くすぐ)ったいような、体が浮くような心持でいると、急に布団の周りを何かが(?誰かが?)グルグルと回った、あの金縛り事件とおんな体感を味わった!!「50年経っても、同じような感覚を覚えるなんて、俺も発展性ないな~」と思う反面、「まだ壊れもせずにこんな感覚を味わうなんて、俺も結構、丈夫だな~」と、独り言(ご)ちでしまった爆

※:「日曜日にでも道場生に声を掛けてすれば良いのに」とも言われたが、前述の事情なので、分類と箱詰めは自分でしなくてはならないし、詰めた箱もその度に1階に下ろさないと、5階が一杯になってしまうから、日曜日まで待てない。また一階に溜めても溜めきれなくなる。畢竟、何度かに分けで現有戦力で運ぶしかない!!昔の子弟関係がストレートに通じる弟子は殆ど50~60歳代で、20年前の30~40歳代ではないから、腰やひざを痛められても悪いし、まだ若いという事もあるが、現代の指導員と塾生の関係は、昔の先輩後輩のような“徒弟制”ではないから(笑)、練習以外で体を使う事には気軽に声は掛けられないようだ。

昔ならこういう時に頼りになるのは(?)、昼働いてない(し、勉強もしてない、はずの?) 学生、というのが定石だったのだが、最近の学生は真面目だから(良いことではある、確かに)、授業をサボったりはしない。また学校も嘗てのように「10年以上留年させた」などという長閑な時代じゃないから、出席日数のチェックは厳しく学生もサボれない。漸く6月22日の土曜日の10時から2時までバイトで、という“条件”で早稲田準支部の塾生を6人程集めて、どうにか全荷物の4~5割を運んだ。

よく「就職で体育会系が好まれるのは、上意下達で命令に従う癖がついてるからだ」というようなことを言われる。しかし、今時は体育会系だからと言って、昔のように即“ハイ”や“オス!”とは行かないし、又、競技自体も単純動作を繰り返してれば上達するというものではない。様々な指導書から色々な情報を得て頭を使って動かないと、良い戦績も得られない。しかし、体を動かす競技をしている若者は「体を動かすことが自分の為になる」と思うから、それ程嫌な顔をしないで動くのだ。

ま、そんな感じで約1カ月かけて、どうにか殆どのものは運び、残るは住み込みの私物のみとなったから、漸くこんな雑文を書く気になった訳だ(笑)

この建物で一番気に入ったのは道場が地下にできることだった。今まで1977年(?)に仙台市荒町に初めて常設の道場を持って以来、1981年の仙台市五橋での大道塾設立、2001年の空道創始に伴う池袋移転を含めて合計5回の常設道場を使ったが、まだ人情が篤い東北は別にして、上京して2回の道場はどちらでも周辺住民との騒音反対騒ぎで悩まされた。住民の方々の迷惑は分り、気合を入れる時間などそれなりに配慮しても、武道の道場で全く気合を出すな、となるとどうにも打つ手はない‥‥。

その点、今度の道場は地下なので騒音問題はないし(※1)、夏は涼しく、冬は暖かい。道場も広さ的には前と同じ平米だが、横が広く横5~6人が並んで、縦も5~6人並べるから、25人は楽に、詰めれば30人の基本稽古ができる。更に、横が広い分2組が縦隊して組手ができるので、試合場に近い感覚で動き回れる。(※2)
※1それでも心配だったからチョッと大きな声が出てる日、道場の周りを歩いてみるとそれ程でもなかった。更に念を押して次の日、隣の人に聞いたなら「全然聞こえなかったよ」とのことで、永年の胸のつかえが降りた気がした。

 ※2 尤もあの道場は狭いと評判が悪かったが、実戦(簡単に言えば“喧嘩”)はあまり試合場のような広い所ではなされない。大概、狭い所で角突き合わせ(るから笑)て行われるものだから、良い実戦経験が積めるのだが、武道修業の目的は“喧嘩”の為ではなく、“結果”なのだから、そう強弁もできない(爆)。

さて、こういう武道系の団体の多くは学制に取り入れられ、“教育”、“体育”という価値が生まれた現代社会とは違う、むき出しの闘争術であった明治期は、警察や宗教団体等に吸収(=就職)されなければ、暴力装置(=用心棒)としての存在価値から、いわゆる“反社=反社会的団体(任侠系)”と結びついていたのは残念ながら事実だ。その残滓からだと思うが、何かにつけて何周年だとか、○○のお祝いとか、△△の感謝祭などと言った冠婚葬祭(業界用語で所謂“義理掛け”)が多いものだ。しかもそれが専業者のみで組織されている団体ならいざ知らず、ウチのような一般社会で会社に勤めていたり公務員だったりする支部長が、行事の度に全国から駆け付けるのでは大変だと思ってるから、国内支部長で集まるのは、1月初旬の1泊2日の年頭支部長会議と支部長審査そのあとの新年会(支部長の発議で始まったが、出席はこれすら有志だ!)以外は、年に2回の1泊2日ないし2泊3日の「全日本選手権大会」(と支部長会議は同じ行事中)だけにして、極力、支部長に負担のかからない、一般社会と乖離しないような、常識的なものだけにしようと心掛けているので、道場開きは地区委員長と関東圏の支部長のみですることにした。

ましてや、来年の1月には大道塾設立40周年、空道創始20年目を迎えることもあり、これは一般的な団体、会社でも祝う事だろうから、それなりにせざるを得ないだろう。そんな事情もあったから尚更地味目にしようと思っていた。所が、事務連絡の積りで「7月6日より道場を移転します」という知らせを出したところ「こういう場合は“道場開き”があるんだろうが、いつなのか?」とか「なぜ私には知らせがないのか?」などという声も出てきてしまったので「今回は(上述)…です」というハガキを出す始末だった。

それでも、10基(籠含む)ほどの生花を頂き飾らせて頂いたから、それなりに賑々しく、氏神様であり荒ぶる神“スサノオノミコト” https://kotobank.jp/word/素戔嗚尊-541600 などを祀り、在原業平も参拝したと言われる“高田総鎮守 氷川神社”の神主さんに、正式には“清(きよ)祓い”と呼ばれる儀式をして頂いた。

その後“奉納稽古”をしたのだが、その前に挨拶をした。初めは「これで仙台市荒町、仙台市八幡町、仙台市五橋、練馬区平和台、豊島区池袋、そしてここ豊島区高田と6回の常設道場を開いたことになる。みんなの協力のお陰だ。今後も益々頑張ろう」という感じで締め括ろうと思っていたのだが、荒ぶる神、スサノオノミコトの霊が降臨したか(笑)「正直、引っ越しの大変さを顧みると、2度と引っ越しはしたくないという気持ちだが、長年の夢である『一面の試合場の取れるような広さの道場』は何としても実現したい。次の50周年、60周年位は実現したいと思うので、みんなの力を貸して欲しい。」と言ってしまった(笑)。

50周年60周年迄稽古着を着られる元気があれば良いが、それは天命に任せることにして、周知のように日本には“言霊”という考えがあり「言葉には現実に影響を与える(霊)力がある」という意味で「だから軽々しく言葉にするな!」と「言葉にすることで現実になる!」という二通りの面があるのだそうだ。そういう意味で、後者を信じて日々精進を重ねたいと思う。「大道塾々長 東 孝、昭和24年5月22日生まれ70歳、身長5尺7寸、体重22貫700、極めて健康!」だぁ(爆)