大道無門 東孝コラム2 無差別試合について

この対談は『月刊空手道』(福昌堂発行)1984年11月号に収録された記事です。

ポクシングなどのように、同じ体力の者同士による闘いは、格闘技でありながらも、公平さを絶対的な前提条件とするスポーツとしての色合を強く持つ。しかし空手があくまで武を通じた道であろうとしたり、又、単純に「小よく大を制し得る」可能性を持つロマンと考えるならば、あくまで無差別試合にこだわり続けるべきではなかろうか。
 もちろん無差別試合の方法論としては現代においては安全である事を前提とするとか、正々堂々と闘うというスポーツとしての要素も兼ねざるを得ない。これを称して私は「武道スポーツ」と呼んでいる。
 そこで大道塾生による北斗旗空手道選手権大会でも武道としての無差別試合を基本に置きながら、スポ-ツ的要素も取り入れている。つまりまず選手を体力指数(身長+体重)で軽、中、重の3クラスに分け、それぞれが予選としてのトーナメントを行なうう。そして軽、重量級の上位2名と中量級の上位4名のベスト8で決勝の無差別試合を行なうというものてある。なぜなら一回戦から無差別で行なうと、軽量の者のダメージが重なり、いざベスト8以上となった場合、始めからハンディを背負い過ぎるという結果になるからである。また無差別試合でお互いの体力指数差が20以上ある場合は、両者共に金的蹴りも認めている。
 よく金的蹴りというと眉をひそめる人間がいるが、そういう人には一般の道場で行なわれている基本稽古や型を振り返ってもらいたい。基本稽古の中には金的蹴りの練習があるだろうし、型の中にも金的攻繁と解釈することができる動作があるはずである。そもそも空手は体力的に到底太刀打ちできない相手に対し、非力なものがその差を補うために、鍛えようのない相手の目や金的などの急所を攻撃する事も当然含んで技の体系が作られたはずである。このように空手の本質性を鑑みれば、金的攻撃はまさしく正当どころか基本的な、空手本来の技とすら言えるのである。
 もらろん武道スポーツはあくまで殺し合いではないので、限度というものがある。そこで私は安全なノーファウルカッフを使う程度までならとして試合では認めているのである。
 では次に無差別試合の醍醐味ともいえる「小対大」の対戦について触れてみよう。まずその典型的な例として北斗旗大会2連覇の実績を持つ岩崎弥太郎と去年の覇者、西良典の対戦を振り返ってみることにする。
 岩崎は身長157センチ 体重60キロの小兵ながらレスリング仕込みの足腰と驚異的なスタミナを土台に、速射砲のようなパンチと横に回つての技、防御は絶妙の一言である。それに対し西は身長183センチ、体重97kgの体絡を有し、持ち前の体力と大学柔道部で鍛えた組み技を生かした空手を身上とする。
 いずれも試合は岩崎が先に手を出し速い攻撃をしかけ、西はつかまえての肘・膝・投げにいくという展開が多かった。組み技なら抜群の実力を持つ西に対し、岩崎は側面にまわって肘や膝を封じたり、時おり金的蹴りも使って攻防する。結局何度かの延長を繰り返し、ともに僅差で一昨年は岩崎が、昨年は西が優勝をものにした。
 この、身長で25cm、体重で40キロ近い差のある両者が、まさに互角にフルコンタクトの闘いをできたという事は、空手の可能性として、又無差別試合のあり方ということを十分に考えさせてくれた。

 陸上競妓や水泳などを例にすれば、この前のロス・オリンピックの結果を見てもわかる通り、体の小さい日本人が体の大きな外人に勝つのは非常に難かしい。なぜならこれらの競技は技も当然ながら、それ以上に基本的な体力と力、素質がほとんど決定的な前提条件になるからである。同じ観点から格闘技を見るならば、格闘技はルールによって技に対する規制が増えれば、それだけ体力差がストレートに勝負の結果を左右することになる。なぜなら相手に加撃したり組んだりする格闘技は体の大きな人間に有利な事は当然であり、その上に認められる技が少なければ、それだけ攻撃技も限られるし、その分防御もしやすい。 従ってディフェンスをしていようがなんだろうが、パワーで加撃してダメージを与えるというようになっていかざるを得ない。そうなれば結局はリーチ、パワー、スタミナが勝負のポイントになる。
 すなわち格闘技においては、相手が経験のある人間なら意表をつくという攻撃ができなければ、小よく大を制す可能性はより小さくなってしまう。その意味で攻撃が上段(顔)、中段(胸、胴上下段(胸、金約)にでき、かつ組み技も認めれば様々なコンビネーションが考えられ、技が格段に複雑になる。顔を攻撃しておいて下段、中段へ、逆に接近しての技と、めまぐるしく目先が変化する。このように、金的蹴りを含め技の制限を極力省くことによって工夫の余地ができ、初めて小さい者が大きい者と五分に近い条件で闘えることになるのだ。
 よく「小さい者は大きい者の2倍、3倍稽古すればよい」などの単純な精神論や建前論をロにする入がいるが、努力する事の大切さはわかるが、安易に言葉を使わないで欲しい。始めから無理な条件を与えておいて尻を叩くだけでは何物も生まれてはこない。大きい者が6時間稽古したら小さい者は12時間稽古しろとでもいうのだろうか。現実はきれい事では通用しないのである。
 以上述べてきたように無差別試合を行なうにおいては、できるだけ技の制限を省く方向に持っていかなくては「小よく大を制する」試合を見る事はきわめて困難になるのである。空手の試合を単なる競技、またはショーにしないためにもそのようなアプローチが今、見直されるべきではないだろうか。