閑話休題。それから1年位してだろうか、北斗旗直前だったが、わたしはニューヨークで、第2回目のセミナー(※)を成功させ高揚した気持ちでロンドンにいた娘に「これから日本に帰るぞ」と電話で連絡した。しかし出ないしメールにも応えない。そんなことはないからすぐに私は「これは絶対病気か怪我をしてどうにかなってるんだから、すぐにお前行ってくれ!」と帰国次の日にすぐに家内を緊急で送った!!案の定、風邪かなんかで行った病院で院内感染したらしく、大変な高熱と疱瘡で救急車でICUに運ばれる騒ぎだった!!
(※)塾長コラム09 15年振り3度目のニューヨークは・・・・
ここも娘の談ではこうなる 笑。
「風邪だったのか、ウイルス感染だかの原因不明の高熱から始まって、救急病院に連れられて、そこから更に悪化して、結局40度の熱が3~4日続き、加えて全身発疹、嘔吐下痢扁桃炎などが始まって、どうやら救急病院で打った注射針からさらに感染したんではないのかと言われました。黒人街の病院だったし・・・イギリスの医療レベルは住む地域に因ってホントにまちまちみたいだから・・・。集中治療室から車イスで病室に戻って来たわたしを見たお母さんが、開口一番「あんなこんなゾンビみたいな顔になっちゃって?!」って抱きつかれて大泣きされたけど、お母さんの顔を見たときには本当にホッとした」そうだ。余談でこんな話も。「同じ家をシェアーしていた人に手伝ってもらって、いざ救急病院に行く時、やっとタクシーがきたら覚せい剤でラリってる見知らぬ黒人が玄関口でナイフだして「金だせ!!!」とかって。わたし「いい加減にしてよ!わたし苦しくてどうしようもないんだよ!はやく病院いかせてよ!って、渾身の力振り絞ってどなった。わたしもガムシャラによくやったよねぇ・・・」
だ、そうだ 恐!「蛙の子は蛙」(笑)かもしれないが、本当に刺されないで良かった。「おにぃ」が護ってくれたのだろう・・・合掌。
それまでも周りの人からは「よく一人娘を海外にだすね~」とか「心配じゃないの?」などと言われても、想像力の乏しい私は「そんなに悪いことばかり続くわけはないさ」とか「そんなこと言って臆病になったなら何にもできない。人生は守りに入っては後退するだけなんだよ」などと、したり顔で話してたが、この時ほど自分の浅はかさを呪い、単純さを後悔したことはなかった!!「もし今あいつに万が一があったなら、人と違った 変わった”人生を何とか生きのびてきた能天気な俺も、もう駄目だな!!」とまで思ったものだった。
幸い娘も順調に回復したが、一人で帰国させるのも心配だったし、珍しく気弱に「お父さん、迎えにきて」という言葉と、それまで度々希望していたウィンザー支部のセミナーや、助けてくれた友達や恩師へのお礼も兼ねて、「今年だけだぞ!」と海外で過ごすことになった年越しだった。で、正月早々取って付けたように1月2,3日とウインザ―支部でセミナー!をして来た(笑&泣)。良く家内から「塾長は仕事がらみでないと絶対に海外へは行かない人だから」と文句(?)を言われるが、よくよく貧乏性な私である。
そんな経験を経つつも何とか娘も卒業でき、2009年には念願の「英語を使う仕事」ができる会社に入社することができ、久々で平和な、嘗ては当たり前だった年越し、正月を迎える事が出来た。この間、約10年が過ぎていた!!(しかし中々世の中そう甘くはない。入社時の約束とは違う「中国語を勉強するような」アジア関係の仕事に回され悩み始まったが、家庭的にはここ数年は3人で「おにぃ」の話も平気で出来るような安定した「年越し」を過ごしている)
一方、本業の方は、設立当初は物珍しさから(?)マスコミの路線と合致して煽って貰い順風だった大道塾、空道も、90年代直前からの「社会体育としての総合武道」などと、「武道の格闘技化、プロ化」という時代の流れ(武道・格闘技+格闘マスコミ+社会のイケイケ風潮)に真っ向から逆らった為に、この20数年は様々な悪戦苦闘の連続だった。それでも時代が熱狂から覚めて再び地に足を付けてきた2010年過ぎからは、なんとか設立以来の方向で生き残れたように見える。ここ数年は特に海外との仕事の量が倍々と増えてき、ついに昨年思わぬところから「公的武道スポーツ」への橋頭保(きょうとうほ)を築くことができた。
かといって仕事柄、衆目を引く派手さとは裏腹に、(ましてや“社会体育”を標榜している以上、そう阿漕な事も出来ない笑)、いわば“ボランティア”団体みたいなものだから、台所は常に火の車である。そんな訳で、人手を増やそうにも大会社にも劣らないような結構な仕事量に見合うだけの報酬はできないし、その人生に責任が持てるほどの安定性が確立・担保されたわけではないので、外部から人材を安易に招くこともできない。そんなこんなもあり、「いつまでも親離れできないように見えるし、家内工業みたいで嫌だ」という娘を説得して、連盟の仕事を手伝わせる羽目になったしまった(但し「この仕事は正に世界中と繋がっている仕事だから遣り甲斐はあるぞ!」と騙した(笑)せいか、(どっかで聞いた話だ、おっと 恐)今は「毎日が面白い」と言ってくれているのでホッとしてる)。
そんな経緯で今年も好きな「ゆく年くる年」を見ながらゆったりとした良い年越し、正月が過ごせるはずだった!!のだが・・・・・。
周知のとおり、5月に「ワールドゲームズ2013Cari」への「デモ参」が決定した(※)のは良いのだが、8月頃にコロンビア支部長が「大会実行委員会との打ち合わせや、空道のデモンストレーションの為に12月25日~1月2日までのカリ市でのフェスティバルに来て、空道のアピールをしてください」との再三再四の要請。手を変え品を変え行けない理由を並べたのだが、「カリ市もその予定でスケジュールを組んでいるし、記者会見では20社程が塾長のインタビューを放送・放映する積りで待っています」と全く聞く耳を持たない。
編集部注※経緯については2012年6月の特集記事「東塾長インタビュー」を参照ください。
結局、12月中旬にとうとう押し切られてしまい、心ならずも年末年始二度目の海外となった次第。しかし、気が進まないとはいえ、考えてみたなら、空道のためなら、当然個人の好悪は言ってはいられない。そこで、“一蓮托生”とばかりに、これまでコロンビア開拓に貢献した稲垣や黒木を始め何人かの古参や、2012年の体力別、無差別の各階級の優勝者、入賞者に片っ端から電話したが(但し、いくらなんでも所帯持ちは遠慮したが)年末ということもあり中々いい返事がない。とうとう遠征出発の3日前まで電話、メール攻勢し、今回のメンバーを半ば強奪・拉致してコロンビアに来た(爆)。
この稿も27日から書き始めたが、行事が盛りだくさんで、今は朝3時だが大晦日の今日31日まで掛ってしまった。PCの示す日本の現在時間(プラス14時間)では、あと4時間後に「紅白歌合戦」が始まり、そのあとに一年の締めくくりとでもいう、大好きな「ゆく年くる年」が始まるのだろう。衛星放送でも見れるのだが、その時間にはカリ空港で入管手続きをしているころだ。その後も乗継地で一泊となるから、どう足掻いても、年来の習慣である「日本での年越し、元旦」は無理である。録画でも見れるのだろうが、年が変わる瞬間に価値があるものを、後で見ても・・・・。
という訳で、今年は残念ながら(しつこい!か 笑)、遠く地球の裏側から我が日本の初日の出を想像し、2013年が皆様と空道、そして大道塾にとってこれまで以上に良い年であることを祈りつつ (来年は必ず「ゆく年くる年」を、我が“日本”で炬燵に入りながらミカンを剥きながら見るぞ!!)
追伸(か?):中継地のマイアミで入管手続きの列(これがまた9・11テロ以来さらに厳しくなって、呆れるほど時間が掛る!!)に並んでいたなら、同行した笹沢が(※)フェイスブックで俺の嘆きを披露したみたいで、コノネンコから「今炬燵に入ってミカンを食べてます」というメールが入った!!この野郎!!!
※笹沢は前回のキプロスに次いでの同行で今回は当然対象外だったが、当初予定していたデモマッチ (両者共にコロンビア功労者(笑)の黒木VS 稲垣) の黒木は「行きたいのですが仕事が急に入ってしまって、済みません」で、稲垣が今までの悪行の報いか(笑)「この所、右足にチョッと痛みを覚えて蹴りは・・」となったので、チケットも解約できないし、今回はワールドゲームズの話もあるので、セミナー指導と、本部師範代役(“睨み役”兼 笑)で同行という事にした。そこで、堀越に声を掛けたなら「休みに入るの」でと即返事をよこしたが、その相手が見付からない。前述の基準(無差別上位、体力別各クラス優勝者)で怪我を聞いてない10人近くに連絡しても「旅行を予定しているので」、「急なので」、「チョと仕事で」という返事ばっかりで、途方に暮れてしまった!!とうとう3日前になって、「又もじゃ、無理だろう」という私の声を無視して(笑)、事務局長が「お家の一大事だから!」と強引に笹沢に振って“拉致”したものである。
ついでに、ないとは思うが、「会社で浮いてるかも」と言うのを、無理矢理やり繰りさせて参加させたのに、「あいつは続けて又もか」と取られてはかわいそうなので、老爺心ながら人選の事情説明まで 笑。
文書日付2013.1.5(1.9一部修正)