この対談は『月刊空手道』(福昌堂発行)1987年8月号に収録されたものです。肩書は掲載当時のものです。
東孝(あずまたかし)
昭和24年宮城県仙沼生れ。早稲田大学卒。
第9回オープントーナメント全日本選手権大会優勝。
極真会館発展期に、現役として常にトップの座を維持する。
昭和56年、大道塾を発足し、従来のフルコンタクト制に加え、顔面パンチ、急所攻撃、役げをも認めた実戦的な格闘空手を標榜。北斗旗選手権大会は空手以外にも、多くのの格闘抜ファンの注目を集めている。
本誌に「格闘空手Ⅱ」を連載中。
現在、大道塾代表。
金澤弘和(かなざわ ひろかず)
昭和6年岩手県に生まれる。宮古水産高校卒業後、拓殖大学に入学。昭和31年、同大学卒業後日本空手協会に入る。第1回全国大会組手優勝。第2回大会で型・組手総合優勝。第3回大会、型・組手とも準優勝。
昭和35年、指導員としてハワイに渡る。その後、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカなど、世界を回る。その間、ハワイ空手連盟主席師範、イギリス及びドイツ連盟の首席師範を歴任。国際空手道選手権大会にヨーロッパ総監督として参加。昭和47年、パリで開かれた世界空手道選手権大会に日本一チーム監督として参加する。日本空手協会理事・国際部長。
昭和52年、日本空手協会を離れ、国際松濤館空手道連盟を設立する。主席師範として50数ヶ国の指導にあたっている現在、全日本空手道連盟国審判員。日本体育協会上級コーチの役職にある。
今回は、本誌発刊十周年を記念して、超ビッグな対談をお送りするとしよう。
群雄割拠、諸流分立の現、空手界において、二大潮流となりつつある伝統派とニューウェイブ派。その明日を担う二人の「実力者」 が同席に会した――金澤弘和と東孝である。空手という枠の中で、増々遊離しつつある風潮が強い伝統派とニューウェーブ派に、果たして〝接点″を見い出す事ができるのだろうか。まずは、この二人の空手家の言葉に耳を傾けていただこう。
●芯に迫まるような衝撃があってこそ、どんな苦しみにも耐えられるんです。
――さっそくですが、以前、取材でそれぞれお二人の話をお聞きしまして、実に似てるなー、と思う点がいくつかあったんです。そのうちの一つが、空手を始めたきっかけなんですが。
金澤 そうですね、私も東先生の『はみだし空手』を読んで実に似てると思いました。確か東先生も「子供の頃ガキ大将で、それがある日、とんでもなく大きな番長に負けたのがこの世界にに入るきっかけだとか……。
東 いやいや、自分にとって金澤先生はあまりにも偉大な先輩ですから、似ているなんてとてもおこがましいんですが、でも正直、自分も「月刊空手道」の先生の特集を読ませていただいて、随分似ているな! って思いました。
――金澤先生もやはり少年時代に、田舎相擦の横綱に殴られたという経験が、空手を始めるきっかけになったとおっしゃいましたね。
金澤 強くなりたいというのは男の本能ですからね。でも、ただ強くなりたいというだけではそれで終ってしまうんです。やはり、何か芯に迫るような衝撃がないと、どんな苫しみにも耐えて頑張ろうというわけにはいきにくいんでしょうね。ですから私もまあ、それがきっかけで人生を決めてしまったようなものなんです。
それにしてもまあ、互いに東北出身という事もあって似てるなあと思いましたよ(笑)。東先生はもともと柔道をやっていらっしゃったとの事ですが、昔から気仙沼は柔道が強いんですよね。
東 そうですね、盛んです。やはり自分の高校の先輩で、拓大柔道部の主将を務めた人もいるんですよ。自分が教わった先生や、その先輩達の頃が一番強かったですね。
金澤 最近、拓大はあまり柔道は盛んではないようですね。今ボクシングが強いようですよ拓大は。