“格闘空手家”東孝と大道塾 ⑥ もう後には退けない。選手として限界に挑戦

昭和50年10月6日帰国。11月の第一回世界大会も最初から目指すのは二宮君だけだった。
これでケジメさえつければ空手とも手を切る事ができる!ただ、それだけだった。しかしその思いを果たす事はできなかった。結果は6位だったと記憶している。
結局、私は二宮君を追って空手をやって来た。第 9回全日本、私は初の優勝を飾る事できたが、それでもその大会に二宮君が出場していなかったので、物足りなさが残った。
しかしとり合えず全日本を制する事はできた。次は世界大会だ。 一度始めたらもう後には引けない。私は今まで以上に稽古に精を出した。
ところが、そんな時である。私は稽古中に以前から痛めていた右膝を再度痛めた。医者によると靭帯が伸びているという。だましだましの稽古、ウェイトも満足にできない、サンドバックも蹴れない。そして組手もできない。しかし私は自分を追い込んだ。最後の最後まで、私は限界に挑んだつもりだ。
1979年11月23日、私の現役最後の大会である。スタミナも大丈夫だ。体も動く。膝が壊れようが構わない!立てなくなるまで蹴って蹴って蹴り潰してやる!!
結果は4位だった。玉砕だった。何回戦目かでスネから先の感覚が鈍くなり立てなくなった。結局、不完全燃焼したままで世界大会は終わった。しかし一度火がついたらなかなか消えないのが私の性格である。よしっ!それなら膝を治してもう一度、などと何度思ったかわからない。だが、現実に膝は治らない。私は選手としての大きな未練を残しながら、現役生活にピリオドを打つ事にした。