休刊となった『ゴング格闘技』、最後に掲載された東孝塾長のインタビュー記事を、編集部の許諾を得て紹介します。
2017年6月号をもって休刊となった格闘技専門誌『ゴング格闘技』、休刊前号となる2017年5月号に掲載された、東孝塾長のインタビュー記事。その内容は、大道塾の歴史をテーマとした会話を通じ、塾長の変わらぬ信念を紐解く、すべての塾生に読んで頂きたい内容でした。そこで、一部を抜粋し再編集するかたちにて、ゴン格編集部様の許諾を得たうえで、ここに紹介いたします。(多少の加筆、修正あり)
元原稿 http://www.daidojuku.com/home/column/25.html
加藤久輝がハレック・グレイシーに勝つ 大道塾としてのリベンジに東孝塾長はいま、何を想う?
熊久保英幸=聞き手
──1994年3月の『UFC2』に日本人として初めてUFCに出場した、当時、最強と言われていた大道塾・北斗旗王者の市原海樹選手が、ホイス・グレイシーに敗れてから23年目の今年、加藤久輝選手がハレック・グレイシーに勝ち、大道塾の選手がグレイシーに雪辱しました。塾長としても感慨深いところがあるのではないかと思い、取材にやってまいりました。
「うーん……期待を裏切って悪いんですが、あまりそういう想いはないんですよ」
──いきなり取材終了ですか……。
「空道は護身というものを土台に考えているわけです。これまでムエタイや柔術とどうのこうのと比較されてきましたが、護身が基本なんですよ。1対1で戦った時、最終的に寝技になることがあるという現実は分かりますが、実際にそうなるケースは1割か2割あるかないか。護身の基本は立っていることですし、仲間や身内を守るために、ある時はその場から逃げなくてはいけないんです。それに素手であること、着衣状態であることなどを総合的に考えて空道の体系を作ってきました。ムエタイと比較されるきっかけとなった長田(賢一)vsラクチャート(1987年4月24日、ルンピニースタジアムで対戦してラクチャートが2RにKO勝ち)にしても、ムエタイという競技のルールで見れば負けですが、私自身は最初に長田がダウンを奪ったことで〝これはウチの勝ち〟と思ったんですよ、今の総合の目で見て、グラウンドを全く知らない相手が倒れたと考えたならどうですか? コッチはそこを蹴るとか殴るという事を前提にルールを作っているわけですから。あと、同じくムエタイ元チャンピオンのパーヤップが北斗旗に出場した時に、ウチの選手にミドルキックを抱えて大内刈りで倒させた時は観客席から〝東! 汚いぞ!〟って野次が飛んだんです。いや、これはウチのルールの試合なのだから当たり前でしょうと思いましたが、そんなことを言っても、当時の立ち技万能(=ムエタイ最強論)という風潮の中では何を言っても仕方がないと黙っていましたが」
──想定している戦いが違うと言うか、競技が違うのだからその競技のスペシャリストとその競技のルールで戦ったら負けても仕方がないということですね。
「その後の件についても、あの当時は今考えれば〝総合〟の幕開けだったので、試行錯誤中の大道塾に(妄想を含めて笑)凄い夢を持ってくれている人たちが一杯いたんですよ。それまで空道、当時で言えば格闘空手のような格闘技はなかったわけですから。その人たちがどんどん話を進めていって、それでやってみたらああいう結果になった。そこで〝大道塾が負けた〟と言われても、こっちが最初から団体を挙げて万全の構えで行ってやられたわけではなく、ある意味個人の戦いですし、あくまでも大道塾の戦いは立っての戦いが主という意識が強かったので、私はそれほど何とも思わなかったんです。しかし、世間的には大道塾が負けた、との見方がされてしまいました。長田とムエタイの場合もしばらくは冬の時代が続きましたし、今度は柔術でも同じことが起こりました。そこで巡り巡って今回、久輝がグレイシーの選手に勝ったことはストーリー的には〝苦節23年、ついに……!〟みたいな話ですし、頑張って勝ってくれた久輝にはよくやったと言いたいです。でも、それはいろいろある試合の中のひとつで、久輝もそれを狙ってやっていたという話ではないですからね。逆に、ムエタイと交流したことでムエタイのいいところを吸収しましたし、柔術からもいろいろ吸収しています。ですから、どっちもウチを太くしてくれたという意味で、そんなに憎むべき相手でもないんですよ(笑)」
──グレイシーを敵対視していたわけではないんですね。
「全くないです。護身は立ったままやるものですが、当然寝技になる局面もあるので、寝技もやらないとダメだぞと私は30数年前から空手に寝技を取り入れるという試みをやってきたわけです。当時は『あんなものは空手ではない』と言われても格闘空手としてやってきて、空道と名付けたら『あれは空手じゃないか』と言われる。何をやっても〝はみだし〟は、叩かれるんですよね(笑)」
──極真は打倒・熊や牛を目指したが、熊や牛は打倒・極真を目指していなかった、という言葉がありましたが、それと同じようなものですね。グレイシーは打倒・他の格闘技を目指したかもしれませんが、大道塾は打倒グレイシーやムエタイを目指してはいなかった、と。
「そういう人が一生懸命やっていることを、しない人間がどうこう揶揄するのは好きじゃないですが、事実関係で言えばそうですね」
──現在では格闘技が広まっているので、違うルールで戦えばそのルールで強い選手の方が強いのは当たり前だと理解されていますが、当時は「誰々が負けた」ではなくその競技・団体が負けたと捉えられることが普通でした。
「そうですね。私自身は他流試合をやりたいって意識はなかったんですよ。私の格闘技観の中では格闘空手をやっていって、これに寝技をプラスしていけば完成するはずだっていう意識でいたんです。当時から道場では寝技をやっていましたが、トップ選手が『大道塾に寝技は要らない』なんて堂々とインタビューに答えたり、大会パンフレットに書いていたこともありました(笑)。まあ、私も大雑把な性格なので『人の口に戸は立てられねーしな?』と思っていました。当時はまだ寝技まで入れるのは早いと思っていたので、試合では投げまでにしていたんですが、10年くらい過ぎて、そろそろ寝技を解禁する時期かなと思っていたところ、ひょんなことから柔術と関わりが出来てしまい、今度は猛烈に生徒から寝技をやりたい!って言い出したんですよ。それまではいくら言っても『先生、寝技なんかいりません』と言っていたのに、あの試合を境にみんな逆に寝技をやりたいって言い出したから、試合での寝技を解禁したんです」
──大道塾にとっては、逆によかったんですね。
「そういう意味ではそうですね。私が描いた筋道どおりに行ってくれれば一番良かったんですが、ムエタイに引っ張られ柔術に振り回されました。まあ、それも大道無門じゃないかな、と(笑)」
──そもそも、格闘空手を始めた時は地上最強の格闘技を目指していたわけではなかったんですね。
「全くないですね。あくまでも身を守る護身術であることが基本です」
──それを周りが勝手に、大道塾は凄い、どんな格闘技にも勝てるんじゃないかって幻想を膨らませていったという。
「本当にそうです。そもそも私の格闘の原点は、小学生の時に中学生の番長に喧嘩で負けたことなんです。何をやっても勝てなかった、向かって行っても投げられて跳ね返されました。その時に、人は力を持たないと何を言ってもダメなんだと気付かされたんです。また、三島由紀夫が『文学をやっていても最後は日本刀なんだ。最後は日本刀を見せれば一目置くんだ』というようなことを言っていて、こんな偉い先生でも『力を評価している』のだから、自分で自分の身を守る術は絶対に大事なんだって焼き付いていました。だから、格闘技で日本一になるとか世界一になるって意識はなかったんです。極真に入った時も、空手で日本一になりたいとの気持ちはなく、柔道を知った上で打撃を覚えれば、大概の場合は身を護れるし、しかも指導員として夢だった海外留学ができると聞いたからです。極真時代の支部の標語は『人生はドラマだ!あなたの拳で!』で、武道・格闘技的には、一見、夢のない話ですが(笑)、逆にそのおかげか『山あり山あり』の、とんでもない人生が待っていましたが(笑)」
──あの試合をきっかけに、柔術というものの研究はされたんですか?
「もちろんです。負けたのは現実ですから、柔道だけの寝技ではダメだと。柔術を始め、いろいろな寝技を取り入れなくてはいけないと思いました。ただ最初は、全面的に解禁してしまうと知っている選手と知らない選手で大きな差が出てしまうので、柔道で認められている腕十字や腕がらみなど5種類の技だけを解禁しました」
──ホイス戦をきっかけに、選手の意識が劇的に変わったわけですね。
「そうです。それまではいくら私が言っても、『殴ったら倒れるでしょう』という感じでした。ましてや当時は大道塾の優勝者は空手界のエースみたいなものでしたからね。それこそ格闘空手そのものみたいな存在で、パンチをぶん回してみんなぶっ倒していたわけですから。だからみんながそういう意識だったんですよね。それがパンチひとつ当てることが出来ず、転がされて寝技でやられたのは生徒たちにとってはショッキングな出来事だったと思いますね。私は私の考えた道筋でやりたかったのに、キックブームの時はなんでグローブでやらないんだと周りから言われ、生徒たちも寝技なんかやる必要はない、ムエタイこそ最強だという意識になってしまった。それでトップの選手たちはみんなムエタイの試合をやったじゃないですか。今度はそれがガラッと変わって寝技が最強だというような意識になってしまって。ただ、だからと言って今、久輝がやっていることの結果がどうでもいいわけではなく、勝てば当然、嬉しいですよ。負けたら〝この野郎〟となりますが(笑)」
──話は技術的なことになりますが、マウントパンチ(寸止め)で効果になるといった要素が空道に取り入れられたじゃないですか。あれは柔術の実戦性を評価してのものですよね?
「最初にUFCの試合を見た時に、馬乗りになって殴っているのを見て、あんなものは先進国で流行るわけがない、ましてや日本では倒れている人間を叩くなんてそんなことを社会が許すわけがない、と当時のゴング格闘技で言いました。そう言っていたのがあれよあれよという間に広まって、〝ああ、日本人は変わったんだな〟と実感しました。私がそれがいい・悪いを言っても始まらない、昔ならやらなかったことを今はやるんだな、と。そうしたなら〝護身上〟やはり対応を覚えないといけない。だから取り入れました」
──いま思えば、ホイスに挑戦したことはよかったと思いますか?
「まあ、ウチはそういうところはしつこいんです。転んでもただでは起きない(笑)。ムエタイの時もそうですし、ヘタしたら団体が潰れるくらいの話じゃないですか。それこそいろいろな団体が柔術と絡まって、一時的にはそれなりに名前をあげていても、勝負に負けてガックリ来てダメになったという話が実際に、いっぱいありますよね。ウチはそういうところは苦にしません」
──むしろ、いいところを取り入れようとするんですね。
「あれを覚えればいいんだろう、という感じですね。大道塾らしいじゃないですか。それこそ大道無門ですよ。いろいろな格闘技は大道塾の敵ではなく、よく言えば師であるということです、エヘン!(笑)」
──大山倍達総裁も言われていた、我以外みな我が師の精神ですね。
「そこで覚えて、次に勝てばいいんです。ただ、あの時やらなくてもどこかで柔術とは交わっていたとは思います。ウチは何でもやろうみたいな姿勢ですからね」
──ホイス戦以降、大道塾としてダメージはあったんですか?
「ありました。あの当時はそれこそ、武道では大道塾が一番だって空気があったじゃないですか。それはもう凄かったですよ。弟子が減っていき、入門者がガクッと減りました。あれから10数年くらいは影響がありましたね」
──10数年も!?
「それにプラス、大山館長がなくなった後のフルコン界の変動や、K─1やPRIDEがあんな形で消えて武道・格闘技の信用が失墜し『やっぱりあの世界は……』と言った感じで潮が引くように競技者も、興味を持つ人口もガクッと減ったこともかなり影響しました。正直、ここは自慢して良いと思うけれど(笑)。私はこの世界に入る前に社会の底辺を経験して来て、『なるようになるさ。ダメなら大型免許があるから』と開き直れた私だからこそ、精神的に潰れずに持ったんだなと思いますよ(笑)。まあ、最近になって当時の悪いイメージを持っていた人が減ってきたんだろうし、やっと世の中が大人になって、ルールの違いが勝敗を分ける=誰が負けたから即、その団体がどうこうではないんだってことが分かってきたりして、また武道・格闘技復活の目が出てきたような気がするので、同じ轍を踏まないように、大事に大事に、武道・格闘技の健全な発展を期して行かなくてはと思っていますが……」
──そんなに影響が……グレイシーを怨みませんでしたか?
「それとこれとは話が別です。勝負の世界は勝った者が全部持って行くんですから、しょうがないな、と。長田がラクチャートに負けた時も凄かったですよ。それまでは年に入門者が何千人以上も入っていたのが、一気に半分以下になったんですから」
──大道塾は2度もピンチに陥っていたんですね。
「ただ、長田にしてもムエタイがやりたくてやったわけではないですからね。向こうのプロモーターに私が乗せられて、やってみますかと聞かれたから、「せっかくだからやってみます」というところから始まっているんです。最初は練習試合との話だったので、その話をもらってから3?4日はパタヤへ遊びに行っていたんですから。長田は長田で砂浜で足を切ってしまって。それでバンコクに帰って来たら新聞に試合のことが載っていて、日本の空手チャンピオンがムエタイのチャンピオンに挑戦する、みたいな話しになっていたという。その時に初めて、誰とやるんだと聞いたらルンピニーのチャンピオンだって言うわけです。メチャクチャな話ですよね。そんな状況で長田は初めてのルールで、グローブを着けたのも初めてくらいだったのに、最初にダウンを奪ったんですから、よくやったと私は思いました。ところが、日本に帰って来てその話が広まると評価がえらい悪い。手も足も出なかった、みたいな話になっていて驚きました。長田自身も、ムエタイがやりたいとかムエタイが最強だなんて思っていなかったですよ。ただ周りがそれをそのままには許さなかった。大道塾は、東はなぜ長田にやらせないんだ、と。私は長田がやりたいならやればいいと思っていたんですよ。でも長田からは何も言って来なかった。長田は長田で別にムエタイの試合をやりたいわけではないけれども、負けたと思われているのが嫌で悩んでいたとは思います。彼は彼で、自分がやると言ったら先生は嫌がるだろうと考えていたのかもしれない。でも段々と悩んでいる姿が目に付くようになってきたのは分かったので長田を呼んで、『やりたいならやったらいいんじゃないか』と言ったんですが、『自分はその気はありません』と。そうは言いながらも結局は収まらなかったので、あれが始まったわけです」
──1992年に後楽園ホールで開催された『THE WARS』ですね。
「その時に一番反応したのが、加藤清尚と飯村健一だったんですよ。長田はもう名前が出来上がっていたからいいけれども、彼らはこれからだったわけです。しかし、アマチュアと言っても当時、後先考えずに練習ばかりしていましたからね。その面ではプロと変わらないわけです。「俺たちは誰とやっても負けない」って意識があった。それが結局、長田が負けた、大道塾が負けたと言われてもの凄く悔しかったわけです。自分たちをキックの試合に出してくれみたいな話にもなりました。困ったもんだな、と。それで当時、週に一度、SAWの麻生(秀孝)さんが寝技の指導に来ていたから、終わった後ですし屋でいろいろな話をしていたんですよ。その時に、あいつらあんなこと言いやがってと愚痴を言ったら、麻生さんが『じゃあ東さんがやればいいじゃないですか』と言ったんです。そんなことは考えたこともなかったので〝えっ?〟と思ったんですが、協力してくれる人もいてやることになりました。それで一応はそれなりにグローブを着けた試合で勝ったんですが、加藤にしても飯村にしてもブレーキがかからなかったんですよ。第一、そっちの方が大道塾で試合をするよりも、反響が大きいわけじゃないですか」
──雑誌にも大きく取り上げられましたね。
「そう。それでやりたいというものをやめろと止めてもしょうがないだろう、と。ある時は飯村が来て、自分はキックの試合をしたいと言ってきたんです。その時に飯村は、私がダメだと言ったら辞めるつもりだったと後から言っていました。当時はそれほど選手が思いつめて、グローブでやることが強さの証明だ、みたいになっていたんですよね」
──グローブである程度証明したところで、今度はUFCが始まってWARSで修斗やパンクラスの選手と総合格闘技ルールで戦うことになりました。
「私は真っ直ぐ歩きたかったのに、あっちに引っ張られこっちに引っ張られ、足は引っ掛けられで(笑)」
──2002年のWARS6をもってピタリとやめてしまいましたよね。あれはなぜだったんですか?
「やりたいという選手がいなくなったからです」
──そうなんですか?
「逆に私は、最後までリングでの試合にはなじめなかったし、畑違いの準備は大変だったけれど、他の武道・格闘技の技を学ぶためにも、年に1回、もしくは2年に1回はやってもいいと思っていたんです。ところが選手たちは『もう大道塾は実力を証明したからいいです』と誰も手を上げなくなったんですよ。WARSを6回開催して、キックにも総合にもある程度対応出来ることが証明されたから、もういいです、と。元々、みんな格闘空手が好きだから始めたわけじゃないですか。名声が欲しくてやってみたけれど、結局は道衣を着てする武道が好きだから入って来た人間ですから。何回か「WARSをやりたいやつはいるか?」と聞いたんですが、1人か2人しかいませんでした。やる気のないものを無理強いしても碌な結果にはならないから、そこでやめたんです」
──そのうちの1人のようなものが加藤久輝選手なんですかね。
「久輝の場合は世界大会で負けたことが悔しかったからでしょうね。ウチには大きい相手がいないから、大きい相手とやりたいということで名古屋のALIVEジムに行くようになったんです」
──勝ったのは嬉しかったですか?
「勝って嬉しくないことはないです。久輝も直接知っている世代ではないですが、おそらく周りからウチとグレイシーの歴史を聞いていて、プレッシャーがあったかもしれない。よく頑張った、と言いたいですね。いつも生徒には言うんですよ、キックでもボクシングでも何でもやっていいけれど、『経験してみたい』とか、『試してみたい』みたいなお気楽な気持ちのヤツにはやらせたくありません。『やるからには、勝つつもりで練習をし、死に物狂いで戦え!」、と。せっかく先輩たちが築き上げてきた名前なのに、お前が中途半端な気持ちで負けたら大道塾が負けたって言われるんだから絶対に勝てよ、と。それで勝ったら嬉しい、負けたらばか者と言う。それはそうですよ。やる以上はそれくらいの覚悟は持ってもらわないといけない。挑戦心は良いけれども、ちゃんと背負ってやれということです。気軽にやってみたいなんて言われたら怒鳴りつけてやりますね。せっかく今までみんなで苦労してここまで大道塾、格闘空手、空道を持ってきたのに、お前でゼロになってしまうかもしれないんだぞ、と。言われた方はキョトンとしていますけれどね、時代が違うのかな(笑)」
──2001年から世界大会を開催したり、ロシアを中心に世界へ広がってきたことによって他のジャンルとかかわりを持たなくてもいいようになった、という面もあると思います。空道の中で成立するというか。空道で世界王者になることが高い壁になっているので、余所見をしている場合ではないですよね。
「今、世界王者になるのは本当に大変ですよ。先日、ジョージア(グルジア)に行って正式な支部に認可しました。行ってみたら、柔道のオリンピックチャンピオンや世界チャンピオン10人くらいと会ったんですが、なぜかみんな空道を応援しているんですよ。普通、柔道関係者が応援するなんてありえないでしょう。ところが今回支部長になったのも元々、トビリシ柔道連盟の理事長をやっていた人物で。昔、私が柔道をやっていた頃の東北のエースが遠藤純男氏(山下泰裕のライバルで1980年の全日本選抜柔道体重別選手権でカニバサミを仕掛け、山下の腓骨をへし折ったことで知られる)で、私が何回やっても勝てなかった宮城県のチャンピオンが、彼に30秒で投げられて負けたのを見て柔道を辞めました(笑)。ジョージアで会った柔道家たちはその遠藤氏と同期で、自分は遠藤とやって負けたと楽しそうに話をしていました。ジョージアで柔道は半分国技のようなもので人気があって、みんな身体がガッチリしていて体幹がしっかりしています。2月にインドで開催されたワールドカップに始めてジョージアの選手が出たんですが、いきなり-240で優勝してしまいました。あとタジキスタンの選手も優勝したんです。今までだったらロシアが全階級を制覇するか、せいぜい日本が一階級を獲るかくらいだったんですが、今回はロシアが3階級で優勝を逃しています。今度の世界大会は大変なことになるでしょうね。ロシアの独占状態は終わるかもしれません。今年の秋は仙台でアジア大会を開催します。そして、来年の世界大会に日本代表として選ばれるためには、今年の体力別とアジア大会、来年春の体力別と3大会の内2大会に出ることが条件となります。だから、久輝にも出ないと世界大会には出さないと伝えてあります」
───アジア大会の開催ですか!
「アジアならモンゴルが強いですね。あとはイラン、タジキスタン、カザフスタンあたりから選手が来ます。カザフスタンも強いですよ。ワールドカップのベスト3に2人くらい入っていました。とにかく旧ソ連系は強い。力があるし、体幹が強いし、何より日本選手にない『これで負けたなら俺の人生は終わりだ!』というほどのハングリー精神がある。今年の体力別各階級上位の2人~4人(に加え、秋の国内予選を勝ち抜いた選手)が日本代表となって、アジアの国々を迎え撃ちます。ワールドカップでは清水亮汰(2015年全日本無差別&2016年全日本体力別-250クラス王者)が、2014年の世界大会で勝っていた同じ選手に負けたんですよ。ワンツーでのばされてしまいました。だからウェイトをやって体幹、特に首を太くしろ、と言っても今の子たちはやらないんですよ。何度言ってもやりません。さすがに今回はのばされたからちょっとはやる気になったけれども。まず70%の力をもって、ガツンとぶつかり合っても、ある程度それを凌がない限り技の勝負にはならないんですよ。日本人同士の試合だと最初から名人戦で技のやりとりとなりますが、ロシアを相手にする時はまずぶつかって、それから回り込むなり離れるなり技の展開になるんですが、最初の段階でバンッと入ってこられると間合いは殺されるし、勢いづいてしまいます。体幹の強さが違うから。やっと本人もウェイトをしないといけないと思いますと言っているんですが、『僕たちは日本的な試合が好きです』とか言うんですよ。本当に今の若い選手たちは名人戦が好きなんです。相手がこう来たらこう返すというような」
──最初の、グレイシーが出てくるまでは寝技をやれと言ってもやらなかった、という話に似ていますね。
「なかなかうまくいきませんね。私は机の仕事に追われて、直接指導は無理だから要点だけ言うんですが、言うことを聞くのと聞かないのがいる。でもまあ、最終的には選手がそれらを取捨選択して、自分で組み立てた練習法や戦い方でやるのが一番いいんですよ」
──フィジカルでやられたら、今度は大道塾に必要なのはフィジカルだってなるかもしれませんね。
「ジョージアやモンゴルがのし上がってくる可能性が高いですからね。そうなって欲しいけれど…。これがラウンド制だったら動き回ってスタミナを消耗させてって戦い方もありますが、3分ですから半分以上はフィジカルで決まるわけです。まあ、日本人選手たちの活躍を暖かく見守ってあげてください」
更新日2017.7.9