コラム28 近畿医療専門学校 理事長の表敬訪問に際して

 

去る2月2日、小職(国際・全日本空道連盟理事長、大道塾 東 孝塾長)の元へ、学校医療法人 近畿医療学園 厚生労働大臣指定・大阪府認可 近畿医療専門学校http://www.kinkiisen.ac.jp/?utm_source=google&utm_campaign=top&utm_medium=cpc小林 英健理事長が奥様のとも子理事と同校スポーツ選手強化本部・本部長 北出 雅人氏を伴って、池袋の総本部を表敬訪問された。http://kinkiisen.ac.jp/staff-blog/sports-trainer/

 

北出氏と小職との縁は、「2000年北京オリンピック」に中国独自の武術競技として散打が採用されるだろうとのことで、当時は中国が世界各地で散打の大会を催しており、それらの一環としてまだ散打の競技人口が少なかったことから要請を受けて、2001年の中国河北省で行われた日本予選の代替え試合としての「中国功夫対日本空手道武朮(※1)散打争覇(※2) http://www.daidojuku.com/home/2001/sanda_2001.07.03..html 」に同行したことで生まれたものだった。(※1術,※2賽≒催し)

 

対談では小林理事長より「同校の医療技術の高い特性や近年武道の大会での医療サポートなど」近畿医療専門学校の沿革や理念、活動などの説明を頂き、「大道塾・空道様の試合や大会等でも、出張治療サービスさせて頂きます」とのご提案を頂きました。

 

当塾の方からも同様の設立の経緯やその後の歴史、今後の展望などの紹介の後、「空道はお陰様で、年々社会的認知度が高まってきていて、公的競技の認定ともいうべき“体協(日本体育協会)”加盟運動も各地区で広がっており、より一層、「社会体育としての武道=空道」の道を歩んでいることや、更に、今年はジュニアで優秀な戦績を残した選手がAO入試で大阪体育大学への進学を果たした例などを話したなら、http://daidojuku.com/jp/2018/01/10/ao/  「当校も塾生の方々の進路の一つとしてご紹介頂きたい。ついては塾生の場合は入学試験免除、検定料免除、入学金一部免除(人物重視) 、更には素晴らしい競技成績を上げられている方は入学金免除も可能です」というような素晴らしい提案も頂きました。

 

さて、嘗て青少年のいわゆる“進路”は「高校卒業→一般社会」が一般的でしたが、3,40年前からは社会の高度化・専門化に伴い、それに「高校卒業→専門学校→社会人」か「高校卒業→大学→社会人」という二つのコースが加わり、どちらかというと、3番目が「確かな≒選ばれた人生のコース」と見られていた時代がありました。しかしながら、大学進学率は6割になろうとし、大学全入制が叫ばれる昨今、大学進学、卒業は決してかつての「確かな≒選ばれた人生のコース」を意味しません。

 

その証拠に「大学に入れさえすれば」と多くの若者が受験戦争に突入し、晴れて大学生になったものの、それまでの小学校からの受験勉強で精魂尽き果てて「大学は遊ぶ所」か、気の利いた言い方をするなら「人生の“モラトリアム(※)”だ」と学生生活を謳歌し、いざ卒業して就職するも、かつての「選ばれた存在」ではないことに遅蒔きながら気付き中途退社し、改めて専門学校に入り直し、確かな技術を身に着けて再度社会人となっている“学士様(古い表現ですが笑)”の、なんと多いことか。

 

※確かに大学生活を「人生のモラトリアム期間(支払い猶予期間≒実人生に入るまでの試行錯誤する期間)」として、色んな人間に出会ったり、経験をしたりして人間の幅を広げる期間と捉えることもできるでしょう。それならそれで一定の意義はあると言えますが、大概は目的もないままに遊びに使う資金欲しさのバイトに明け暮れたり、流行しているその時々の“何か”に手を出してはみるものの、全てが中途半端に終わり、何の特技、テーマも得ないままで4年間を過ごしてしまう、というのが実情ではないでしょうか・・・・。

 

そんな時、「空道は続けたいが将来の生活のことも考えないと・・・・」と悩んでいる競技者の声をチラホラ聴きます。そして競技に未練を残しながらも、若年で競技者としてリタイヤーする塾生も少なからずいると思われます。そんな時、「2030年問題」と言われるように「2030年には65歳以上の高齢者が人口の1/3を占めるような“高齢化社会”」が到来します。それはこれから高齢者の医療がますます需要を増すことを意味しています

 

また、空道や他のスポーツをしている皆さんは感じているとは思いますが、高齢者のみに関わらず骨折といったようなハッキリとした外科的な病院で扱わなければならない怪我とは別に、足腰が痛いとか重い、筋が張ってる首が凝るなどといったような症状には、代替医療https://ja.wikipedia.org/wiki/ と言われる、このような療法は大いに有効であることは経験済みでしょう。

 

とは言っても、社会の変化に対応し、あまりにも多くの民間療法があり学校がある現状では、近い将来乱立が危惧されていることも確かです。そういった場合、基礎的な理論や技術は当然ですが、それに加えて自分でも同様の痛みを持っているとか、他人の痛みや症状を多く見聞きしているといった “経験”や“人間力”という技術以外、以上のいわゆる“腕前”が患者さんを呼び込む大きな要素になる、とはよく聞く話です。

 

そういう意味で、自分が競技をする過程で経験したり、他人のケガや症状などを見聞きする経験のある“競技者経由の施術者”こそ求められている一つのコースなのでしょう。そのことが学校側の待遇にも反映されているのだと思います。

 

「空道を追求したい。しかし、将来のことも考えないと・・・・」と悩んでいる中高生や父母の方も多いと思います。そんな場合は「競技力が飛躍的にこの時期に集中することで一段違う人間に成長し、そのことで広い世界を見聞きできるし、同時に人生設計の一環として、並行してこのような実業の技術習得の場を持っているということは、精神的な安定感にも繋がり、より確かな将来を描ける」という、このような提案も一考の余地はあるのではないでしょうか?

 

 

コラム26 休刊となった『ゴング格闘技』、最後に掲載された東孝塾長のインタビュー記事を、編集部の許諾を得て紹介します。

休刊となった『ゴング格闘技』、最後に掲載された東孝塾長のインタビュー記事を、編集部の許諾を得て紹介します。

2017年6月号をもって休刊となった格闘技専門誌『ゴング格闘技』、休刊前号となる2017年5月号に掲載された、東孝塾長のインタビュー記事。その内容は、大道塾の歴史をテーマとした会話を通じ、塾長の変わらぬ信念を紐解く、すべての塾生に読んで頂きたい内容でした。そこで、一部を抜粋し再編集するかたちにて、ゴン格編集部様の許諾を得たうえで、ここに紹介いたします。(多少の加筆、修正あり)

元原稿 http://www.daidojuku.com/home/column/25.html

加藤久輝がハレック・グレイシーに勝つ 大道塾としてのリベンジに東孝塾長はいま、何を想う?

熊久保英幸=聞き手

──1994年3月の『UFC2』に日本人として初めてUFCに出場した、当時、最強と言われていた大道塾・北斗旗王者の市原海樹選手が、ホイス・グレイシーに敗れてから23年目の今年、加藤久輝選手がハレック・グレイシーに勝ち、大道塾の選手がグレイシーに雪辱しました。塾長としても感慨深いところがあるのではないかと思い、取材にやってまいりました。

「うーん……期待を裏切って悪いんですが、あまりそういう想いはないんですよ」

──いきなり取材終了ですか……。

「空道は護身というものを土台に考えているわけです。これまでムエタイや柔術とどうのこうのと比較されてきましたが、護身が基本なんですよ。1対1で戦った時、最終的に寝技になることがあるという現実は分かりますが、実際にそうなるケースは1割か2割あるかないか。護身の基本は立っていることですし、仲間や身内を守るために、ある時はその場から逃げなくてはいけないんです。それに素手であること、着衣状態であることなどを総合的に考えて空道の体系を作ってきました。ムエタイと比較されるきっかけとなった長田(賢一)vsラクチャート(1987年4月24日、ルンピニースタジアムで対戦してラクチャートが2RにKO勝ち)にしても、ムエタイという競技のルールで見れば負けですが、私自身は最初に長田がダウンを奪ったことで〝これはウチの勝ち〟と思ったんですよ、今の総合の目で見て、グラウンドを全く知らない相手が倒れたと考えたならどうですか? コッチはそこを蹴るとか殴るという事を前提にルールを作っているわけですから。あと、同じくムエタイ元チャンピオンのパーヤップが北斗旗に出場した時に、ウチの選手にミドルキックを抱えて大内刈りで倒させた時は観客席から〝東! 汚いぞ!〟って野次が飛んだんです。いや、これはウチのルールの試合なのだから当たり前でしょうと思いましたが、そんなことを言っても、当時の立ち技万能(=ムエタイ最強論)という風潮の中では何を言っても仕方がないと黙っていましたが」

──想定している戦いが違うと言うか、競技が違うのだからその競技のスペシャリストとその競技のルールで戦ったら負けても仕方がないということですね。

「その後の件についても、あの当時は今考えれば〝総合〟の幕開けだったので、試行錯誤中の大道塾に(妄想を含めて笑)凄い夢を持ってくれている人たちが一杯いたんですよ。それまで空道、当時で言えば格闘空手のような格闘技はなかったわけですから。その人たちがどんどん話を進めていって、それでやってみたらああいう結果になった。そこで〝大道塾が負けた〟と言われても、こっちが最初から団体を挙げて万全の構えで行ってやられたわけではなく、ある意味個人の戦いですし、あくまでも大道塾の戦いは立っての戦いが主という意識が強かったので、私はそれほど何とも思わなかったんです。しかし、世間的には大道塾が負けた、との見方がされてしまいました。長田とムエタイの場合もしばらくは冬の時代が続きましたし、今度は柔術でも同じことが起こりました。そこで巡り巡って今回、久輝がグレイシーの選手に勝ったことはストーリー的には〝苦節23年、ついに……!〟みたいな話ですし、頑張って勝ってくれた久輝にはよくやったと言いたいです。でも、それはいろいろある試合の中のひとつで、久輝もそれを狙ってやっていたという話ではないですからね。逆に、ムエタイと交流したことでムエタイのいいところを吸収しましたし、柔術からもいろいろ吸収しています。ですから、どっちもウチを太くしてくれたという意味で、そんなに憎むべき相手でもないんですよ(笑)」

──グレイシーを敵対視していたわけではないんですね。

「全くないです。護身は立ったままやるものですが、当然寝技になる局面もあるので、寝技もやらないとダメだぞと私は30数年前から空手に寝技を取り入れるという試みをやってきたわけです。当時は『あんなものは空手ではない』と言われても格闘空手としてやってきて、空道と名付けたら『あれは空手じゃないか』と言われる。何をやっても〝はみだし〟は、叩かれるんですよね(笑)」

──極真は打倒・熊や牛を目指したが、熊や牛は打倒・極真を目指していなかった、という言葉がありましたが、それと同じようなものですね。グレイシーは打倒・他の格闘技を目指したかもしれませんが、大道塾は打倒グレイシーやムエタイを目指してはいなかった、と。

「そういう人が一生懸命やっていることを、しない人間がどうこう揶揄するのは好きじゃないですが、事実関係で言えばそうですね」

──現在では格闘技が広まっているので、違うルールで戦えばそのルールで強い選手の方が強いのは当たり前だと理解されていますが、当時は「誰々が負けた」ではなくその競技・団体が負けたと捉えられることが普通でした。

「そうですね。私自身は他流試合をやりたいって意識はなかったんですよ。私の格闘技観の中では格闘空手をやっていって、これに寝技をプラスしていけば完成するはずだっていう意識でいたんです。当時から道場では寝技をやっていましたが、トップ選手が『大道塾に寝技は要らない』なんて堂々とインタビューに答えたり、大会パンフレットに書いていたこともありました(笑)。まあ、私も大雑把な性格なので『人の口に戸は立てられねーしな?』と思っていました。当時はまだ寝技まで入れるのは早いと思っていたので、試合では投げまでにしていたんですが、10年くらい過ぎて、そろそろ寝技を解禁する時期かなと思っていたところ、ひょんなことから柔術と関わりが出来てしまい、今度は猛烈に生徒から寝技をやりたい!って言い出したんですよ。それまではいくら言っても『先生、寝技なんかいりません』と言っていたのに、あの試合を境にみんな逆に寝技をやりたいって言い出したから、試合での寝技を解禁したんです」

──大道塾にとっては、逆によかったんですね。

「そういう意味ではそうですね。私が描いた筋道どおりに行ってくれれば一番良かったんですが、ムエタイに引っ張られ柔術に振り回されました。まあ、それも大道無門じゃないかな、と(笑)」

──そもそも、格闘空手を始めた時は地上最強の格闘技を目指していたわけではなかったんですね。

「全くないですね。あくまでも身を守る護身術であることが基本です」

──それを周りが勝手に、大道塾は凄い、どんな格闘技にも勝てるんじゃないかって幻想を膨らませていったという。

「本当にそうです。そもそも私の格闘の原点は、小学生の時に中学生の番長に喧嘩で負けたことなんです。何をやっても勝てなかった、向かって行っても投げられて跳ね返されました。その時に、人は力を持たないと何を言ってもダメなんだと気付かされたんです。また、三島由紀夫が『文学をやっていても最後は日本刀なんだ。最後は日本刀を見せれば一目置くんだ』というようなことを言っていて、こんな偉い先生でも『力を評価している』のだから、自分で自分の身を守る術は絶対に大事なんだって焼き付いていました。だから、格闘技で日本一になるとか世界一になるって意識はなかったんです。極真に入った時も、空手で日本一になりたいとの気持ちはなく、柔道を知った上で打撃を覚えれば、大概の場合は身を護れるし、しかも指導員として夢だった海外留学ができると聞いたからです。極真時代の支部の標語は『人生はドラマだ!あなたの拳で!』で、武道・格闘技的には、一見、夢のない話ですが(笑)、逆にそのおかげか『山あり山あり』の、とんでもない人生が待っていましたが(笑)」

──あの試合をきっかけに、柔術というものの研究はされたんですか?

「もちろんです。負けたのは現実ですから、柔道だけの寝技ではダメだと。柔術を始め、いろいろな寝技を取り入れなくてはいけないと思いました。ただ最初は、全面的に解禁してしまうと知っている選手と知らない選手で大きな差が出てしまうので、柔道で認められている腕十字や腕がらみなど5種類の技だけを解禁しました」

──ホイス戦をきっかけに、選手の意識が劇的に変わったわけですね。

「そうです。それまではいくら私が言っても、『殴ったら倒れるでしょう』という感じでした。ましてや当時は大道塾の優勝者は空手界のエースみたいなものでしたからね。それこそ格闘空手そのものみたいな存在で、パンチをぶん回してみんなぶっ倒していたわけですから。だからみんながそういう意識だったんですよね。それがパンチひとつ当てることが出来ず、転がされて寝技でやられたのは生徒たちにとってはショッキングな出来事だったと思いますね。私は私の考えた道筋でやりたかったのに、キックブームの時はなんでグローブでやらないんだと周りから言われ、生徒たちも寝技なんかやる必要はない、ムエタイこそ最強だという意識になってしまった。それでトップの選手たちはみんなムエタイの試合をやったじゃないですか。今度はそれがガラッと変わって寝技が最強だというような意識になってしまって。ただ、だからと言って今、久輝がやっていることの結果がどうでもいいわけではなく、勝てば当然、嬉しいですよ。負けたら〝この野郎〟となりますが(笑)」

──話は技術的なことになりますが、マウントパンチ(寸止め)で効果になるといった要素が空道に取り入れられたじゃないですか。あれは柔術の実戦性を評価してのものですよね?

「最初にUFCの試合を見た時に、馬乗りになって殴っているのを見て、あんなものは先進国で流行るわけがない、ましてや日本では倒れている人間を叩くなんてそんなことを社会が許すわけがない、と当時のゴング格闘技で言いました。そう言っていたのがあれよあれよという間に広まって、〝ああ、日本人は変わったんだな〟と実感しました。私がそれがいい・悪いを言っても始まらない、昔ならやらなかったことを今はやるんだな、と。そうしたなら〝護身上〟やはり対応を覚えないといけない。だから取り入れました」

──いま思えば、ホイスに挑戦したことはよかったと思いますか?

「まあ、ウチはそういうところはしつこいんです。転んでもただでは起きない(笑)。ムエタイの時もそうですし、ヘタしたら団体が潰れるくらいの話じゃないですか。それこそいろいろな団体が柔術と絡まって、一時的にはそれなりに名前をあげていても、勝負に負けてガックリ来てダメになったという話が実際に、いっぱいありますよね。ウチはそういうところは苦にしません」

──むしろ、いいところを取り入れようとするんですね。

「あれを覚えればいいんだろう、という感じですね。大道塾らしいじゃないですか。それこそ大道無門ですよ。いろいろな格闘技は大道塾の敵ではなく、よく言えば師であるということです、エヘン!(笑)」

──大山倍達総裁も言われていた、我以外みな我が師の精神ですね。

「そこで覚えて、次に勝てばいいんです。ただ、あの時やらなくてもどこかで柔術とは交わっていたとは思います。ウチは何でもやろうみたいな姿勢ですからね」

──ホイス戦以降、大道塾としてダメージはあったんですか?

「ありました。あの当時はそれこそ、武道では大道塾が一番だって空気があったじゃないですか。それはもう凄かったですよ。弟子が減っていき、入門者がガクッと減りました。あれから10数年くらいは影響がありましたね」

──10数年も!?

「それにプラス、大山館長がなくなった後のフルコン界の変動や、K─1やPRIDEがあんな形で消えて武道・格闘技の信用が失墜し『やっぱりあの世界は……』と言った感じで潮が引くように競技者も、興味を持つ人口もガクッと減ったこともかなり影響しました。正直、ここは自慢して良いと思うけれど(笑)。私はこの世界に入る前に社会の底辺を経験して来て、『なるようになるさ。ダメなら大型免許があるから』と開き直れた私だからこそ、精神的に潰れずに持ったんだなと思いますよ(笑)。まあ、最近になって当時の悪いイメージを持っていた人が減ってきたんだろうし、やっと世の中が大人になって、ルールの違いが勝敗を分ける=誰が負けたから即、その団体がどうこうではないんだってことが分かってきたりして、また武道・格闘技復活の目が出てきたような気がするので、同じ轍を踏まないように、大事に大事に、武道・格闘技の健全な発展を期して行かなくてはと思っていますが……」

──そんなに影響が……グレイシーを怨みませんでしたか?

「それとこれとは話が別です。勝負の世界は勝った者が全部持って行くんですから、しょうがないな、と。長田がラクチャートに負けた時も凄かったですよ。それまでは年に入門者が何千人以上も入っていたのが、一気に半分以下になったんですから」

──大道塾は2度もピンチに陥っていたんですね。

「ただ、長田にしてもムエタイがやりたくてやったわけではないですからね。向こうのプロモーターに私が乗せられて、やってみますかと聞かれたから、「せっかくだからやってみます」というところから始まっているんです。最初は練習試合との話だったので、その話をもらってから3?4日はパタヤへ遊びに行っていたんですから。長田は長田で砂浜で足を切ってしまって。それでバンコクに帰って来たら新聞に試合のことが載っていて、日本の空手チャンピオンがムエタイのチャンピオンに挑戦する、みたいな話しになっていたという。その時に初めて、誰とやるんだと聞いたらルンピニーのチャンピオンだって言うわけです。メチャクチャな話ですよね。そんな状況で長田は初めてのルールで、グローブを着けたのも初めてくらいだったのに、最初にダウンを奪ったんですから、よくやったと私は思いました。ところが、日本に帰って来てその話が広まると評価がえらい悪い。手も足も出なかった、みたいな話になっていて驚きました。長田自身も、ムエタイがやりたいとかムエタイが最強だなんて思っていなかったですよ。ただ周りがそれをそのままには許さなかった。大道塾は、東はなぜ長田にやらせないんだ、と。私は長田がやりたいならやればいいと思っていたんですよ。でも長田からは何も言って来なかった。長田は長田で別にムエタイの試合をやりたいわけではないけれども、負けたと思われているのが嫌で悩んでいたとは思います。彼は彼で、自分がやると言ったら先生は嫌がるだろうと考えていたのかもしれない。でも段々と悩んでいる姿が目に付くようになってきたのは分かったので長田を呼んで、『やりたいならやったらいいんじゃないか』と言ったんですが、『自分はその気はありません』と。そうは言いながらも結局は収まらなかったので、あれが始まったわけです」

──1992年に後楽園ホールで開催された『THE WARS』ですね。

「その時に一番反応したのが、加藤清尚と飯村健一だったんですよ。長田はもう名前が出来上がっていたからいいけれども、彼らはこれからだったわけです。しかし、アマチュアと言っても当時、後先考えずに練習ばかりしていましたからね。その面ではプロと変わらないわけです。「俺たちは誰とやっても負けない」って意識があった。それが結局、長田が負けた、大道塾が負けたと言われてもの凄く悔しかったわけです。自分たちをキックの試合に出してくれみたいな話にもなりました。困ったもんだな、と。それで当時、週に一度、SAWの麻生(秀孝)さんが寝技の指導に来ていたから、終わった後ですし屋でいろいろな話をしていたんですよ。その時に、あいつらあんなこと言いやがってと愚痴を言ったら、麻生さんが『じゃあ東さんがやればいいじゃないですか』と言ったんです。そんなことは考えたこともなかったので〝えっ?〟と思ったんですが、協力してくれる人もいてやることになりました。それで一応はそれなりにグローブを着けた試合で勝ったんですが、加藤にしても飯村にしてもブレーキがかからなかったんですよ。第一、そっちの方が大道塾で試合をするよりも、反響が大きいわけじゃないですか」

──雑誌にも大きく取り上げられましたね。

「そう。それでやりたいというものをやめろと止めてもしょうがないだろう、と。ある時は飯村が来て、自分はキックの試合をしたいと言ってきたんです。その時に飯村は、私がダメだと言ったら辞めるつもりだったと後から言っていました。当時はそれほど選手が思いつめて、グローブでやることが強さの証明だ、みたいになっていたんですよね」

──グローブである程度証明したところで、今度はUFCが始まってWARSで修斗やパンクラスの選手と総合格闘技ルールで戦うことになりました。

「私は真っ直ぐ歩きたかったのに、あっちに引っ張られこっちに引っ張られ、足は引っ掛けられで(笑)」

──2002年のWARS6をもってピタリとやめてしまいましたよね。あれはなぜだったんですか?

「やりたいという選手がいなくなったからです」

──そうなんですか?

「逆に私は、最後までリングでの試合にはなじめなかったし、畑違いの準備は大変だったけれど、他の武道・格闘技の技を学ぶためにも、年に1回、もしくは2年に1回はやってもいいと思っていたんです。ところが選手たちは『もう大道塾は実力を証明したからいいです』と誰も手を上げなくなったんですよ。WARSを6回開催して、キックにも総合にもある程度対応出来ることが証明されたから、もういいです、と。元々、みんな格闘空手が好きだから始めたわけじゃないですか。名声が欲しくてやってみたけれど、結局は道衣を着てする武道が好きだから入って来た人間ですから。何回か「WARSをやりたいやつはいるか?」と聞いたんですが、1人か2人しかいませんでした。やる気のないものを無理強いしても碌な結果にはならないから、そこでやめたんです」

──そのうちの1人のようなものが加藤久輝選手なんですかね。

「久輝の場合は世界大会で負けたことが悔しかったからでしょうね。ウチには大きい相手がいないから、大きい相手とやりたいということで名古屋のALIVEジムに行くようになったんです」

──勝ったのは嬉しかったですか?

「勝って嬉しくないことはないです。久輝も直接知っている世代ではないですが、おそらく周りからウチとグレイシーの歴史を聞いていて、プレッシャーがあったかもしれない。よく頑張った、と言いたいですね。いつも生徒には言うんですよ、キックでもボクシングでも何でもやっていいけれど、『経験してみたい』とか、『試してみたい』みたいなお気楽な気持ちのヤツにはやらせたくありません。『やるからには、勝つつもりで練習をし、死に物狂いで戦え!」、と。せっかく先輩たちが築き上げてきた名前なのに、お前が中途半端な気持ちで負けたら大道塾が負けたって言われるんだから絶対に勝てよ、と。それで勝ったら嬉しい、負けたらばか者と言う。それはそうですよ。やる以上はそれくらいの覚悟は持ってもらわないといけない。挑戦心は良いけれども、ちゃんと背負ってやれということです。気軽にやってみたいなんて言われたら怒鳴りつけてやりますね。せっかく今までみんなで苦労してここまで大道塾、格闘空手、空道を持ってきたのに、お前でゼロになってしまうかもしれないんだぞ、と。言われた方はキョトンとしていますけれどね、時代が違うのかな(笑)」

──2001年から世界大会を開催したり、ロシアを中心に世界へ広がってきたことによって他のジャンルとかかわりを持たなくてもいいようになった、という面もあると思います。空道の中で成立するというか。空道で世界王者になることが高い壁になっているので、余所見をしている場合ではないですよね。

「今、世界王者になるのは本当に大変ですよ。先日、ジョージア(グルジア)に行って正式な支部に認可しました。行ってみたら、柔道のオリンピックチャンピオンや世界チャンピオン10人くらいと会ったんですが、なぜかみんな空道を応援しているんですよ。普通、柔道関係者が応援するなんてありえないでしょう。ところが今回支部長になったのも元々、トビリシ柔道連盟の理事長をやっていた人物で。昔、私が柔道をやっていた頃の東北のエースが遠藤純男氏(山下泰裕のライバルで1980年の全日本選抜柔道体重別選手権でカニバサミを仕掛け、山下の腓骨をへし折ったことで知られる)で、私が何回やっても勝てなかった宮城県のチャンピオンが、彼に30秒で投げられて負けたのを見て柔道を辞めました(笑)。ジョージアで会った柔道家たちはその遠藤氏と同期で、自分は遠藤とやって負けたと楽しそうに話をしていました。ジョージアで柔道は半分国技のようなもので人気があって、みんな身体がガッチリしていて体幹がしっかりしています。2月にインドで開催されたワールドカップに始めてジョージアの選手が出たんですが、いきなり-240で優勝してしまいました。あとタジキスタンの選手も優勝したんです。今までだったらロシアが全階級を制覇するか、せいぜい日本が一階級を獲るかくらいだったんですが、今回はロシアが3階級で優勝を逃しています。今度の世界大会は大変なことになるでしょうね。ロシアの独占状態は終わるかもしれません。今年の秋は仙台でアジア大会を開催します。そして、来年の世界大会に日本代表として選ばれるためには、今年の体力別とアジア大会、来年春の体力別と3大会の内2大会に出ることが条件となります。だから、久輝にも出ないと世界大会には出さないと伝えてあります」

───アジア大会の開催ですか!

「アジアならモンゴルが強いですね。あとはイラン、タジキスタン、カザフスタンあたりから選手が来ます。カザフスタンも強いですよ。ワールドカップのベスト3に2人くらい入っていました。とにかく旧ソ連系は強い。力があるし、体幹が強いし、何より日本選手にない『これで負けたなら俺の人生は終わりだ!』というほどのハングリー精神がある。今年の体力別各階級上位の2人~4人(に加え、秋の国内予選を勝ち抜いた選手)が日本代表となって、アジアの国々を迎え撃ちます。ワールドカップでは清水亮汰(2015年全日本無差別&2016年全日本体力別-250クラス王者)が、2014年の世界大会で勝っていた同じ選手に負けたんですよ。ワンツーでのばされてしまいました。だからウェイトをやって体幹、特に首を太くしろ、と言っても今の子たちはやらないんですよ。何度言ってもやりません。さすがに今回はのばされたからちょっとはやる気になったけれども。まず70%の力をもって、ガツンとぶつかり合っても、ある程度それを凌がない限り技の勝負にはならないんですよ。日本人同士の試合だと最初から名人戦で技のやりとりとなりますが、ロシアを相手にする時はまずぶつかって、それから回り込むなり離れるなり技の展開になるんですが、最初の段階でバンッと入ってこられると間合いは殺されるし、勢いづいてしまいます。体幹の強さが違うから。やっと本人もウェイトをしないといけないと思いますと言っているんですが、『僕たちは日本的な試合が好きです』とか言うんですよ。本当に今の若い選手たちは名人戦が好きなんです。相手がこう来たらこう返すというような」

──最初の、グレイシーが出てくるまでは寝技をやれと言ってもやらなかった、という話に似ていますね。

「なかなかうまくいきませんね。私は机の仕事に追われて、直接指導は無理だから要点だけ言うんですが、言うことを聞くのと聞かないのがいる。でもまあ、最終的には選手がそれらを取捨選択して、自分で組み立てた練習法や戦い方でやるのが一番いいんですよ」

──フィジカルでやられたら、今度は大道塾に必要なのはフィジカルだってなるかもしれませんね。

「ジョージアやモンゴルがのし上がってくる可能性が高いですからね。そうなって欲しいけれど…。これがラウンド制だったら動き回ってスタミナを消耗させてって戦い方もありますが、3分ですから半分以上はフィジカルで決まるわけです。まあ、日本人選手たちの活躍を暖かく見守ってあげてください」

更新日2017.7.9

コラム27 地区本部の発展的解消と、有志による継続(独立)新支部のスタートの悲喜交々

1981年の2月に仙台に、それまでどの空手も成し得なかった“顔面への加撃”が可能で、更には掴んでも投げても良いとした「格闘空手・大道塾を発足設立した。

内弟子希望者が、毎年10人前後いて彼らが3年の修業を終えても、選手としてもう少し続けたいという希望と、国内から大道塾を求める多くの声に誘われて、全く拠点のなかった地区に直轄道場を設立した。1983年9月の東京支部開設、1985年4月大阪支部(のち関西本部)、1986年5月の福岡支部(のち九州本部)、1993年2月中部本部、1995年4月に北海道本部、1996年11月、広島に中四本部と。

大道塾は現在38歳になった。途中はご存知のように山あり谷ありの年月だったが、「大道無門」の塾是、そのままに、どんな障害困難をも、自己を完成、向上させる縁(よすが)として、愚直に前進してきたことで、現在国内約100か所、海外60数か国の組織にまで成長できたことは周知のとおりである。

しかし、当初 大道塾未踏の地への橋頭保として、ブームに乗って多くの若者が集まった「地区本部」も、その彼らが成長し独立支部として周囲で始めるようになれば、当然経営者として独立採算の必要があるから、一生懸命生徒募集や指導にも力が入る。地区本部には何度か運営実態を公表したが、親方日の丸じゃないが経営面を考える必要のない指導員では、そこまでの切迫感は持てないのも無理はないのだろう。吸引力が弱まってくるのは当然だ。

一番早い関西で31年、九州で31年、中部で25年、北海道で22年、中四国で21年の年月が流れた。そんなこんなでここ約10年ほどは本部からの補填で維持されてきた「地区本部」だが、お蔭でその周囲には、何ヶ所かの独立支部や道場が出来、「地区本部」の役目は十分に果たしたと言って良い。

また、大道塾は設立当時から、「真に社会の貢献できる人材の養成」が変わらぬ設立趣旨であり、その運営は公明正大を旨としてきた。そういう意味で、既存の大きな組織のような、特定の後援組織があるわけではなく、また、公的組織として予算などが国から降りて来るような団体でもまだ、ない。上述したように、純粋に会員の会費で運営されている大道塾としては、採算を度外視して地区本部を維持することは、回りまわって、全国の会員に余分な負担を掛けることになっているのも、心苦しい現実である。

そう言う条件の中で、今後は今まで以上に、国際組織としての発展を期する以上、海外展開の強化や、アンチドーピング活動などの新たな予算も必要だし、海外の選手がプロ的環境で練習していることに対するには、内弟子もただ希望で入ってくるのを待つまでではなくジュニア等で実績を持った選手を、バイトしないでも練習できるような待遇で練習に打ち込ませなければ太刀打ちできない(運営会議での協議)、と言った重点的予算配分が必要になってきた。

そんなこんなで、昨年から「各地区本部」には「地区本部を引き継ぐもがいるなら是非引き継いで欲しい」し、もし1年の猶予を与えてもいないなら「発展的閉鎖」しようと伝えてきた。

処が面白いもので、ま、人間百人いれば百通りの反応、考えがあるから当然だが、それへの反応は様々だった。ある指導員は、「ここまで本部に負担を掛けながら発展させることができなかったことは、本当に申し訳ありませんでした。今後は自分たちで、取敢えず近くの公共施設を借りて、後継道場として独立採算で頑張ります」という言う者から、「急に梯子を外された」(って、何度も経理は公開してたぞ!!)と言うものまである泣。

大概は、「自分たちはこの地区で大道塾の灯を上げた道場です。地区本部の後継道場としてのプライドを持って自分たちの力で存続させます。しかしそうなると自分達がなんか地区本部を乗っ取ったように思われないでしょうか」などと余計な心配をしてる(笑)とか「家主と掛け合って、家賃を下げれば存続できます」だったりする一方、「やはりもうヤル気になれない。バカバカしい、俺は辞める」もいる。

それだけで済むなら「人間さまざまだ。色んな見方考え方があるからな~」で、諦めるしかないが、それを嘆き節なり、恨み節で吹聴するとそうだ、可哀そうだ!!と「反権力に燃える」ものもいる(笑)し、更にはネットで拡散するものまで出て来る。

ま、これも「人の口に戸は立てられないのが世の常だ」し、言っても「○耳東風」という耳もあるから、放っておくしかないのだが、しかし、いかに“人格者(?)”、いかに“業界の良心”とはいえ(爆)「一度、自分の採算でやってみた上で、言ってみろ!」くらいは言いたくなるのは、当方がまだ修行が足りないせいなのだろう。「我、いまだ木鶏足り得ず」か~!

 

東日本大震災に想う

敢えて言う、これは“戦争”である

(書き始めが3月16日で今日が3月24日の為、文章と日時に多少のタイムラグがあります)

NPO国際空道連盟・(社)全日本空道連盟 理事長
総合徒手武道 大道塾 代表師範・塾長   東 孝

この度の東日本大震災はマグチュード9、最大震度7という世界的にも歴史的にもあまり記録にない、未曽有の出来事でした。塾生の中には津波で家を失った人や、身内が行方不明になった人、危機一髪で助かった人、まだ安否が確認されていない人、等々が何人もいます。

一人でも多くの方々が救われることを心からお祈りするとともに、不幸にも今回の震災で被害を受けられた方々に対し、心よりのお見舞いならびに哀悼の意を表させて頂きたいと思います。

私は地震と津波の多い三陸海岸の宮城県気仙沼市に生まれたので、1960年の「チリ地震津波」※1を経験しており、小学5年生だった私は、1953年に合併して気仙沼市となった、私たちの鹿折(ししおり)地区が、死者こそいなかったものの、モロに津波を被って大きな損害を被ったその怖さを、幼心に焼き付けており、規模としてはもっと大きな震災(阪神淡路、新潟中越など)があっても、何か「大震災を経験している」という思い込みがありました。

※1  1960年チリ地震 – Wikipedia

所が今回の震災はその数十(百?)倍もの大きさで三陸沿岸を襲い、そんな経験など吹き飛ばしてしました。我が鹿折地区も津波と火事で大半が壊滅しました。火事に遭ったり浸水被害を受けた姉などもいましたが、実家は鹿折川の中流にあり無事で、怪我や行方不明者はいませんでした。今は小学・中学時代の仲間や、高校時代の同級生、柔道部の先輩後輩の安否が気遣われます。

直ぐにでも駆けつけて何でもできる事をしたいと気が逸っても、まず鉄道や道路が遮断されているし、ガソリンの給油が制限されているので、何とか被災地に入ったとしても、逆にガソリンや食料の問題などがすぐに出てきて、経験のある人以外は、組織立って救援活動をしている人達の足手まといになる可能性の方が大きいでしょう。今はただ、一人でも多くの人達の生存が確認される事を祈るしかありません。

更には被災していない地区の予選大会も近づいています。「こういう時期だから延期や中止を」という声もありますが、離れていて直接支援に行けない人達が、みんなで頭を下げて下を向いていたり、暗い顔を見つめ合っても何も生まれません。被災していない者達で、震災後への対応を計画し行動するしかないのです。(列島全体が震源に上に乗っているような日本では、「今回は難を逃れた」だけかもしれませんが・・・・。)

例えがどうか、賛否があるところだと思いますが、私は今回の震災はいわば“戦争”だと思っています(※2)。戦争を経験してないものが軽々に使う言葉でない事は十分に知っている積りですが、これだけの惨状は、“戦争” ではないでしょうか?日本という国がどこかからの攻撃、空襲を受け東北地方が甚大な被害を受けてしまったと同じ状況です。そう考えたなら、一部隊や地域がやられたからと言って日本全体が意気消沈したのでは、戦いは負けです。やられていない、まだ傷を負ってない部隊や地方が反転攻勢をしなければ日本は本当に負けてしまいます。今こそ日本人が一致団結して闘う時です。そして日本はギリギリまで押し込まれたり、果てはやられてしまってから本気になる民族です(※3)。前者が明治維新であり、後者が太平洋戦争の敗戦後ではないでしょうか?

※2 よく「30年以内に来る」と言われて、既に10年以上が経った「第二の関東大地震 (大震災)」も、今回の「東日本大地震」で、地震エネルギーがかなり発散されたのかなー?とネットを覗けば、とんでもない。「今回の地震とそれは全く関係ない」とのこと。もしこの状態に重ねて今回以上の地震が来ると考えたなら・・・・。我々は正に、今後何十年に亘るかもしれない「対震(災)戦争」の中に生きているのであり、この表現は決して大袈裟ではないはずです。今までの平和で穏やかな時代とは違う、平和を希求しながらも、それを守るために「緊張感のある日常」を要求される時代が始まるのかもしれません。

プレートテクトニクス – Wikipedia

日本の地震(内閣府防災情報のページ)

※3 理由を私なりに考えれば、まさに「和を持って貴しとなす」精神が、強く意識はしないにしろ、脈々と根付いているからでしょう。それまでの慣習なり慣行を全面的に否定する“抜本的な改革”は、平時では中々出来ず、小手先の改革で済ませるしかないからです。しかし、ギリギリ状況が差し迫って非常時となって「これなら人の顔を立てている時ではない。これをしなければ国が滅びる」として初めて大半の人間のコンセンサスが一致した所で始まるのです。だから、対応策は予め分かっているので、世界が「いつもは何にも変化、対応しないのに」と驚くほどに、対応も素早いのです。

更に言えば「世界で最も成功した社会主義国(※)」と言われるほどに平等意識が強い国民性から「突出した人間や行動を嫌う」という傾向もそれに拍車を掛け、敢えてそれをする(できる)者への“妬み”や“足の引っ張り合い”という陰湿な言動も、日本では特に顕著に出易いのでしょう。

但しこの感情も悪い結果だけを生み出している訳ではないので、「社会の安定性を保つ」という言う意味や、「人間は幸せになる為に生まれて来たのだ」と考えるならば、十二分なプラス面があります。それはショッチュウ革命だ政変だと騒然として、かといってそれが落ち着いたからと言ってすぐにまた新しい騒動が起きる国々に比べれば、どれだけ安定した社会を存続させているかを思った時、決して否定されるものではないでしょう。

だから人の世の物事は一面からだけ見て事足れるほどに単純ではなく、勢い複雑になるのですが・・・。正に「大道無門(人世万事が修行の糧である)」の世界です。と言うと今度は「我田引水だ」との反論が出てくるのが日本・・・ですか。

※ 世界で最も成功した社会主義国(日本型社会主義 – Wikipedia

それは、固定も携帯も通じない電話やメールを捨て「情報を!」と思いインターネットにすがっていると、世界各国からこの大震災を被った日本への励ましや同情等の言葉でも分かります。「日本頑張れ」、「日本は強いから必ず立ち直る」、「あんな大地震なのにビルの倒壊が殆どないなんて、いかに建築基準法が守られているかだ(※4)、翻って我が国は…」、「しかも、あんな大惨事なのに日本人は暴動、略奪も起こさない(※5)。なんて忍耐力、自制心の強い民族なんだ」等々、普段は関係がギクシャクしている国からも次々と様々な賛辞が寄せられています。この何十年「これからの日本はどうなって行くんだろう」と言う云い様のない不安、悲観を常に感じているこの頃では、久しぶりに体の中から「そうだ、日本人は凄いだろう!!こんなことで凹むような民族じゃあないんだ!」と大きな声で叫びたくなるような、“高揚”を感じたのは、私だけではないのではないでしょうか。

※4 日本でも「構造計算書偽造問題 – Wikipedia」(通称「姉歯問題」)があったのは記憶に新しい。

※5 上記同様、勿論全くないというわけではなく、昔から“火事場泥棒”という日本語があるように、どこで もいつの時代も、人の弱みに付け込んで窃盗したり強盗したり、果ては暴行したりしたりというような、人格下劣な、鬼畜のごとき最低な人間はいます。しかしその割合が他国と比べた時、無いにも等しいくらいに日本では少ないということです。

ここから例によって、はみ出し。

もっともこんな万人が心を痛めている時に悪口雑言を吐いたり、悪態をつく人間がいたなら、さすがに、人間性を疑われるでしょう。国内をまとめる手段として反日政策を採っている国でもそういう人間があったらしいですが、さすがに「国の恥だ」、「止めろ!お前の方が悪者だ!」の大合唱にかき消されたようです。

とは言っても、昨日まであんなに日本を悪しざまに言っていたのに、その論調のあまりの一斉変化は、100人が100人言いたいことを言って、何事もまとまらずに坂道を転がり下る一方の日本と比べると羨ましい位ですが、その時々の政策次第でかなりの方向転換する国ですから、素直に喜べないというか複雑な気持ちになってしまうのも正直な所で、「いつまで続くのかな?」とか、「手放しで喜んでいいのかな?」と落ち着かない気がするのは、私が“ひねくれ者”だからでしょうか?

実際、こんな僻(ひが)み根性が身に着いてしまったのも、このところ日本の将来を考えた時、政治経済スポーツ何一つ良い所がなく、かろうじて学術分野や文化面(※6)での活躍が散見されるだけだからです。しかしこれとて、皮肉な見方をすれば、もともと「学術や文化というものは贅沢の中から生まれる」と言われる位だから、経済的な絢爛はとっくの昔に通り越して、熟爛すら過去のものになり、腐乱(?)になりつつある今、その腐葉土の中から、ようやく新しい芽が2、3本出始めたのだと考えれば、「売り家と唐様で書く三代目(※7)」みたいな、喜ぶべきか悲しむべきか、複雑な気持ちに襲われますが・・。

※6 学術分野でのノーベル賞受賞などの、地味な研究を長年重ねて何十年後かに認められるという、「よーし、俺だって今は苦しいし誰も認めてくれないが、頑張れば必ず報われるのだ!」と、それを見る側も感情移入できるような受賞もありましたが、より多くは、主として天与の感性や才能に基を置く、映画や、漫画、音楽と言った感情、感覚表現の分野が多いのではないでしょうか。

※7 故事ことわざ辞典blog 「売り家と唐様で書く三代目」

ここで、はみ出し終了。

日本全体が草食系化しているからだという見方もあながち否定はできませんが、とは言っても、弱肉強食、常在戦場が常識の、人類も含めた生物世界で、これだけの危機的状況でこれだけ秩序立った行動をとれるという民族はそういないでしょう。これは奇跡にも近い物凄いことです。その中には、普段年長者がいても傍若無人に振舞うのが格好イイと勘違いしているような、一見どうしようもないように見える若者もいたことを考えれば、「まだまだ日本人も見捨てたものじゃないな」、「そうなんだ、連中だって(“海”という天然の要塞に囲まれて築かれた)この日本列島200年の歴史から生まれた平和志向のDNAを持ってるんだ」、「イザ!となったならそのDNAが働き、人を信じ、人と繋がって一致団結出来るんだ」と思えたことは、何か救われたような気がしたものでした。

但し、但し、です( と言うからへそ曲がりとか、素直じゃないといわれるのかもしれませんが 泣)、これはどちらかと言うと外国人同士(海外とか、欧米とか言った方がいいか?)では、あまり評価されない、例えば、「負けっぷりが良い」とか、「潔い」にも繋がる場面での賞賛です。貶(おとし)められるよりは、褒められる方がいいのは当然ですが、いくら褒められても、負けた時とか、不幸不遇な時の言動が褒められるだけでは、いずれその人間は悲しい現実と向き合う日が来るでしょうし、国は滅びます。

どうせ賞賛されるなら「勝って兜の緒を締めよ」じゃないが、「正々堂々と戦って、勝っても傲慢にならならず、謙虚である」とか、「熾烈な競争を乗り越えたのだが、しかも相手への思い遣りも失わない」というように、地平の上で褒められて初めて真に喜べる、受けるべきものではないでしょうか?

「自分の分野(空道)では負け続けている癖に、大層な事を言うな!」と言われる向きもあると思うので、「偶(たま)にでも良いから、勝って」という情けない前提に変えますが(泣)、兎に角、かつての日本がそうであったように、日本は「勝って賞賛される時代」をもう一度取り戻し、この国難をなんとしても乗り越えなくてはならないのです。

大丈夫です、春夏秋冬のある季節から育まれた繊細さや、農耕生活から生まれた温厚さ、集団行動志向に加え、更には大化の改新で定められた「十七条憲法」第1条、「和を以って貴しとなす」(※8)などから生まれた、平和志向は2000年の平和をもたらし、普段は平和、穏便が至高の価値となる、一見弱そうに見える日本人ですが、それだけではなく、「イザ!」となれば、戦国時代から江戸時代を経て醸成された「武士道精神」に基づく「負けじ魂」(負けないために戦う=護身、すなわち、「武道精神」ではないでしょうか)が頭をもたげて、日本の崩壊を踏み止めてくれます。

※8 十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)-現代語訳付き

明治維新後、第二次大戦の敗戦後、と言った国の存続、存亡をかけた国難の時代には、必ずこの精神が蘇って来て、日本はその度に“不死鳥”のように復活したではありませんか。坂を下る一方だった昨今の日本。今こそこの国難ともいえるこの時を逆に利用して、再び「日出(いずる)の国」(聖徳太子※9)にするよう、我々一人ひとりが国難を自覚し、強い意志をもってこの現実に立ち向かい乗り越えましょう。

※9 聖徳太子 – Wikipedia

具体的に各方面、各支部等々で復興募金が始まっていると思います、出来る限りで構いません、是非ともご協力願いたいものと思います。


最後に今回の震災で心に残った言葉。掲示板(2011.7.5閉鎖)にも載っているから読んだ人も多いと思うが・・・・。(赤字注 東)

毎日見ていましたが、メールを打つことにずっと迷いがありました。全ての言葉が安っぽくなりそうで。この国難に対して、己の無力さを痛感しています。被災した方々にどのような言葉を送ったらいいのか、まだ見つかりません。でも、気持ちは同じですから。

みなさまに支えられていること切に感じうれしく思います。支部塾生大半の無事を確認し、残りは引き続き確認中です。無事の確認でき次第ご報告いたします。電気のない5日間、真っ暗闇で空を見上げると満天の星空が広がっていました。下を見ても何もない、上を向いていきましょう。

何事にも終末があり、必ず未来はあります。私達は今できることを考えて、行動に移したいと思います。打ちひしがれている方も多いと思います。しかし、武道を志す仲間達にいまあえて「頑張ろう」とメッセージを送りたいと思います。大道塾の皆さん、被災された皆さん、頑張ってください。

連絡遅くなりました、私の家族と私は無事です。家は津波に流されてしまって奥さんが30分前に避難所に逃げた。私は帰宅途中だったけど途中でいけなくなって車を捨てて次の朝歩いて七ヶ浜に行きました。一生忘れられない。七ヶ浜で3日間避難所にいて、昨日家族を奥さんの実家にやっと連れて行くことができて初めて連絡しました。その後東北本部にいって状態を確認しました。これから色々もっと大変になると思いますが、今こそ皆で力を合わせて団結してやるしかない。頑張るしかない。絶対に負けちゃいけない。皆一緒だ。(※)

※この言葉だけは、名前を挙げて一言付け加えさせて頂きたい。皆さんも知っての通り、東北本部のコノネンコ師範代のメールです。彼は元々はロシアのウラジオストク大学の考古学者夫妻の子供として生まれて、本人も考古学を専攻しましたが、十数年前、私に長々と手紙をくれ「日本の武道、大道塾に憧れているので、是非日本で修業をさせて下さい」とありました。その後、担当の教授から「身元保証人になって頂きたい」と申し入れがありましたが、この仕事をしている縁で多くの外国人と触れ合っているので、即了解ともいかずに逡巡していました。その内にウラジオストックでセミナーがあり、彼に直接会って話しているうちに、「この青年なら身元引受人になっても良いか」と思い承知したものです。その後、彼は現代の下手な日本青年(?)以上に、武道精神で真摯に勉学と空道に精進し、期待に違わず8度の全日本体力別優勝や、遂には無差別をも制覇し、今は東北福祉大学の文化人類学の学究であると同時に、同大学の「国際センター」助教として大学で働いています。

その彼が今回の震災で新築したばかりの家を流されてしまったのは周知の通りですが、何度か彼とメールのやり取りをした中で、上記の事と同時に、こうも言っていました。

「将来は全く見えない。ロシア大使館から3回避難が勧められました。私は(日本が好きだから)断ったが、夜、子どもの寝顔を見るときに正しかったかどうか泣きそうになります。皆の掛け声だけは力になります(原文のまま)」

※この部分は東の希望的注だが、それだけではないにしろ、これまでの経緯から、そう大きく間違ってはいないでしょう。

今の日本は彼(だけではない、多くの“日本に憧れて、もしくは夢を持って来た外国人”)の「“憧れ”や“夢”、“期待”に応える日本」を保っているのだろうか??残念ながら最近の私は度々「昔の日本人はこうじゃなかったんだぞ!」という羽目になっている。我々は彼(しつこいが、彼だけではない“日本に憧れて、もしくは夢を持って来た外国人”)の選択を後悔させないような日本をもう一度立ち上げなくてはならないと、心からそう思わないではいられない。

そういう意味で今回の震災は「雨降って地固まる」と思うには余りに「むご過ぎる災難」だが、逆にここまでやられると「耀ける日本」を取り戻す最後の機会かもしれないとも思う。事実、被災地の方々の中には「大丈夫だ!こんなことで負ける訳には行かないから!!」と言うような“不撓不屈の精神”を感じさせる男の人の力強い声や、「みんなで支えあったるから乗り越えられるんだよー」と、図らずも日本人の原風景を抽出して見せる老婦人など見ると、「みんなで歯を食いしばり、力を合わせて再び頑張りましょう!!」なんて、紋切り型の陳腐な掛け声にしか聞こえない位だ。

2011年(平成23年)3月11日から、日本は何十年掛かるか知れない「対震(災)戦争」に突入し、三度目の大改革、大維新に向けての日々が始まったのです。その“覚悟”と“日常”を持つことだけが、日本の、我々の生き残る道の様な気がします。

文書日付 2011.3.24