コラム23 「同級生交歓」

2016年8月10日に発売された「月間 文芸春秋」の巻頭名物グラビア「同級生交歓」に、塾長と、同級生でタレントとして幅広くご活躍されている生島ヒロシ氏が登場しましたので、併せてご覧ください。
これは、字数の関係で全文を載せられなかった文章の原文です。

2011年の「東日本大震災」に見舞われ、現在復興途上にある宮城県気仙沼市は我々の故郷である。

昭和44年に、「三陸の王者」を自称する“名門”気仙沼高校を卒業した同級生の生島から「文芸春秋の同級生交歓に一緒に出よう」と言われたときには、ぶっ魂消た。「オイ、オイ、それは俺の30年来の愛読誌で、「功なり名を遂げた、当代の代表的な人たち」の出る名物企画だぞ。著名人のお前はともかく、俺なんかが出る幕じゃないだろう」と言ってしまった。

現在は“文化人” (的)な生島と、“武闘派=肉体派”の小生。当時は立ち位置が逆で(笑)、姿三四郎に憧れて柔道に明け暮れながらも、点数も良く“文武両道の優等生”だった小生と、逆に小さい体で“がり勉”のくせに一端の武闘派を気取っていた生島。1年の時は席の前後でよく勉強を教えたものだった爆。

時は1968年。小生は「竜馬が行く」や日教組の先生の「昔は藩が、今は大学から革命が始まる」という言葉に感化され「東京に出て70年安保の闘士=昭和の竜馬になろう」とひそかに決意していた。

所が、「百姓家にそんな金がどこにある!」と親父に怒鳴りつけられ、勉強の意欲が全くなくなり“山学校(※1)”が始まり、人生一度目の挫折を味わうことになった。

※1:田舎で、近くの山に登って学校をさぼること。一応、“浩然の気(※2)”を養う、という名目はあった笑
※2:天地にみなぎっている、万物の生命力や活力の源となる気。 物事にとらわれない、大らかな心持ち。

そんな“ナイーブ”な小生と違い、“向こう見ずな”生島は「海外に出る」という目標があったらしく、コツコツと努力し、3年の時には成績は逆転し「あずま君も落ちたね~」とノタマワレた!!

しかし「とにかく東京に出なければ」と自衛隊に入隊(反体制なはずなのに笑)。在職中に夜間の「早稲田大学第二文学部」に通った。当時よく、「吉永小百合が○○の授業を受けていた」という話が耳に入ったものだった。しかし上京本来の目的である革命の志士については、会った彼らのあまりのひ弱さに幻滅している内に「革命の季節」は終わり、次いで危うく新興宗教にもはまりそうだったが、何とか生還。

自衛隊退職後は“苦学生”をしながら「(落合信彦よろしく)、空手指導員として海外に出て、向こうの大学を出ることが俺の未来だ」と、極真空手に没頭、全日本大会でベスト8に選ばれてついに渡米!!しかし聞いて行った条件と違い失意で帰国、第二回目の挫折。

「よし首から上での勝負は次に生まれてきた時」だ、と下段蹴りに狂い(笑)、1977に当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった、極真会の「第9回全日本大会」で優勝。当然、世界王者になるものと臨んだ1979年の「極真会 第2回世界大会」。しかしながら練習中に痛めた右膝靭帯損傷が完治せず、試合中に再発、準決勝敗退。三度目の挫折!!

1981年「“社会体育としての武道”を通じての人材育成」を標榜し、「格闘空手・大道塾」を設立。「冒険だったが、やっと軌道に乗ったな~」と付いてきた古参の弟子達が安心した20年後の2001年、齢50にして、今度は、新しい武道「空道(くうどう)」という総合徒手武道での「世界大会」を開催し、70歳を前にしてなお、オリンピック種目化を夢み世界60数か国へ展開中という永遠の「夢追い人」泣。

一方の生島。高校時代、「東君と藤野君(※)が喧嘩したらどっちが強いかな~」等と、今に繋がる「ジャーナリスティックな発想(本人談)」で人を焚き付けていたが、ある日「あずまく~ん、チョッと体育館まで一緒に来てくれないか」と深刻そうな顔。聞けば「口の達者な生島」が裏番気取りの人間に、無謀な喧嘩を吹っ掛け、分が悪いからと小生を借り出したという話。真面目一筋の小生、そんな番長争いには無縁だったが、そこは餅は餅屋、「しょうがね~な~」と付いて行って、「なんか用か」で済んだ。

※卒業後、大相撲春日野部屋へ。通称“海坊主”。高校時の宮城県の砲丸投げ記録は10数年破れなかった。

そんな生島だから、その後、法政大学在学中に高校時代からやっていた空手を頼りに文字通り“徒手空拳”で渡米し、空手の演武や皿洗い、芝刈りとあらゆる仕事をしながらカルフォルニア州立大学を卒業。帰国後TBSの入社試験で「私を採らなかったなら後悔しますよ」と言いながら、最終面接では「いずれ独立しますから」と言い放ちその通りにフリーになり、その後も紆余曲折を経ながらも今日に至った男である。

正直、高校時代は1年2年と同級だったが、向こうは当時復活中の空手同好会。こっちは宮城県では有数の強豪柔道部と、そんなに接点もなかったから、「向こうっ気だけは強いやつだな~」という感じで、卒業以降は殆ど繋がりがなく、ましてや、自分も賭けていた空手で渡米して食ってたなどは夢にも思わなかった。

その後、折からの格闘技ブームで大道塾が有名になりテレビ出演などもよくあった時に、生島の何かの番組で取り上げてもらい再会。その後うちの大会に来てくれたり、互いの結婚式に出たりして、付き合うようになった。

そんな中で、「俺は空手指導員として(週200$という破格)渡米し、その金でアメリカの大学に入りなおして、政治の勉強をしよう」などと夢想していて、その前提が崩れたなら、別な国でと、あくまで、“高速道路”に乗ろうと思っていた。いっぽう、そんな夢想はせずにゼロから切り開いて行こうと思っていた生島。「そのバイタリティの差かなと、」生島のそれまでの勝るとも劣らない“波乱万丈”を聞いて、その逞しい生命力に改めて、感心するようになった。

「気仙沼高校には優秀な諸先輩、後輩の皆さんが綺羅星のごとくいるのに、首から下だけ鍛えた人間だけが卒業生と思われるのも、申し訳ないな。とはいえ今の若いけーもんは世の中に出る前に「窮屈だ」とか「窒息しそう」などと人生に尻込みしているそうだ。

二人共はみ出しながらも、何とか生き残ったんだ。「俺たちのような人生でも他山に石になるかも、とここは勘弁して貰って」と、相変わらず訳の分からないことを言っている不良熟年(?)の二人だ爆。

文書日付2016.8.