この対談は『月刊空手道』(福昌堂発行)1987年8月号に収録されたものです。肩書は掲載当時のものです。
―― スポーツと武道というのは基本的にどこに差があるんでしょうか。
金澤 まず心構えでしょうね。スポーツというのは発散であり遠心的なものなんです。それに対して武道は自分自身を鍛えるという求心的なものでして、それは陰と陽のバランスというか、どちらがいいというものじゃないんです。ただ、どちらか一万が欠けるといけないんであってね。スポーツというのは競技であって試合に勝つという事が至上目的なんです。そして勝つための練習方法というのはそんなに難しい事ないんです。ルールを研究して、審判の心理をよく読むとか、それらを、いかに練習するかというのが重要であって。そうなると、巻きわらだとか、千本蹴りなどは必要じゃなくなるんです。それに対して、武道とは心を鍛錬するものであって、その過程で強靭な肉体を作るものなんです。単に試合に勝つのでなく、自分の限界を知り、自分自身に勝つという、それこそ「押忍」だと思うんです。「押忍」というのは、どんな苦難や壁にも挫けず、耐え忍ぶという忍耐の精神を意味したものです。それが今の大学なんかでは勘違いされているんですよ。何でもかんでもオス!オス!オス!ですからね。武道というのはやはり、「押忍」の言葉通り、自分を律するものでなくてはいけない、こう思うんですね。
東 自分も先生がおっしゃったように、武道とスポーツというのは、バランスが大切だと思うんです。自分は現在、空手を「武道スポーツ」といっているんですが、やはり、格闘技として充分に有効であるという「武」の側面、それに付随する克己心とか忍耐力、社会的な意味での道徳観、倫理観とかいった「道」の側面を合めて武道が成り立つと思うんです。しかし一万でスポーツ的な側面、公明正大なルールのもとで勝敗を競う、競技としての明るさも必要だと思うんです。だから、「武道」「スポーツ」というのは現代の空手を再構成するにおいて、必要不可欠のものだと思うんです。そういう意味で自分は「武道スポーツ」という事で空手を追求しているんです。
金澤 なる程、その通りでしょうね。私も武道とスポーツ、どちらも否定してはいけないと思います。
東 それに自分のところも「押忍」という言葉を使っているんですが、今もいったように空手は単なるスポーツとは違って武道としての側面も重要であるわけで、そこにはどうしても緊張感というのが伴なうわけです。お互いに楽しくコミュニケーションをとりながらも、逆に歯を食いしばって苦しさを乗り越える精神力も道場には必要なんじゃないでしょうか。何事も軽薄短小がいいという、現代の社会風潮に流されないためにも、先生がおっしゃる通り「押忍」という言葉は必要だと思いますね。