ザ・ソウルファイター The Soul Fighter 北斗旗王者・ 長田賢一、 灼熱の ムエタイを征く 前編 ④

この連載は『月刊空手道』(福昌堂発行)1987年8月号に収録されたものです。肩書は掲載当時のものです。

北斗の若武者、長田賢一がタイに飛んだ。どこにでもいる一人の青年として未知の国を歩き、空手王者としてムエタイと闘った。長田はタイで何を見、何を感じたのだろうか。この特集は、ムエタイ王者との対決に至るまでの、長田の全記録である。

 北斗旗チャンピオン、長田賢一。 あくまで格闘技として現実に存在し得る〝格闘空手”を追究、絶えず挑戦し続ける男達の集団、大道塾。 この大道塾の頂点に立つ男が長田賢一だ。

1987年4月4日、長田は〝格闘家” ではなく、一人の青年”としてタイに飛んだ。海を越えた見知らぬ国、喜びと好奇心が長田の胸を満たした。しかし、夕イでは “灼熱の格闘技” ムエタイが長田を待っている。史上最強といわれる格闘技、ムエタイに長田の心は揺れた。結局、 長田はタイで、〝どこにでもいる青年”と 格闘空手チャンピオン”という二役を演じなくてはならなかったのだ。 ……し かし、それでもまさか、ムエタイチャンピオンと闘う事になろうとは当の長田自身、 まったく予想する事さえできなかった。

はじめての外国、タイ

 昭和六十二年四月四日、午後〇時成田 発バンコク行きのタイ航空、エアバス 発バンコク行きのタイ航空、エアバス641便で長田はタイに旅立った。 大道塾代表の東孝、兄弟子の西良典と三人の旅である。

 長田は昭和三十九年、宮城県岩沼市に生まれた。小さい頃より一人倍、強さに憧れた彼は小学校入学と同時に剣道、さらに松濤館流の空手道場に通いだした。 その後、長田はひたむきに強さを求め、より実戦的であると思える道を今日まで突っ走ってきた。そして現在、大道塾格闘空手の頂点を極めるほどに成長した彼のスケールは、もはや単に格闘技の世界のスケールは、もはや単に格闘技の世界 におさまるほど、ちっぽけなものではなくなっていた。

「いつの日か世界を股にかけて勝負してみたい。空手も仕事も人生も、狭っ苦しい日本という枠に縛られず、大きく大きく生きてみたい」

このように、世界を夢見る長田にとって、初めての外国が今回のタイだったのである。

もともとこのタイ行きは、ある雑誌の取材を兼ねてのものであったが、 長田は単にムエタイを訪ねるだけでなく、伝統を守る仏教文化の国”としてのタイに触れる事にも、大いなる興味を感じていた。 また、これを機会に、タイでの予定が終わったら、ビルマ、マレーシアといった歴史ある南アジアの国も回ってみようと秘かに計画を建てていた。

 タイと日本は二時間の時差がある。 約七時間の飛行で午後五時、バンコク・ドンムアン空港に到着した。 ぎらつく太陽、ジトーっとまとわりつく湿気、飛行機のタラップを降りながら何度か深呼吸した長田は、まるで少年のように目を輝やかせていた。

 とり合えず一行は、ナライホテルに直行、その後、長田達の通訳をしてくれる事になるニコム氏と会う。ニコム氏は、タイの国会議員秘書を本業としている人で、大道塾後援会の関係で紹介された。かつて日本への留学経験のあるニコム氏は親日家でもあり、実際、単なる通訳だけにとどまらず、タイでのあらゆる生活のアドバイスを長田達は、その滞在 中に受ける事ができたのである。

一行はその後、ニコム氏に連れられ近くのタイレストランで夕食をとる。 旅の喜びは見知らぬ土地の風景と、そこの食べ物との出会いにあるとは、よくいわれる言葉だ。 長田は初めて食べるタイ料理に舌づつみを打った。唐辛子の効いた煮込み料理、海鮮料理、そしてアルコール。 「本当においしかった。日本から海をはさんだ遙か遠い国にきたという実感というか喜びが、ひと口食べるたびに沸き上ってきました」と長田はその喜びを語る。 師の東、先輩の西に囲まれながらも、 長田はいつになくはしゃいだ。こうして長田にとって初めての外国、タイでの一 日が終わった。ベットの中で、長田は一人誓った。
「俺の初めての外国、タイで、きっと何かつかんでやる」と。