2020.01.28   大道塾40周年記念パーティー 東塾長のご挨拶

以下は、パーティ前のいわば“アンチョコ(笑)”ですが、脱線したり継ぎ足したりで、実況としばし違っています。例によっての“はみだし人生”ですので、ご容赦のほどを(<(_ _)>)。

 

本日はお寒いところ、また正月のお忙しい中、「大道塾設立40周年、空道創始20年を祝う会」に、このように多くの方々にお集まり頂きまして、誠に有難うございました。

初めに大道塾と空道、それと一体の自分史を絡ませながら略歴を述べさせて頂きます。

 

私は1949年5月の宮城県の気仙沼市に生まれました。子供のころは当時創刊されたばかりの少年漫画雑誌「少年画報」「冒険王」等の影響で赤胴鈴之助、まぼろし探偵、月光仮面、怪傑ハリマオという漫画に夢中になる一方、これまた大人気だったプロ野球の王や長島に憧れ草野球に夢中になっていました。

 

体力があり余っていたので、草野球では物足りず、ガキ大将宜しく子分どもを引き連れて毎週隣村や隣町との“決闘ゴッコ”に明け暮れる“悪童”ぶりで、とうとう先生に「お前はこのままでは感化院行きだ!」とまで怒られ、親父には病院に入院するほどぶっ叩かれ、お袋には「ウチの400年の歴史に傷をつけるようなことだけはしないでくれ」と泣かれ、さすがにこれではいかんと反省し「良い子路線」に変更したような小学生でした。

 

そんなことで中学校では大人しく野球部に入り、持ち前の馬力を認められ、2年生から4番でを任されてましたが、練習では常に場外ホームランなのに、試合では全くダメで、「今度は打つだろう」という先生の期待を裏切り続け、卒業時までに打ったのは内野ゴロ一本という体たらく。

 

実は中学で急に“路線変更”し、品行方正な中学生になろうと、急に周りの目を意識しすぎたために4番打者としてバッターボックスに入ると急に「みんなに見られている」という意識が過剰になり、金縛りになったような状態で体が動かなくなったためでした。

 

そんな姿を見た親父は「お前は精神力が弱いから高校では柔道でもやれ!」と言われて、「そうか小学校ではガキ大将だった俺も、このままではみんなに舐められっぱなしになるな~!!ということで高校では柔道を始めたんです。

 

その頃は初めてオリンピック競技になった柔道のために国を挙げての柔道ブーム。あらゆるテレビや漫画で柔道を取り上げていて『柔(やわら)』『柔道水滸伝』「姿三四郎」等々。大体は講道館館長の矢野正五郎(モデルは加納治五郎館長)のもとで書生をしながら柔道に精進する、福島出身の実在の天才柔道家、西郷四郎先生をモデルにした姿三四郎が主人公の修行あり恋あり涙ありの青春熱血物語。

元は古流柔術の良い点と足技を考案し体系化しそれを“柔道”と名乗った、いわば新興武術だった柔道があらゆる格闘技と戦って勝つ筋書きですが、最後に対抗馬となるのは明治に中国経由で沖縄から日本本土に入ってくる唐手(のち空手)で、檜垣三兄弟というのが最強の悪役で、当時まぼろしの技術だった蹴りを使うために、初めは散々やられまくるのですが、修行に修行を重ね、人間的にも成長した姿三四郎の柔道が捕まえてぶん投げて勝つので、「ヨシ、俺も姿三四郎になろう」と。まさかその時、自分が後でそんな悪役だった空手をやるとは思わなかったんですが(笑)。

 

そんな訳で高校時代は、授業はさぼっても柔道の練習にだけは出て練習していましたから一応高校3年では県で重量級ベスト4にまでなりました。そんな訳で、高校三年の時に県の上位3校のみで戦う東北六県の学校対抗柔道選手権というのがありました。その時に見たのが、後年、世界大会でも何度か優勝している遠藤純男選手です。柔道全日本9連覇の山下泰裕選手を河津掛けで怪我をさせて、変な意味で有名になりましたが、、。

 

彼と対戦したのが自分が2回やって勝てなかった宮城県の優勝者、吉川修選手(のち拓殖大学柔道部主将)で、実力もあり紙付きだったんですが、その彼を遠藤純男選手が30秒ぐらいで投げたんですね!!しかもそれが跳腰という技で、柔道には大外刈り内股、払い腰、背負い投げと色々派手な技がありますが、その中でも最も派手な技で、それを見てから「俺はちょっと、柔道向いてないかな」と思ってしまったんです(笑)。

 

所が私は邪念が多い人間ですから、柔道に無中になりながらも、一方では、その頃ちょうど70年安保だったので、天下のNHKが「三姉妹」「竜馬がゆく」と言った明治維新をテーマにしたドラマを続けてやっていたこともあり、そういう政治運動のようなものも興味があったんです。その当時の先生は、おそらく60年安保運動などをしたために普通の会社では敬遠され、マスコミか先生になるしかないとなった、共産党系の日教組の先生がけっこう多かったと思うんですよ。その先生が言うには「東、見ろ、昔、明治維新は藩から起こって来た。薩摩藩、長州藩、土佐藩…。今は大学から革命が起こるんだ!」と。これを授業でやるわけですよ、凄い時代でした(笑)

 

 

私は単純だから、早く東京に行ってデモ隊にでも入り、旗の一つでも振らないと時代に置いていかれるなと。と思いながらも、分裂気味なんで、三島由紀夫先生が楯の会というのをやってまして、それが当時「平凡パンチ」と人気を二分してた「プレイボーイ」のグラビアにカラーで特集されたりしてたんで、カッコイイーと思って手紙書いたんです。そしたら東京の大学生じゃないとダメだっていうんです。「やっぱり、俺は東京に出なくてはいけないな」とそう思いました。

 

とは言っても東京に知り合いはいないし、大学に行くにも学費の話をしただけで「百姓が大学に行って何するんだ。就職しろ!」と親父に怒鳴りつけられ、まず無理だったので、「私を東京に行かせてくれるなら自衛隊に入りますよ」と自衛隊勧誘の人に言ったんです。普通は東京から地方に行くことはあるんですけど、地方から東京に行くなんて無理なんです、でも私、馬力があったんで、向こうもそれを買ってくれて、結局、東京の練馬駐屯地に約2年間いました。その時、何していたかというと、学生運動鎮圧の訓練をしていましてました。放水車に乗って暴徒に水を掛けるわけです。「おかしいな~、俺はあっち側にいたはずなんだけどな」と思いながら‥‥(爆)。

 

70年安保も下火になって来た頃、自衛隊に入ったお陰でお金も溜まったんで、早稲田に入ることが出来ました。残念ながら(幸か不幸か?)、学生運動終わっているし、何しようかなと思って文学部のキャンパスをふら付いていた時に、美人の女子学生に声をかけられて「あなた、生き甲斐ないでしょ?」と聞いてきたから「そうだ、生き甲斐がないんだ」って答えました。「一緒に勉強会に行かないですか」と誘われたんですね。

 

当時「勝K連合」って言ったんですが「●一教会」の勧誘だったんですね。私その会に1週間参加しまして、その当時、約200人ぐらいが参加してましたね。その会、1週間終わる頃にはほぼ皆涙流して「私の生き方は間違ってた。これから社会のため、世のためにこの宗教を広めます」と言う感じで皆入信したんですよ。その人達は皆北朝鮮(間違い、韓国-東注)に送られ合同結婚式に参加するわけですよね。その時、私が入信して韓国行っていたらどうなってるかわからないんですけども、もし行ってたなら当時タレントで全盛期だった桜田●子の旦那の“東 某氏”は東孝だったかも爆。

 

最後まで私を折伏しようとしてた人間が「あんたらは専門用語は知っているから口では勝てないが、顔が偽物だ」と悪態をつく私に「「あなたには、サタンが付いてるから、もう救いようがない」とか言われまして「何言ってんだバカヤロウ、サタンだろうがサンタだろうが関係ネェや」と言って振り切った、積りでした。

 

でもなんか洗脳されていたんでしょうね、「夜中にあなたの所にサタンが乗り移るんだ」って言われたからか、寝ていたら布団が重くなってきて「うぁ~ッ」って大騒ぎしたんですよ。そしたら、隣に住んでいた女子大生のオネェさんが「東さん運動不足なんじゃないですか?」と言うんですよ。「運動命で生きてきた俺がこれはまずい!」と思って極真空手をやるようになったんです。

 

極真会入ってとても面白かったし、大山先生に直に教わりました。でも私、柔道やっていたもので、組むとすぐ投げるんです。蹴りとかパンチとかは決まらなくても、柔道知らない人間には技がいくらでもかかるわけですよ。「空手は突き蹴りで、離れて戦う」という理由で反則ですけど。そしたら大山館長に「お前、柔道やるなら講道館に行け」って言われるようになったんです。

 

柔道はそれまで嫌になるほどしていたんで今更そんな気はなかったんで、そのまま極真を続けていましたが、「俺の今までの路上の勉強(笑)から言っても、柔道と空手を組み合わせた方が絶対に現実味があるし、見てても面白いんじゃないかな」という想いは年々強くなりまして、館長にも何度か直訴したのですが勿論却下され続けました。

 

当時は自分の夢は別にあったので、自分で団体を作るなどとは考えてませんでしたが、全日本で優勝した(1977年)の3年後の「第2回世界大会」で“極真命”のような考えに頭から水を掛けられるようなことがあり「それでは昼は別な仕事をしながら夜、自分の理想とする武道をするしかないか~」と、81年に投げを認めた「格闘空手」を標榜した大道塾を発足させました。

 

さて、文明論というにはオコがましいのですが、宗教も因習も違う様々な民族が隣り合って存在しているために“闘争が常態”の海外と違って、日本社会というのは「和を持って尊しとなす」というように協調性というか、お互いに助け合ってという社会ですからそれは非常に社会が安定していて良いんですけど。新しいことをやろうとする時、それがものすごく壁になるんです。新しいことをやるのはかなりの抵抗がある。「格闘空手」という新しいことをやることになっった為に、指導員が離れていったり、先輩からも「お前がやっているのは空手じゃない」と言われたり、普段は見えない人間性が見えたりと、結構きつい数年でした。

 

そんな時、東北では有名な亀井商事(現カメイ株式会社)の亀井文蔵社長がすごく大道塾のことを気に入ってくれまして、毎回大会にも来てくれたし、ズームイン朝なんかにも毎年出られたんです。それで日本全国に知られ、だんだん生徒も入り始めたんですけども、中々公的に認められることはなくて、そのうちに、文明の衝突で常に新しいものが生まれる海外の方で珍しがられドンドン広がって、15,6年ぐらい経って加盟国が17,8か国になった時に遂に「世界大会をやって欲しい」という声が上がってきたんですね。

 

その時、チョッと立ち止まって考えたのは、極真空手も伝統派の空手―今度オリンピックに入りましたけれども、それも世界大会やっている。その他にいくつかの世界大会がある。ここでまた新たに格闘空手の世界大会やったら世界チャンピオンが10人近くになり、「日本の空手界は一体どうなっているのか」と世界の人に言われるんじゃないかと思いました。さらに、投げや締め関節入れるとなると、闘いの様相が変わってくるので実際、「格闘空手」っていうのを名乗るのも失礼かなと思ったりして悩んでいました。

そんなこんなの2,3年を過ごしている時、息子が「お父さん、俺もオリンピック出たい」と言うんですね。それを聞いて「格闘空手では無理だな。しかし、総合格闘技のようなものがないから、それだったら出られるかな」と思ったりもしました。ただ、それは気の遠くなるような目標だし、もう50歳にもなって今からまた新しいことするのかと、大道塾で独立する時も色々裏切りや抵抗があって嫌な思いをしたのに、今更また、そんなことやりたくないなと思っていました。

 

そしたらその3日後に急に息子が亡くなって、自分は生きる張り合いをなくしたようで、どうしていいか分からなくなったんです。1年ぐらいグズグズ過ぎたなら、娘からも「お父さんしっかりして、大道塾はどうするの!!」弟子からも「私たちは強い先生に憧れて大道塾に入りました。お辛いでしょうがそんな先生見たくありません」などと色々言われて。「そうだな、俺が頑張らなければ大道塾はダメになってしまうんだ!もう少し頑張らなくてはならないな」と「息子にオリンピックに出れるような道を開いてやりたかったな」と、そういう意味もあって50歳と半年の歳になって「空道」というのを始めたんですね。案の定、色々なことが起き、一年一年を乗り越えるのは大変だったけど、その度に決意した日を思い出しながら牛の歩みを重ねてきました。

 

しかし、振り返ればあっという間の20年で、何とかここまで来ました。オリンピックの前にはワールドゲームスがあるんです。今の空手もそうですし、バトミントンやトランポリンなんかもまずはワールドゲームスに出て「これは人気ありそうだ、組織もしっかりしてる」という判断をIOCからされてオリンピック競技の可能性が出てくることになるんです。一昨年にデモンストレーション競技でしたがワールドゲームスにも出ることが出来ましたし、2025年には青森国体で公開競技ということで、全日本選手権が国体でやれるようになりました。そういう意味で、やっと7合目まで来たなと。

 

ウチは10周年、20周年、30周年のお祝いは、大会後の打ち上げの時にやったくらいで、こんな、特別な日を設けてパーティーはやったことがなかったんですけども、私も動けるのはあと10年ぐらいかなと、そういう意味で、昨日の支部長会議で「あとの10年間、みんなで一致団結してもっともっと空道をしっかりしたものにしよう。体育協会に加盟したり、国体に出たり、そういう風な目標でやろう!」と決意表明しました。

 

また今日お集まりになられている皆さんにも「我々のこういう決意をご理解いただき、今まで以上に見守って頂きたいたいと思います」と、ある意味“人騒がせな”な集まりを行いました。お許し頂きたいと思います。なんとか自分が棺桶に入る前に(笑)空道をより一層、高度な国際競技にしたい。そういうつもりでやっております。今後、益々のご指導ご鞭撻をお願いし、開会のあいさつに代えさせて頂きます。長々とご清聴有難うございました。

2019.07.13   引っ越し騒動始末記

 この一ヶ月間の引っ越し騒動について折々のエピソードをマトメて見よう。そもそもは旧本部道場(既にそうなってしまった、ああ)の建物は、バブルがはじけたからこそウチが使えるようになったものであり、しかも、既にウチが入る時には30年を経過しており、練馬の元本部から移る際には「池袋に移るんですか~、凄いですね~」などと言われたものだが、この建物も「あと20年くらいかな?」という予想はあった。

入居13年目の2013年、東日本震災では建物全体が揺れ、5階の部屋の本棚、事務用棚などは壊滅状態だった。壁にはヒビが入り、屋上からの雨漏りは酷くなり会議室の天井がシミだらけで側壁はシロアリにも食われてたりして緊急でべニア板で塞いだ。同時に、階段の壁の繋ぎ目からも水がシミだし階段が濡れるなどもしたので、当時の塾生でそういう関係の工事をしていたT氏などから応急修理をして貰ったが「一応しましたがこれ以上は無理です」と言われたものだった。

2年ほど前には水道管や下水管なども詰まってバイパス管を使って凌いだが、この辺りから、「そろそろ本気になって次の物件を探しておかないと」と思うようになった。それでなくても、文部科学省の地震調査研究推進本部は、2011年に「東海地震が30年以内に87%の確率で発生すると予想される」と発表している。今は2019年だからあと21年以内には87%以上の確立という事になるのではないか??

「そうなったなら、稽古中なら多くの弟子が被災するだろうし、練習中でなくても住みこんでいる連中に危害が及んでは、預かった親御さんに申し開きができない」などと思い、切羽詰まって何軒かの不動産屋さんに相談した。建物自体は今年の初めにはなんとガス漏れ騒ぎまであった!!万が一が爆発が起きてたならビル密集地でのそれは悲惨な大事故に繋がっただろうし、今ノンビリこんなことは書いてはいられなかったはずだ。

足掛け2年ほど、50件ほどの物件を当たってみた昨年、漸く9割程度の容積率の建物が、旧本部道場から歩いて15~20分、車で5分位の、近くに神田川が流れる情趣豊かな、学習院下や面影橋(※)から徒歩3分という高田の地に見つかった。 (尤も、改築費が半端でなく掛かり、結局、又、長いローンが続くことになったが…泣)

※ 面影橋を渡ると、すぐに太田道灌が高田の地で鷹狩りに出てにわか雨に会い、近くの農家に雨具を借りようとした処、一本の山吹の枝を出されて「何を勘違いしているんだ!」と怒ったが、あとでそれは、平安時代中期の応徳3年(1086)、白河天皇の勅命で編まれた「御拾遺集」の中の一句「七重八重、花は咲けども山吹の、実の一つだになきぞ悲しきhttp://www7a.biglobe.ne.jp/~reroman/doukan.htm 」で、「貧しくて実の一つだに(=蓑一つ)さえない」という意味だと知り己の無学を恥じた、という逸話で知られる碑が立っている。

さて引っ越しが正式に決まってからは、荷物の梱包と1階への移動やらで毎日が修行時代並みの“鍛錬の日々”だった。業者に頼もうかとも思ったが、なんせ、練馬の、1面の道場と2DKの事務所と2DKの寮=70数坪から、いきなり2倍の5層の建物(150坪)に引っ越したため、その時点で断捨離しておくべきだった古い書類(※)や格闘技雑誌等、何でもかんでもを運び込み、その上、余ったスペースにドンドン新しく集積したものだから、今度のビルは同じようには収納できないとなっての断捨離は滅茶苦茶な量になった。

※20年間、国内5か所の春秋(10回)の地区大会(200大会!)と、年2回の全国大会(40大会!)、年5地区での合宿(5×20=100回!)、年3回の支部長会議(3×20=60回!)これらの書類(段ボール30箱)を、5階にあった長さ1800cmx奥行き60cm3段の倉庫に詰め込んでいた。それからまた20年が過ぎ、同量以上の書類ができ、その上に、書類量で数倍の世界大会を5回もしていた!!!その文書量たるや!!想像するだに恐ろしかった。

まず1階のウェイトルームは、1台300kg前後あるマシーンが5台とその後、買い増した軽量のが2台。到底、自分達では移設できないので、丁度マシンが古くなってシートが破れたり、プレートが錆びたりしてたのでメンテナンスして貰うことにした。私が極真会の第1回世界大会(1976年)後に仙台に帰郷して、10年後の1986年に再度、上京するきっかけを作って頂いた、早稲田大学雄弁会元事務局長の淵上貫之先生(弁護士)のご子息、雄志君がThinkフィットネス株式会社に勤めていたので相談し、分解修理とシートの張替え、プレートの総入れ替えなどを頼み、作業後は新道場に運んでもらったから、最大の重量物は何とか片付いた。

次の重量物は50枚ほどの畳だが、20年前に1枚約3万円ほどで購入した、中にクッションが入っている最新式の最高級品で、当時としては軽いものだったが、それでも1枚10数キロあり持ちにくい上に、狭い階段を運ぶためこれまた難物だった。まだまだ使えると思うのだが、年月でそれなりに凸凹が出てきたり、最近寝技の稽古が増えているため、畳の間から汗が染み込むらしく、若い指導員連中からは「夏などには臭い(※)が…。せっかく新しい道場に移るのですから云々…」などと、他人の懐具合も考えない“強訴”(笑)が出てたので思い切って、今多くの柔術の道場が使っているジョイントマットをシートで被う方式にし、これも何とかクリア。

※今の過剰に衛生観念の強い若者は臭いに敏感、というより抵抗力がない。道着なども1回着たならすぐに洗う。その度に「水の無駄、電気の無駄、洗剤の無駄で、生地にも悪い。そして何より、時間と労力の無駄。そんなに洗濯して干して・・という時間があったならもっと練習できるだろうが!!」と説くが耳を貸さない。我々が選手の頃は道着などは通常1週間位着てから洗うものだった。私は練習は毎日だったが、3回以内で洗ってたから綺麗好きと思われていた方だった。中には1~2週間くらい着続ける“剛の者”もいて、こうなるとさすがに嫌がられたるが・・・・。

それにしても、今の若い者はチョッとしたタバコの匂い、汗の臭い、道着の臭いにすぐ顔を顰めて距離を取る。勿論、接近し接触して技の交換をする格闘技の場合は、全く道着も洗わなかったり、歯も時々しか磨かないとか、滅多にシャンプーもしないような人間は、論外だが、多少の臭いや汗は人間が生きてる限り嫌でも発せられる生理現象であり、逆にいつも無菌状態で生きていたなら、菌は益々強くなり、人間は益々弱くなるだろう。第一、そんなことを嫌がるようでは、「単なる闘争ではなく、どんな場合でも逞しく生き抜ける力を身に着けることも武道修業の一つ」であることを忘れてはいないか!!!と言いたんだが…。

閑話休題。最後が、山の様な量の書類や雑誌、書籍など、「チリも積もれば最も重いもの」となる紙類(=書類)だが、その書類も千差万別でしかも色々な場所にあるから、片っ端から同じ箱に詰めれば良いというものではなく、それらを分類してからでないと箱詰めできない。だから業者に頼んでも、結局は自分が張り付いて指示しないと進まないので二度手間になるだけだ。仕方ないから自分たちでやろうとなったのだが、今度は、書類はある程度読まないと分別できないので、ザっと軽く読みながら作業をする。すると中にはずうーと忘れてた懐かしい手紙や、忘れたかった嫌な思い出、出版した自分の本の原稿等々(※)が出てきたりして、つい読み耽ってしまい、一日で梱包できたのが箱1個という日もあった泣。

※有望だったが、いろいろ私への不信や同期や先輩へのに疑問、不満を持って辞めていった弟子からの「大道塾に失望しました云々」から「色々自分で経験した今になって先生の気持ちが分かりました云々」などの悲喜こもごもな手紙。ある団体にはまり、私の知らない間に退会して、遂には道を誤り「塾長が好きでした・・・・。あのまま大道塾を続けていたなら…」という慚愧の手紙を認(したた)めてきた元大学生の弟子。大道塾を始めた時に「裏切者!」などの誹謗中傷をされ、当時はまだワープロも打てなかったから“象形文字”などと言われながらも(笑)自分の本意を綴った、初めての著書「はみ出し空手」の手書き原稿。

20世紀最後の年の2000年、池袋本部の設立(2月)の直後に念願の早稲田大学政経学部に入学し(4月)、且つ、春の交流試合で優勝しそれまでの人生で最高の高揚を味わった僅か数か月後(8月)、突然、この世を去った、分身だとまで思った息子、正哲(まさあき)への鎮魂の書「お~い、まさあき!」。その原稿や“友達”とされた青年たちの言行を時系列でまとめ「民事に持ち込もうか!」とまで思い詰めた頃の資料などは、涙で見えなくなった。

箱はミカン箱の1.5倍~2倍くらいの段ボールなのだが、これに記念品や遠征時に貰った記念品などを詰めると約30kg。くだんの紙類(書類、記録)となると隙間なく詰め込めるものだから、一杯詰め込むと50kg位になる。4割くらいが30kgで6割くらいは50kgで、合計でなんと250箱!!これを2人の指導員(清水亮汰、岩崎大河)と、週一だけ休みの寮生指導員1人(安富北斗)+女性の事務局2人(田中さん、柴田さん)+事務局長と自分、合計6人と1人という態勢でやった。運ぶのはもちろん野郎どもだから3人と1人しかいない!!

(※)古稀だからなどとは言ってられない。旧道場の5階から物品エレベータのある3階までの約35段(42歩)と、新道場の1階から4階までの52段(64歩)を、膝や腰をコキコキと鳴らしながら(笑)、若い連中の4割くらいの割合では担いだから、最後には喋るのも嫌になり、荷物を抱えてただ黙々と階段を踏みしめた。一方で若さ真っ最中で力が滾る亮汰や大河は鼻歌交じりで“塾長”を追い上げる!!この野郎!!

そんなクタクタで漸く夜、床についた時には段ボール箱が追いかけてきた!!(事務局長は書類の束だったそうだ!!笑) 22,3歳の馬力最高の頃、バイトで昼夜続けて(5時~8時の3時間の合間に、飯を食って仮眠して)1カ月くらい有楽町線(池袋―護国寺間)の地下鉄掘りをしてた時に、体が疲れ切って、どことなく擽(くすぐ)ったいような、体が浮くような心持でいると、急に布団の周りを何かが(?誰かが?)グルグルと回った、あの金縛り事件とおんな体感を味わった!!「50年経っても、同じような感覚を覚えるなんて、俺も発展性ないな~」と思う反面、「まだ壊れもせずにこんな感覚を味わうなんて、俺も結構、丈夫だな~」と、独り言(ご)ちでしまった爆

※:「日曜日にでも道場生に声を掛けてすれば良いのに」とも言われたが、前述の事情なので、分類と箱詰めは自分でしなくてはならないし、詰めた箱もその度に1階に下ろさないと、5階が一杯になってしまうから、日曜日まで待てない。また一階に溜めても溜めきれなくなる。畢竟、何度かに分けで現有戦力で運ぶしかない!!昔の子弟関係がストレートに通じる弟子は殆ど50~60歳代で、20年前の30~40歳代ではないから、腰やひざを痛められても悪いし、まだ若いという事もあるが、現代の指導員と塾生の関係は、昔の先輩後輩のような“徒弟制”ではないから(笑)、練習以外で体を使う事には気軽に声は掛けられないようだ。

昔ならこういう時に頼りになるのは(?)、昼働いてない(し、勉強もしてない、はずの?) 学生、というのが定石だったのだが、最近の学生は真面目だから(良いことではある、確かに)、授業をサボったりはしない。また学校も嘗てのように「10年以上留年させた」などという長閑な時代じゃないから、出席日数のチェックは厳しく学生もサボれない。漸く6月22日の土曜日の10時から2時までバイトで、という“条件”で早稲田準支部の塾生を6人程集めて、どうにか全荷物の4~5割を運んだ。

よく「就職で体育会系が好まれるのは、上意下達で命令に従う癖がついてるからだ」というようなことを言われる。しかし、今時は体育会系だからと言って、昔のように即“ハイ”や“オス!”とは行かないし、又、競技自体も単純動作を繰り返してれば上達するというものではない。様々な指導書から色々な情報を得て頭を使って動かないと、良い戦績も得られない。しかし、体を動かす競技をしている若者は「体を動かすことが自分の為になる」と思うから、それ程嫌な顔をしないで動くのだ。

ま、そんな感じで約1カ月かけて、どうにか殆どのものは運び、残るは住み込みの私物のみとなったから、漸くこんな雑文を書く気になった訳だ(笑)

この建物で一番気に入ったのは道場が地下にできることだった。今まで1977年(?)に仙台市荒町に初めて常設の道場を持って以来、1981年の仙台市五橋での大道塾設立、2001年の空道創始に伴う池袋移転を含めて合計5回の常設道場を使ったが、まだ人情が篤い東北は別にして、上京して2回の道場はどちらでも周辺住民との騒音反対騒ぎで悩まされた。住民の方々の迷惑は分り、気合を入れる時間などそれなりに配慮しても、武道の道場で全く気合を出すな、となるとどうにも打つ手はない‥‥。

その点、今度の道場は地下なので騒音問題はないし(※1)、夏は涼しく、冬は暖かい。道場も広さ的には前と同じ平米だが、横が広く横5~6人が並んで、縦も5~6人並べるから、25人は楽に、詰めれば30人の基本稽古ができる。更に、横が広い分2組が縦隊して組手ができるので、試合場に近い感覚で動き回れる。(※2)
※1それでも心配だったからチョッと大きな声が出てる日、道場の周りを歩いてみるとそれ程でもなかった。更に念を押して次の日、隣の人に聞いたなら「全然聞こえなかったよ」とのことで、永年の胸のつかえが降りた気がした。

 ※2 尤もあの道場は狭いと評判が悪かったが、実戦(簡単に言えば“喧嘩”)はあまり試合場のような広い所ではなされない。大概、狭い所で角突き合わせ(るから笑)て行われるものだから、良い実戦経験が積めるのだが、武道修業の目的は“喧嘩”の為ではなく、“結果”なのだから、そう強弁もできない(爆)。

さて、こういう武道系の団体の多くは学制に取り入れられ、“教育”、“体育”という価値が生まれた現代社会とは違う、むき出しの闘争術であった明治期は、警察や宗教団体等に吸収(=就職)されなければ、暴力装置(=用心棒)としての存在価値から、いわゆる“反社=反社会的団体(任侠系)”と結びついていたのは残念ながら事実だ。その残滓からだと思うが、何かにつけて何周年だとか、○○のお祝いとか、△△の感謝祭などと言った冠婚葬祭(業界用語で所謂“義理掛け”)が多いものだ。しかもそれが専業者のみで組織されている団体ならいざ知らず、ウチのような一般社会で会社に勤めていたり公務員だったりする支部長が、行事の度に全国から駆け付けるのでは大変だと思ってるから、国内支部長で集まるのは、1月初旬の1泊2日の年頭支部長会議と支部長審査そのあとの新年会(支部長の発議で始まったが、出席はこれすら有志だ!)以外は、年に2回の1泊2日ないし2泊3日の「全日本選手権大会」(と支部長会議は同じ行事中)だけにして、極力、支部長に負担のかからない、一般社会と乖離しないような、常識的なものだけにしようと心掛けているので、道場開きは地区委員長と関東圏の支部長のみですることにした。

ましてや、来年の1月には大道塾設立40周年、空道創始20年目を迎えることもあり、これは一般的な団体、会社でも祝う事だろうから、それなりにせざるを得ないだろう。そんな事情もあったから尚更地味目にしようと思っていた。所が、事務連絡の積りで「7月6日より道場を移転します」という知らせを出したところ「こういう場合は“道場開き”があるんだろうが、いつなのか?」とか「なぜ私には知らせがないのか?」などという声も出てきてしまったので「今回は(上述)…です」というハガキを出す始末だった。

それでも、10基(籠含む)ほどの生花を頂き飾らせて頂いたから、それなりに賑々しく、氏神様であり荒ぶる神“スサノオノミコト” https://kotobank.jp/word/素戔嗚尊-541600 などを祀り、在原業平も参拝したと言われる“高田総鎮守 氷川神社”の神主さんに、正式には“清(きよ)祓い”と呼ばれる儀式をして頂いた。

その後“奉納稽古”をしたのだが、その前に挨拶をした。初めは「これで仙台市荒町、仙台市八幡町、仙台市五橋、練馬区平和台、豊島区池袋、そしてここ豊島区高田と6回の常設道場を開いたことになる。みんなの協力のお陰だ。今後も益々頑張ろう」という感じで締め括ろうと思っていたのだが、荒ぶる神、スサノオノミコトの霊が降臨したか(笑)「正直、引っ越しの大変さを顧みると、2度と引っ越しはしたくないという気持ちだが、長年の夢である『一面の試合場の取れるような広さの道場』は何としても実現したい。次の50周年、60周年位は実現したいと思うので、みんなの力を貸して欲しい。」と言ってしまった(笑)。

50周年60周年迄稽古着を着られる元気があれば良いが、それは天命に任せることにして、周知のように日本には“言霊”という考えがあり「言葉には現実に影響を与える(霊)力がある」という意味で「だから軽々しく言葉にするな!」と「言葉にすることで現実になる!」という二通りの面があるのだそうだ。そういう意味で、後者を信じて日々精進を重ねたいと思う。「大道塾々長 東 孝、昭和24年5月22日生まれ70歳、身長5尺7寸、体重22貫700、極めて健康!」だぁ(爆)

コラム28 近畿医療専門学校 理事長の表敬訪問に際して

 

去る2月2日、小職(国際・全日本空道連盟理事長、大道塾 東 孝塾長)の元へ、学校医療法人 近畿医療学園 厚生労働大臣指定・大阪府認可 近畿医療専門学校http://www.kinkiisen.ac.jp/?utm_source=google&utm_campaign=top&utm_medium=cpc小林 英健理事長が奥様のとも子理事と同校スポーツ選手強化本部・本部長 北出 雅人氏を伴って、池袋の総本部を表敬訪問された。http://kinkiisen.ac.jp/staff-blog/sports-trainer/

 

北出氏と小職との縁は、「2000年北京オリンピック」に中国独自の武術競技として散打が採用されるだろうとのことで、当時は中国が世界各地で散打の大会を催しており、それらの一環としてまだ散打の競技人口が少なかったことから要請を受けて、2001年の中国河北省で行われた日本予選の代替え試合としての「中国功夫対日本空手道武朮(※1)散打争覇(※2) http://www.daidojuku.com/home/2001/sanda_2001.07.03..html 」に同行したことで生まれたものだった。(※1術,※2賽≒催し)

 

対談では小林理事長より「同校の医療技術の高い特性や近年武道の大会での医療サポートなど」近畿医療専門学校の沿革や理念、活動などの説明を頂き、「大道塾・空道様の試合や大会等でも、出張治療サービスさせて頂きます」とのご提案を頂きました。

 

当塾の方からも同様の設立の経緯やその後の歴史、今後の展望などの紹介の後、「空道はお陰様で、年々社会的認知度が高まってきていて、公的競技の認定ともいうべき“体協(日本体育協会)”加盟運動も各地区で広がっており、より一層、「社会体育としての武道=空道」の道を歩んでいることや、更に、今年はジュニアで優秀な戦績を残した選手がAO入試で大阪体育大学への進学を果たした例などを話したなら、http://daidojuku.com/jp/2018/01/10/ao/  「当校も塾生の方々の進路の一つとしてご紹介頂きたい。ついては塾生の場合は入学試験免除、検定料免除、入学金一部免除(人物重視) 、更には素晴らしい競技成績を上げられている方は入学金免除も可能です」というような素晴らしい提案も頂きました。

 

さて、嘗て青少年のいわゆる“進路”は「高校卒業→一般社会」が一般的でしたが、3,40年前からは社会の高度化・専門化に伴い、それに「高校卒業→専門学校→社会人」か「高校卒業→大学→社会人」という二つのコースが加わり、どちらかというと、3番目が「確かな≒選ばれた人生のコース」と見られていた時代がありました。しかしながら、大学進学率は6割になろうとし、大学全入制が叫ばれる昨今、大学進学、卒業は決してかつての「確かな≒選ばれた人生のコース」を意味しません。

 

その証拠に「大学に入れさえすれば」と多くの若者が受験戦争に突入し、晴れて大学生になったものの、それまでの小学校からの受験勉強で精魂尽き果てて「大学は遊ぶ所」か、気の利いた言い方をするなら「人生の“モラトリアム(※)”だ」と学生生活を謳歌し、いざ卒業して就職するも、かつての「選ばれた存在」ではないことに遅蒔きながら気付き中途退社し、改めて専門学校に入り直し、確かな技術を身に着けて再度社会人となっている“学士様(古い表現ですが笑)”の、なんと多いことか。

 

※確かに大学生活を「人生のモラトリアム期間(支払い猶予期間≒実人生に入るまでの試行錯誤する期間)」として、色んな人間に出会ったり、経験をしたりして人間の幅を広げる期間と捉えることもできるでしょう。それならそれで一定の意義はあると言えますが、大概は目的もないままに遊びに使う資金欲しさのバイトに明け暮れたり、流行しているその時々の“何か”に手を出してはみるものの、全てが中途半端に終わり、何の特技、テーマも得ないままで4年間を過ごしてしまう、というのが実情ではないでしょうか・・・・。

 

そんな時、「空道は続けたいが将来の生活のことも考えないと・・・・」と悩んでいる競技者の声をチラホラ聴きます。そして競技に未練を残しながらも、若年で競技者としてリタイヤーする塾生も少なからずいると思われます。そんな時、「2030年問題」と言われるように「2030年には65歳以上の高齢者が人口の1/3を占めるような“高齢化社会”」が到来します。それはこれから高齢者の医療がますます需要を増すことを意味しています

 

また、空道や他のスポーツをしている皆さんは感じているとは思いますが、高齢者のみに関わらず骨折といったようなハッキリとした外科的な病院で扱わなければならない怪我とは別に、足腰が痛いとか重い、筋が張ってる首が凝るなどといったような症状には、代替医療https://ja.wikipedia.org/wiki/ と言われる、このような療法は大いに有効であることは経験済みでしょう。

 

とは言っても、社会の変化に対応し、あまりにも多くの民間療法があり学校がある現状では、近い将来乱立が危惧されていることも確かです。そういった場合、基礎的な理論や技術は当然ですが、それに加えて自分でも同様の痛みを持っているとか、他人の痛みや症状を多く見聞きしているといった “経験”や“人間力”という技術以外、以上のいわゆる“腕前”が患者さんを呼び込む大きな要素になる、とはよく聞く話です。

 

そういう意味で、自分が競技をする過程で経験したり、他人のケガや症状などを見聞きする経験のある“競技者経由の施術者”こそ求められている一つのコースなのでしょう。そのことが学校側の待遇にも反映されているのだと思います。

 

「空道を追求したい。しかし、将来のことも考えないと・・・・」と悩んでいる中高生や父母の方も多いと思います。そんな場合は「競技力が飛躍的にこの時期に集中することで一段違う人間に成長し、そのことで広い世界を見聞きできるし、同時に人生設計の一環として、並行してこのような実業の技術習得の場を持っているということは、精神的な安定感にも繋がり、より確かな将来を描ける」という、このような提案も一考の余地はあるのではないでしょうか?

 

 

コラム26 休刊となった『ゴング格闘技』、最後に掲載された東孝塾長のインタビュー記事を、編集部の許諾を得て紹介します。

休刊となった『ゴング格闘技』、最後に掲載された東孝塾長のインタビュー記事を、編集部の許諾を得て紹介します。

2017年6月号をもって休刊となった格闘技専門誌『ゴング格闘技』、休刊前号となる2017年5月号に掲載された、東孝塾長のインタビュー記事。その内容は、大道塾の歴史をテーマとした会話を通じ、塾長の変わらぬ信念を紐解く、すべての塾生に読んで頂きたい内容でした。そこで、一部を抜粋し再編集するかたちにて、ゴン格編集部様の許諾を得たうえで、ここに紹介いたします。(多少の加筆、修正あり)

元原稿 http://www.daidojuku.com/home/column/25.html

加藤久輝がハレック・グレイシーに勝つ 大道塾としてのリベンジに東孝塾長はいま、何を想う?

熊久保英幸=聞き手

──1994年3月の『UFC2』に日本人として初めてUFCに出場した、当時、最強と言われていた大道塾・北斗旗王者の市原海樹選手が、ホイス・グレイシーに敗れてから23年目の今年、加藤久輝選手がハレック・グレイシーに勝ち、大道塾の選手がグレイシーに雪辱しました。塾長としても感慨深いところがあるのではないかと思い、取材にやってまいりました。

「うーん……期待を裏切って悪いんですが、あまりそういう想いはないんですよ」

──いきなり取材終了ですか……。

「空道は護身というものを土台に考えているわけです。これまでムエタイや柔術とどうのこうのと比較されてきましたが、護身が基本なんですよ。1対1で戦った時、最終的に寝技になることがあるという現実は分かりますが、実際にそうなるケースは1割か2割あるかないか。護身の基本は立っていることですし、仲間や身内を守るために、ある時はその場から逃げなくてはいけないんです。それに素手であること、着衣状態であることなどを総合的に考えて空道の体系を作ってきました。ムエタイと比較されるきっかけとなった長田(賢一)vsラクチャート(1987年4月24日、ルンピニースタジアムで対戦してラクチャートが2RにKO勝ち)にしても、ムエタイという競技のルールで見れば負けですが、私自身は最初に長田がダウンを奪ったことで〝これはウチの勝ち〟と思ったんですよ、今の総合の目で見て、グラウンドを全く知らない相手が倒れたと考えたならどうですか? コッチはそこを蹴るとか殴るという事を前提にルールを作っているわけですから。あと、同じくムエタイ元チャンピオンのパーヤップが北斗旗に出場した時に、ウチの選手にミドルキックを抱えて大内刈りで倒させた時は観客席から〝東! 汚いぞ!〟って野次が飛んだんです。いや、これはウチのルールの試合なのだから当たり前でしょうと思いましたが、そんなことを言っても、当時の立ち技万能(=ムエタイ最強論)という風潮の中では何を言っても仕方がないと黙っていましたが」

──想定している戦いが違うと言うか、競技が違うのだからその競技のスペシャリストとその競技のルールで戦ったら負けても仕方がないということですね。

「その後の件についても、あの当時は今考えれば〝総合〟の幕開けだったので、試行錯誤中の大道塾に(妄想を含めて笑)凄い夢を持ってくれている人たちが一杯いたんですよ。それまで空道、当時で言えば格闘空手のような格闘技はなかったわけですから。その人たちがどんどん話を進めていって、それでやってみたらああいう結果になった。そこで〝大道塾が負けた〟と言われても、こっちが最初から団体を挙げて万全の構えで行ってやられたわけではなく、ある意味個人の戦いですし、あくまでも大道塾の戦いは立っての戦いが主という意識が強かったので、私はそれほど何とも思わなかったんです。しかし、世間的には大道塾が負けた、との見方がされてしまいました。長田とムエタイの場合もしばらくは冬の時代が続きましたし、今度は柔術でも同じことが起こりました。そこで巡り巡って今回、久輝がグレイシーの選手に勝ったことはストーリー的には〝苦節23年、ついに……!〟みたいな話ですし、頑張って勝ってくれた久輝にはよくやったと言いたいです。でも、それはいろいろある試合の中のひとつで、久輝もそれを狙ってやっていたという話ではないですからね。逆に、ムエタイと交流したことでムエタイのいいところを吸収しましたし、柔術からもいろいろ吸収しています。ですから、どっちもウチを太くしてくれたという意味で、そんなに憎むべき相手でもないんですよ(笑)」

──グレイシーを敵対視していたわけではないんですね。

「全くないです。護身は立ったままやるものですが、当然寝技になる局面もあるので、寝技もやらないとダメだぞと私は30数年前から空手に寝技を取り入れるという試みをやってきたわけです。当時は『あんなものは空手ではない』と言われても格闘空手としてやってきて、空道と名付けたら『あれは空手じゃないか』と言われる。何をやっても〝はみだし〟は、叩かれるんですよね(笑)」

──極真は打倒・熊や牛を目指したが、熊や牛は打倒・極真を目指していなかった、という言葉がありましたが、それと同じようなものですね。グレイシーは打倒・他の格闘技を目指したかもしれませんが、大道塾は打倒グレイシーやムエタイを目指してはいなかった、と。

「そういう人が一生懸命やっていることを、しない人間がどうこう揶揄するのは好きじゃないですが、事実関係で言えばそうですね」

──現在では格闘技が広まっているので、違うルールで戦えばそのルールで強い選手の方が強いのは当たり前だと理解されていますが、当時は「誰々が負けた」ではなくその競技・団体が負けたと捉えられることが普通でした。

「そうですね。私自身は他流試合をやりたいって意識はなかったんですよ。私の格闘技観の中では格闘空手をやっていって、これに寝技をプラスしていけば完成するはずだっていう意識でいたんです。当時から道場では寝技をやっていましたが、トップ選手が『大道塾に寝技は要らない』なんて堂々とインタビューに答えたり、大会パンフレットに書いていたこともありました(笑)。まあ、私も大雑把な性格なので『人の口に戸は立てられねーしな?』と思っていました。当時はまだ寝技まで入れるのは早いと思っていたので、試合では投げまでにしていたんですが、10年くらい過ぎて、そろそろ寝技を解禁する時期かなと思っていたところ、ひょんなことから柔術と関わりが出来てしまい、今度は猛烈に生徒から寝技をやりたい!って言い出したんですよ。それまではいくら言っても『先生、寝技なんかいりません』と言っていたのに、あの試合を境にみんな逆に寝技をやりたいって言い出したから、試合での寝技を解禁したんです」

──大道塾にとっては、逆によかったんですね。

「そういう意味ではそうですね。私が描いた筋道どおりに行ってくれれば一番良かったんですが、ムエタイに引っ張られ柔術に振り回されました。まあ、それも大道無門じゃないかな、と(笑)」

──そもそも、格闘空手を始めた時は地上最強の格闘技を目指していたわけではなかったんですね。

「全くないですね。あくまでも身を守る護身術であることが基本です」

──それを周りが勝手に、大道塾は凄い、どんな格闘技にも勝てるんじゃないかって幻想を膨らませていったという。

「本当にそうです。そもそも私の格闘の原点は、小学生の時に中学生の番長に喧嘩で負けたことなんです。何をやっても勝てなかった、向かって行っても投げられて跳ね返されました。その時に、人は力を持たないと何を言ってもダメなんだと気付かされたんです。また、三島由紀夫が『文学をやっていても最後は日本刀なんだ。最後は日本刀を見せれば一目置くんだ』というようなことを言っていて、こんな偉い先生でも『力を評価している』のだから、自分で自分の身を守る術は絶対に大事なんだって焼き付いていました。だから、格闘技で日本一になるとか世界一になるって意識はなかったんです。極真に入った時も、空手で日本一になりたいとの気持ちはなく、柔道を知った上で打撃を覚えれば、大概の場合は身を護れるし、しかも指導員として夢だった海外留学ができると聞いたからです。極真時代の支部の標語は『人生はドラマだ!あなたの拳で!』で、武道・格闘技的には、一見、夢のない話ですが(笑)、逆にそのおかげか『山あり山あり』の、とんでもない人生が待っていましたが(笑)」

──あの試合をきっかけに、柔術というものの研究はされたんですか?

「もちろんです。負けたのは現実ですから、柔道だけの寝技ではダメだと。柔術を始め、いろいろな寝技を取り入れなくてはいけないと思いました。ただ最初は、全面的に解禁してしまうと知っている選手と知らない選手で大きな差が出てしまうので、柔道で認められている腕十字や腕がらみなど5種類の技だけを解禁しました」

──ホイス戦をきっかけに、選手の意識が劇的に変わったわけですね。

「そうです。それまではいくら私が言っても、『殴ったら倒れるでしょう』という感じでした。ましてや当時は大道塾の優勝者は空手界のエースみたいなものでしたからね。それこそ格闘空手そのものみたいな存在で、パンチをぶん回してみんなぶっ倒していたわけですから。だからみんながそういう意識だったんですよね。それがパンチひとつ当てることが出来ず、転がされて寝技でやられたのは生徒たちにとってはショッキングな出来事だったと思いますね。私は私の考えた道筋でやりたかったのに、キックブームの時はなんでグローブでやらないんだと周りから言われ、生徒たちも寝技なんかやる必要はない、ムエタイこそ最強だという意識になってしまった。それでトップの選手たちはみんなムエタイの試合をやったじゃないですか。今度はそれがガラッと変わって寝技が最強だというような意識になってしまって。ただ、だからと言って今、久輝がやっていることの結果がどうでもいいわけではなく、勝てば当然、嬉しいですよ。負けたら〝この野郎〟となりますが(笑)」

──話は技術的なことになりますが、マウントパンチ(寸止め)で効果になるといった要素が空道に取り入れられたじゃないですか。あれは柔術の実戦性を評価してのものですよね?

「最初にUFCの試合を見た時に、馬乗りになって殴っているのを見て、あんなものは先進国で流行るわけがない、ましてや日本では倒れている人間を叩くなんてそんなことを社会が許すわけがない、と当時のゴング格闘技で言いました。そう言っていたのがあれよあれよという間に広まって、〝ああ、日本人は変わったんだな〟と実感しました。私がそれがいい・悪いを言っても始まらない、昔ならやらなかったことを今はやるんだな、と。そうしたなら〝護身上〟やはり対応を覚えないといけない。だから取り入れました」

──いま思えば、ホイスに挑戦したことはよかったと思いますか?

「まあ、ウチはそういうところはしつこいんです。転んでもただでは起きない(笑)。ムエタイの時もそうですし、ヘタしたら団体が潰れるくらいの話じゃないですか。それこそいろいろな団体が柔術と絡まって、一時的にはそれなりに名前をあげていても、勝負に負けてガックリ来てダメになったという話が実際に、いっぱいありますよね。ウチはそういうところは苦にしません」

──むしろ、いいところを取り入れようとするんですね。

「あれを覚えればいいんだろう、という感じですね。大道塾らしいじゃないですか。それこそ大道無門ですよ。いろいろな格闘技は大道塾の敵ではなく、よく言えば師であるということです、エヘン!(笑)」

──大山倍達総裁も言われていた、我以外みな我が師の精神ですね。

「そこで覚えて、次に勝てばいいんです。ただ、あの時やらなくてもどこかで柔術とは交わっていたとは思います。ウチは何でもやろうみたいな姿勢ですからね」

──ホイス戦以降、大道塾としてダメージはあったんですか?

「ありました。あの当時はそれこそ、武道では大道塾が一番だって空気があったじゃないですか。それはもう凄かったですよ。弟子が減っていき、入門者がガクッと減りました。あれから10数年くらいは影響がありましたね」

──10数年も!?

「それにプラス、大山館長がなくなった後のフルコン界の変動や、K─1やPRIDEがあんな形で消えて武道・格闘技の信用が失墜し『やっぱりあの世界は……』と言った感じで潮が引くように競技者も、興味を持つ人口もガクッと減ったこともかなり影響しました。正直、ここは自慢して良いと思うけれど(笑)。私はこの世界に入る前に社会の底辺を経験して来て、『なるようになるさ。ダメなら大型免許があるから』と開き直れた私だからこそ、精神的に潰れずに持ったんだなと思いますよ(笑)。まあ、最近になって当時の悪いイメージを持っていた人が減ってきたんだろうし、やっと世の中が大人になって、ルールの違いが勝敗を分ける=誰が負けたから即、その団体がどうこうではないんだってことが分かってきたりして、また武道・格闘技復活の目が出てきたような気がするので、同じ轍を踏まないように、大事に大事に、武道・格闘技の健全な発展を期して行かなくてはと思っていますが……」

──そんなに影響が……グレイシーを怨みませんでしたか?

「それとこれとは話が別です。勝負の世界は勝った者が全部持って行くんですから、しょうがないな、と。長田がラクチャートに負けた時も凄かったですよ。それまでは年に入門者が何千人以上も入っていたのが、一気に半分以下になったんですから」

──大道塾は2度もピンチに陥っていたんですね。

「ただ、長田にしてもムエタイがやりたくてやったわけではないですからね。向こうのプロモーターに私が乗せられて、やってみますかと聞かれたから、「せっかくだからやってみます」というところから始まっているんです。最初は練習試合との話だったので、その話をもらってから3?4日はパタヤへ遊びに行っていたんですから。長田は長田で砂浜で足を切ってしまって。それでバンコクに帰って来たら新聞に試合のことが載っていて、日本の空手チャンピオンがムエタイのチャンピオンに挑戦する、みたいな話しになっていたという。その時に初めて、誰とやるんだと聞いたらルンピニーのチャンピオンだって言うわけです。メチャクチャな話ですよね。そんな状況で長田は初めてのルールで、グローブを着けたのも初めてくらいだったのに、最初にダウンを奪ったんですから、よくやったと私は思いました。ところが、日本に帰って来てその話が広まると評価がえらい悪い。手も足も出なかった、みたいな話になっていて驚きました。長田自身も、ムエタイがやりたいとかムエタイが最強だなんて思っていなかったですよ。ただ周りがそれをそのままには許さなかった。大道塾は、東はなぜ長田にやらせないんだ、と。私は長田がやりたいならやればいいと思っていたんですよ。でも長田からは何も言って来なかった。長田は長田で別にムエタイの試合をやりたいわけではないけれども、負けたと思われているのが嫌で悩んでいたとは思います。彼は彼で、自分がやると言ったら先生は嫌がるだろうと考えていたのかもしれない。でも段々と悩んでいる姿が目に付くようになってきたのは分かったので長田を呼んで、『やりたいならやったらいいんじゃないか』と言ったんですが、『自分はその気はありません』と。そうは言いながらも結局は収まらなかったので、あれが始まったわけです」

──1992年に後楽園ホールで開催された『THE WARS』ですね。

「その時に一番反応したのが、加藤清尚と飯村健一だったんですよ。長田はもう名前が出来上がっていたからいいけれども、彼らはこれからだったわけです。しかし、アマチュアと言っても当時、後先考えずに練習ばかりしていましたからね。その面ではプロと変わらないわけです。「俺たちは誰とやっても負けない」って意識があった。それが結局、長田が負けた、大道塾が負けたと言われてもの凄く悔しかったわけです。自分たちをキックの試合に出してくれみたいな話にもなりました。困ったもんだな、と。それで当時、週に一度、SAWの麻生(秀孝)さんが寝技の指導に来ていたから、終わった後ですし屋でいろいろな話をしていたんですよ。その時に、あいつらあんなこと言いやがってと愚痴を言ったら、麻生さんが『じゃあ東さんがやればいいじゃないですか』と言ったんです。そんなことは考えたこともなかったので〝えっ?〟と思ったんですが、協力してくれる人もいてやることになりました。それで一応はそれなりにグローブを着けた試合で勝ったんですが、加藤にしても飯村にしてもブレーキがかからなかったんですよ。第一、そっちの方が大道塾で試合をするよりも、反響が大きいわけじゃないですか」

──雑誌にも大きく取り上げられましたね。

「そう。それでやりたいというものをやめろと止めてもしょうがないだろう、と。ある時は飯村が来て、自分はキックの試合をしたいと言ってきたんです。その時に飯村は、私がダメだと言ったら辞めるつもりだったと後から言っていました。当時はそれほど選手が思いつめて、グローブでやることが強さの証明だ、みたいになっていたんですよね」

──グローブである程度証明したところで、今度はUFCが始まってWARSで修斗やパンクラスの選手と総合格闘技ルールで戦うことになりました。

「私は真っ直ぐ歩きたかったのに、あっちに引っ張られこっちに引っ張られ、足は引っ掛けられで(笑)」

──2002年のWARS6をもってピタリとやめてしまいましたよね。あれはなぜだったんですか?

「やりたいという選手がいなくなったからです」

──そうなんですか?

「逆に私は、最後までリングでの試合にはなじめなかったし、畑違いの準備は大変だったけれど、他の武道・格闘技の技を学ぶためにも、年に1回、もしくは2年に1回はやってもいいと思っていたんです。ところが選手たちは『もう大道塾は実力を証明したからいいです』と誰も手を上げなくなったんですよ。WARSを6回開催して、キックにも総合にもある程度対応出来ることが証明されたから、もういいです、と。元々、みんな格闘空手が好きだから始めたわけじゃないですか。名声が欲しくてやってみたけれど、結局は道衣を着てする武道が好きだから入って来た人間ですから。何回か「WARSをやりたいやつはいるか?」と聞いたんですが、1人か2人しかいませんでした。やる気のないものを無理強いしても碌な結果にはならないから、そこでやめたんです」

──そのうちの1人のようなものが加藤久輝選手なんですかね。

「久輝の場合は世界大会で負けたことが悔しかったからでしょうね。ウチには大きい相手がいないから、大きい相手とやりたいということで名古屋のALIVEジムに行くようになったんです」

──勝ったのは嬉しかったですか?

「勝って嬉しくないことはないです。久輝も直接知っている世代ではないですが、おそらく周りからウチとグレイシーの歴史を聞いていて、プレッシャーがあったかもしれない。よく頑張った、と言いたいですね。いつも生徒には言うんですよ、キックでもボクシングでも何でもやっていいけれど、『経験してみたい』とか、『試してみたい』みたいなお気楽な気持ちのヤツにはやらせたくありません。『やるからには、勝つつもりで練習をし、死に物狂いで戦え!」、と。せっかく先輩たちが築き上げてきた名前なのに、お前が中途半端な気持ちで負けたら大道塾が負けたって言われるんだから絶対に勝てよ、と。それで勝ったら嬉しい、負けたらばか者と言う。それはそうですよ。やる以上はそれくらいの覚悟は持ってもらわないといけない。挑戦心は良いけれども、ちゃんと背負ってやれということです。気軽にやってみたいなんて言われたら怒鳴りつけてやりますね。せっかく今までみんなで苦労してここまで大道塾、格闘空手、空道を持ってきたのに、お前でゼロになってしまうかもしれないんだぞ、と。言われた方はキョトンとしていますけれどね、時代が違うのかな(笑)」

──2001年から世界大会を開催したり、ロシアを中心に世界へ広がってきたことによって他のジャンルとかかわりを持たなくてもいいようになった、という面もあると思います。空道の中で成立するというか。空道で世界王者になることが高い壁になっているので、余所見をしている場合ではないですよね。

「今、世界王者になるのは本当に大変ですよ。先日、ジョージア(グルジア)に行って正式な支部に認可しました。行ってみたら、柔道のオリンピックチャンピオンや世界チャンピオン10人くらいと会ったんですが、なぜかみんな空道を応援しているんですよ。普通、柔道関係者が応援するなんてありえないでしょう。ところが今回支部長になったのも元々、トビリシ柔道連盟の理事長をやっていた人物で。昔、私が柔道をやっていた頃の東北のエースが遠藤純男氏(山下泰裕のライバルで1980年の全日本選抜柔道体重別選手権でカニバサミを仕掛け、山下の腓骨をへし折ったことで知られる)で、私が何回やっても勝てなかった宮城県のチャンピオンが、彼に30秒で投げられて負けたのを見て柔道を辞めました(笑)。ジョージアで会った柔道家たちはその遠藤氏と同期で、自分は遠藤とやって負けたと楽しそうに話をしていました。ジョージアで柔道は半分国技のようなもので人気があって、みんな身体がガッチリしていて体幹がしっかりしています。2月にインドで開催されたワールドカップに始めてジョージアの選手が出たんですが、いきなり-240で優勝してしまいました。あとタジキスタンの選手も優勝したんです。今までだったらロシアが全階級を制覇するか、せいぜい日本が一階級を獲るかくらいだったんですが、今回はロシアが3階級で優勝を逃しています。今度の世界大会は大変なことになるでしょうね。ロシアの独占状態は終わるかもしれません。今年の秋は仙台でアジア大会を開催します。そして、来年の世界大会に日本代表として選ばれるためには、今年の体力別とアジア大会、来年春の体力別と3大会の内2大会に出ることが条件となります。だから、久輝にも出ないと世界大会には出さないと伝えてあります」

───アジア大会の開催ですか!

「アジアならモンゴルが強いですね。あとはイラン、タジキスタン、カザフスタンあたりから選手が来ます。カザフスタンも強いですよ。ワールドカップのベスト3に2人くらい入っていました。とにかく旧ソ連系は強い。力があるし、体幹が強いし、何より日本選手にない『これで負けたなら俺の人生は終わりだ!』というほどのハングリー精神がある。今年の体力別各階級上位の2人~4人(に加え、秋の国内予選を勝ち抜いた選手)が日本代表となって、アジアの国々を迎え撃ちます。ワールドカップでは清水亮汰(2015年全日本無差別&2016年全日本体力別-250クラス王者)が、2014年の世界大会で勝っていた同じ選手に負けたんですよ。ワンツーでのばされてしまいました。だからウェイトをやって体幹、特に首を太くしろ、と言っても今の子たちはやらないんですよ。何度言ってもやりません。さすがに今回はのばされたからちょっとはやる気になったけれども。まず70%の力をもって、ガツンとぶつかり合っても、ある程度それを凌がない限り技の勝負にはならないんですよ。日本人同士の試合だと最初から名人戦で技のやりとりとなりますが、ロシアを相手にする時はまずぶつかって、それから回り込むなり離れるなり技の展開になるんですが、最初の段階でバンッと入ってこられると間合いは殺されるし、勢いづいてしまいます。体幹の強さが違うから。やっと本人もウェイトをしないといけないと思いますと言っているんですが、『僕たちは日本的な試合が好きです』とか言うんですよ。本当に今の若い選手たちは名人戦が好きなんです。相手がこう来たらこう返すというような」

──最初の、グレイシーが出てくるまでは寝技をやれと言ってもやらなかった、という話に似ていますね。

「なかなかうまくいきませんね。私は机の仕事に追われて、直接指導は無理だから要点だけ言うんですが、言うことを聞くのと聞かないのがいる。でもまあ、最終的には選手がそれらを取捨選択して、自分で組み立てた練習法や戦い方でやるのが一番いいんですよ」

──フィジカルでやられたら、今度は大道塾に必要なのはフィジカルだってなるかもしれませんね。

「ジョージアやモンゴルがのし上がってくる可能性が高いですからね。そうなって欲しいけれど…。これがラウンド制だったら動き回ってスタミナを消耗させてって戦い方もありますが、3分ですから半分以上はフィジカルで決まるわけです。まあ、日本人選手たちの活躍を暖かく見守ってあげてください」

更新日2017.7.9