第1回空道アジアカップ参加者レポート
川保 天骨
川保天骨の勝負論
モンゴルから帰ってきて、反省会の意味を込めた酒席、俺はいささか語気を荒げるように目の前の東先生に向かって口を開いた。「先生……、自分は北斗旗の試合に選手として出ている時、対戦相手を殺≒倒そうと思ってました。当時の選手はみんなそれ位の気持ちを持ってたんじゃないでしょうか? ………」東塾長は何も言わず俺を見ていた。隣に座っていた稲垣先輩が、
「へぇ~、お前みたいな大人しい奴が、そんなこと思ってたの~、へぇ~。」
突拍子もない事を口走る後輩に稲垣先輩は少し驚いているようだ。
「はい。親の仇だと思ってました………」
東塾長は口元をぎゅっと締めて何も言わなかった。
「へぇ~、そうなんだ~」
稲垣先輩は少し破顔した。そして俺を見ていた。その実、稲垣先輩にも表現の違いこそあれ、そのような心情が選手時代には確実にあったはずだ。先輩はその事に思い至って、俺の顔をありありと眺めているのだ。
俺は確かに選手時代、感情を表に出すタイプではなかった。ただ心の中では猛烈で、そして抑え難い闘志をたぎらせていた。それは対戦相手に対する敵意、己に対する嫌悪、卑小な肉体への復讐、世の中に対する悲壮、孤独、焦燥、諦念、それらをまるで、燃料のように己の心のかまどに全て放り込んで紅蓮の炎で燃やし尽くした。だから選手時代、いわゆる“友達”らしい友達なんか欲しいと思わなかった。ただ勝ちたかった。俺の言ってることはおかしいだろうか?
人間が闘うってそういう事じゃないのか?
健康や、楽しみのために武道をやっている人もいるわけだから、すべての人に言うべきではないとは思うが、少なくとも俺が選手の頃はそうだった。
今、空道は全世界に向けて門戸を開き、ほぼ完成に近いルール体系をもつ競技として拡大している。誰が見ても解りやすい判定はポイント制の導入によるものだし、審判の技術向上やルールの整備で安全性も確保されている。大会の進行や構成は盤石だ。競技人口も増え続け、国によっては完全に公式な競技として認知されている。将来はワールドゲームス、そしてオリンピックなど、メジャーなスポーツイベントへの参加も現実化していくだろう。
素晴らしい! どんどん世界に広がって、メジャーな格闘競技、武道として浸透すればどんなに凄い事だろう。俺もそう思う。しかしその武道、つまり空道が、どれだけスポーツ化しようとも、その根源は、あくまでも「武」である。「武」の世界において勝つという事は、相手を「殺す≒倒す」ことである。負けるとは、すなわち「死ぬ」という事である。この事を理解した上で試合に臨むべきだ。
昔、極真会館の第一回世界大会前、大山倍達総裁は「日本が負けたら私は腹を切る」と明言した。第二回世界大会においては「万一、日本が負けたら、お前たち腹を切れ! 枕を並べて死ね!」と選手たちに檄を飛ばした。
人命第一、人類みな平等、絶対的平和主義の世において、ここまで強烈な覚悟を持って試合に臨んでいる日本人が何人いる事か? これは空道だけじゃなく、すべての武道においてだ。生ぬるい平和に首までどっぷりつかった平和ボケ日本人は、何か忘れてないか?
かつてキックボクシング全盛のころ、“目白ジム黄金時代”を築いた黒崎健時先生が書かれた「必死の力 必死の心」という本がある。黒崎先生が説いていた「必死」とは何か? 「必ず死ぬ」という事だろ。自分の命を追い詰めて、死ぬと決める。そこにパッと煌くもの、命のほとばしりが出てくる。ここの部分。
先日取材した元示現流の薩摩剣八郎先生との会話の中で、以前から疑問に思っていた事をぶつけてみた。
天骨 先生、示現流では斬りかかる時、「チェストー!」っていう気合を入れながら斬ると聞いたんですが、あれは何でですか?
薩摩 ああ、あれはね、色々な説があるけどね。「チェストー!」じゃなく、「チェー」って言うんですよ。「死ねぇー」っていうのが変化したんじゃないかな?
天骨 すごいですね、「死ねぇー」ですか。
薩摩 相手に言ってるんじゃなくて、自分に言ってるんじゃないかな? 自分に「死ねぇー」って。勝負っていうのはそういうところあるでしょ。私はそう思うな。
天骨 ………自分の命を無にして打ちかかるわけですか。この一振りに命をかけるという………。恐ろしいですね。昔の薩摩の人は。その精神性は日本人独特なものですね~。
我が愛する後輩、そして選手諸兄よ。ひとこと言ってやろうか。
「あのねぇ~、こういう競技はね、死ぬって決めたほうが勝つんだよ! 稽古でも、試合でも全部そうよ。それが出来ないんだったら、それぐらいの覇気がないんだったら、もういいよ! 選手辞めちゃえ。田舎に帰って蹴鞠(けまり)とか羽子板(はごいた)とかやって、煮干しでも食って寝てろ! ワカッタか!」
参考までに、東塾長が選手の頃のエピソードが大山倍達総裁の著書の中に見つけたので引用しておこう。
大会前、わたしは東の親友と名乗る人物から、大会入場券の手配を依頼された。手紙に添えられたおカネは二万円。S券(特等席)を確保してくれとのことである。
「彼は狂人です。空手に命を賭けています。ヤツだったら本当に試合場で死ぬかも知れません。しかし、本人がそれで本望だというのですから、私は彼のしたいようにさせてやろうと思います。でも、彼が死んだら、私が彼の骨を拾います。骨壷を持って、ヤツの最期を見届けてやりたいと思います」
わたしは思わず唸ってしまった。東も東なら、友人も友人である。
それにしてもさすが親友だけある。彼の弁は真実をついているように思えた。確かに東の勝負にかける執念は、げに恐ろしい。鬼気迫りくるものがある。
まっ先に駆けつけ、骨を拾ってくれる友がいる。東よ、果報者め!
『わがカラテ 日々研鑽』(大山倍達著 講談社)
日本人みんないい人
今回モンゴル遠征で気がついたことは選手が皆、いい人なんですね。ちゃんとしてる。常識知ってる。大人しくて礼儀正しい。う~ん、素晴らしい。「大道塾日本選手団は紳士の集団ですね~」なんて感心している場合じゃないんだよ。いい人ぶるのもいい加減にしろと俺みたいな凶悪な思考を持っている人間は思うんだよね。
あのね、昔から強い軍隊ってのは凶悪なんですよ。残忍で残酷で冷酷。無慈悲で無礼で非常識、理不尽。ありとあらゆる悪徳をも肯定する。まあ、山賊とか海賊ですね。センチメンタルな人道主義なんか微塵もない。そもそも強さってのはそういう妥協のない世界のものだと思う。勝負の世界に優しさなんていらないよ。優しさなんていうのは強者の余裕です。余ったエネルギーを他人に分けてやってるだけだ。
なんだ、お前は日本選手団を犯罪集団にするつもりか! と言われそうなもんだが、我々を取り巻く世界の状況はそんな生易しい精神では太刀打ちできないって言ってるんだよ! ロシア強い? モンゴル強い? 当たり前じゃないか! あいつらは強さこそが自分の存在意義を確保する上で絶対的に必要だからだ。昼間にファミレスでチーズ入りハンバーグ定食を食べて、「う~ん、デザートはショートケーキにしようか? それとも思い切ってチョコレートパフェにしようかな~」なんて悩んでいる能天気なアーパー日本人なんて木っ端みじんにされちゃえ! もう、いっそのこと奴隷になってしまえ!
俺はよく自分が敵に徹底的に負ける事を妄想する。財産も家族も何もかも奪われ、己の尊厳さえも奪われて徹底的に奴隷として生きる俺。考えただけで頭に血が上り、身体が怒りにブルブルと震えだす。「チキショー、殺してやる!」でも負けるってそう言う事なんですよ。それは小さな微生物や昆虫、動物の世界では当たり前の事です。みんな弱肉強食の中に棲んでる。
結局何が言いたいかというと、若いうちから悟りきったような人間になるな! という事に尽きる。鬼気迫れ! 獰猛であれ! 常識を否定しろ! 話はそれからだ! 人格を磨くのは後から自然に磨かれるんだから心配するな。人にどう思われようがいいじゃないか!
技術? そんなの知るか!
日本選手に試合後の感想を聞いた時にしばし耳にする「フィジカルがどうのこうの」という言動があるが、俺からすると「はぁ? 何のことだ? それって食いもんか~」という具合になるが、何の事はない、「体力で負けた」と言っているわけです。なんで外国語の「フィジカル」って言ってるのか最初よく解らなかったが、「体力で負けた」と言うより、「フィジカルで負けた」という方がなんだか表現として軽く感じられて、ショックが和らぐからなんじゃないかと、少々穿った捉え方をしてしまう。
「そんな敵性言語なんぞ使いよって! 弱いから負けたとなぜ正直に言わぬ!」と俺の癇癪玉が爆発しそうになっとるぞ!
技術にしたってそうだ。闘うのは自分なんだから、自分で考えろ! と言いたい。もっとも、技術なんていうものほど当てにならないものはない。まず第一に考えなくてはならないものではない。選手やってるんだったら、最低でも国体やオリンピック、その他プロスポーツ選手と同等レベルの基礎体力を持ってないとだめだ。体力をつけるのが一番つらいし、きついんだ。それを省略して技術どうのこうのというのはナンセンスだ!
と、まあ、今回のモンゴル遠征に参加して感じた事を正直に書いたわけだが、結局そういう事だ。全体的に狂気が足りないよ。うん。俺はこれからも日本選手、これはもちろん空道だけではなく、様々な武道で勝負をしていく若者に檄を飛ばし続ける。ワカッタ~! オ~ス!
天骨