東孝×白鳥金丸 対談① 新世紀の格闘技論、そして空手論

この対談は『月刊空手道』(福昌堂発行)1984年11月号に収録されたものです。肩書は掲載当時のものです。

 

白鳥 金丸 
(しらとり かねまる)

1942年(昭和17年)日本の体育学者、アマチュアボクシング選手。 1962年から1964年にかけてライト級の全日本チャンピオン。1962年アジア競技大会(第4回、ジャカルタ)にボクシング種目で出場し、ライト級で銀メダルを獲得した。
早稲田大学在学時、1964年東京オリンピックに日本代表の一人として選ばれ男子ライト級で出場した。早稲田大学体育局(現在の競技スポーツセンター)に専任教員として迎えられのちに教授。体育指導に当たるとともに、体育学において研究成果を挙げた。『格闘家のためのボディメンテナンス』『ボクササイズ健康法』などの著書がある。

白鳥氏と東氏 早稲田大学時代の師弟同士てある。現在、白鳥氏は研究者として格闘技を科学的に分析し.東氏は自ら空手道大道塾を率い格闘技としての空手を身を以って実践している。
 ボクシング、空手と専門こそ違うが、共に「格闘技人生」を自認する両氏に、新世紀に格闘技論、空手論を語ってもらった。

そんな構えだとダメだって恐ろしかったですよあの時は(東)


―― 同じ格闘技でも片やポクシンク、片や空手と畑が遭うわけですが、まず二人の出会いからお聞かせいただけますか?

白鳥 二人の出会いっていうのは授業でしたっけ?

東 授業です。体育実技のボクシングです。あれは二年の時だったと思うんですけど

白鳥 一人黙々とやってるのよ、練習を(笑)それで何運動やってるのって聞いたら極真会だって言ったんだよな。

東 そうですね、はい。

白鳥 それでボクシングのストレート卜とかの打ち方を本格的に覚えたいと言って来たんですよ、授業終わってね。サンドバック持ったりしてマンツーマンでやったりもしたね。

―― どうでした、腕前は。

白鳥 ええ強かったですよ、本当。いいの打ってた。

東 いゃあ、それ程でもなかったですよ。そう言えば(早稲田大学の)記念会堂の前で僕たちが稽古してた時も、先生にミットなんかを持ってもらってやった事もありましたね。

白鳥 うん、僕練習見に行ったんだ。

東 先生最初ほら、柵になってる金網にしがみついて顔くっつけてね、ジーッと見てたんですよ僕たちの稽古を(笑)あの頃はコンクリートの上に畳ひいて稽古してたんですよ。近所でね、解体した家なんかあると、そこへ行って畳だけもらってきて。大変でしたね。

白鳥 よくやってたよ。

東 それで構え方はそんなんじゃダメだなんて言われて、もう恐ろしかったですよあの時は。いや空手ではこうなんですなんて言い返したりして(笑)

白鳥 だってあの頃は空手ったってね、あんまり知らなかったし。うちの大学でやってる体育会の空手は見た事あったけど。あっ空手ってああいうのかって思っていましたね。東君がやってた空手は、やたら迫力があったね。でもなんでボクシンクやってみようという気になったの?

東 話せば長くなるんですけど、もともと自分は柔道をやってたんですね。それで高校卒業して、東京出たかったわけですよ。でも自分東京に身寄りもないし知り合いもいなかったから自衛隊にでも入ろうかってんで、結局本当に入っちゃったんです。そうしたら自衛隊にボクシングやっている奴がいたんですよ。それで些細な事から腕試しをしようって事になって、当時柔道しか知らないから「この野郎!」て向い合った瞬間にパチンともらったわけですよパンチをね。別段、ダメージはなかったんですけど。それからこりゃボクシングか空手もやってないとちょっとヤバイなあ、そんな事考えて……。

 でもあの頃、空手のマンガが大流行してて、その影響で結局空手の世界に入っちゃったんですけどね。それから早稲田に入って、自分の知り合いに空手部の奴がいたんですけど、そいつが言うわけですよ、以前早稲田の空手部の人聞がボクシング部とまあ、非公開の練習試合みたいのをやったらしいんです。そしたら空手は全然手も足も出なかったって。

白鳥 ほう。

東 それで大学の授業にボクシングがあるっていうんで、それじゃやってみようと思って先生の授業を取ったわけです。だから以前からボクシングに興味はあったんです。

 でも案外自分なんか先生の授業受けるまでは、ボクサーというとヒョロッとしたタイプというか、ひ弱なイメージがあったんですね。特に柔道とか極真をやってる連中から見ると。そうしたら先生を見ると腕は太いしね。で自慢するわけ俺は高校の頃米俵両手でかついだんだ、すごいだろうってね。(笑)

白鳥 昔から力はあったね。そりゃもちろんボクシンクも力があったのがいいのは決っているからね。それに僕の場合高校まで相撲やってたでしょ。