金澤弘和VS東孝 対談⑥ 武道は日本人のアイデンティティーだ

この対談は『月刊空手道』(福昌堂発行)1987年8月号に収録されたものです。肩書は掲載当時のものです。

 

―― それでは最後に、これからの空手界について思うところ、望むところがあったらお聞かせ下さい。

金澤 世界的に見ると、やはりスポーツとして空手はどんどん発展しています。先のフランスの例もあるんですが、それでも、WUKOや全空連の考え方というのは空手の流派色を消していこうという方向なんです。つまりスポーツとして考えれば当然なんですが……。私ももちろんそういったスポーツとしての空手も尊重しているんです。それでも武道として考えれば流派は認めなくてはいけないし、それぞれの哲学があり、それに従う者がついて行くという、それも大切だと思うんです。

東 ですから、どんなに流派があって、その独自の練習方法やスタイルを守りながらも集まるときに集まるという………。それでも空手の場合、流派だけでなくルールも多いですからなかなか難しいんですが。でもそれにしてもルールも四つか五つに分けて、お互いに行ったり来たりできるような状況にできればいいと思うんです。

金澤 だから私は日本には大きく、武道の大会とスポーツの大会に分けられればいいと思うんですがね。スポーツは各市町村、県や国が応援して、そのプロックごとに単位をつくる。武道は各流派を一単位として参加する。その他、各流派ごと独自の方向を模索して大会を聞く。まあ、ルールの設定については難しいにしても、そうなればまだまだ日本の空手は世界でも通用しますよ。

東 その第一段階として互いに交流し合うという事が大切じゃないでしょうか。でも日本は何故か「看板意識」が強いんです。オープン制の大会に出ても個人と個人が闘うのではなくて、流派と流派が闘っているという事になってしまうんです。それでどちらかが負ければ、それだけでその流派はダメだという……。これは競伎という面から考えたら絶対マイナスだと思うんです。

金澤 そしてお互いの交流を持ちながら精一杯稽古する事が大切じゃないでしょうか。色々な空手があって、自分の技を充分コントロールできるような極めのある突きじゃないと効かないという考えがあれば、いや当てなけりやわからんという考えもある。でも結局は理屈じゃなくて本人なんですよ。どれだけ汗を流すか、という事が最も大切なんですよ。そして色々な先生方の話を聞いたり、指導を受けたり、謙虚に学ぶという資勢ですね。

東 それに、自分が残念に思うのは、空手というか、武道といったものがどうもないがしろにされ過ぎていると思うんです。武道というのは日本の大きな財産じゃないでしょうか。

金澤 世界的な経済戦争、経済摩擦という波の中で見た場合、日本は随分,ずるいといった言い方をされてますが、本当の日本人はそうじゃないという、アイデンティティーとして武道は必要でしょうね。それこそ、そういう意味では武道は日本の大きな財産なんですね。それにね、国がもっとね、武道というものを奨励して欲しいですね。外国ではどんどんやってますよ。韓国なんかでは、テコンドーに対する国の応援はすごいですからね。

東 そうですね、日本では空手を一生やっていこうとすれば、経済的にもそれなりの覚悟をしなくてはいけないのが実情ですからね(笑)。

金澤 そのように空手がもっと社会的に認知されるためには、やはり選手も先生もみんな精一杯汗を流す事でしょうね。

東 努力こそが命だと自分は信じています。

金澤 お互い頑鋭りましょう

(終わり)