コラム09 15年振り3度目のニューヨークは・・・・

何でも、始まるとシツコイ性質(タチ)だから、「もう年だし」と、深く考えないようにしていたんだが、やっぱ俺の中にはアメリカ、特にニューヨーク市(NYC)に空道、大道塾の旗を立てたいという気があるんだろうなー、いつまでたっても「はみ出しの血」は納まらない、か ? (笑&泣) 

アメリカ(NYC) は”物質文明の極限”という感じで否定的に捉えられるし、それは一般的には間違っていないんだろう。この街は我侭な人間の全てを容認する。欲望を放任し、増長させ、小才を勘違いさせ、みんなを夜郎自大(やろうじだい)にし、止む事のない闘争へと誘う、善悪の彼岸を超えたエネルギーがある。

しかし、もし運が良くて、その毒気に当てられないよう何と巧くかいくぐり、一応、向こう岸まで泳ぎ着き、その堤に登れたなら、世界の果てまで届く、とんでもない地平を与えてくれるのだろう。みんなそれを思って夢中で手足をバタつかせるが、どこから飛んで来るか分からない矢玉に倒れ、もしくは想像を絶する流れの速さ強さ大きさに、途中で力尽き溺れ沈むのかもしれない。

しかも、運良く岸まで辿りつき、何とか周りは見渡せ、取り敢えずの手間仕事も見つけ、当面の飯も食えあわよくば田んぼの一つも手に入れたとしても、それを維持するのもこれまた大変だ。

ましてや、もうチョッとだけ広げようとか、後進に渡そうなどと思ったなら、時間空間に頓着なく、無数に降り掛かる天変地異、人変血囲(?人間の変心と、血―闘争で囲まれる事 アズマ造語)に負けないだけの、殆ど異常なほどの強靭な精神力と体力を持ってないと、確実に消耗磨耗し、よくて“散華”か、最悪“野晒し”を覚悟するしかないだろう。

しかし、それを分かってはいても、だ。自分を試したい心と、当然、自惚れ、そして内から沸き出る“押さえがたい想い”を持った人間になら、この街が売ってくる“喧嘩”は(かき立てる興奮)は無視できないなー。

昨日、よく映画やニュースでブロ-ドウェイというと、大抵の人は一度は見ているはずの、斜め上空から俯瞰される二股の交差点に行ってきた(32年前の“道草”ではそのあとが大変な事になったが 笑) ※1

その真ん中に立って回りの高層ビルの壁面全体を使った巨大な広告、眩いばかりのネオンサイン、液晶パネルの目を奪う極彩色の映像等々・・・・に取り囲こまれ、見下ろされると、なんか足元が覚束なくなり、異次元に来たような気持ちになる。

チッポケな自分などは一気に飲み下そうとしているかのような、これらの幻影が見せる迫力に対面すると、なだめすかせて眠らせていた積もりの闘争心(誇大妄想、狂?) を変に突付かれる気がした。少年の日の、あのドデカイ番長に向い合った時と一緒かな?正にトラウマ?正に被害妄想そのもの―(爆) 

「このヤロー!上等だぁ、やってやろうじゃネェーかぁー!!!」ってな感じになる、困ったもんだ。「神様、俺に時間をくれー」、なんて聞き古した言葉だが、身に沁みる。
ま、これはさっきのワインが見せてくれた、一炊の夢(※2)だが・・・・。頼もしい事に我が弟子であると同時に松原教授、ビジネスマンクラス直属の○○も、優しそうな顔をしているのにそんなことを言っていた(勿論、俺と違って品は良いが―笑)

2006冬

※1・・連載漫画「上等だぁ!」第14話参照

※2一炊の夢・・盧生(ろせい)という青年が、邯鄲(かんたん)で道士呂翁から枕を借りて眠ったところ、富貴を極めた五十余年を送る夢を見たが、目覚めてみると、炊きかけの黄粱(=大粟)もまだ炊き上がっていないわずかな時間であったという「枕中記」の故事。人生の栄枯盛衰のはかないことのたとえ。一炊(いっすい)の夢。盧生の夢。邯鄲(かんたん)の夢。 [大辞泉より抜粋]

文書日付2006.11.24