ザ・ソウルファイター The Soul Fighter 北斗旗王者・ 長田賢一、 灼熱の ムエタイを征く 後編 ④

この連載は『月刊空手道』(福昌堂発行)1987年9月号に収録されたものです。肩書は掲載当時のものです。

試合前日

 四月二十日、試合まであと四日だ。朝六時、ベットの上で目をさました長田はすぐに起き上らず横になったまま自分の体をチェックした。

まず、頭。左右に振ってみる。大丈夫、どこも痛くない。目、よく見える。腹 そして、腕、足…。 筋に力を入れてみる。「悪くはない」。 深呼吸した後、長田はゆっくりと起き上った。

ランニングシャツ、短パンに着替えて外に出る。軽く柔軟体操をしてから、ゆっくりゆっくり、大地を踏みしめるように走りだす。タイにわたって二週間、もう走り慣れた大通り、ルンピニー公園。 一つ一つの風景を、長田は心に刻みながら走る。

 世界を夢みる 青年長田にとって、 このタイはもっと大きなものを与えてくれるはずだった。見知らぬ街、見知らぬ人々・・・、限りない程の驚きが、そして出会いが長田を迎えてくれるはずだった。

しかし、普通の青年であると同時に、“一空手家”でもある長田は、やはり”闘う”運命に逆らうわけにはいかなかった。 ただ長田は、運命に流される自分の姿だけは決して見失うまいと思った。そして、自分が走った道、自分がたたいたサンドバック、あらゆるものを心に残しておこうと決心した。

 ランニング、シャドーで汗を流した長田は、疲れが残らないように、約一時間で練習を切りあげた。午後は二時間程度の仮眠、あとは西と、繁華街に出てショッピングをしたりして時間を過ごした。

 二十二日夜、東孝が再びタイに戻ってきた。大道塾の本部寮生として三年間の内弟子生活を経験している長田にとって、 東は〝尊敬〟の対象、”頼りになる”存在であると同時に、また怖い存在でもあった。

 東を出迎えながら、長田は”安堵感” と一緒に緊張感〟も感じるという、奇妙な体験を味わった。

 翌二十三日、午後、長田はニコム氏に連れられ、ムンスリーンジムに足を運んだ。 ムンスリーンジムはソッチラダージムに並ぶ名門ジムで、現在ルンピニー、Jrフェザー級チャンピオンのサムランサック等、強豪がそろっている。 ジムの練習生達は当然、長田の事を知っている。 みんな興味を持って集まってくる。相変らず人なつっこい。

 長田はここで初めて基本的なムエタイの技術を学ぶ事ができた。たった二時間程度の練習だったが、ジムのコーチ達が、長田に蹴りに対するカウンターやストッピングを身振り手振りで教えてくれた。 また、ここの練習生から、ラクチャートに対する貴重な情報も聞く事ができた。 みんながいうには、ラクチャートはサウスポー、パンチが得意だという。たったこれだけでも大きな収穫だ。

長田は、ジムの人達に心から感謝の意を表わしてホテルに戻った。

いよいよ試合は明日に迫った。しかし 長田には不思議と緊張感がなかった。夜、 長田は東達と一緒にチャイナタウンで中華料理を食べ、ビールを少しだけ飲んだ。 ベットに入っても、まったくいつもと変わらなかった。むしろそんな自分を不思議に思いながら、いつの間にか眠りについた。