大道無門 東孝コラム1 格闘空手論

この対談は『月刊空手道』(福昌堂発行)1984年10月号に収録された記念すべき連載第1回めの記事です。

ある日、生徒達と会食をした時の話である。ある程度修練を積んだはずの生徒の発言に私は愕然とした。
「四級になって顔面突きありの稽古をするまで、たとえ胸でもあれだけ思い切って当てる組手の方が、顔面突きをルールに入れて軽そうな動きをする組手より実戦力があるに違いない。胸を打っていた重い突きを上に向ければいいだけしゃないかと思っていました。しかし実際やってみてその考えが全くの間違いであることに気がつきました。いくら打っても当たらないし、逆に相手の速い突きは見えなくて、いいように打たれてしまうのてす。ショックでしばらく何も考えられませんてした」
 という内容の言葉てある(注・ちなみに大道塾ては五級まては顔面突き無しの直接打撃制による組手、四級以上は顔面突きを入れて組手を行なう)
 ショックを受けたのは私の方てある。私が今まて、あれ程顔面突きを含めた組手の意義を説いているのにもかかわらず、身近にいる生徒でさえ、実際に身を以って体験するまで私の言う意味を理解していなかったのである。それを思うと私は、現在一般に根付いてしまった直後打撃制の空手に対する固まった考え方に暗澹としてしまった。
 勿論、人々が空手という言葉に求める目的が一つではない以上、私は他の流派やルールを否定するつもりは全くない。しかし少なくとも私にとっての空手は精神主義や組織力、形式美等て満足させられるものではない。格闘技として柔道や相撲に伍していける空手、これこそが私の小さい頃からの夢だったのだ。私はある全日本大会て優勝した時でさえ「本当に空手は世間が言う程強いのだろうか。特にこの空手は激しいし、迫力もあるのだが…」という疑問が燻(くすぶ)っていた。
 なぜなら慨して柔道や相撲をやる者は体が大きいし、空手を始める者は小さい者が多い。果たして現在の空手で、その小さい体をフルに使ったとして、これらの競技をする大きい人間と十分に闘えるのだろうか。誤解を恐れず敢えて言えば、体の大きい全日本クラスの柔道の選手と、それに比べて体の小さい全日本クラスの空手の選手が闘ったら?と考えた時、それに対する明確な答えを見つけることが出来なかったからである。
 さらに一般的に言うなら、空手を五年した小さい者が柔道や相撲を五年した大きな者と互角に闘える空手、そしてまた同じ空手同士でも体力的ハンディが最も小さく、稽古の量が最も結果を左右する、つまり小さい者でも稽古次第で大きい者と五分に近い条件て闘える空手、それこそ今、私達が目指すべきものてはないだろうか。
 このように私はただ「小よく大を制し得る」空手、それを目指して新たなる道に足を踏み入れたのである。
 しかし様々な所から私の空手に対する批判が聞かれた「型もなく、精神もなく、ただ雑で強さに固執しているだけだ」「空手衣を着たキックボクシングに過きない」云々…。私も普通の人間である。その度何度か迷った。しかしそんな不安や迷いも、ます技術的には実際、自分て動いてスパーリングをしたり、生徒たちのスパーリングを指導したりする度に消し飛んだ。また生徒達の目ざましい成長も私に大きな自信を抱かせてくれた。
 内面的な面についても同様である。精神や人間教育とは知識のように黒板に書いて教えられるものでは決っしてない。精神力は、実際にその人間を限界近くまて追い込む場を与え、現実の自分を振り返らせ、それによって自分自身の肉体を通じて主体的に身につけさせるものであろう。ならばこそかえって実戦、実戦と生徒を追い込んていく方がなまじ半端な意志では通用しないだけ、本当の意味での精神カ向上に適うのではないだろうか、そのような確信が私の大きな支えとなったのである。
 以上述べたように、「小よく大を制し得る」空手、これこそか私の目指す格闘空手なのである。