この連載は『月刊空手道』(福昌堂発行)1987年9月号に収録されたものです。肩書は掲載当時のものです。
「空手は俺の一部分でしかない。いつか俺は世界を相手に人生の勝負をしたい」長田は世界に憧れを抱き、タイに渡った。見知らぬ街、見知らぬ言葉、長田は街を歩き、人と接する事によって地球の偉大さを知った。
だが、運命の女神が皮肉な悪戯をした。灼熱の格闘技ムエタイに触れ、心の中で空手家の本能をたぎらす長田に、最高のプレゼントが届いたのである。 四月二十四日、ラジャダムナン、ウェルター級チャンピオン、ラクチャート・ ソーパサドポンと長田の対戦が急拠決定した。これを運命といわずして何といえるだろう。
しかし長田は動じなかった。ルールは明らかに自分に不利である。 でも、同じ〝闘う”ことに変わりはない。それより、これでビルマ、マレーシア行きは中止しなくてはならなくなった。”普通の青年 としての夢はひとまず忘れなくてはならない。長田はそれが残念でならなかった。 とり合えずあと十日だ!!!
長田はこうして、”一空手家〟として、 ムエタイへの挑戦を開始したのである。
最悪からの脱出
四月十四日から長田は、試合に向けてのトレーニングを開始した。
朝六時、しかしバンコクの朝は早い。 気温三十二度、これでもタイでは一日のうち最も過ごし易い時間だ。人々は市内のいくつかの公園に足を伸ばし、この唯一快適な(?)時を過ごす。ギターを奏でる人、太極拳をする人、ランニングをする人など、市内の公園はどこも最高のレクリエーション施設となる。
長田もホテルから最も近いルンピニー公園に足を伸ばした。 ルンピニー公園はバンコクで一番広い。 ランニングコース一周三キロを長田は足の裏を気遣いながらゆっくりと走る。一周、そして二周、やはりどうも体が重い。 息が上がる。「普通なら二〇キロ走っても何でもないのに······、一体どうしたんだ」
長田は思うように動かない自分の体に、どうしようもない程のいら立ちを覚えた。 先日、ソッチラダージムで味わった異常な疲労感とまったく同じものだ。
練習不足、そして慣れない風土、試合を九日後にひかえて体調はまったく回復 していない。しかしそれでも長田は平然を装ったままもう一周ランニングをし、軽くシャドーを行なった。師である東には、絶対言ってはいけない。弱音を吐くわけにはいかない。もう賽は投げられた。 黙って闘うだけだ。
しかし長田のこの我慢もそう長くは続かなかった。この日、東は長田と西を残して日本に帰った。多忙をきわめる東はこのまま十日間タイに居坐るわけにはいかなかった。 後ろ髪を引かれながらも帰国する。東を見送った後、長田は緊張感から開放された。と同時に、急激な悪寒が襲ってきた。鼻血も流れてくる。 そして下痢・・・・・・。 長田はホテルに戻りベットに横になった。
「落ち着け、落ち着け」
長田は自分にいい聞かせた。 幼ない頃から格闘技の道に入り、単に技術の追求だけでなく、精神面、健康・栄養面についても充分な研究を重ねていた長田は、今の身体の状況を一つ一つ分析してみた。 「生水は飲めない。だから水分摂取量が減る。おまけにこの高温だ。こんな状態で疲労が蓄積し、限界以上に汗をかくと体のミネラル、ビタミンのバランスが崩れて脱水症状に陥いる。今の俺がこれだ。 とり合えず、食事療法から始めよう。ミネラルウォーターを摂って、慣れた日本食を食べるようにしよう。 そうすれば大丈夫だ」
これで少し気が楽になった。長田にとっては精神的な負担も大きかったに違いない。長田は気をとり直し三時間程寝た。 夕方、長田はソッチラダジムに足を向けた。五日ぶりのジムは相変わらず若者達の熱気で溢れていた。 トランクスに着換えていると、トレーナーのチェリオ氏がやってきた。
「オサダ、どうしたの。練習にこないので心配したよ」
日本人練習生の富田明を通訳に語りかける。
「すいません。心配かけました」
長田はこれだけを答えると、さっそくウォーミングアップを開始した。 柔軟で体をほぐした後、ペースを計りながらロープワークを行なう。それからキックミット。 チェリオ氏を相手に左の回し蹴りを三ラウンド蹴り続ける。体は相変わらず重い。しかし自分なりに打開策を見い出した長田には、もう悲壮感はなかった。 ホテルに戻った長田はレストランでミネラルウォーターを飲み、久し振りに日本食を食べた。 その晩、 長田は一人ベッ ドの上で、試合まで一週間の練習計画をたてた。まず、前半はジム中心にトレー ニングする。そして後半は一人で自分流の、シャドーを中心とした練習をする。 これが大まかなカリキュラムだった。 「もうコンディションがどうのなんていってられないですから、時間もないし…。 やるべき事は二つだけにしぼったんです。 一つは、タイ人選手の中に身を置いて、 タイの雰囲気、ムエタイのリズムを膚で感じる事。そしてあと一つは、何といっても自分が今までやってきた空手の技術、 かけ引きを出しきれるよう、最大の努力をする事なんです。 ムエタイ対策とか、リングに慣れたり、グローブに慣れたりする事以前に、今までの自分のレベルにまで、とにかく戻す事が先決なんです。 それができれば、あとは何とかなりますから」
試合の二日前、記者のインタビューに 長田はこう語っている。
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