大道無門 東孝コラム9 格闘空手の『大衆性(面白さ)そして『武道性』

この対談は『月刊空手道』(福昌堂発行)1985年6月号に収録されたものです。肩書は掲載当時のものです。

 最近、読者やファンから格闘空手についての多くの批評や意見が寄せられている。 前回はそれらの中から「格闘空手の安全性」という質問について答えさせていただいた。 そこで今回は「格闘空手の面白さ」について書いてみたいと思う。

 私達が推進する格闘空手 (顔面にプロテクターをつけてのノックダウンルール)について、いわゆる顔面突き禁止の直接打撃制の試合に比べてあまり面白くない云々・・・、 の意見が結構あるようだ。そういった意見 に対する一つの回答として、「面白さよりも 内容の方が大切である」という原則論がまずある。格闘の本質を離れて、単に派手さのみを追求したのではまったく本末転倒であると思うからだ。

しかし、だからといって私は内容がよければ面白さは二の次だとも言っていない。 なぜなら観客が観て面白いという「大衆性」を無視しては空手が〝武道スポーツ”とし 普及し得なくなるからである。

 極端な話になってしまうが、今ここに山に籠り修業一筋のある天才空手家がいたとする。実力的にも世界最強であるが、しかし彼は俗塵に交わることを潔しとせず山で一生を過したために、誰にもその存在を知られることなくこの世を去ってしまったとする。

 死後も作品が残り、百年の後でも世の評価を得ることができる絵画や文学、音楽などのジャンルならそれでもよいだろう。しかし、武道や格闘技は人と交って初めてその真価が定まる性質のものである。自分やその周囲のみが納得していても、万人が認めてくれなくては一般性、普遍性は生まれてこない。つまり、そう考えればまったく経験のない第三者にも、まずは“面白い” ということを契機としてその対象を理解してもらい、さらにその中の何人かが実際にその空手を行なうようになるということを考えれば、面白い”ということは空手の非常に大切な要素だと思うのだ。

 さて、それではこの“面白い”ということは何によって決まるのであろうか。たとえば現在直接打撃制の空手は多くの人々に支持されているが、始めからこれ程認められてはいなかったはずである。いわゆる”寸止めルール”に馴染んだ人には、迫力こそあれ、最初は奇異に映ったに違いない。 人間は新しい物に直面した場合、自らの過去の経験を元にして判断するのが常だからである。すなわち面白さを感ずるのにも慣れが必要なのだ。

 北斗旗大会も今年で5回を重ねるが、選手達の技量がすばらしく向上しているのみならず、観客達もこの格闘空手”を徐々にではあるが理解して頂いているようだ。突き蹴りを主体に、トリッキーな金的蹴り、ダイナミックな投げ、単にパワーのみならずボクシングに相通じるスピード感。私達の格闘空手も「空手」の一つの形態として広く認められつつある手応えを強く感じている昨今なのである

以上、2回にわたって読者からの質問、「格闘空手の安全性」と「格闘空手の面白さ」について答えさせていただいた。

さて、以上で「安全性」と「面白さ (大 衆性)」を述べたついでに、これらの根本になければならない、格闘空手の原点ともいえる「武道性」について少々書いてみたい。

 「武道」という言葉の意味を「広辞苑」で引いてみる。まず「武」について、「1、雄々しいこと 2、戦いの力、術」。「道」という項では普通の意味の他に「人が考え、行なう条理、道理」と書かれている。

 これらを踏まえて考えれば、「武道」とは「戦いの技術を鍛練する課程で、人間の生きるべき道理を追求し、人格的完成を目指すこと」と解するのが、ごく一般的な考え方だと思う。

 似たようなことは華道、書道の世界でもいえる。華道家や書道家はその道において 当然普通の人間より数段上の技量をもち、 さらにそれを通じて人格の陶冶を目指しているのである。翻って武道を見ればやはり 第一に武術に秀でることを前提とし、それによって精神的向上に努めることが本来の姿であると私は信ずる。

 武道をする人間がその本分たる武術を忘れ、精神論や人格論にのみ傾いたのでは片論だと私は思うのである。この「武道性」とでも呼ぶべきものが、「安全性」「大衆性」 の根本にある格闘空手の第一の要素である。 これらの要素のうちどの一つが欠けても、また強調されすぎても「武道スポーツ」とは呼べないと思う

「強さ」にのみこだわるのなら、素手で殴り合った方が(少なくとも最後まで残った 一人に関しては)最も早く強くなるだろう。「安全性」にのみこだわるなら防具をつけて、さらに当てない方式の試合をした方が確実だろう「面白さ」を第一にいうなら、少なくとも私はプロレスの試合の方が、例え興業だとしてもどんなルールの空手より面白いといえると思う

「安全性」「大衆性」「武道性」の3者を満足させようとすることは、ある一つの観点から見る人にとっては不満が残るかもしれない。しかし私達はそのような空手を追求しようと努力しているのである。