闘争心。私は人一倍闘争心が強かったのだろうか。小さい者が大きい者を制す。私はそれを夢見てやってきた。極真会館で私は闘争心を熱く燃やす事ができた。男と男、裸と裸のぶつかり合い。壮快な汗を流す事ができた。しかし、格闘技として考えた場合、現在の空手では大きい者を倒す事はできない。自分より大きい、柔道家やレスラーと対した時、どうすれば倒せるのか。 ヘビー級ボクサーのあのパワーとスピードにどうすれば対処できるのか。少なくとも現在の空手では不可能だ。
私は現役の空手選手として熱く燃えた時でさえ、“空手の格闘性”についてはクールなとらえ方をしていた。
現役を引退した時、私は改めて空手の格闘性を見つめる機会を得た。「小よく大を制し得る」空手。柔道や相撲、レスラーなどの大型選手に伍せる空手。私は残された空手人生をすべて、そのような空手を追求する事に決心した。
昭和56年、大道塾発足。格闘空手の誕生である。あれから5年。現在、格闘空手は一大道塾のものだけではなくなっている。年2回開催する北斗旗選手権大会は、参加選手の半数以上が他流派、ボクシング、キック、柔道の選手達で占められている。もはや、北斗旗は空手の枠を越え、多くの格闘技の試合の場になろうとしている。格闘技として、十分に存在し得る空手、格闘空手の流れを止める事は、もはや私にもできない。
私自身に関して言えば、体系の大きく異なる空手を始めてしまったが故の、雑用の多さに振り回されながらも、自らの心に闘争心がある限り、いつまでも格闘空手の完成のために生きて行くつもりである。